川村渇真の「知性の泉」

浮遊思考記録−2001年08月


●2001年08月30日

行政改革の評議会などで何十人も一同に集まるのは非効率的

 最近の日本では、行政改革が花盛りなためか、いろいろな分野で政策を提言する集まりが作られている。首相や担当大臣の主導によって招集されることが多く、「〜評議会」、「〜審議会」、「〜会議」といった名称を付ける。
 社会の大きな問題を取り扱うので、関係者が集まった光景を、テレビのニュース番組でよく放映する。面白いのは、集まりの目的や課題が違うのに、テレビで見る光景はほぼ共通している点だ。前後方向へ長く伸ばしたテーブルの左右に、多くの人が並んでいるパターン。パッと見ても20人以上の参加者が集まっており、多いと30とか40人も参加しているようだ。
 こうした光景を見るたびに思うことがある。これだけ多くの参加者が一同に集まって、効率的な議論ができるのだろうかと。会議というのは、普遍的な特徴がある。参加者がどんなに多くても、一時点には1人だけしか発言できず、他の参加者はそれを聞くしかない。そのため、参加人数が多くなるほど、検討の効率は低下する。もう1つ気になったのは、ホワイトボードのように全員が一緒に見れる道具が用意されてない様子だ。この種の道具がなければ、議論の質はますます低下する。
 こんな欠点を防ぐには、もっと小規模の集まりに分かれて、個別の細かなテーマを検討する方法が有効だ。そもそも、一堂に集まって議論する必要があるのだろうか。最初の1回ぐらいは、主旨説明や顔合わせのために集まってもよいだろう。しかし、何十人もが何回も集まっているようでは、議論の効率は上がらない。実際、こうした集まりの成果の多くでは、大まかな項目が並んでいるだけで、実行可能な詳細レベルにまで達してない。そうなるのは、こんな方式で開催しているからだろうか。
 ほとんどの参加者は、課題に関して全般的に詳しいわけではないだろう。自分の得意分野の知識や能力を生かす形で、課題の検討に貢献する。順番に発言すると時間がかかるので、各参加者の意見を決まった形式で書いてもらい、中心となる数人が整理すればよい。その結果を見やすくまとめ、参加者全員に配布する。その資料には全員の意見が載っているので、別なアイデアや改良案を思い付いたり、誰かのアイデアの欠点を気付いたりしたら、内容を記述して提出してもらう。このような形で繰り返すと、わざわざ集まる必要はなくなる。パソコンとネットワークが発達した時代なので、集まる価値はますます低下する。
 議論の質を高めるには、中心となる数人が、物事の検討手法を身に付けてなければならない。検討手法を習得していると、全参加者から出された意見を上手に整理できるし、論理的で総合的な検討も確保できる。整理した結果を全員に見せて、新しい意見を求め、出された意見の妥当性を判断する。良い意見なら追加するし、悪い意見なら却下リストに掲載して、その理由も公表する。
 どんな課題でも、検討結果を求める工程に、それほど多くの人数はいらない。対処方法などの意見を出す人は多いほど良いが、それを整理するのは数人で十分だ。それに、数人だけで整理する方法だと、その人達だけが検討手法を習得しておけば済む。検討手法の習得者が少ない現状では、非常に有効な方法といえる。
 参加者の中には、書くのが苦手な人がいるかも知れない(そんな人を参加させるのも少し問題なのだが、その点は触れないでおこう)。そんなときは、中心となる数人の中の誰かが聞いて、代わりに書けばよい。その方が、分かりやすい内容に仕上がるからだ。こうした個別の対応も、中心となる数人の役割に含まれる。
 以上のような形で検討した内容は、検討過程まで含めて、公表しなければならない。検討の途中でも、検討が終了した後でもだ。こうすれば、特定の人の利益だけ優先した内容になりにくく、検討結果の質が確実に高まる。
 どんな評議会でも審議会でも、検討の質の向上を最優先することが大切である。全員が集まるかどうかなんて、あまり関係ない。どのように活動すれば最良の成果が得られるかどうか、評議会などを開く際に考えてみるべきだろう。参加者選びも含めて。厳しい意見かも知れないが、現状では、そんな視点があるとは思えない。残念ながら、いろいろな集まりによる成果物の中身(内容が薄いという中身)が、それを証明している。


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