川村渇真の「知性の泉」

浮遊思考記録−2001年07月


●2001年07月19日

伝統を変化させる行為への批判で欠けている視点

 世の中には、長い歴史を持つ伝統的なものが存在する。日本でなら、歌舞伎などの芸能、風鈴や木工細工などの工芸、相撲などのスポーツが挙げられる。こうした伝統が続くのは、それを守る人がいるからだ。
 しかし、伝統的な内容をそのまま守でのはなく、別な方向へと変化させる人も少なからず出てくる。人気がなくなったので打開しようとか、もっと良い内容に改善しようとか、それなりの理由がきっかけだ。ただし、伝統的なものを改良しようとしても、そう簡単ではない。新しいことを生み出す行為のため、非常に大変となる。当然ながら、成功するのは一握りで、多くの試みは失敗に終わる。
 いろいろな試みの中から、一部の人だけが世間に評価されて、そこそこ成功と呼べる段階に達する。そうなると必ず出てくるのが、伝統を守る人の側からの批判だ。「しょせん、お遊びでしかない」とか「安っぽい」などと、簡単な言葉だけ用いて悪く言いたがる。主な理由は、伝統を守らないのが気に入らないだけなので、中身のない発言になりがちだ。
 こうした批判をする人には、重大な視点が欠けている。自分たちが守っている伝統的な内容も、最初は誰かの新しい試みから始まっている点だ。改めて考えてみれば当たり前のことで、開始した時点では伝統などない。すべての内容を無から作り出すことは非常に困難なため、何か似た内容を改良する形で作り出した可能性の方が、かなり高い。ということは、その伝統的な内容も、何かを改良して生み出された可能性が高い。
 こうしたことを理解すると、伝統的な内容を変える点を悪く言うのは、自分たちが守っている内容を作り出した人まで悪く言うことに等しいと、分かってくるはずだ。それに、伝統的な内容を守るより、それを改良する方が大変である。たとえ失敗したとしても、その試みに敬意を払うべきではないだろうか。ましてや、ある程度の成功を収めた人に対しては、もっと尊敬してもよいはずだ。非常に大変なことを成功させたのだから。そして、こういう人の中から、新しい伝統を作る人が登場するのだ。
 伝統的な内容を守る行為にも目を向けてみよう。どんなものでも、時代の変化にさらされて、すべての内容を同じに維持するのは大変である。全部の面で守ることはできないので、一部だけ守るしかない。その際に一番重視されるのは、外見的な面の維持となる。
 具体的な例は、簡単に見付かる。歌舞伎もその1つで、かなり前に作られた外見的な面を中心に維持している。歌舞伎が登場した頃は、庶民の娯楽だったという。新しいネタもどんどんと作られたことだろう。しかし現在では、庶民の娯楽ではなくなっているし、古くからある作品を守る形で継続している。そして、新しい何かを取り入れる人は、伝統を守らない人という立場になってしまう。
 古い内容の外見面を維持する行為は、それを作り出した人が見たら何と思うだろうか。おそらく、作り出した人は新しい試みが好きなので、かなり残念に思うと推測できる。このように考察すると分かるように、外見的な面は維持できているものの、それが生まれた目的は維持できてないことが多い。これは時代の変化に伴う、仕方のない面なのだ。
 とは言っても、伝統的な内容をそのままの形で残すことにも、重要な価値がある。今以上に努力して続けてほしい。ただし、伝統的な内容の改良行為を、悪く言わずに。


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