川村渇真の「知性の泉」

浮遊思考記録−2000年12月


●2000年12月17日

左手を毎日使う人生

 本サイトの中に自己紹介を書いているが、当然ながら書いてない点も数多くある。その中の1つが、細かな作業で左手を毎日使うことだ。そうなった経緯などを少し紹介しよう。
 自分は、北国で育ったため、冬になるとストーブが部屋にあった。物心付く前で自分には記憶がないのだが、母親の話によると、小さい頃に机の上から転げ落ちて、右手の甲をストーブに当てたという。当然ながら、右手の外側が全体的に火傷してしまい、直るまで右手が使えなかったそうだ(実際、火傷の小さな跡が今でも少しだけ残っている)。
 火傷した頃がちょうど箸を持ち始める時期で、右手が使えないために左手で箸を使い始めたという。食事は毎日の行為なので、一度左手で使い始めると、そのままずっと続いた。そして、鉛筆まで左手で持つようになったという。しかし、我々が使う文字は右利き用に作られているため、左手で書くと少し不便である。将来のことを考慮し、鉛筆だけは強制的に右手に直したそうだ(それでも、左手で鉛筆を自由に扱える能力は、未だに残っている)。
 以上のような経過により、箸やスプーンなどの食事の道具は左手で使い、他の道具は右手で使うようになった。スイッチを入れたり、ドアのノブを動かすのも右手で行っている。というわけで、箸を使うという細かな作業で左手を毎日使っている。普通の右利きの人に比べると、細かな操作で左手を使う機会は多いだろう。
 実は、箸の操作を右手に変えようとした時期もある。世の中には右手で箸を使う人が多く、テーブルに並んで座ったとき、箸を持つ側の腕が、左隣の人と当たってしまうからだ。しかし、ある程度まで右手で箸を使えるようになったものの、食事という毎日の行為が不便なので、途中で断念してしまった。その後、右脳の大切さが話題になり、右脳は左半身につながっていると知って、右手に変えなくて良かったと思った。なお、テーブルに並んで食事するときは、椅子の位置を少しずらす方法で対処しているため、さほど困ってはいない。
 現在では、キーボードを両手の10本指でタイプするのに加え、右手の担当である鉛筆をほとんど使わなったため、左手の使用比率は以前よりも向上している。両手で細かな操作をし続けることは、右脳と左脳の両方に刺激を与える効果があると、自分では思う。それを意識しながら、できるだけ両方の手を細かく使うように努力している。そうすれば、右脳が得意な創造性と、左脳の得意な論理性の両方を、同時に延ばすことができる、と考えるからだ。
 物心付かない時期に左手を使うようになったのは、ちょっとした事故のせいだが、結果的には幸運だったのかも知れない。この幸運の成果を少しでも拡大するようにと、毎日の食事で左手を使い続けている。幸運が来るかどうかは、自分で制御できない。しかし、幸運を生かせるかどうかは、自分の考え方しだいで、ある程度までなら変えられる。毎日の習慣や努力によって。

●2000年12月31日

社会の進歩を邪魔する根本的な障害

 いよいよ今日で、20世紀が終わる。社会の仕組みにはまだまだ多くの欠点が残っているものの、いろいろな技術が相当に発展した世紀だった。また、まだ一部の人に限られるが、人権尊重や地球環境保護などの重要な考え方が、強く意識され始めた世紀でもあった。この傾向は、今後も続くだろうし、大いに期待できる。
 この1年を個人的にみると、非常に忙しい年だった。本サイトの更新頻度は落ち、ほとんど更新できない時期もあったほどだ。自分ではかなり努力したつもりだが、更新回数には結びつかなかった。結果的に、年初の目標を達成できないまま終わってしまう。とても残念だ。
 今回のような世紀の切り替わりというのは、西暦という1つの基準から見た区切りでしかない。そのため、特別な意味など存在せず、長く続く時間経過の通過点の1つでしかない。しかし、こうした機会を利用して将来のことを真剣に考えるのは、非常に良いことである。
 現在の世の中を見渡すと、いろいろな技術を中心に社会が進歩しているものの、社会の重要な要素なのに、ほとんど進歩していない部分が目に付く。社会の様々な仕組みで、具体的には、行政の仕組み、選挙制度や政治に関わるルール、教育内容や学校制度などだ。これらを根本的に変えなければ、社会の大きな進歩は実現できない。
 さて、こうした改革の障害は何だろうか。まず、問題があることは広く認識されている。無駄な公共事業、民意を反映できない選挙制度、いじめや教育効果などの面で数多くの問題を抱える学校などだ。しかし、解決方法となると、いろいろな人が様々なことを発言し、まったくまとまらない。
 その大きな理由は、論理的な思考方法や評価方法などを、多くの人が知らないためである。自分たちはキチンと議論していると思っているかも知れないが、実際にできるかどうかは別の話であり、できない人の方が圧倒的に多い。論理的な思考や評価方法について、教えられてもいないし、練習もしていないからである。論理的な思考や評価ができないと、議論と呼べるだけの質は確保できない。また、マトモな議論に必要な条件も同時に知らないと、議論の質は向上しない。多くの人がそれらをほとんど知らない状況なので、解決方法はまとまらないし、問題がいつまでも解決できない。
 次の障害として、既得権を守りたいというセコイ意識が挙げられる。もし論理的な思考や議論ができる人が多くいるなら、既得権を守ることは論理的に正当化できず、どんなに抵抗しても消滅してしまう。しかし現実には、論理的な思考や議論ができないので、ある程度の抵抗だけでたいていは既得権を守れてしまう。
 このように分析していくと、改革へのもっとも根本的な障害は、論理的な思考能力の低さだと分かってくる。これを改善するためには、学校の教育内容を改良するのが一番だ。論理的な思考能力が身に付くように、それに関する教育内容を新しい教科として追加すればよい。しかし、ここでも既得権を守ろうとする力が働く。新しい教科の追加には、必死で抵抗するわけだ。
 もっとも面白いのは、教育改革を推進している人でさえ、反対してくる点だ。この場合も同じように、論理的な話が通じないので、感覚的な反対になる。こちらが必死で論理的に説明しても、相手は感覚的に反対するだけなので、話がまったくかみ合わない。本当に教育を改革したいのか疑いたくなるような意見が、何度も出てくる。
 教育改革を推進しているような人は、自分が改革する側にいると信じている。それだけに、既得権を守ろうとしているなんて、夢にも考えないだろう。気付かない最大の理由も、論理的な思考能力および評価能力がないまたは低いからである。
 以上のような状況なので、日本において改革を進めるのは非常に困難になっている。正直なところ、学校の教育内容が低レベルのまま続くし、改革なんてほとんど期待できないということだ。それだけだとあまりにも悲しいので、大事な問題に気付きそうな人に向かって、本サイトは様々なノウハウを提供し続けたい。役立つと思った人は、どんどんと利用して能力を高めてほしい。
 論理的で科学的な話が通じ、キチンと議論できる人が、一人でも増えることを願っている。そうすれば、社会は小幅ながら進歩するだろう。


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