川村渇真の「知性の泉」

浮遊思考記録−2001年01月


●2001年01月01日

21世紀は本質的な価値の時代に

 ついに、21世紀が始まった。西暦での単なる区切りに過ぎないが、これから起こることを考えると、凄まじい時代の到来といえる。今後10年ですら、かなり大きな変化が世の中に起こるだろう。それ以降となると、ほとんど予想できない。
 現在でも、政治や教育といった様々なシステムが時代に合わなくなり、大きく揺さぶられている。その多くは、キチンと設計して導き出されたのではなく、過去からの惰性で続いているものである。世の中の変化が急激なため、今まで目立たなかった“ほころび”が急に目立つようになった。そろそろ、真面目に設計すべき時期に来ている。目的や存在意義から考え直して、論理的で科学的な設計手法を駆使し、目的や存在意義に最適な形を求めるべきだ。
 とは言うものの、日本に関しては、好ましい方向に変化する気配すらない。要職にある多くの人が、問題の本質に気付いてないからだ。そのため当分の間は、とてつもなく大きな問題がいくつも発生し、解決できないまま存在し続けるだろう。その影響は、国民である多くの人が受ける。政府が助けてくれる見込みはないので、各人が“自分で防衛する”しかない。自分の能力を高める方法で。残念だが、それ以外には方法がなさそうだ。
 21世紀になると、いろいろな課題をこなす能力だけでなく、良識ある市民としての基本的な素養も求められる。人権尊重、様々な差別の撤廃、地球環境保護、外国人との関係の改善、人々との交流などだ。また、何らかの形で社会に貢献する意識も必要となるだろう。私の場合は、本サイトを公開および充実し続けることが、“自分に最適な”貢献だと考えている。その意味でも、途中で止めるわけにはいかない。
 世の中が大きく変化する場合、それまで正しいと思われていたことが、いくつも変わる。いろいろな面での価値観が、どんどんと変化してしまうのだ。そうなると、精神的なストレスが生じやすい。これこそ、アルビン・トフラー氏の言う「未来の衝撃」である。これからの時代は、古い価値観に固執せず、新しい価値観を気楽に受け入れる気持ちも大切だろう。そうしないと、大きなストレスで健康を損ないかねない。
 価値観の変化といっても、別な価値観に切り替わるという単純な話ではない。人権尊重や地球環境保護のように、以前よりも良い方向に進む変化なのだ。その意味で、より本質的な価値観といえる。ただし、ダメな方向の価値観を言い出す人もいるので(とくに日本に多いようだ)、それらを区別できなければならない。そうした判断の基礎となるのが、論理的な思考能力や評価能力である。この点からも、個人の能力向上にたどり着く。
 以上のような世の中の変化を考慮すると、本サイトで優先した方がよいコーナーが見えてくる。「頭の使い方を良くする思考のヒント」、「頭に栄養を与える設計ノウハウ」、「ホンモノに必要な一流の仕事術」、「未来社会への対応術」、「建設的な結論を得るための議論手法」などだ。しかし、自分が優先したいコーナーと一部が異なっているので、かなり悩んでしまう。とりあえずは、優先度を今までより少し上げるという程度にしておこう。
 余談だが、20世紀中に実現してほしかった提案の1つに、「欠陥システムである和暦を救う究極の方法」がある。2001年の1月1日から元号を「二千」にして、1000年間も変えずに使うという画期的なアイデアだ。しかし、切り替え時期は2001年の1月1日に限られるため、唯一の機会を失ってしまった(年の途中で変えることも可能だが、完璧さが損なわれる)。和暦を好むのは“非論理的をモットーとする人”だけに、この手の話はまったく通じるはずもない。おかげで、和暦は、21世紀になっても欠陥システムとして存在し続ける。個人的には、和暦を無視するしかなさそうだ。
 ともあれ、多くの日本人にとって、今後は大変な時代になる。思い付きで言っているような意見や、ずるい意図を裏に持っている意見なども、数多く出てくるだろう。そうしたダメ意見を見分けながら、より本質的な意見に耳を傾け、より良い未来が実現できるように前進するしかない。

●2001年01月18日

ゲームと創造性の関係

 頭を使うゲームの中で有名なのは、将棋や囲碁だ。プロがいて、組織があり、段という数を用いた段階分けも確立している。また、名人戦といった代表的な決戦の場を用意し、誰が本当に強いのか明らかにするイベントも定期的に行われる。こうした工夫により、社会的に認められる世界に仕上がっている。
 しかし、自分にとっては、ほとんど興味のない世界である。一番の理由は、工夫する余地が極端に少ないからだ。たとえば、自分で何か極めて大きな工夫を思い付いたとき、1回分の手で数個の駒が動かせたり、1つの手で相手の駒を一気に数個取ったりできない。確かに頭は使うものの、限られた範囲内での思考でしかなく、創造的な部分がかなり少ないルールになっている。
 それに比べると、プログラミング可能なゲームの方が、工夫の余地は多い。たとえば、自分で作ったプログラムを組み込んで、ロボット同士を戦わせるようなゲームだ。ロボットはレーダー、武器、防御などの機能を持ち、それをプログラムから制御できる。こうなると、プログラムを改良することで、より強いロボットに仕上げられる。実際には、プログラムごとに得意な相手と苦手な相手がいて、どんな相手でも勝てるプログラムは簡単に作れない。
 工夫の余地をもっと増やすなら、プログラム可能な対象をゲーム内で増やせばよい。ロボットが戦う環境自体を変更できたり、新しい武器や防御機能を創造できるとかだ。実現するのは難しくなるが、それがあると工夫次第で相当な強さが得られる。ただし、凝ったプログラミングが可能になるほど、多くの人にとっては興味がなくなるので、ごく一部の人にしか受け入れられないだろう。
 創造性を重視するなら、ゲームをやる側ではなく、新しいゲームを創る側に回った方がよい。これなら単純なゲームを創っても構わないし、もし流行れば大きな喜びが得られる。もちろん、ごく一部の人が喜ぶようなゲームを創る手もある。こちらの方は、喜ぶ人数は少ないものの、マニアックに仕上がって、遊ぶ人の喜びの度合いは大きい。
 ゲーム以外でも創造性は発揮できる。美術や音楽などの芸術、今までにない製品の設計、物理や化学といった科学技術の学問だ。このうち、芸術とそれ以外では、大きく異なる点がある。芸術だと、ひらめいたことをそのまま実現しやすいが、科学技術などでは、それが論理的に正しいかどうか確認する必要がある。そのため、ひらめいた中の一部しか、実際の成果として残らない。この点こそ、芸術以外の創造性の難しい部分だ。
 最近の科学技術の中で、もっとも大きな影響を及ぼしているのはコンピュータ技術だろう。ほとんどの分野の研究効率を上げるだけでなく、いろいろな製品の機能を格段に増やし続けている。ゲームの世界でも、今までなかったようなものを生み出す原動力になっている。
 将来、将棋や囲碁のように業界を作って社会的に認められるレベルのゲームが、コンピュータ上で登場するのだろうか。単に論理的な思考を求めるだけでなく、創造性を求めるような汎用的なゲームが創れたら、そうなるのだろうか。しかし、創造性とは常に変革を続けることなので、ゲームのルールを固定化することとは相容れないのかも知れない。そうすると、そんなゲームなんて、永久に創れないだろう。この先の検討は難しく、ここで思考が停止してしまった。


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