川村渇真の「知性の泉」

浮遊思考記録−2000年09月


●2000年9月17日

テレビのニュース番組の生放送は本当に必要?

 どのテレビ局でも、ニュース番組の中でニュースを紹介するとき、アナウンサー(キャスターと名乗る人もいる)が生放送で原稿を読む。緊急で飛び込んできたニュースでもないのに、生放送を用いる必要はあるのだろうか。ニュース番組を見るたびに感じる疑問だ。
 生放送で困るのは、原稿を読み間違えたり、すんなりと読めなかったときである。もし事前に録画する方式を採用すれば、読み間違えたりつっかえたりしたときは、やり直すことができる。失敗した読みを視聴者に見せなくても済むわけだ。しかし、そうしているテレビ局は見たことがない。
 あえて生放送を採用しているのは、時間が調整しやすいためだと推測する。人間が喋るので、取り上げる内容を簡単に切り替えることができる。また、録画テープを事前に用意するなど、余計な作業が増えないのも利点なのだろう。
 しかし、以上のような点は、コンピュータが進歩した現代だと、それほど大きな理由になるとは思えない。映像のデジタル化、コンピュータの高性能化、高速ネットワークの進歩により、システムさえ用意すれば臨機応変の運用は可能なはずだ。1つのニュースごとに録画してデジタル記録し、ソフトウェアで放送時につなげるなんて、かなり容易である。ニュースのつなぎ目が気になるなら、映像表現を工夫して何とかなる。
 もし突発的な事件が発生したら、そのときだけ生放送に切り替えればよい。また、最終的に時間の調整が必要なら、最後の部分にだけアナウンサーを生で登場させ、感想などを言わせるような方法が使える。
 もう1つ不思議に感じるのは、放送内容や表現に不適切な部分があった場合の訂正方法だ。アナウンサーが訂正内容を伝えて謝罪する。アナウンサーが伝えたので当然と思えなくもないが、実は原稿を読んでいるだけなのである。その原稿を書いた人、または取材した人も一緒に登場し、誤った方がよいのではないだろうか。「アナウンサーが伝えた内容は、私が間違えました」などと。
 こうすると、いろいろな利点が生まれる。間違えた本人が登場することで、間違いの発生を防止するプレッシャーとして作用し、間違いの件数が減る。また、ニュース番組の内容がどうやって出来上がっているのか伝わり、アナウンサーは原稿を読んでいるだけで、別な何人ものスタッフが取材していることが分かる。ニュースのような社会的内容を伝える番組の場合、裏側の仕組みはできるだけ見えた方がよい。ニュースごとに取材者の名前が出て、誰がよく間違えるのか明らかにするのも容易になる。放送内容に関しては、テレビ局や番組ではなく、取材した記者の名前を見て、信用するか判断する状況にも発展できるだろう。
 映す映像に関しても、画面を埋めていればよいという感じを受ける。撮影してきたものの中から、一番関係ありそうな部分を選び、原稿の量に合わせた時間だけ映像を流すことしか、考えてないのではないだろうか。ニュース番組に関してはどんどんと文句が出てくるので、この辺で止めておこう。
 以上のように分析すればするほど、番組の内容や見せ方を、あまり工夫してないように見えてしまう。もっと分かりやすくとか、もっと正確に理解してもらうとか、内容を伝える点での工夫が感じられない。昔から続いている方法を、疑問に思わず続けているのだろうか。こういった傾向は、テレビ放送に限らず、いろいろな業界で数多く見受けられるが。


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