川村渇真の「知性の泉」

浮遊思考記録−1999年09月


●1999年9月6日

スポーツ審判の判定ミスを意識的に見逃す解説者たち

 プロ野球などのスポーツでは、何人かの審判がいて様々な判定をする。人間なので、たまに判定ミスが生じるのは当然で、なくすることは絶対にできない。判定ミスの中には、ミスかどうか判断が難しい場合だけでなく、明らかに判定ミスといえる場合もある。昔と違ってプレーをスロー再生できるため、判定ミスかどうか後から簡単に確認できるからだ。
 誰が見ても明らかなほど判定ミスだった場合、テレビ番組の解説者の発言が面白い。「〜のようにも見えますね」などと、あいまいな発言で済ませる人が非常に多い。判定ミスだと断言することが、タブーなのだろうか。一部の解説者は断言するが、かなりの少数派のようだ。
 番組で使われているスロー再生だが、判定ミスを明確に判断するのには少し役不足。大事な場面を見るのには再生速度が速すぎるので、大きな判定ミスしか発見できない。もっと遅い超スロー再生を用いるだけでなく、再生を何度か繰り返せば、より多くの判定ミスを発見できる。しかし、そうしている番組はないようだ。
 判定で一番大切なのは、判定ミスを追求することではなく、判定ミスの発生を減らすことである。そのために工夫しているスポーツも、少しは出始めている。代表的なのはテニスで、ボールのアウトの判定に電子機器を利用している。また、相撲の公式な取り組みでは、録画した取り組みをスロー再生して、勝ち負けの判定に役立てている。どちらも、できるだけ公平な判定をしようとする努力の現れだ。
 こういった工夫が無理でも、判定ミスを減らすことことは可能である。判定するのは審判という人間なので、ミスを減らすようなプレッシャーが有効だ。そのための手段の1つとして、判定ミスを明らかにする方法がある。きちんと統計的に記録し、誰が多くミスしているのか明らかにして、対象者に改善を要求する。あまりにもミスの多い人には、もっと下のリーグで修行させるとか、審判を降りてもらうなどの対処も必要だ。そうすることにより、審判全体の質は確実に向上する。
 判定ミスの記録は、できるだけ公平に行わなければならない。参加した試合数が多いほどミスを起こしやすいので、判定ミスの絶対数ではなく、試合数で割った発生率で比較する。また、判定の非常に難しいミスと、ひどい凡ミスを同じに扱ってはいけない。凡ミスほど悪い点を与えて当然だ。公平さを確保するほど、審判自身からの文句は出にくくなる。
 判定ミスの記録を付けると、審判の側にも変化が現れるだろう。より正しく判定できるように、訓練方法を考案したり、定期的に訓練するようになる。このように変化するようだと、理想的なのだが。
 スポーツの中には、試合中でのフィードバックが工夫が難しい判定もある。その場合、後で判定ミスを認めると、ミスにより不利益を被ったチームや選手が黙っていない心配がある。後からの文句だけに、対処方法が難しい。こういった問題が生じるから、判定ミスを追求するのを控えているのだろうか。だとしたら、文句の出ることは何でも避けるという、いかにも日本的な行動で、あまりにも情けなすぎる。
 人間が判定している限り、判定ミスはなくならない。試合時点で判明しなかったミスは、どんなミスでも後から文句を言わないルールに決めるしかないだろう。審判の質を改善する努力をきちんとし続けていれば、選手に納得してもらえると思う。もちろん、表面的な努力ではなく、多くの人が納得する努力が求められる。そこまでしても納得しないなら、審判を電子機器に置き換えるしかない。
 現状のテレビのスポーツ番組では、ごく一部の人だけが判定ミスを断言する程度で、以上のような点など考えていない。関係者の誰か、審判の質が向上する方向で何らかの活動をしてほしい。長い目で見れば、選手もファンもきっと喜ぶだろう。逆に判定ミスを見逃し続ければ、いっこうに改善されない可能性が高い。


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