川村渇真の「知性の泉」

論理的な思考を宗教が邪魔する未来社会


根拠なしに信じさせるのが宗教の基本

 科学技術が発達してない昔の社会では、非常に重要な役目を宗教が担っていた。生きる基準に相当するものを与えることで、人々の気持ちや行動を良い方向へ導いた。そういう人が増えることで、社会全体の安定をある程度まで実現した。
 宗教で信じるべきことは、聖典に書いてある。その内容だが、信じるべき事柄を書いてあるだけであって、根拠は書いてない。もともと、神のように根拠を示せない事柄も含まれているからだ。その結果、無条件に信じることを求めなければならないし、実際にそうやってきた。
 もし根拠を求めたら、大変なことになる。たとえば、「神は本当に存在するのか証明してほしい」とか、「真面目に信仰しているのに、生活は一向に良くならない。神が与えた試練だと言うが、なぜ自分だけがそうなるのか」とか、「宗教上の上位者は本当に優れているのか、納得できるように説明してほしい」とか、「なぜ女性だけ制約が多いのか」などと。明確に回答できないので、宗教への信頼度は低下してしまう。そんなことをさせず、無条件に信じさせるのが基本だ。
 ただし、書いてある内容の中には、理由を説明できるものもある。それに関しては、宗教上の上位者が説明して、信者を納得させている。つまり、説明できるものは説明するが、それ以外は無条件に信じさせている。とくに、神のように一番重要な部分で、根拠を示していない。これが宗教の実体である。
 根拠なしで信じることが、別な問題を引き起こさないのであれば、それ自体は何も問題ない。宗教を信じることで、多くの人が幸福になるなら、非常によい状況といえる。しかし実際には、世の中が進歩するにしたがって、矛盾や問題がだんだんと大きくなる。

論理的な思考との矛盾が生じる宗教

 世の中の変化は、主に科学技術の発達によって生じた。科学技術により、いろいろなことが解明され、より便利な道具も作り出された。最近では、コンピュータとネットワークによる劇的な変化が起こりつつある。
 科学技術の基礎にあるのは、論理的な思考だ。科学技術が発達するにしたがって、科学以外の分野にも論理的な思考が広まっていく。物事の検討、評価、議論、提案などが、少しずつ論理的になってきている。もちろん、科学技術と比べればまだまだ不十分だが、それでも昔よりはかなり改善した。
 論理的な思考の対象は、何でも可能だ。当然、宗教も。その結果、宗教が主張する内容の一部に、論理的な思考と矛盾する箇所が見付かる。また、論理的な思考結果が、宗教の内容と一致しないこともあるだろう。そうした発見は、宗教の信頼度を低下させる力として働く。その箇所が増えるほど、その宗教を信じる人が減る。
 論理的な思考の広まりは、論理的な思考を用いる人の増加を意味する。論理的な思考では、正しいかどうか論理的に判断するので、納得するために根拠や理由を求める。これこそ、宗教の中心部分にとって、相容れない点である。
 現実を見ると、論理的な思考や科学技術を知った信者が、宗教を捨てるわけではない。科学技術の成果を取り入れながら、信仰を続けている。宗教の主張内容と、論理的な思考結果が一致しないとき、両者の妥協点を探る。こうして目の前の問題ごとに、自分なりの判断を下していくわけだ。
 このような変化は、宗教を単純に信じているのと異なる。信じない部分が、少しずつ増えているのに等しく、その分だけ信じる度合いが低下する。そして、無条件に何でも信じることはなくなる。
 矛盾に対応する別な方法を見付けた人もいる。聖典の記述内容をそのまま鵜呑みにするのではなく、解釈を少し変えることによって、矛盾を消したり小さくする方法だ。これは、信じる度合いを減らす代わりに、宗教の内容を変えた対処といえる。ただし、この方法にも限界がある。あまりにも突飛な解釈は難しいからだ。解釈で対応できない箇所は、論理的な思考結果を優先するようになる。
 どちらにしても、宗教の中身を信じる度合いがだんだんと減るわけだ。宗教の中身に含まれている差別なども、信じなくなるものの1つとなる。実際には、一気に解消するわけではなく、だんだんと減る形で解消に向かう。聖典として明確に記述してあるため、短期間での解消は難しい。

論理的な思考が根底にないから、何でも正当化できる

 論理的な思考が広まりつつあるのは、教育が充実している先進国に限られる。そうでない国では、こうした変化が当てはまらない。逆に、宗教の欠点が表面化しやすく、貧しい国ほど大きく現れる。
 根拠がなくても信じさせるのが基本のため、信者の間で主張された内容にも、根拠や理由を求めない傾向が強く出る。極端な場合には、非常に悪い行為でも、正当化できてしまう。「神の声が聞こえた」や「それを神が求めている」などと主張すれば済む。実際、「聖戦」といった形で主張すると、強い支持を受けやすい。冷静に考えて、それが相当に悪い行為だったとしてもだ。
 主張したことが失敗しても、後で困らずに済ませられる。そうなった理由を、好き勝手にこじつけられるからだ。たとえば、「神が我々に試練を与えた」という具合に、神を引用して都合良く説明できる。このように何でもかんでも正当化できることこそ、宗教の恐ろしい点である。そのため、「何でもあり」の状況が容易に生まれてしまう。
 もちろん、信者の全員が信じるわけではない。教育が充実してない状況でも、頭の良い人なら、論理的な思考が少しは身に付いていて、正しい方に近い判断ができる。こうした能力は人によって異なるため、信者間でバラツキが生じる。ただし、教育が充実していないので、能力の高い人の数は極端に少ない。全体としてみたとき、根拠を示さなくても信じやすい人が多いという状態だ。
 より多くの人に信じさせる条件が、いくつかある。まず、宗教内で有名な人が主張すること。論理的な思考能力が不十分なので、主張する中身の良し悪しよりも、誰が主張したかで判断してしまう。さらに、主張する内容が感情に訴えるほど、信じる人が増える。これも同様で、主張する中身を検討しないため、自分が心地よく感じる内容を信じやすい。信じる人が多く出る一番有名な例は「聖戦」であろう。
 悪い行為でも信じてしまう信者は、自分でそれを変だとは考えない。論理的な思考能力が低いので、そんな疑問すら生じないからだ。そのおかげで、人間的な歯止めが利かず、どんなに恐ろしい行為でも、徹底的にやってしまいやすい。
 以上のような宗教の欠点は、最近始まったことではない。昔から何度も起こっている、普遍的な欠点である。宗教間や宗教内での争いが生じたときに、上記のような主張者が登場しやすい。
 こうした状況を打開するには、教育の充実がもっとも効果的だ。しかも、論理的な思考能力を高めるような教育内容を選ばなければならない。そんな教育が充実するほど、悪い主要内容を信じる人が減り、正当化するのが難しくなる。

社会が進歩するほど、論理的な思考を宗教が邪魔する

 話を、教育が充実した社会に戻そう。先進国であっても、宗教を心底信じている人がいる。そんな人は、論理的な思考結果よりも、宗教の内容を重視する。結果として、論理的な思考を宗教が邪魔しているのに等しい。もし宗教を信じてなかったら、論理的な思考の結果を選んだはずだ。
 宗教を信じる人の中には、良識による抑制が利かない人もいる。そうした人の中には、過激な行動に出て殺人までやってしまう。自分の宗教の悪口を言われたとか、妊娠中絶に反対するといった理由で、先進国の信者でも犯罪を犯している。これは、宗教を信じたために起きた犯罪と捉えられる。
 実際には、もっと普通の信者の方が圧倒的に多い。そうした人でも、宗教の内容と論理的な思考結果が一致しない場合、どちらを選ぶべきか悩む。生きる拠り所である宗教だけに、その悩みは深刻だ。これも、宗教を信じたために生じた悩みであり、信仰が悩みを作ったと捉えられる。
 現在の社会では、論理的な思考方法をほとんど教えていない。たいていは、いろいろな勉強や体験を通して、少しだけ身に付けている。こうした状況なので、論理的な思考能力が高い人は、ごく一部に限られている。そのため、宗教の欠点の影響はまだ小さい。
 しかし、未来社会では教育が大きく進歩し(どのような教育内容になるかは「新しい時代の教育」コーナーの「能力教科での教育内容の設計例」を参照)、論理的な思考が今よりも普及する。身に付ける人が増えるだけでなく、論理的な度合いが向上する。個人の思考能力の向上はもちろん、社会に様々な部分にまで入り込んでいく。企業や行政での意思決定では、論理的に検討できる道具を使って作業を進め、第三者がレビュー可能な形式で検討結果を公開する。これが当たり前の社会が、いずれやってくる。
 こうした未来社会では、遊びや休息などを除くと、論理的な思考が一般的になる。自分の人生設計も、論理的に思考して決める人が多い。そうなると、宗教の矛盾点や欠点まで明確に分析してしまい、信じる人が減る可能性が高い。また、深く信じて行動したとき、いつまでも厳しい状況が改善されないなら、信じるのをやめる人が出やすい。
 そんな未来社会だが、宗教を心から信じる人もいて、論理的な思考結果を無視し、宗教の教えに従う。矛盾や不一致点が多くなっているだけに、かなり悩むだろうし、一部の信者は犯罪を犯すだろう。

宗教の良い面が捨てがたいだけに、扱いが難しい

 以上のような欠点があるものの、宗教は良い面も持っている。人々に幸福感や安心感を与えて、より良い気持ちで人生を過ごせる点だ。この良い面は、人間にとって非常に重要で、捨てがたい魅力である。
 宗教を信じる人が減る状況は、宗教の代わりとなるものが見付けられないとしたら、幸せな気持ちで生きられる人が減ることを意味する。社会全体にとっては、かなり大きな問題だ。また、宗教の欠点が大きく出やすいので、その扱いも難しい。
 こんな状況を改善するためには、何らかの対策を打つ必要がある。これに関しては、後で検討しよう。

(2002年1月17日)


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