川村渇真の「知性の泉」

組織的な宗教教育で生じる重大な問題点


宗教重視の学校は知的能力の低い生徒を作る

 世界を見渡すと、いろいろなタイプの学校が存在する。その中には、特定の宗教を重視して教育内容を決めた学校もある。この種の学校に関わる問題点を、少し分析してみよう。
 宗教を重視した学校といっても、宗教だけを教えるわけではない。数学や語学などの一般的な教科も一緒に教えている。だたし、そのバランスは様々だ。普通の学校に近いタイプであれば、宗教に関係する教育内容の割合がそれほど高くない。そんな学校なら、宗教の影響はあまり現れない。
 問題となるのは、宗教に関わる教育内容の割合が多い学校である。こうした学校では、宗教を非常に重視しているため、一般的な教科の内容にまで影響を及ぼす。一般の教育内容が高度になるほど、また教育内容が進歩するほど、宗教との不一致が出やすい。そんな箇所に関しては、宗教側の内容を正しいとして教えてしまう。
 一般的な教科側の内容は、論理的な思考によって導き出されたものなので、それを否定するということは、論理的でない内容を信じさせることに等しい。また、論理的でない内容を正当化するためには、その説明自体も論理的でなくなる。当然ながら生徒は、「なぜ?」という疑問をいだき、根拠の説明を求める。しかし、根拠を示さずに信じさせるのが宗教なので、「聖典に書いてあるから」といった理由しか示さない。こんな形で信じさせるのが、宗教重視の教育の中心となる。
 こうした教え方を続けると、生徒の論理的な思考能力が高まらない。つまり、普通の学校に比べて、知的な能力の低い生徒を作る結果となる。この点こそ、宗教重視の学校が持つ、最大の問題だ。

宗教重視の教育を国家規模で行うと大変な事態に

 国民の中で、特定の宗教を信じる人が圧倒的に多いと、その宗教を重視した教育を国家規模で実施したりする。国家規模で行った場合、どんな結果になるだろうか。残念ながら、国家にとって良くない結果になりやすい。
 どの国家でも、理想的な状態にはほど遠いので、今後とも改善し続る必要がある。その祭に重要となるのが、国民全体の能力、とくに知的な能力である。それを少しでも高めた国家が、より的確な意思決定を選べ、政策や企業活動を成功させやすい。
 ところが、宗教重視の教育を国家規模で行うと、教育が生み出す人の知的能力を低くする。それを何十年も続ければ、国家全体としての知的能力が高まりにくい。何か大きな問題が発生したとき、適切な意思決定を選択できる可能性が減り、国家の進歩を邪魔する。
 教え方の中で最悪なのは、聖典の全内容を丸暗記させ、それが絶対的な真理だと教えることだ。聖典を全部信じる人が増えると、社会の中で何か問題が発生したとき、論理的な思考で解決するのではなく、聖典に書いてある内容に照らし合わせて判断する。根拠を求めたり、それが論理的に正しいか確認したりはしない。当然、不適切な意思決定が増えてしまう。
 そうした国民が過半数を占めると、政府が適切な選択をしたとき、反対する人が多数出てくる。マトモな話が通じにくい社会となるわけだ。こんな状態では、いくら優秀な指導者に恵まれたとしても、国家を良い方向へ導くのは非常に難しい。
 以上のように、国家規模での宗教重視の教育は、かなり悪い結果を生じさせる。国家が教育内容を決める際には、こうした影響も十分に考慮しなければならない。

将来の影響を考えずに教育内容を決めている

 宗教重視の教育内容を決めている人は、どんな風に考えているのだろうか。おそらく、自分たちが深く信じている宗教を、子孫にも教えたいだけであろう。宗教を単に教えるのではなく、深く信じるようになるのを期待しているから、宗教を重視した教育内容になるわけだ。
 教育内容を決める段階では、宗教重視の教育が及ぼす影響など分析しない。決める人にとっては、宗教が絶対的なものであり、それに疑いなど持たない。絶対に良いことだと、固く信じている。こんな感じなので、教育結果について疑問など持たず、影響を分析するなんて考えない。
 それと、教育が及ぼす影響を分析するためには、論理的な思考能力が必要となる。しかし、宗教を強く信じていると、論理的な思考能力が低くなりがちなので、分析したくてもできない可能性が高い。もし分析できる人が少しいたとしても、分析結果を協議する段階で、論理的な思考よりも宗教を重視するため、分析結果が尊重される可能性は低い。
 こうした状態は、次のような悪い循環が続くため、かなり悪いといえる。まず、教育内容を決める人は、論理的な思考よりも宗教を重視するため、悪い教育内容を採用する。その結果、論理的な思考よりも宗教を重視する人を、数多く生み出してしまう。その人たちが次の教育内容を決めるので、似たような教育内容を採用する。大まかには、こんな感じで循環しやすい。

悪循環から短期間で抜け出すのは難しい

 では、悪い循環から抜け出すためには、どうすればよいのであろうか。何か特別なことでも起こらない限り、短期間で抜け出すのは相当に難しい。
 第三者が説得する方法も考えられるが、成功する可能性は低い。説得というのは、相手を納得させる必要性から、根拠を示すといった論理的な形となる。しかし、論理的な話が通じにくい相手なので、成功する確率は低い。おまけに、この説得の内容には、相手が深く信じる宗教を部分的に否定する点が含まれる。すると、相手が信じないばかりか、怒り出す可能性も高い。つまり、説得は非常に難しいということだ。
 悪循環を抜け出す条件は、おそらく、その国家の進歩であろう。国家のいろいろな面が少しずつ進歩すると、それに連動する形で、国民の論理的な思考能力が高まる。それがある程度まで達すれば、悪循環を抜け出すことができる。
 外部の国ができるのは、進歩の速度が早まるように支援することだ。論理的な思考能力が高まるように、いろいろな形での支援が考えられる。たとえば、人材の育成を手助けするために、才能ある人材を招待して、論理的な思考を教える。また、一般教科の教材を提供したり、教員を送ったりもできる。
 国民がインターネットを使えるようになると、国外の情報が得られて、様々な考え方に触れられる。この影響は大きく、国家の進歩を加速しやすい。そこで、インターネットの基盤を整える支援も有効だ。ただし、国民が英語を読めないと、せっかくの情報が理解できない。だから、英語を習得するための教育支援も一緒に行うと、支援の効果が大きくなる。
 今後の国際社会では、論理的な話が通じない相手ほど、危ない存在となる。何をするのか、容易に予測できないからだ。そんな存在を減らす意味でも、上記のような支援の価値は高い。

(2002年1月21日)


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