川村渇真の「知性の泉」

差別を含む宗教の言い訳にだまされるな


差別している側は、否定する言い訳を用いがち

 有名な宗教の中には、信者に守らせる内容に差別を含むものがある。既存の差別のうち、とくに重大なのは、女性への差別。信者の約半数が、自動的に差別される側となってしまうからだ。
 以前分析したように、宗教の内容は人間が作ったものである。そのため、作成者が生きていた時代の価値観を反映しやすく、差別が含まれたのは設計ミスでしかない(そんなことを主張しても、その宗教を信じる人には通じないだろうが)。それを絶対的に正しい価値として扱い、差別を正当化するのは、とうてい納得できる行為ではない。
 外からの情報が簡単に入るようになったためか、宗教を信じる人も、他人の意見を気にするように変わった。しかも、世の中が進歩するほど、差別的な考え方が認められない。自分が信じる宗教に差別が含まれると言われるのはイヤなので、何とか言い訳を考え、差別ではないと訴え始めている。
 このようにして出てきたのが、いくつかの言い訳だ。代表的なものに、「社会での役割が違う」や「文化が違う」などがある。こうした内容が広まったためか、差別と言われるたびに、この言い訳で弁解する人が増えているようだ。
 また、こうした言い訳の表現を聞き、納得してしまう人もいる。それどころか、テレビのニュース番組で、言い訳が正しいかのように話す人まで登場した。テレビのニュース番組に取り上げられたからといって、そのまま信じてはいけない。言い訳が適切かどうか、言い訳の内容を評価してから、信じるかどうか決める必要がある。差別する側にとって都合が良いだけの表現ではないかと。
 そこで、こうした言い訳を簡単に分析してみた。もちろん、差別する側の考えだけでなく、差別される側の気持ちも含めて。

差別される側は、怖いので我慢しているだけ

 まず、もっとも大事なことを無視してはいけない。差別される側の人は、差別される状態に不満を持っている点だ。もし本音を語らせたら、差別する側と同じ程度の自由をほしがるだろう。ただし、差別されている状態にいる限り、それを口に出して言う人は極めて少ない。もし口に出したら、有形や無形の制裁を加えられる可能性が高いからだ。後が怖いために、じっと我慢するしか選択枝はない。
 差別が存在する状況で面白いのは、差別される側の人の中に、それで良いと(現状で何も問題ないと)言う人が出る点。これは、今の環境が生まれたときから続いているため、それが普通だと考えるからだろう。ある意味で洗脳されているわけだ。こうした人でも、差別のない社会で暮らし始めると、考え方が変わって、以前のことは差別だったと理解する。
 凄いのは、差別が行われている状況でも、差別される側の中から異を唱える人が現れること。本人にとっては、黙って我慢していられないからだろうが、非常に勇気のある行為だ。普通の人には無理で、ごく一部の人にしかできない。
 こうした勇気ある人の出現によって、差別する側の中にも、差別が悪いことだと気付く人が出てくる。そして、両者が協力するようになり、両方の人数が増えて、差別解消の運動へと発展し、差別を解消した制度が採用される。ただし、差別していた側の全員の心を一気に変えるのは無理なので、実際には何十年もの時間を経て、差別が小さくなっていく。今までの多くの差別は、こうした形で解消が進んでいる。
 以上のような説明をしても、差別を正当化する人には、次のような実験をしてみればよい。まず、差別する側の人に、差別される側の生活を体験をさせる。その辛さを知ることで、差別は悪いことだと思う人が、少しは出てくるだろう。また、差別される側の人には、差別のない社会での生活を経験させ、その感想を言ってもらう。その発言内容を、差別する側の人に聞かせて、差別される側の気持ちを理解させる。そうすれば、「差別される側の人は、不満だと思ってない」なんて意見は、もはや言えないはずだ。
 この経験だが、実施する期間が長いほど、より多くの効果が現われる。多くの人を実験に参加させるほど、差別する側の言い訳の正統性を低下させられる。実際には、実験をやろうと思っても、差別する側の人が必死で抵抗する。もし実験したら、自分たちの立場が不利になることを、何となく理解しているからだ。

過去の差別に置き換えてみれば、言い訳だと分かる

 差別を正当化するための表現が、言い訳に過ぎないことは、簡単な方法で知れる。言い訳の表現を、過去に起こった差別と置き換えてみるだけでよい。ただし、同じ女性差別だと理解しにくいので、例として黒人差別を用いた。
 まず、「社会での役割が違う」という言い訳に適用してみよう。「黒人が売買されたり、選挙権がなかったり、自由が制限される理由だが、黒人と白人では、社会での役割が違うためだ」となる。これを読んで、アナタは納得できただろうか。
 実は、納得するかどうかは、その人の立場に大きく関係する。差別される側に立つか、差別する側に立つかでだ。差別する側に立つなら(この場合だと自分が白人なら)、納得するかもしれない。しかし、差別される側に立ったなら、絶対に納得できないはずだ。つまり、この言い訳では、黒人が絶対に納得しない。
 日本人なら、黒人差別の例でピンとこないだろう。そんなときは、別な例で試せばよい。アナタが鈴木さんなら、次のような表現も考えられる。「鈴木を姓に持つのアナタの家族が、売買されたり、選挙権がなかったり、自由が制限される理由だが、山田の姓を持つ家族とアナタの家族では、社会での役割が違うためだ」と。さて、自分が差別されることに納得できただろうか。
 次に、「文化が違う」にも適用してみよう。「黒人が売買されたり、選挙権がなかったり、自由が制限される理由だが、我々の社会は、こういう文化なのだ」となる。これで、黒人は納得するだろうか。おそらく、「そんな文化なんて価値がない。いらないよ」と言われるだけである。今の時代なら、多くの白人からも「そんなレベルの低い文化なんて、価値がないよ」と言われてしまうだろう。
 他にも言い訳があるなら、同様に置き換えて見ればよい。結果は、同じになるはずだ。その最大の理由は、差別に関して、納得できる根拠が最初から存在しない点にある。そのため、どんな表現を用いようが、説得力のある理由にはならない。
 それでも、差別を正当化したい人は、聖典に書いてあることを、根拠として示すかもしれない。しかし、差別的な内容が書いてあるだけであって、その中に根拠が示されているわけではない。つまり、聖典に書かれているだけでは、根拠を示したことにならないのである。

 ここでちょっと、言い訳として「文化」を持ち出す理由も、少し解説しておこう。文化という言葉は、定義が難しいだけに、非常に曖昧である。また、何にでも関係するし、他との違いを認める表現であるため、言い訳として極めて利用しやすい。だからこそ、差別以外の件でも、理由として広く使われる。しかし、表す内容が曖昧なだけに、根拠としての説得力は欠ける。そのため、何となく説明した雰囲気を出し、相手の追求をかわすために使われる。内容が曖昧なほど、反論が難しくなるからだ。
 面白いのは、文化が使われる状況である。他の理由が思い付かず、苦し紛れの言い訳として使われることが多い。相手がこれを出してきたら、説得力のある反論を見付けられなかった可能性が、極めて高い。

差別を認めると、差別される側にとっては不幸な宗教に

 仮に、差別する側の言い訳を認めたとしよう。その場合、その宗教の価値は、差別される側の人にとって、どんなものだろうか。
 前述のように、差別される側の信者は、怖がりながら我慢している。差別されている状況を、けっして良いとは思ってない。そうなると、差別の原因である宗教自体をも、良いと思ってない可能性がある。極端な場合は(もしかしたら極端な場合だけでないかもしれないが)、そんな宗教を信じたくもないだろう。差別されてる以上、当然の気持ちだ。
 もちろん、そんなことを口に出しては言えない。もし言ったら、差別の解消を訴える以上に、悲惨な仕打ちを受ける可能性が高い。置かれている状況を考えると、差別を我慢するのと同じように、信じているフリをするしか選択枝はない。このように正直に言えないため、どれだけの人が信じたくないのかは分からない。そもそも、生まれたときに親が選んていた宗教であって、自分の意志で選んだ宗教ではないのだから。
 最も重要なのは、差別を含んでいる限り、差別される側の幸福を重視していないのに等しい点だ。さらに、差別の度合いが大きいと、幸福を考えていないのに等しくなる。いくら言い訳を考えても、こうした特徴は否定できない。
 以上ことから、差別が含まれる宗教の本当の姿を、言葉で表現してみよう。それは「差別する側にとっては非常に居心地の良い宗教」であり、「差別される側の幸福を考えてない宗教」である。この言葉が、該当する宗教の実情を的確に表している。

 なお、先進国に住む信者は、この点を理解している人が多い。だからこそ、解釈を変えるといった方法を用いて、差別の度合いを低めようと努力している。そうした努力は、差別される側にも伝わるため、差別される側の人も、何も努力しない状態よりは幸福に暮らせる。だとしても、差別がなければもっと幸福になれることを、忘れてはならない。

(2002年1月28日)


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