川村渇真の「知性の泉」

宗教を悪用する人々


本物の宗教と搾取目的カルト教団の見分けは難しい

 宗教が持つ「根拠もなしに信じさせる」特徴のおかげで、宗教心の強い人ほど、悪いことに利用されやすくなってしまう。信者が利用されるパターンには、利用する側が意識的に利用する場合と、意識してないが結果的に利用したと同じになる場合がある。
 利用する側が意識的に行う行為の代表格は、信者からの搾取が目的のカルト教団だ。表向きは宗教を装っているが、中心人物が狙っているのは、他人からの金銭的な搾取である。宗教という形式を利用して信者を洗脳し、お布施の形で信者から何でも取り上げる。さらに、信者を過酷なまでにコキ使い、その労働で金銭的な収入を得たりする。
 では、本物の宗教の教団と搾取目的のカルト教団を、明確に見分けられるだろうか。残念ながら、見分けるのは非常に難しい。どちらも、やっていることがかなり似ているからだ。カルト教団では、搾取したお布施を使って、教団の中心的な人物が贅沢な暮らしをする。しかし、本物の宗教でも、お布施を出す人より、教団の中心的な人物が良い生活をしている例が多い。また、どちらに属する教団とも、宗教的な建物や行事にお金を使うし、組織の上位に位置する人ほど発言力が強い。
 数少ない違いを探すなら、搾取目的のカルト教団では、信者から限界までお布施を出させることと、教団の中心的な人物が搾取の意識を持っているかどうか、ではないだろうか。前者は、信者の収入や資産に対するお布施の割合で判断できる。ただし、限界までお布施を出させない搾取目的カルト教団もあるので、絶対的な見分け方とはならない。搾取の意識の方は、外から見て判断できないので、普通は分からない。しかし、信者が宗教を信じなくなったとき、お布施を返してくれと争う場面などで、搾取意識が見え隠れする。信者から全財産を取りながら、何も返さない宗教なら、搾取目的の可能性が極めて高い。

宗教が持つ特性のせいで、搾取目的のカルト教団に利用される

 こうした結果になるのは、宗教が持つ「根拠もなしに信じさせる」特徴のためだ。どんな内容でも、信者に信じさせてしまえば、利用する側のやり放題。お布施を徹底的に出させたり、教団のために必死で働かせたいと思うなら、それを正当化するような内容で聖典を作ればよい。つまり、搾取に都合の良い聖典を用意して、それに書かれている内容を絶対的に信じさせれば、何でもやれてしまうわけである。
 宗教が持つ「教団内の上下関係の絶対性」も、搾取目的には都合が良い。教団を作った側は必ず一番上に位置していて、絶対的な権限を持つ。信者は、聖典の内容だけでなく、宗教上の上位者の言葉も信じるので、思い通りに誘導しやすい。もし信者が疑問を抱いても、上位者が言葉で説明するだけだ。聖典の内容は絶対なので、その一節を引用するだけで、たいていは納得してしまう。ここでも、宗教が持つ「根拠もなしに信じさせる」特徴が有効に利用される。
 身ぐるみまで剥がすような搾取をしても、当の信者自身は気付かない。それどころか、喜んで提供する場合すらある。これも宗教ならではの現象で、宗教が持つ「論理的に考えさせない」特徴が効果的に働いている。
 宗教には、搾取する側に取って美味しい点がもう1つある。一般的に、宗教へは警察が介入しにくい点だ。さらに、様々な行為を見ているのが信者なので、教団を守るために協力してくれ、証拠が警察に渡りにくい。これらの結果、かなり危ない行為をやっても、逮捕される可能性がかなり低い。
 以上を総合的に見ると、他人から搾取したい人にとっては、非常に美味しい特徴が並ぶ。つまり、宗教が“非常に美味しいエサ”に見えるはずだ。だからこそ、搾取目的のカルト教団が跡を絶たない。

最大の敵を示して、悪行を正当化する教団

 利用する側は意識してないが、結果的に利用したと同じになる行為は、本物と思われている宗教で起こる(あえて「本物と思われている宗教」と表現するのは、「本物の宗教」と断定するが非常に難しいからだ)。本物と思われている宗教でも、信者に悪いことをやらせる教団がある。代表的な行為はテロで、まじめな信者なのに殺人も平気でやってしまう。やらせるのは過激派の宗教組織であり、信仰心の強い信者ほど利用されやすい。
 では、信者に悪いことをやらせるには、どのような方法を用いているのであろうか。実は、非常に簡単な方法である。大まかには、次のような2つの段階で進める。
 第1段階では、自分たちの組織から見た最大の敵を明確に示す。その敵の条件は、信者にとって見分けやすいほど良い。特定の国家、団体、民族などが、敵として用いられる。信者には、なぜ敵なのか簡単に説明するだけでよく、論理的な根拠を示す必要はない。
 敵を明確に示す大きな理由は、団結心を高めることにある。宗教に限らず、人間というのは、共通の敵を持っていると仲間意識が高まる。たとえ他の点が一致していなくても。そういった集団での心理を上手に利用し、“意識的に”敵を作っている。当然ながら、敵に設定するのは、教団の中心人物が気に入らない相手だ。敵であることを繰り返し悪く言うことで、信者の間に共通の敵として認識させる。信じる人が増えれば、第1段階は大成功である。
 この方法が成功する背景として、信者の生活状況が相当に悪い点を見逃せない。生きてゆくこと自体が大変なほど貧困で、それが長く続くと、誰かが悪いためだと思いたくなる。そんな状況で明らかな敵を示されたら、そのまま信じやすい。また、悲惨な状況にいるので、憎む気持ちも非常に大きくなる。信じさせる側にとっては、貧困こそ好都合の状況なのだ。
 第2段階では、敵に対する攻撃といった悪い行為を正当化する。正しい行為だと単に思わせるのではなく、宗教的な価値の高い、非常に高級な行為だと信じさせる。この作業も、第1段階と同様に、論理的な根拠を示す必要はない。信じさせるために、好んで用いられるのは、聖典の一説を引用する方法だ。また、高級な行為だと思わせるために、「聖戦」といった言葉も積極的に使う。
 このように2段階で信じ込ませれば、実際に行動させるのは簡単だ。高級な行為だと信じているので、指名された人は、名誉なことだと思ってしまうし、かなり危ない行為でも喜んで実行する。そうした人が何人もいるので、繰り返し実行できてしまう。教団の中心人物の思いのまま、信者に悪行をやらせられる。教団全体として、非常に危険な集団となるわけだ。

論理的に考えて判断しないから悪い内容でも信じる

 悪い行為なのに、信じる人が数多く出てしまうのは、論理的に考えないで判断する姿勢から来ている。誰かの意見に対して確かな根拠も求めないし、その意見が正しいかどうかも詳しく調べない。とにかく、宗教上で地位の高い人や、信者の間で有名な人の意見を、そのまま鵜呑みにして信じるだけだ。
 だからといって何も考えてないわけではないし、何でも信じるわけではない。当人ではないので正確には分からないが、自分にとって感覚的に心地良いものを信じるのではないだろうか。該当するのは、女性差別などだ。さらに、宗教上で地位の高い人や有名な人が言ったかどうかも、大きな要素となる。こちらの方は、言った内容の善し悪しよりも、誰が言ったかで判断することを意味する。どちらも、論理的な思考による判断ではない。
 逆に、論理的な思考ができる人なら、どのように考えるであろうか。まず先に、宗教を信じている人の場合を検討してみよう。宗教を信じるのであるから、聖典の内容は絶対的なものである。そうだとしても、聖典の一節を根拠にして提示された内容が、本当に正しいかどうか評価することから始める。聖典には他にも数多くのことが書かれていて、それと矛盾がないか調べるはずだ。その結果、聖典の一節だけを根拠にされても、簡単には信じない。
 次に、聖典を上手に解釈しながら、現代社会に宗教を適合させている人の場合を検討してみよう。こうした人は、聖典に書かれている直接的な内容よりも、聖典が目指している本当に大事な部分を読み取ろうとする。聖典の全体を眺めながらだ。そうなると、聖典の一節を根拠に説得しても、簡単には信じない。ましてや、宗教の本来の目的は人間の幸福にあると知っているので、悪い行為を正当化することなど考えもしない。もし誰かが悪い行為を正当化しようと試みても、宗教の本来の目的と照らし合わせながら、間違った行為だと反論する。その結果、だまされる人は極端に少ない。
 こうして比べてみると、都合の良い解釈にだまされやすい人の特徴が明確になる。宗教を無条件に信じていて、自分では物事を論理的に検討しない人だ。宗教ばかり教育されると、論理的な思考能力が高まらないので、こうした人になりやすい。

もっとも怖いのは、論理的な話の通じない社会

 一部の教団だけで、論理的な話が通じないうちは、まだ影響が少ない。しかし、広い地域の住民の多くで論理的な話が通じないと、非常に怖いことが簡単に起こる。誰かが言い出した悪い内容を多くの人が信じて、大規模な活動へと発展しやすい。
 その地域が国家の場合、最悪の状況となる。地域内の中心人物の命令によって、外国で悪いことをした人に出たとき、中心人物を保護してしまうからだ。特別な理由でもない限り、国内には手が出せないので、中心人物は安心して生活でき、悪い行為を続けられる。
 こうした社会を作り出すのは、宗教を中心に据えた集団教育である。とくに重要なのは、論理的に思考するための教育内容の比率だ。それが十分に高くないと、論理的な思考能力が低い人々を大量に生む。もし全国民に何十年も教育し続ければ、論理的な話が通じない社会を作り出す。未来社会では、非常に困った国家になる。近くの国へ悪影響を及ぼすだけでなく、その国自体が孤立して、経済面などで困る状況に陥りやすい。
 そんな国家の中でも、一番かわいそうなのは、マトモな教育を受けられなかった国民である。ある程度の年齢に達すると、論理的な思考方法に役立つ教育を後から受けたとしても、そう簡単には変われない。時間というのは、非常に重要な要素なのだ。後から取り返しがつかないだけに、教育政策を決める責任は重大である。
 非常に残念なことだが、以上のようは話は、宗教を深く教育したがる人には通じない。宗教を強く信じているので、論理的な説明では説得できないからだ。それでも、方法はある。今後の社会における科学技術の重要性などを強く訴えて、宗教以外の教育内容の比率を高めさせることはできる。
 未来社会では、世界中の実質的な距離が縮まって、他の国の影響をより強く受けるようになる。それだけに、論理的な話が通じない国家や地域を、少しでも作らないことが、平和の度合いを高めるために必要となる。その点で重要なのが教育だと、理解しなければならない。

貧困から抜け出させるのが有効な対策

 搾取目的のカルト教団は除くとして、それ以外の悪い行為をやらせている人は、どのように考えているのだろうか。本人たちは、悪い行為だとまったく思ってはいない。それどころか、非常に良い行為だと思ってやっている。それだけに防ぐのが難しいし、もっとも怖い点である。
 外部からテロだと非難される行為でも、自分たちは「聖戦」と呼んで、正しいと信じている。論理的な思考によって導き出していないので、何でも正当化できる。それだけに、どんな行為でも正しいことにしてしまえる。
 宗教を重視した教育も同様だ。自分たちが信じる宗教を、子孫に学んでほしいと強く信じて行っている。それが悪影響を及ぼすなんて、考えなどしない。教育を決めた人にとっては、宗教を深く教えることが、無条件に良いことなのだ。この場合も、論理的に考えない点が基礎になっている。

 こうした状況を改善するには、どうすればよいのだろうか。長い目で考えると、だまされにくい人を増やす方法が一番有効である。だまされにくいとは、論理的に考えて行動することなので、そんな人を増やして、悪い行為の実施を難しくする。
 ただし、宗教を深く教育する現状があると、簡単には実現できない。仕方がないので、その社会を少しでも裕福に近づけることで、論理的に考える人を増やす。裕福に近づくほど、世の中の様々な知識を得て、論理的に考える人が増えるからだ。
 現状では、貧困が原因で誰かを憎む状況があり、この気持ちを利用して悪い行為をさせている。貧困から抜け出せば、憎しみが薄れるか消えて、だまされにくくなる。つまり、貧困から抜け出させることは、論理的に考えられる人の増加と、憎しみの減少という2つの面で有効といえる。もちろん、貧困状態の人の数が非常に多いため、簡単に実現できる対処ではないが。
 これからは、以上のような点も強く意識して、国際的な政策を決める必要がある。しかし現状を見ると、こうした点をすでに分かっている人がいるものの、分かってない人が決定権を持っている国が多く、まったく考慮されてないに等しい。というわけで、対処は遅々として進まない。

(2002年3月7日)


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