川村渇真の「知性の泉」

日本の学校が良くなるのは相当な先


学校の教育内容は当分変わらない模様

 本コーナーで細かく説明しているように、現在の学校教育では、社会人として必要な能力を身に付けさせてくれない。その証拠に、一流大学を優秀な成績で卒業したとしても、重要なことがほとんどできない状態だ。たとえば、自分の意見を分かりやすい文章にまとめられない、自分の行動を的確に報告できない、物事を検討する基礎的な方法すら知らない、何かを適切に評価する方法も知らない、などである。
 さらに面白いのは、大学教授とか研究所の研究員という、既存の学校教育でのエリートたちまで、物事を検討する基礎的な手順や注意点を知らない点。これを確認するのは容易で、該当する人が参加する電子会議室を覗くと、こうした様子が数多く発見できる。
 以前、私がここで提案している教育改革を、ある電子会議室で少し説明したことがある。それは高等教育をテーマに掲げる電子会議室で、大学教授、大学院の学生、研究所の研究員らしき人などが発言している。そこで、奇妙な反応を目にすることができた。現在の教育内容で不足する点を強調しても、否定的な意見ばかり出てくるのだ。また、物事を適切に検討する方法を紹介したときは、賛成する人がほとんどいなかった。そればかりか、提案内容の重要な部分をすべて無視して、重要でないアラばかり探して指摘するという、非常に情けない対応が中心だった。こんな行為をしながら高等教育を論じるのは、滑稽以外の何物でもない。
 物事を検討する基礎すら知らないと、難しい課題を適切に解決するのは困難だ。現在の教育問題は、非常に難しい課題に属するため、検討手法を駆使して解決案を求めなければならない。しかし、この問題を検討している人の多くは、検討手法の基礎すら知らない。そればかりか、検討手法の基礎を教えても、毛嫌いして拒否する人までいる。こんな状況では、いつまで経っても適切な対処を実施するのは無理だ。
 総合的な学習に期待している人もいるだろう。しかし、この教育内容は明確に定められていない。教師による当たり外れが大きく、しかも生徒や親が教師を選べない。もし当たり側の教師に担当してもらったとしても、いろいろな重要能力をキチンと教えてくれるわけでない。何となく気付いた点を指摘するぐらいだ。作文技術や検討手法と言った内容は、論理的に整理された形で教えないと、実際に使えるレベルで身に付けるのは難しい。そのレベルを、総合的な学習を担当する教師に求めるのは酷だ。それぞれの専門家が教育内容を独立した教科として設計して、教師に提供すべきものである。このように、総合的な学習では、基礎的な能力である作文技術すらキチンとは身に付けられない。
 というわけで、日本の学校は、世の中が激変するような出来事でも起こらない限り、社会人として必要な能力を教育できない状態が“かなり長く続く”と予想する。今と同じように、狭い意味の学問だけ教え、物事の検討手法など取り上げる気すらない。さらには、もっと基礎的な能力である作文技術すら、教えてくれない学校がほとんどだ。
 では、いつになったら改善されるのであろうか。自分としては、改善の芽さえ見付からないため、当分改善されないことだけは確かで、その先はまったく読めないとしか言いようがない。改善の見込みが、何も見えてない状態と同じである。

自分たちで何とかするしかないという危機感を持つ人々

 実際に教育を受ける側でも、既存の学校教育では重要な能力が身に付かないこと、しかも状況がすぐには改善されないことに、気付いた人が出始めている。このまま学校教育だけを受けていたのでは、子供の将来が心配だと。
 そうした親の危機感に反応するのは、やはり企業だ。危機感を解消するためのビジネスとして、既存の学校では提供できない教育内容を提供し始めている。小さな子供向けの英語教育では、遊びの延長のような環境を提供しながら、外国人と英語に慣れさせる。基礎的な英語力が身に付くとともに、自己表現などの能力向上も少しは期待できる。
 基礎の英語教育が最初に登場するのは、教えやすいからだ。ネイティブの外国人を集め、ある程度の教育をすれば、そこそこの管理で実現できる。英語教育の分野では、米国などにノウハウが蓄積されているので、そのまま活用しやすい。
 今後は、危機感を持つ人が増えるにしたがって、他の教育内容も順に提供されるだろう。また、提供される教育内容の種類や量が増えることで、危機感を持つ人の数も増す。互いに刺激し合う形で、提供する側と利用する側の数が増えていく。
 提供される教育内容は、作文技術や発表技術のような基本的なものから始まる。これらも追求すると奥が深いので、最初は基礎を重視した内容となり、次第に高度なものが提供されるという流れになる。教育内容の種類が増えると、物事の検討方法の基礎といった少し難しい内容も加わる。世の中のいろいろな問題を課題として取り上げながら、論理的な検討方法の基礎を習得させる。
 こうした教育内容は教えられないと思っている人もいるだろうが、ビジネスの世界では能力開発技術が進んでいて、どれも教えられるのだ。もちろん、全員が身に付くわけではなく、ある程度の適性が必要だ。しかし、繰り返し訓練することで、世の中の半数以上の人が、そこそこのレベルで習得できる。
 そこそこのレベルで習得できたとしても、まったく知らない人と比べれば、格段の差として現れる。物事の検討方法を例に考えてみよう。習得していない人は、論理的な思考の裏付けを持たないまま、何となく結論を出してしまう。得られた結論の質は、課題が難しいほど、良くない可能性が高いし、実際に欠点を持っていることが多い。それに比べて習得した人は、課題を論理的に整理して考えられるため、ある程度のレベルに達した解決方法を、確実に得ることができる。その差は、課題が難しいほど大きくなり、明確な実力差として現れてしまう。
 既存の大学や大学院を優秀な成績で卒業しても、物事を検討する基礎さえ身に付けられない。そのため、少し難しい課題になると、適切な解決方法を出せない人がほとんどだ。こんな現状なので、能力教育の価値が非常に高いと理解できるだろう。
 学校で提供されない能力教育が受けられると知れば、我が子の将来を良くしたい考える親は、多少高額な費用を払ってでも、受けさせたいと思って当然だ。また、成人した大人も同様で、価値の高い能力を身に付けたいと思っている。自分で費用を払って受講したい社会人が何人も出てくるだろう。
 このように受講する人が増えると、評価技術、報告技術、管理技術、情報整理技術、調査技術のように、いろいろな教育内容が追加され、習得した人としない人の能力差は、ますます開くような状況になる。

家庭の貧富の差が教育格差と比例する状況に

 以上のようなことが実現されると、残念ながら、社会が悪い方向に進む。子供が受けられる教育の質が、子供の家庭が裕福かどうかで決まってしまう状況になるのだ。
 裕福な家庭の子供は、親が高額の授業料を支払うことで、価値の高い能力を教えてくれる教育が受けられる。しかし、裕福でない家庭の子供は、学校教育しか受けられないために、社会人として重要な能力を身に付ける機会が与えられない。社会に出てから、自分で稼いだお金で教育を受けられるが、その時点で既に能力差が付いてしまっている。
 もちろん、例外はある。裕福な家庭であっても、親が教育熱心でなければ教育を受けさせないだろう。逆に、裕福でなくても、親が高い能力を持っていれば、子供に直接教えられる。親でなくても、親戚とか近くにいる大人から教えてもらえる場合もあるだろう。ただし、可能性は非常に低いため、全体としては、家庭が裕福なほど価値の高い教育が受けられる傾向が、かなり高くなってしまう。
 最後の期待は、インターネットのように自由なネットワークかも知れない。何人もの個人が中心となって、優秀な教育内容を無料で提供する可能性がある。それが数多くあれば、有料の教育を受けられない生徒も、ごく一部だけは、能力を独学で習得できる。ごく一部に限られる理由は、こうした能力の習得では、適切な指導を伴った訓練が必要だからだ。無料の資料を読んで習得できる人は、適性が非常に高い人だけで、おそらく1割以下だろう。それ以外の人は、適切な人に指導を受けながらでないと習得できない。というわけで、貧富の差が教育格差と比例する傾向を弱めるほどの影響力は、おそらく持てないだろう。
 このような傾向は、小さいながら今でも存在する。価値の高い教育が今まであまりなかったので、大きな差としては現れなかったのだ。しかし今後は、能力教育をビジネスとして提供する企業が増えて、教育を受けたかどうかが能力差となって現れ、その差がかなり大きくなる。
 貧富の差が教育格差と比例する状況を改善するためには、学校を中心とした教育制度を改革するしかない。とくに教育内容を大幅に改革しないと、目立った効果は得られない。しかし、最初に述べたように、その期待はほとんどないに等しい。

 現時点(おそらく今後数十年も同様?)の結論としては、自分および子供の将来は、自分たちで良くする以外に方法はない。学校には基礎的な知識ぐらいしか期待できないので、それ以外の能力は何とか工夫して習得するしかない。企業がビジネスとして提供する教育だけでなく、親たちが協力し合うとか、子供たちで協力するとか、いろいろな形で対処することになるだろう。残念だが、それしか選択枝はなさそうだ。

(2001年3月19日)


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