川村渇真の「知性の泉」

芸術教科では芸術に適した教え方を採用する


芸術に合っていない既存の教育方法

 既存の教育内容には、美術や音楽のように芸術に分類できる教科もある。これらの教育内容や方法は、芸術以外の教科と同じような考え方で作られている。では、人間にとっての芸術の役割から見て、現在の教育内容や方法で良いのだろうか。
 それを検討するには、芸術の役割(存在理由のほうが適切な表現かも)を考えなければならない。真っ先に挙げられるのは、素晴らしい作品を鑑賞すると、心が豊かになる点である。簡単には説明できない喜びを、我々に与えてくれる。絵画、彫刻、小説、俳句、和歌、音楽、ダンス、映画、写真、建築物など、少しでも多くの優れた作品に出会うことは、そんな機会を増やす。
 次に挙げられるのは、自分で制作したり表現する喜びである。単純に作ってみるのはもちろん、自分が考えたことを芸術作品という形で表現する行為により、他に代えられない種類の喜びが得られる。最初は下手でも、何回か試すことで、1つぐらい嬉しいことが見付かる。また、そうした経験があれば、素晴らしい作品を鑑賞するときの喜びも増す。
 もう1つ挙げられるのは、自分が制作した作品で、他人が喜ぶ経験である。他人を少しでも幸せな気持ちにさせる経験は、制作者自身も嬉しくなる。加えて創作意欲を増し、さらに良い作品へと発展しやすい。こうした機会をできるだけ多く提供すると、制作する人も鑑賞する人もより多くの喜びが得られる。
 他にも、いくつか挙げられるが、大きなものは以上の3点だろう。こうした役割を基準に既存の芸術教科を見ると、実際に制作する以外は満たされてない。しかも、優れた作品の良さを知らされないまま制作しているため、芸術の本質を考えずに制作してしまうことになる。そんな作業を何度繰り返しても、制作する行為の価値は得られにくい。
 既存の芸術教科における別な問題点は、他の教科と同じように成績を付けることだ。制作した作品の良し悪しで、成績を決めているのだろうか。だとしたら、一人の教師の判断で良し悪しを判定していることになる。芸術作品の評価は、そんなに単純なものだろうか。おまけに、作品作りは自己表現の一種だという基本すら教えないで制作した作品を、評価して良いのだろうか。次々と疑問が湧いてくる。現在のような評価方法は、残念ながら芸術には適していない。そもそも、芸術の教科を、普通の教科と同じに扱うこと自体が不適切なのである。
 なお、教師としては決まりだから成績を付けているだけなので、教師を責めるわけにはいかない。このような制度を決めた側に責任がある。

優れた作品の素晴らしさを具体的に語って知らせる

 では、どのように改良すれば、芸術教科に適した教え方になるのだろうか。改良の基礎となるのが、前述の「芸術の役割」の3要素である。それに合うような形で教え方を改良すれば、より良い教科に仕上げられる。3つの要素をそのまま採用し、教え方も以下のようにする。

芸術教科に適した教え方の3要素
・世の中の優れた作品を鑑賞し、その素晴らしさを知る
・素晴らしい作品を数多く鑑賞した後で、自分でも制作してみる
・生徒の優れた作品を集めて表彰する機会を増やす

 順番に説明しよう。最初の作品鑑賞では、世界的に認められた作品を選び、その良さを知ってもらう。単に紹介するだけでは不十分で、どんな点が素晴らしいのか、本当に素晴らしいと思っている人に“熱く語って”もらう。1つの作品でも様々な見方があるので、複数の人に語らせたほうがよい。
 作品の数も重要で、できるだけ多くの作品を対象とする。すると、一人の教師だけでは全部の作品を語れない。その代わりとして、熱く語れる人を何人も集め、本当に好きな作品について語ってもらう。こうすれば、有名な作品の良さを幅広く語れる。
 こうした目的では、語り方も重要だ。どの部分がどのように良いのか、全体としてどんな印象を与えてくれるかなど、語られた相手に良さが伝わるように気を付けなければならない。また、分かりやすいように丁寧に解説することも大切だ。語り方が悪い場合は、やり直してもらう必要がある。
 熱く語った内容は、文章としてまとめたり、ビデオで録画したりして保存する。多くの人が見れるように、インターネットで公開すると良いだろう。この方法なら、教師が全作品を語る必要はないし、生徒が自分で知ることもできる。

表現を意識しながら実際に制作させる

 素晴らしい作品をいくつも鑑賞したら、今度は生徒自身に制作させる。その前に、芸術作品の基本だけは教えた方がよい。多くの優れた作品では、何かを表現しようとしている点だ。単に作るのではなく、何かを表現しようと考えるように意識させる。
 最初に制作するときは、描き方などの基本を何も知らないので、思ったようには仕上がらない。必要に応じて、技法やコツを教師が教えればよい。ただし、あくまで中心は表現することなので、より良く表現するための手助けだという点を、必ず示しながら教える。そうしないと、表現という一番大切な目的を忘れやすいからだ。
 表現という行為には、何らかのテーマが付き物である。テーマを決めることも、表現の重要な要素である。優れた作品がどんなテーマで作られたのか説明しながら、テーマの決め方、テーマを決める際に考えることなどを紹介する。こうした経験は、素晴らしい作品を鑑賞する際の新しい視点をも提供する。
 テーマというと堅く考えがちだが、最初のうちは身近なもので構わない。たとえば、「身近な人の優しさ」というテーマもあり得る(「お母さんの優しさ」も考えられるが、母親がいない家庭も考慮し、多くの生徒で問題ないテーマにすべきなので適さない)。こうしたテーマを掲げて、絵画などで“自由に”表現してもらう。テーマは生徒自身が決めてもよいし、教師が与えてもよい。ただ、生徒が絶対に作りたいテーマがあったら、それを採用すべきだ。
 以上のように、素晴らしい作品を数多く鑑賞してから制作する点と、表現だと意識する点の2つが重要である。それらの条件を満たして何度も制作させれば、表現の喜びを味わう可能性が高い。こうした過程を経て作った作品の中には、非常に素晴らしい作品も現れるだろう。

何種類ものコンテストを用意し、どれかに出展させる

 制作した作品がそのまま埋もれるのでは、制作意欲が高まらない。コンテストに応募するとか、どこかに発表するとか、何らかの機会を提供すべきだ。また、良い作品を表彰することも大切なので、コンテストが一番適している。
 そこで、何種類ものコンテストを開催する。いろいろな種類の作品を制作しようと思ってもらえるように、コンテストも様々な形を用意した方がよい。テーマを限定したり、新しい試みだけに限定したり、考えられる方式を何でも試す。どのコンテストでも、作者の表現を強く意識させ、表現することを求めるのは言うまでもない。
 表彰の方法も重要だ。新しい視点で制作された作品を積極的に認め、荒削りで完成度が低くても何らかの賞を与えるようにしたい。そうすれば、もっと面白くしようとか、もっと新しいことを試そうかという行為を推奨することにつながり、そんな作品が増えてくる。
 若い人の作品なので、小さなことでも面白い点があれば、どんどんと誉めることも忘れてはならない。良い点を誉めることは、次なる新しい試みや、さらなる改良につながるからだ。どんどんと誉めて、積極的に作品を制作してもらおう。
 様々なコンテストがあるので、どれに応募するかは生徒が自分で選ぶ。本人が望むなら、複数のコンテストに応募しても構わない。3ヶ月に1度とか最低限の応募回数を決め、それに向けた作品作りを教師は推奨し、必要に応じていろいろな助言を与える。
 コンテストを幅広く利用するので、生徒に成績を付ける行為は止める。コンテストによって優秀な人は表彰されるが、それ以外の人は何もされない。表彰されなかった人の全員に才能がないわけではない。後から何らかの芽が出てきて、良い作品を後で制作する人も現れるだろう。また、コンテストの審査員が悪いために、素晴らしい作品を見逃している可能性もある。悪いという評価を一時的にでも付けるのは、芸術の分野に適さない。だから、成績は付けないのだ。
 以上のような方法を採用すると、一人の教師だけで評価するより、多くの観点で評価できる。また、コンテストに応募する前提で制作するため、より真剣に取り組むはずだ。しかも、表現という重要な点を意識しながら。
 芸術の教科では、このような視点で教育した方がよい。もっと別な工夫を思い付いたらそれも取り入れ、芸術の喜びを感じてもらえるようにする。そうした経験が、豊かな人生に役立つからだ。

 ここでは芸術に関する教科の教え方を解説したが、他の教科でも「教科のタイプに適した教え方を採用する」という基本は同じである。そういう観点ですべての教科の内容や教え方を見直せば、教育をより良く改善できるはずだ。

(2000年12月30日)


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