川村渇真の「知性の泉」

教師による生徒の評価方法は難しい問題を含んでいる


既存の教育内容や学校での活動だけで評価するのは問題

 どの学校でも、教師が生徒を評価し、その結果は通信簿(通知簿や通知表と呼ぶこともある)や内申書に書かれる。その際の評価方法だが、実社会、特に先進企業の人物評価と比べると、多くの面で遅れている。まず、生徒のどのような活動が評価の対象となるのかを見てみよう。
 通信簿や内申書へ記述する対象には、大きく分けて、各科目の成績と人物の評価が含まれる。まず各科目の成績だが、勉強する内容に関しても大きな問題を含んでいる。狭い意味の学問しか扱っておらず、どの教科も記憶中心になっているからだ。きちんと考えるとか、伝えたい内容を書き表すとか、社会に出て重要となる能力はほとんど含まれていない。このような視野の狭い内容が、評価の対象となっているので、生徒の本当の能力を評価するのは難しい。ましてや、生徒の潜在的な能力を引き出すことなど、まず無理である。
 もう1つの人物の評価だが、対象は学校内での活動に限られる。残念ながら、学校というのは特殊な世界だ。無理矢理に勉強しなければならない場所であり、社会とは異なるルールが存在する。そんな状況での活動を見ただけだと、積極的に活動する人が悪い評価を受けやすい。たとえば、自分たちが所属する学校のルールを改善しようと、ある生徒が提案したとする。そんな行動は頭ごなしに押さえられ、まったく聞いてもらえない。それでも積極的に活動を続けると、校長や教育委員会などの大きな壁に突き当たり、教師から変な目で見られる。生徒の方も、きちんとした説明など受けずに、不信感だけが増幅する。結果として、生徒のヤル気は失われるし、教師から悪い評価を受けやすい。こんな様子を外部から見ると、本当の教育とは何かを分かってるのかと文句を言いたくなるが、内部にいる教師には通じない。もちろん、生徒の方はこんな状況を理解しているので、最初から積極的な提案などしない。
 また、勉強する内容が記憶中心だと、授業も単調になりがちで、生徒が面白く感じる機会は少ない。その結果は、全員ではないが一部の生徒に、ヤル気を失って話を聞かないといった態度として現れる。そんな態度だと、どうしても悪く評価してしまう。教育内容や教育方法が悪いために、悪い評価を受ける人がいるわけだ。
 全体的に見て、既存の教育内容や学校という“現実とは大きく異なる世界”で生活させ、その中での行動で評価している。つまり、特殊な世界の活動だけで評価して、本当に良いのだろうかという大きな疑問が生じる。

担任の教師が一人で評価するのも問題

 評価する行程自体にも問題がある。通信簿や内申書では、生徒の担任となった教師が、自分一人で書く場合が多い。担任として生徒に接し、その間の行動や発言を見て評価を下す。もちろん、他の教科の教師から意見を聞いて参考にはするだろう。しかし最終的には、担任の教師一人で書く。
 もう1つ見逃せないのは、教師と生徒とは相性が存在する点だ。相性の悪い教師が担任となった生徒は、どうしても反発する行動に出やすく、教師からの評価が下がってしまう。基本的に、担任の教師が一人で書く方法だと、悪意はなかったとしても個人的な感情が出やすい。ところが、それを防止する仕組みはまったく用意されていない。
 教師が一人で書く方法だと、どの教師も優秀であるという大前提が必要とされる。そうでなければ、人物の評価を一人に任せるはずがない。しかし実際には、そこまで深くは考えておらず、昔からの惰性でこの方法を使い続けているのだろう。だとしたら、もっと大きな問題である。ともかく、教師も人間である以上、評価する作業に適正のない人もいる。その点を、まず理解しなければならない。
 そもそも、人物を評価するというのは非常に難しい作業なのだ。それを、一人の教師だけに任せる方法自体が、基本的に誤りである。さらには、一人で評価させているのに、評価の質が一定の水準を確保できているのか追跡しないし、各教師の評価能力を向上させる仕組みも用意していない。おそらく、このような点に関しては何も考えていないのだろう。

評価結果を生徒自身が見れないのも大きな問題

 人物を評価した結果が、その人の将来に影響を及ぼす場合、評価された本人が内容を見る権利がある。その点でも、現状の仕組みは大きな問題を持っている。
 通信簿の方は、生徒本人や親に渡されるので、どんな評価なのかが後から確認できる。ところが、内申書の方は、生徒自身が内容を知らないまま、生徒が希望中の進学先に送られる。生徒の将来に大きな影響を与えるにも関わらずだ。
 自分の将来に関わる問題なので、後から見れるだけでは不十分である。書かれる評価に関して、生徒自身が意見を述べられなければならない。何しろ、自分の将来に大きく関係することなのだから。逆に、教師の方は、生徒の将来に責任を持てないにも関わらず、生徒本人の意見など聞かずに評価を書いている。このような行為を一般社会でやったら、大問題となるだろう。それだけ問題の大きいダメな方法なのだ。
 実際、この問題では裁判が起こっている。卒業した生徒が自分の内申書を見たいのに、学校側が拒否しているからだ。生徒本人にすら見せられない評価結果なら、評価自体を止めればいいのに、そうしてはいない。また、自分の評価を見た生徒の中には、納得できない内容が書いてあったとして、訂正を求めている。この要求も拒絶され、裁判になっている。
 このような問題が生じるのはごく一部だし、悪気がないから構わないのではないかと言う人もいるだろう。このような発想は、根本的に間違っている。運悪く該当した生徒は、黙って犠牲になれと言うのと同じだ。問題が生じる可能性があるなら、方法を改善するべきである。
 そもそも、教師による生徒の評価は、前述のように対象となる活動が狭すぎるし、評価する行程自体も良くない。そんな状況なのに、あたかも生徒全体を評価するような印象を持たれている。その大きな原因は、学校が持つ評価尺度が1つしかないからだ。それを公的な機関で全国的に展開していれば、深く考えない多くの人は、重要な評価だと思ってしまう。だからこそ、悪く書かれた場合には、本人に被害が生じやすい。「そんなレベルの評価だから気にしなくてもいいよ」などとは言えない問題なのだ。

先進企業の人物評価では継続的に改良を続ける

 比較のために、企業での人物評価を見てみよう。繰り返すが、人物を評価することは、非常に難しい作業である。だからこそ、先進的な企業ほど工夫をしている。ちなみに、旧態依然とした日本企業では、年齢序列を採用しているためか、人物の能力を本格的には評価していない。そのため、ここでは先進企業の工夫を取り上げる。
 人物を評価するのが難しいので、かなり苦労しながら改良し続けている。企業ごとに少しずつ異なるものの、たいていは次のような点を考慮しているようだ。

企業が人材を評価する際の代表的な考慮点
・評価基準を明確にして教育する
  ・評価する人に教育して、評価の質を保つ
・一人で評価せず、何人かで行う
  ・直属の上司ともう1つ上の上司の二人で評価するのが基本
  ・部下を持つ人なら、部下からの評価も加える
・本人が反論する機会を持たせる
  ・本人と一緒に検討し、具体的な目標を設定する
  ・目標に対して、どの程度の成果があったかで評価する
  ・評価結果を本人が見て、反論などの意見を述べる
・評価基準を常に改良し続ける
  ・評価に関して発生した問題を解決する形で改善する
  ・評価する人とされる人の意見を聞いて改善する

 このように、評価の質を上げようと継続的に努力している。作業を考えると少し面倒な仕組みだが、できるだけ適切に評価するためには仕方がない。しかし、これだけやっているにも関わらず、全員に対して満足できる評価を得られない。つまり、人物の評価とは、それほど難しい作業なのだ。
 本題である教師による生徒の評価は、企業の人材評価に比べてどうだろうか。評価の質を上げようとしていないのはもちろん、現在の方法が問題だとも思っていないようだ。評価内容が、生徒の将来に影響を与えるというのに..。

生徒の評価を続けるなら、教育の内容や方法を改善すべき

 ここまでの分析で、一人の教師だけで生徒を評価する方法は、基本的に問題点があると分かった。一般的に言って、作成物がレビューを受けてない場合は、出来上がりの質にバラツキが出やすく、平均レベルも向上しにくい。教師による生徒の評価は、まさに該当する状況だ。一人で評価して、その内容が誰のレビューも受けないので、質が悪い評価が生じやすい。
 この問題を深く考えていくと、もう1つの大きな疑問が出てくる。何のために生徒を評価しているのかだ。最初に思い浮かぶのが、成績を付けて勉強をさせるためである。では、現在の教育内容に、それだけの価値があるのであろうか。将来に使う可能性が低く、懸命に暗記してもそのうちに忘れて無駄になる教育内容に。その他の理由を考えても、説得力のありそうなものは見つからない。
 人物評価の方は、何のためにやるのだろうか。おそらく、少しでも良い人間になってもらうためだろう。しかし、学校という特殊な環境での行動だけで評価するし、評価の基準となる価値観があまりにも狭すぎる現状では、評価することの価値が高いとは思えない。評価基準が納得できる内容なら意味もあるだろうが、そうでない状況だと余計なお世話になりやすい。
 評価すべきかどうかまで検討すると、抽象的ながら結論が見えてくる。当たり前のことであるが、評価基準が悪ければ、評価しても意味はないのだ。逆に言うなら、評価するためには、評価基準を良くしなければならない。つまり、教育の内容や方法を良いものに改善する必要がある。それができないうちは、生徒を評価すべきでない。
 もし現在の評価をどうしても続けるなら、評価結果の価値を世間が誤解しないように、注釈を付けるべきである。たとえば、以下のような文面で。

現在の学校の教育では、いろいろな事情により“知識の記憶”を中心に置いています。それ以外の能力に関しては、学校側で教えることができません。結果として、学校が提供する生徒の評価は、知識の記憶に関する部分だけです。このような点を理解した上で、記述してある評価を利用してください。

 この文章では人物評価に触れていない。理由は簡単で、現在の方法では適切な人物評価ができないからだ。レビューなどを含んだ評価方法に変更するまでは、人物評価を止めるしかない。
 評価結果の横に上記のような文章が付いていれば、総合的な評価だと誤解する人は大幅に減る。しかし、読んで分かるように、現在の教育内容が情けなく感じてしまう。当事者としては絶対にやらないだろう。
 現状での生徒の評価は、以上のような多くの問題を含んでいる。難しい問題だけに、簡単に解決できる問題ではない。大まかにだが分かっているのは、今の状況を打開するなら、教育内容と方法を根本的に改革する必要がある点だけだ。それを達成するまでは、悪い評価方法によって迷惑する生徒が出る。評価する側の人々は、評価の意味を真剣に考え直さなければならない。

(1999年2月18日)


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