川村渇真の「知性の泉」

リベラルアーツ教育の限界


リベラルアーツ教育を重視しても効果は小さい

 大学改革の1つとして、「リベラルアーツ教育を重視すべきだ」という意見を耳にすることがある。教育改革や大学改革に興味があって調べたことがあるなら、この意見に出会ったことがあるだろう。では、リベラルアーツ教育を十分に実施したら、期待した効果が得られるだろうか。結論を先に言ってしまうなら、効果はほとんど期待できない。それより大きな問題なのは、この意見を出す人の思考方法である。その点も含めて、簡単に解説しよう。

 リベラルアーツ教育を重視すべきだと主張する人は、人間的に成長させるとか、専門バカにならないため、といった理由を挙げることが多い。哲学などの教科を学ぶことで、そうした効果を期待している。
 日本の大学におけるリベラルアーツ教育は、昔は今より多く行われていた。しかし、最近ではどんどんと減り、以前よりも少ない時間数しか教えていない。リベラルアーツ教育重視は、昔の教育内容に戻すという意味もある。そういう教育内容を受けた人が、主張することが多いようだ。
 では、本当に実施したとき、期待した効果は得られるだろうか。この点こそ、もっとも重要な部分である。たとえば、哲学などの教科を選び、過去の10倍以上の時間をかけて教えた結果、人間的に大きく成長するだろうか。やってみたいなら試せばいいが、目立った成長なんて期待できない。
 人間の成長は、学習で得た知識だけでなく、様々な体験が欠かせない。優秀な人と一緒の活動、差別されている人の感情、差別している人の醜さ、他人の素晴らしい行為を見ること、他人のセコイ行為を見ること、などが深く影響する。さらに、自分が苦しい状況に陥ったとき、親身になって支えてくれる人の存在も大きい。
 意外に見逃されがちだが、人間的な成長には、論理的な思考能力も欠かせない。誰かが感情的に訴えているとき、それが本当かどうか確かめもせずに信じると、悪い行為に加担してしまう。論理的な思考能力が高ければ、訴えた内容が本当かどうか、評価したり推理したりでき、適切な判断の基礎として役立つ。
 論理的な思考能力が役立つのは、誰かの訴えにだまされない場面だけではない。いろいろな状況で、適切な意見や提案を示せるため、問題が生じている全部の場面で役立つ。それは、他人に対しても可能だ。感情的な意見に誰かがだまされそうなとき、論理的に考えた適切な助言を与えて、助けてあげることができる。
 こうした特徴があるにも関わらず、論理的な思考能力の教育は、リベラルアーツ教育にほとんど含まれていない。一部の教科で間接的に扱っているだけなので、論理的な思考能力が、目に見えた形で高まらないのだ。身に付けさせるためには、本コーナーで解説しているように、能力教科として教えなければならない。

教育効果を適切に評価していない意見

 リベラルアーツ教育を重視する意見の人は、どのように考えて、その結論に達したのであろうか。今まで見た意見の中には、リベラルアーツ教育を実施した結果、どういう効果が得られるのか、示したものは1つもなかった。大まかな感覚だけで、意見を述べているものばかりだ。
 おそらく、次のような感じで、リベラルアーツ教育にたどり着いたのであろう。人間性を成長させるのに、どのような教育内容が良いのか考える。難しい問題なので、答えが簡単には見付からない。既存の教科をいろいろ比べた結果、リベラルアーツ教育が良さそうだと思って選んだ。この程度の検討しかしていなくて主張している可能性が、非常に高い。
 だからこそ、教育を実施してどんな効果が期待できるかや、目的に対してどれぐらい適しているのかは、ほとんど検討していない。こういう過程を経ての意見なので、有効だという根拠も示せないし、効果の程度すら説明できない。雰囲気だけの意見というわけだ。
 リベラルアーツ教育の重要性を主張する人には、試しに次のような質問を与えてみればよい。「それを実施して、どのような効果が期待できるのか」と。さらに「その効果を得るのに、それが最良の方法なのか」とも。どちらも、物事を検討する際には重要な視点で、教育内容の検討でも例外ではない。実際には、こうした質問をぶつけても、マトモな回答など出てこない。それほど深く考えて主張しているわけではないからだ。
 このように分析してみると、この種の意見で一番問題なのは、検討の質である。教育を実施した効果を考えてないのは、検討として相当にレベルが低い。そうした内容を主張する人は、物事を検討する基礎すら知らない人の可能性が非常に高い。また、論理的な思考が苦手な可能性も高い。
 つまり、リベラルアーツ教育を重視する主張は、この程度の考えから生まれた意見である。もっと正直に主張し、「目立った効果は得られないが、他に選択肢はないので」と言わなければならない。こんなレベルの主張をマトモに扱っていたら、質の高い教育なんで実現できない。もっと適切に検討した意見を採用すべきである。

適切な検討では、教育効果と最良方法を考慮する

 では、適切に検討する場合、どのように進めれば良いのだろうか。もっとも重要なのは、どのような教育効果があるか、正しく評価する点だ。さらには、その教育効果を得るのに、もっとも良い教育内容や教育方法は何かまで、検討に含めなければならない。
 この2つの条件を満たす形で検討を進める必要がある。そのためには、基本的に次のような流れに沿って検討する。流れの各段階でどんな内容を明確化すべきか、という視点でまとめてある。

教育内容を検討する際の基本的な流れ(各段階で明確化する点)
・教育で達成したい目標(考慮点も含む)
・目標を達成するために必要な要素(能力、経験、知識など)
・必要な要素を教育する方法(教科の形で挙げる)
・教科として実現できる範囲や程度(期間などを考慮して)
・範囲や程度を調整した教科で、期待される教育効果

 簡単に解説しよう。まず最初は、教育で達成したい目標を定める。論理的な思考能力を身に付けさせるとか、自分の考えを上手に伝えられる能力を身に付けさせるとか、人間としての良識を高めるとか、いくつかの項目が挙げられるだろう。次に、その目標を達成するために必要な要素を、目標ごとに挙げる。1つの目標について、複数の要素を挙げることもある。自分の考えを上手に伝えられる能力の習得が目標なら、作文技術や発表技術が要素に挙がる。
 続けて、要素を身に付けるための教科を定める。どの教科でも、教育内容と教育方法を明らかにする。このとき重要なのは、要素を身に付けさせるための最良の方法を考える点だ。次に、教科として実現できる範囲や程度を求める。教育に使える時間、学習する側の習得速度、教育にかけられる費用などから、教えたい内容の全部を入れられるわけではない。実現可能な範囲と程度を見極めて、教科の最終的な内容と方法を決める。
 このようにして用意した教科の内容をもとに、期待される教育効果を再確認する。教える範囲や程度を限定したので、最初に考えた教育効果よりも小さくなっているだろう。その教育効果を比べて、教科ごとに採用するかどうかを判断する。教科ごとの内容を途中で調整したので、教育効果も再評価するわけだ。

リベラルアーツ教育の代わりとなる教育内容が必要

 今までは、教育内容を検討する際に、各教科の教育効果まで検討してこなかった。そのため、効果が大きくないにも関わらず、いろいろな教科が教えられ続けている。リベラルアーツ教育も、実際には哲学などの知識を与える効果しかないのに、かなり効果があるように信じられている。
 もちろん、優れた教師が話す内容によっては、人間的な成長を伸ばすことは可能だ。しかし、それはごく一部の教師しか達成できない。また、その教育効果は、教科によるものではなく、教師によるものである点も見逃してはならない。つまり、教科の内容ではなく教師の内容を設定する必要がある。ところが現実には、そうした条件を満たす教師はごく少数しかおらず、数多く集めるのも育てるのも無理だ。
 それでは、どうしたら良いだろうか。リベラルアーツに代わる教育内容を、前述のような手順で設計するしかない。ポイントとなるのは、論理的な思考能力の習得、自分が考えた内容を上手に伝える能力の習得、良識ある人間としての意識を持つことの3つだ。これらが身に付くように、教科を設計すればよい。
 論理的な思考能力の基礎は、物事を検討する際の流れとして教育できる。検討の流れを複数の工程に分け、各工程ごとに何を作るのかを明らかにする。それを教えて、実際の課題で何度か試せば、ある程度のレベルで習得させられる。
 自分が考えた内容を上手に伝える能力は、基礎段階として作文技術と発表技術が中心となる。これも思考能力と同じ考え方で教える。具体的な教育内容は、本コーナーの能力教科の設計例として紹介してあるので、そちらを参照してほしい。
 最後の良識ある人間としての意識は、別な方法で教えるしかない。考えられる有効な方法としては、弱者の気持ちを知ること、差別といった悪い行為の醜さを知ること、人間は悩むのが当たり前だと知ること、社会や隣人と助け合いながら生きる方法を知ることなどが挙げられる。
 弱者の気持ちを知るには、差別された経験のある人の気持ちを聴かせる方法が有効だろう。本人に直接話す方法だけでなく、本人が話しているときのビデオを観させる方法がある。直接でもビデオで適切なガイド役を用意すれば、習得度が向上できる。これとは逆の内容として、差別したり軽べつする人の醜さを、ビデオや映画の形で観させる方法も有効だ。
 悩むのが当たり前だと知る方法として、幸福そうに見える人が本音で悩みを語ってもらうとか、悩みと上手に付き合う方法を話してもらうなどが可能だ。どちらでも、本人が直接話す方法と、話しているビデオを観させる方法が考えられる。他に、困ったときは自分だけで悩まず、隣人や社会に助けを求める方法も教える。これも経験者に語ってもらうか、そのビデオを観させる方法が使える。これらの他にも、効果がありそうな方法が思い付いたら、実際に試して確認し、有効なら採用すれば良い。

 以上のように、教育効果を強く意識しながら深く考えると、新しい教育内容が思い付く。こうした教育内容を実施すれば、リベラルアーツ教育よりも格段に効果の高い教育が実現できる。もうそろそろ、リベラルアーツ教育に代わる教育内容を、設計して実施する時期に来ている。

(2002年3月19日)


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