川村渇真の「知性の泉」

新しい教育内容の決定には設計手法の適用が不可欠


既存の教育内容はきちんと設計されたものではない

 イジメによる自殺や不登校の増加で、教育や学校に関する問題が大きく取り上げられている。様々な事件がメディアで報道され、教育関係者がいろいろと意見を述べてもいる。そのほとんどが、教育内容の範囲だけは既存の枠を変えていない。今と同じように、狭い意味の学問を教育内容の中心に置いている。特別に意識はしないものの、教育内容の大枠は正しいという前提を持っているようだ。もちろん、道徳などの時間を増やす意見もあるが、それですら既存の枠の中に含まれる。
 ほとんどの人は気付いていないが、既存の教育で最大の問題は“教育内容”にある。既存の教育では、狭い意味の学問だけを対象とし、将来ですら使いもしないことを長い時間をかけて教えるとか、意味のない暗記を強要する。また、作文技術、意見の発表、思考の方法、マトモな議論方法、団体活動での基本ルールなど、社会生活で重要なことをほとんど教えていない。ほとんどというより、ゼロに限りなく近い。そんな現状なのに、学校の勉強ができることが凄いことのように思われている。非常に困った状況だ。にも関わらず、それが認識されてすらいない。
 既存の教育内容は、きちんと設計して求めたものではなく、過去からの惰性で続いているだけである。出版やネットワークが発達する前は、多くの知識を持っていることが重要だった。しかし、現代の社会においては、各種テクノロジーの活用により、最低限の暗記で済ませられるように変わった。また、知識の豊富さよりも応用が求められる。社会の基盤が、かなり昔とは根本的に違うのである。
 それにも関わらず、昔と同じ教育内容を続けている。これだけ情報化が進んだ社会なので、教育内容の価値の低さは、生徒の側もすぐに知ってしまう。そんな勉強を強要すれば、いろいろな問題が出るのは当然だ。学校の仕組みにも問題はあるが、より根本に近い教育内容のほうを改善するのが先である。教育内容が悪いのに、教育方法を論じても意味がない。

設計手法を適用して、目的や方法などを導き出す

 以上のような状況を打開するには、教育の内容や方法を最初から設計し直すしかない。今までのように、深く分析せずに決めていてはダメだ。製品などの設計と同じように、きちんとした設計手法を適用し、本当に役立つものを規定する必要がある。では、教育の内容や方法の決定に設計手法を用いるとしたら、どのような手順になるだろうか。簡単にだがまとめてみよう。
 設計手法を適用するといっても、ことさら難しいことをするわけではない。製品や仕組みを設計するのと同じく、ごく当たり前に目的や要求仕様を分析して、現実的な解決方法を求めるだけである。特別な設計手法を用いるのではなく、一般的な設計と同じ手順で、教育の内容や方法を導き出すことでしかない(それすら今までやっていないことは大問題だが、本題から外れるので、その話は取り上げない)。
 どんな設計手法でも、対象に求められている要件、つまり目的を規定することから始める。どんな目的を達成するために行うのか明確化するのが、最初の作業となる。基礎的な学問を身に付けるとか、社会の構成員として生きるのに必要な能力を身に付けるとか、重要な項目がいくつか洗い出されるだろう。次に、要件を満たすための教育内容を求める。それ以降も、教育内容ごとの最適な教育方法や、教育内容と教育方法に適した人材の条件、それらを実行する学校の仕組みなどが求まる。まとめると以下のようになる。

教育の内容や方法を求めるための手順
1、目的:教育に求められる要件を規定する
2、内容:要件を満たす教育内容を求める
3、方法:教育内容を教えるのに最適な教育方法を見付ける
4、人材:教育方法に適した人材の条件を定める
5、学校:教育方法を実現できるように学校の仕組みを決める

これらは作業の順に並べてあり、1〜3までは順番が決まっている。4と5だけは互いに影響を及ぼすので、3の後で一緒に作業しても構わない。
 上記の手順には書いてないが、設計手法の適用で重要なことがもう1つある。各工程で設計した内容が適切かどうか、レビューを受ける点だ。設計の質を上げるには、設計者とは別な人が評価しなければならない。このようなレビューは、1〜5の全部の行程で実施する。
 以上のように、教育方法は、教育要件や教育内容の後に来るものでしかなく、それらの内容に大きな影響を受ける。学校の仕組みはさらに後ろで、教育方法も加えた3項目に影響を受ける。このような関係なので、教育方法や学校の仕組みだけを論じてもダメである。

教育の目的をきちんと規定する時期に来ている

 ここまでの説明から分かるように、最初に規定すべきなのは“教育の目的”だ。何のために教育を実施するのか、きちんと分析して求める必要がある。それをしなければ、良い教育の内容や方法が得られるはずはない。今までは深く考えず惰性でやってきたが、そろそろマトモな分析をしても良い時期だ。もっと早くやるべきだったが、今さら過去のことを言っても仕方がない。未来に向けて前向きに考えたほうがよい。
 教育の目的を規定する際には、世の中の状況を考慮する必要がある。それも、現代だけでなく未来も含めてだ。現代および今後の社会では、教育に求める要件が昔とは大きく違う。新しい教育では、社会の構成員としてきちんと生きるための知識や技能を提供することが求められる。すると教育内容には、作文技術、プレゼンテーション、マトモな議論手法などが含まれる。全員に習得を強要することは無理だが、習得する機会とある程度の支援だけは提供しなければならない。また、そんな知識や技術の存在を知らせることも、重要な役割である。
 教育内容の決定に設計手法を適用すると、教育内容を決める人も入れ替えなければならない。今まで決めてきた人は、いったん全員を外して、設計手法が使える人を中心に新しく集める。おそらく日本の社会では、人員の入れ替えがもっとも難しいだろう。しかし、そうしなければ何も変わらないので、強い決意で実施すべきだ。人員選択の決定権を持っている人がダメだと、それこそ最悪の事態だが..。

 現代の教育は、過去からの惰性で続いてきたもので、すぐにでも大幅に改定しなければならない。それが成功するかは、今までのように何となく決めるのではなく、設計手法の適用にかかっている。まず最初の段階として、この点に気付くべきだろう。そうでなければ、一歩も前に進まない。

(1998年9月4日)


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