川村渇真の「知性の泉」

普通の会議よりも低レベルな国会やテレビ討論


企業内の問題解決会議はテレビ討論よりマトモ

 現在の世の中で“議論のようなもの”を目にする機会が一番多いのはテレビだ。会議やシンポジウムの中継、討論を中心とした番組、ニュース番組の中での討論など、細かなものまで含めると、全体では相当数が放映されている。
 その中身だが、世間的には論客と呼ばれる人が参加し、その時点で重要な話題をテーマとして取り上げるなど、レベルの高いことをしているように見える。しかし、話し合いの進め方をよく観察すると、議論と呼べるレベルに達しておらず、議論としての質はかなり低い。議論に必要な条件のうち、多くを満たしていないからだ。議論として見る限り、悪い例ばかりがゴロゴロあって、良い例は極めて少ない。
 議論の方法が悪いと、どうなるのだろうか。何らかの結論を出す議論の場合には、良い結論を導けないことが多い。結論を出すのではなく、意見をぶつけ合う討論の場合は、善し悪しが見えにくくなる。つまり、悪いほうの意見が悪く見えないのだ。一般的に、議論の方法が悪いと、議論した意味や価値が低下しやすい。
 具体的な例を挙げて説明したほうが良いだろう。ただし、比較の対象があったほうが分かりやすいので、それを先に用意しよう。テレビで目にする討論番組よりもマトモなのは、多くの人が経験している企業内の会議だ。もちろん、この種の会議にも良いものから悪いものまであるが、職場内で開く問題解決会議なら良い場合が多い。
 発生した問題を解決する会議では、次のような流れになる。参加者が会議室へ集まり、部署の長である議長を囲んで座る。議長の近くにはホワイトボードがあり、意見などをそこに書く。会議には目的があり、議論を始める前に議長が手短に説明する。用意した資料があれば配るし、パソコンでプレゼンテーションする人もいる。議論が進んで多くの意見が出ると、ホワイトボードの出番だ。出された意見を整理する目的で、議長や補佐役の人がまとめを書く。それを見ながら進めるので、議論が変な方向へとズレる可能性が低い。意見が対立したときも、対立点を明確化するために、ホワイトボード上で整理して考える。出されたアイデアや調査結果は、論理的で科学的な分析が加えられ、適切に評価される。もし不明な点があれば、誰かがきちんと調べるとか実験して、間違った判断にならないように努力する。
 以上のように、明確な目的を持っている会議では、マトモな議論になりやすい。問題の解決が目的なので、もっとも良い解決方法を得たいと思い、解決する方法を真剣に考える。全体の状況が、良い方向へと向かわせるわけだ。

国会は議論として最低のレベル

 議論の悪い例は世の中にたくさんあるので、有名なものを取り上げてみたい。まずは、最悪ランクに属する例といえる国会中継、つまり国会での議論だ。
 国会中継を見ていて、イライラしたことはないだろうか。問題を追求する議員がいて、何か質問すると、回答する側では建て前だけの答えを言う。中には、答えになっていない発言もある。そうだとしても、議長が回答の変更を促すことはない。仕方なく、追求する議員が別な質問を出すだけだ。回答する側には真剣に答える気がないので、内容のない返答を繰り返す。
 これが職場内の会議だとしたら、どうなるだろうか。議長が「それでは回答になっていない。きちんと回答しなさい」などと指摘して、内容のある回答を無理矢理にでも出させる。また、回答の内容が論理的でなければ、その箇所の指摘して、マトモな回答に変えさせる。つまり、議論をきちんと制御するわけだ。
 国会の討論では、他にもダメな点がある。言葉で発言するだけが多く、議論の全体像を把握するのが難しい。とくに意見が対立したときは、どの部分が異なるのか理解しづらく、適切な判断ができない。職場内の会議なら、意見を整理してホワイトボードに書き、それを見ながら議論を進める。そんな初歩的な対処さえ、やっていない状態だ。扱う問題が複雑になるほど、意見や事実の整理が必要になる。それをしないなら、難しい問題を解決しようとしていないに等しい。
 質問に対する回答の中で出るのが、「〜の可能性もある」などと言った内容だ。きちんと議論するなら、可能性があるというだけで了解はしない。他の可能性も含めて、影響度、可能性の高さ、実現の容易性といった項目を比較し、総合的に評価を下す。国会では、ホワイトボードなどで議論の全体像を整理しないばかりか、議長が議論を適切に制御しないため、マトモな議論にはならない。
 他にも問題点がある。質問や回答の中で登場したデータが、事実かどうか第三者が調べることもあまりやらない。加えて、議論の過程に科学的な評価方法を用いない。これらが総合した結果、いい加減な回答でも許されてしまう。それに比べて職場内の問題解決会議なら、事実かどうか調べるとか、科学的な分析を加えるとか、もっとマトモな対応をする。
 国会の討論では、発言するまでの行動も良くない。質問が出されてから、回答者の名前が呼ばれ、回答する席まで歩いて行き、回答が終わったら自分の席に戻る。この往復の無駄を、疑問に思わないのだろうか。質問者が聞きたい相手は、あらかじめ決まっている。その人を前の席に並べ、その場で回答させるように改善するだけでも、無駄な時間はなくせる。世の中の問題は、数が増えるとともに複雑化している。検討しなければならない問題は山積みで、ただでさえ時間が足りない。そんな時代なのに、無駄な往復を改善しないなんて、何を考えているのだろう。この点でも、国会の議論は低レベルである。
 こうして全体を見ると、議論方法のレベルが“相当に”低いことが分かる。さらに問題なのは、改善する兆しがまったく見られない点だ。国家の重要な問題を検討するのに、こんなことで大丈夫なのだろか。本当に情けなくなる。

テレビ討論も国会中継と似たようなもの

 一般的なテレビ討論も、国会中継より少しはマシだが、似たような特徴を持っている。たとえば、ホワイトボードによる意見の整理を用いることは非常に少ない。参加者がただ喋るだけで、それを整理して見せることはしない。本来は議長の役割だが、ホワイトボードすら使わない状況では難しい。
 他の点でも、良くない部分が目に付く。司会者は発言の交通整理ができないし、論理的でない発言を指摘しない。また、質問の全項目に回答したかを検査したり、マトモな回答になっているか評価することも少ない。さらに、言った内容が事実かどうか調べることもしない。こんなやり方なので、議論ではなく、単なる言い合いになりやすい。そうなると、他人の邪魔をしてでも数多く発言する人や、声の大きい人が特をする。
 発言内容が事実かどうか確かめることは重要だが、単発の番組では、発言内容が正しいかどうか確認する時間がない。だとしても、確認するための努力はすべきだろう。インターネットへ接続された端末と検索の専門家を何人か用意すれば、ある程度の情報は番組の中で調べられる。もっとやろうと思えば、発言内容を後からでも確認することが可能だ。また、視聴者から間違いの指摘を集め、それをもとに調べる方法も採用できる。そうやって得られた評価結果は、インターネットはもちろん、次回の番組の冒頭で発表し、議論を見る前の参考にしてもらう。テレビ局全体で集計し、人物ごとに得点化するのも面白い。こうすれば、願望を事実のように言う人は減るはずだ。このように、工夫しようとすればいろいろなアイデアが出てくる。
 以上のように、テレビ討論の質が良くならないのは、主催者側であるテレビ局の人々、司会者、参加者のほぼ全員が、マトモな議論の方法を知らないからである。だからこそ、何の疑問も持たないし、質の悪い状況がずっと続く。マトモな議論方法を勉強して改善してほしいが、今のところほとんど期待できない。

ひどすぎる参加者が含まれていると最悪

 議論のレベルが、極端に低くなることもある。その大きな原因は“非論理的をモットーとする人”の参加だ。テレビ番組に出るからといって、全員がマトモな人とは限らない。現在の社会では、“非論理的をモットーとする人”でも有名大学の教授になれる。そんな人が参加するテレビ討論は、最悪なレベルになりやすい。
 “非論理的をモットーとする人”の行動は、見ていてすぐに分かる。最初のうちは普通の人と同じだが、自分と敵対する意見へ反論するときに本性が出る。声が大きくなるとともに、ガラも悪くなる。おまけに、相手が発言しているときでも平気で割り込む。発言の内容も、論理的や科学的なものからほど遠い。自分に都合の悪いことは答えず、相手がミスするとその部分を執拗に突っ込む。議論しようなどとは思っておらず、自分の意見をとにかく何度でも繰り返し、聞いている人にアピールするのが目的のように見える。まさに、議論を邪魔する参加者の典型的な例だ。
 こんな参加者がいても、議長が厳しく注意したり、理由を説明して退場させることはほとんどない。やりたい放題の状況が続き、議論とは呼べない低レベルになってしまう。本来なら、論理的でない部分を指摘したり、マナーを守らないと退場させたりすべきなのだが、議長がマトモな議論方法を知らないので、そのままにしがちだ。
 “非論理的をモットーとする人”を見たいなら、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」という番組をお薦めする。参加者の中で、声が大きくてガラが悪く、他人の発言を邪魔する人がいたら、“非論理的をモットーとする人”の可能性が高い。議論にとって最悪の参加者なので、よく観察して特徴を理解しよう。また、この種の人の参加によって、議論の質が極端に低下する代表例でもあるので、その点もよく見ておこう。

 テレビで見られる“議論のようなもの”は、簡単に見れるだけでなく、見る人が多いので、もっとマトモになってほしい。もし実現すれば、多くの人が参考にして、質の高い議論をできるようになるだろう。そうなる日は、残念ながら相当に遠そうだ。

(1998年8月4日)


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