川村渇真の「知性の泉」

議論の悪例は数多いが良例は極めて少ない


世の中には議論と呼べない例ばかり

 現代社会では、メディアの発達によって、議論のようなものがいろいろと見れるようになった。雑誌、テレビ、電子会議室といった複数のメディアに登場する。国会中継、シンポジウム、討論番組などだ。登場人物は、有名な人から無名な人まで様々である。
 一見すると議論のようだが、その質はどうだろうか。雑誌の場合は、話し合っている現場を見れないので正確には判断できない。しかし、テレビ番組や電子会議室の場合は、発言の進み具合を全部見れる。それを見ている限り、マトモな議論と呼べないものが目に付く。もっとハッキリ言うなら、マトモな議論と呼べる例は非常に少ない。
 多くのものは、議論ではなく、単なる言い合いのレベルのものばかりだ。レベルが極めて低い例では、相手の鋭い質問に回答しなかったり、相手の発言をさえぎったり、でかい声で出したり、誹謗中傷発言を平気で言ったりする。そこまでひどくない例でも、発言の内容が論理的でなかったり、事実をきちんと確認しなかったり、議論の全体を整理して見せなかったり、重要な話題に触れなかったり、話がどんどんと飛んだりと、きちんとした議論にはなっていないことが多い。
 このような悪い例ばかりしか見付からないのは、“どんな形でも言い合いをすれば議論だと思っている”からにほかならない。議論として成立するためには、いくつかの条件を満たす必要がある。そのことを知っていれば、条件を満たすために何らかの工夫をするはずだ。知らないからこそ、議論とは呼べない言い合いばかりしてしまう。このような状況は、当分どころか、かなり先まで変わらないと予想する。

良い議論を考えるための反面教師として利用

 議論の良い例が世の中に数多くあれば、それを参考にしながら、自分たちの議論方法を高められる。しかし、現実のメディアで目にする“議論のようなもの”は、内容が議論と呼べるレベルに達していない。非常に残念なことだが、そう理解してテレビなどの番組を見たほうがよい。
 このような悪例も、まったく役に立たないわけではない。反面教師として利用すれば、良い議論を考えるための題材となり得る。悪い原因を分析しながら見ると、悪例もとたんに面白くなる。どのような点を改善すればマトモな議論に変わるのか、自分なりの分析を加えてみよう。改善のポイントを何点か挙げるなど、分析結果を改善案としてまとめるのも良い訓練だ。
 悪例の見方には、中心を細かな部分にするか全体にするかの2種類がある。細かな点を中心とするなら、議長や参加者が役割を果たしているか、各人が論理的に意見を述べているのか、発言のルールを守っているかなどを評価する。全体を中心に見るなら、議論の流れが上手に制御されているか、途中の重要な段階で意見の整理をしているかなどを観察する。悪いレベルはまちまちなので、極悪から少悪までの例を題材として利用したい。
 悪例を評価して改善案を求めるためには、当たり前のことだが、マトモな議論の条件を理解しなければならない。それを学習してから、悪例の評価を試してみよう。ただし、悪例が数多くあっても原因は似ているので、何件か評価したところで止めたほうがよい。後は自分で、マトモな議論を実際に試してみる。

 企業内の会議なら、好きにやっても外から文句を言う筋合いはない。しかし、国会や公聴会などは、扱っているテーマが非常に重要なだけに、マトモな議論が実現できる形へと改善する必要がある。議論のレベルが低いままでは済まされないのだ。

(1998年8月4日)


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