写真レポート
甦れ!!平泉柳の御所跡のしだれ桜
 
世界遺産登録間近の平泉で起こっていること

佐藤弘弥


 は じめに 二枚の写真の背後にある真実

ここに、あまりにも違う二枚の写真がある。まず一枚目は、私が三年前(04年) の春、桜の開花を聞き、柳の御所跡に行って撮したものだ。その日は、風もなく実に長閑な一日だった。遠くに見える高館山の右脇に雲のように見えるのは焼石 連山の雪を抱いた姿で、小鳥たちは、我が世の世の春を寿ぐように美しい声で囀っていた。

周知のように、柳の御所跡は、黄金の都と呼ばれ繁栄を極めた奥州藤原氏の政庁 「平泉館」と言われる場所だ。ここで、初代清衡から二代基衡、三代秀衡、そして源頼朝の度重なる圧力に屈して本来ならば最も頼りとすべき源義経を襲撃して 自害に追い込んだ四代泰衡までが、政務を執ったと言われるところだ。もう一枚は、今年(07年)の3月10日、盛岡市在住の鈴木紀子さんによって撮影され たものである。この激変がどうして起こったのか。今回のレポートは、ここからはじめたい。

平泉柳の御所跡のしだれ桜最後の雄姿?!

柳の御所跡のしだれ桜最後の開花?!
(2004年4月18日 佐藤撮影)

平泉バイパス計画というものがあった。その道はこの柳の御所を通り、彼方に見える 里山(高館山)を掠めて、4号線と再び合流する計画であった。バイパス計画のために事前の史跡調査が始まると、田畑の下に埋まっていた黄金の都市平泉の往 時を偲ばせる遺跡や土器などの出土品が大量に現れた。その後、バイパス計画は、変更を余儀なくされ、バイパスの位置が写真の東側に滔々と流れる北上川の川 道の上に移された。大河北上川もまた東に100mばかり移動させられたのである。高さにして15mもあるバイパスは、この付近一帯の環境と景観を激変させ た。その犠牲となったのが、この間のすべての騒動をつぶさに見てきたこのしだれ桜だった。

あな悲し清衡公の無念をや語れぬ口の情けなさかな




平泉柳の御所跡のしだれ桜
( 07年3月10日鈴木紀子さん撮影)

かつて北上川の側にあって美しい花をつけていた樹勢は枯死寸前、
遠くに源義経の住居とされる高館山が見える

夢跡と言うには悲し生き返れ甦れとぞ桜励ます


 1  平泉 花はどこへ行った

もう直、日本中が桜の開花に湧く季節になる。ところが今年の奥州は、春の嵐が吹き荒れ、時ならぬ風雪がかつて黄金の都と言われた平泉の原野を吹き荒れてい る。

そんな奥州から悲しい写真が、私の許に送られてきた。見れば、そこは柳の御所と呼ばれる平泉の政庁があった地帯が写っている。でも何かが違う。悲しい悲し い景色に暗澹たる気持ちにさせられた。

数十年前まで、この周囲は、それはそれは美しいところだった。長閑な田園が拡がり、農家がイグネと呼ばれる屋敷林に囲まれて点在していた。家の前には、大 河北上川が流れ、春になれば雪解け水が南に向かって滔々と下っていくのが見られた。そしてこの写真に写る樹齢100年ほどにもなるしだれ桜は、美しい花を つけて野鳥たちを招き寄せ、鳥たちはこの樹木の周辺を憩いの聖域(サンクチュアリ)として、恋の歌を謡い、自らの子らを養い育てていた。この平泉の地に住 む民は、我が家屋田畑が、滅び去った黄金の都の上にあるのを、誇りとして、父祖代々の土地を営々と守り伝えてきた。

しかしある時(1981)、平泉に「平泉バイパス」という公共事業計画が持ち上がった。国道四号線が平泉中尊寺の参道付近で渋滞を起こすというのが計画の 根拠であった。同時に、北上川が度々洪水を起こすので、堤防を兼ねたバイパスを建設することで、「一石二鳥の効果がある」と、国土交通省(当時は建設省と 呼ばれた)は胸を張った。

計画は、この柳の御所を貫き、彼方に見える高館山を掠めて北に向かい四号線に合流させるというものだった。びっくりしたのは、地元住民だった。「そんな大 規模なものが本当に必要なのか」という極めて健全で素朴な意見だった。また中尊寺、毛越寺の僧侶や、平泉の歴史文化を研する研究者たちは、平泉の中心を貫 くようになる工事計画にはじめから難色を示した。早速、この計画の問題点を指摘する署名活動が起こり、中尊寺境内などで始められた署名活動では、あっとい う間に20万人を越える工事見直しの署名が集まり、文化庁や岩手県に提出されたのであった。(1990)

歴史都市である平泉は、考古学者の間では、どの場所を発掘しても、何かが出土する地域と言われるような場所である。工事前の調査発掘が始まると、この柳の 御所跡からは、大量の土器(かわらけ)や柱の跡などが次々と確認され、この地域が、平泉の政庁「平泉館」ではないかと言われるようになった。平泉館は、吾 妻鏡で頼朝がこの地を訪れた時、中尊寺や毛越寺の僧侶たちに、平泉の財産目録とも言うべき「寺塔已下注文」(じとういかちゅうもん:「吾妻鏡」文治五年九 月十七日の条)というものを提出させたのであるが、そこに見える奥州藤原氏初代藤原清衡以来最後の四代泰衡が政務をとった政庁である。

要するに、この写真に写っている原野が黄金の都市平泉の国会にあたる場所だったことがほぼ確認されたのである。遠くに見えるのは、あの悲劇の天才武将源義 経が住んでいたと言われる伝説の高館山である。この高館山からの眺望は、平泉の中でも第一の景勝地と言われてきた。しかし平泉バイパスの工事開始により、 美しい眺望はあっさりと姿を消した。

この地に憧れ、奥州にやって来た文人墨客(ぶんじんぼっかく)は、それこそ星の数ほどいる。中でも真っ先に浮かぶのは、田園となっていた柳の御所を足早に 素通りし、高館山に登り、「夏草や兵どもが夢の跡」と詠嘆した俳聖松尾芭蕉のことだ。

現在、平泉は、昨年の暮れ外務省が、ユネスコ世界遺産委員会に、国の推薦書を渡し、世界遺産登録に向けての最終局面に差し掛かっている。そして今秋 (2007)にも、世界遺産になるための最終調査のために、イコモス委員会(国際記念物・遺産会議)の専門家か調査にやってくることになっているのであ る。

しかし私は、この平泉バイパスの工事現場を、この7年間見続けて来て、「本当にこれで世界遺産になれるの?」と思ってきた。素朴に考えてみれば分かるはず だ。世界遺産条約の精神は、危機的状況にある人類普遍の文化遺産を保護するためにあるものだ。ところが現在の平泉は、明らかに過剰な公共工事によって、環 境は破壊され、文化景観としての価値は著しく低下した状況にある。それに柳の御所跡は、「世界遺産・平泉」のコア・ゾーンのひとつなのだ。このまま、順調 に行けば、来年(2008)の世界遺産委員会で、平泉は、待望の世界遺産として登録されることになる予定だ。ところが、肝心の現場をみれば、一年前にもか かわらず、桜の木一本生存できぬような劣悪な環境に晒されているのである。

もう一度、写真にあるような殺風景な風景が出来上がった経緯を時系列に追ってみる。

  • 1981年、平泉柳の御所跡の上を平泉バイパスが通る計画出される。
  • 1988年、バイパス工事の前提となる埋蔵文化財の発掘調査が始まる。その調査で、この場所が「平泉館」ということが明らかとな り、国土交通省はバイパス計画変更を余儀なくされる。
  • 1995年、国土交通省は、計画を練り直し、バイパスを柳の御所跡から東にズラして北上川の川道の上に変更をする。北上川は 100mほど東側に移動させられ、この桜の辺りに家を構えていた旧家も引越をし、ある旧家の家宝だった一本のしだれ桜だけが、この地に残る。
  • 2000年秋、工事が始まるや否や、平泉はユネスコ世界遺産の暫定リストに登録されたのである。いつしか「柳の御所跡の一本桜」 と呼ばれるようになったこの写真の桜は、この間に柳の御所周辺で起こったことをすべて見てきた生き証人である。しかしながら今やこの桜は、平泉バイパス工 事による環境の激変に抗しきれず、
  • 2004年の夏頃、急速に樹勢が衰え、枯死寸前にまで陥っている。
  • 2007年3月、しだれ桜特有の枝の垂れ下がりも途中で切れ切れとなり、花の蕾もつけてはいない。いったい花の命はどこへ行って しまったのだろう。
2008年、平泉は世界遺産に登録される予定という。環境も桜の古樹を枯らしてしまうほど激変し、美しい景観もまた開発によって消失した今、果たして、平 泉は世界遺産登録に本当になれるのだろうか?


柳の御所のしだれ桜越しに束稲山を見る

桜の頃、しだれ桜越しに束稲山を望む
(01年4月21日 佐藤弘弥撮影)

旧高館橋はこの1年後(02年)の夏に壊され消失、北上 川は東に100mほど移動した

桜木の樹木一本救ゑずになろうとす るか世界遺産に
 
柳の御所の一本桜と束稲山

しだれ桜越しに束稲山を望む
( 07年3月10日鈴木紀子さん撮影)

土色の壁のように見えるのは「平泉バイパス」ののり面だ。かつて、ここは北上川の 岸辺だった。ある樹木医の話しによれば、桜の樹勢が衰えた原因は、バイパス工事によって、地下水茎が完全に変わり、根元周辺に水溜まりできて、呼吸困難の ような状況になったのだろう、とのことだ。この周辺は、日本中どこにでもあるような堤防縁のありふれた景色がまもなく現れるだろう。かつて「束稲山」は、 遙か彼方に聳えて見えた。それが今はバイパスの壁の上にちょこんと座ったように見える。実に味気のない景色だ。

死してなほ主人守りし弁慶の姿見紛ふ桜木に泣く

 
 2 環境の激変 桜の嘆き
 

続いて角度を変えて撮した二枚の写真を見てみよう。

一枚目は、平泉バイパス工事が始まる直前のしだれ桜である。01年4月21日、私は北上川の岸辺に工事用道路が出来てきて、やがてこの景色が失われてしま う、そんな予感を感じながら、この周辺を歩き、多くの写真を撮した。

この写真の中に、昭和20年代に架けられた旧高館橋が見える。今はもうこの橋は存在しまい。この写真を撮った01年の春には、すでにバイパスは、この地点 から100mほど下流まで出来上がり、それと合わせるように、この旧高館橋に代わる巨大なコンクリートの新高館橋が完成していたのである。

そして、この橋は1年後の02年初夏、呆気なく壊されて消えた。私はその破壊される光景をも、このしだれ桜の前で見ている。私は何も出来ず、ただじっと傍 観していた。公共事業というものは、それが動き出してしまったら、個人の力では止めようがない。

私には、比較的小さな重機械によって壊されていく高館橋が、まるで小型の肉食獣によってたかって蹂躙される年老いたマンモス象のように見えた。かつて柳の 御所は、北上川の流れを上手に取り込む形で造られていた。つまり、北上川が運んで来る肥沃な水は、平泉という都市にとって、大いなる恵みだったのである。

開高健の弟子で世界中の川を釣り歩いているアウトドア・ライターの天野礼子さんが、02年の夏、バイパス工事真っ直中の平泉にやって来た。彼女は北上川を 船で遡り、川から見た都市平泉の印象を、後にこのように綴っている。

 「『夏 草や兵どもが夢の跡』」と芭蕉が『奥の細道』で詠んだ北上川の中流域にある高館(源義経がいたとされる高台の住居)からの風景。

平泉を造った藤原三代(清衡・基衡・秀衡)は、この北上川の流れをひき 込む地を極楽と見たて、中尊寺などを極楽の大池に浮かぶ花とする水上都市を形成した。

鈴沢池や猫間が淵は、西の山際から降雨の折りに出る沢水を市街地に急激 に流入させないための水溜めとしての機能と、北上川が氾濫した時には流水を受け止める遊水地としての両方の機能を持っていた。

川を歩く時、私は必ず舟を出してもらい、川から大地を見てみることにし ている。平泉を訪うた2002年夏。舟上から両岸を見て私は、この平泉の地が確かに水上の楽園であったことを確かめた。そしてまた、おそらく日本人はその 血の中に、いや日本中の集落が少なくとも明治維新を迎えるまでは、平泉と同じように、『洪水を水害にしない知恵』を持ち得ていたのだとあらためて確信した のであった。

川岸は人工的な護岸がなく、水際は自然堤防で、川から洪水時に養分がひ き入れられるように、すぐ水際に田んぼが作られている。両岸には、川と平行する道路は一本しかなく、その道は主要幹線ではない。つまりいつ水に浸ってもよ うというわけだ。これがこの地の昔からの知恵だろう。(中略)

近代になって造られた鉄脚や鉄道は川に近く低く造られたりしているた め、毎年洪水の度に不通となる大さわぎをするが、昔の人はさぞ草葉の陰で笑っていることだろう。」(「ダム撤去への道」第一章「川と日本 人」より 天野礼子/五十嵐敬喜著 東京書籍 2004年刊)

さすがに天野さんは、世界中の川を釣り歩いているだけに、中世の奥州にあって空前の繁栄を誇った平泉が水辺の都市であったことを、地図や北上川周辺の川を 遡ることで看過した。実際、柳の御所には、猫間が淵と呼ばれる北上川の流れが滞留する水辺が存在した。柳の御所の西方には、猫間が淵に通じる無量光院の池 があり、南に行けば現在のJR平泉駅の辺りに、鈴沢池という調整池が存在し、そこから西に200mばかり行けば、観自在王院の舞鶴が池、さらに毛越寺の大 泉が池があり、弁天池もあった。黄金の都市平泉は、まさに水の都だった。

ところが、二枚目の写真に目を転じると、そこにはまったく違う景色がある。この景観の激変の原因は、言うまでもなく、水面からの高さが20m近くもある平 泉バイパスが柳の御所跡前に敷設されたからである。北上川は、まったく見えず、水の流れは完全に遮断されてしまった。あまりの違いには只々驚くばかりであ る。この変化が、地下水にも劇的な環境変化をもたらしたと推測される。つまりしだれ桜が樹勢を失った時期と、バイパス工事によって、川が移動させられ (2003年)、続いてバイパスののり面が、柳の御所跡を完全に覆った時期(2004年)と、まったく軌を一にしているのだ。このことから、平泉と北上川 が遮断されたことによって、しだれ桜も呼吸が出来なくなってしまったということなのだろう。

桜を神樹とする奈良の吉野のケースを見れば、一目瞭然であるが、桜は、人との共生の中ではじめて美しい花をつけるという特徴を持つ花樹である。

この写真の背後に青く写っている山は、束稲山(たばしねやま)である。この山には、奥州藤原氏に先行する安倍氏の時代から、桜木が植樹されてきたと考えら れている。その結果、日本中の桜の名所を見たはずの西行法師(1118-1190)が、「聞きもせじ束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしとは」(訳:聞い たことはなかったよ束稲山など。吉野山の他にこのように美しいと桜の名所があるなんて)と詠んだこともある。束稲山はそれほどの桜の名所だった。

その頃、北上川は、束稲山付近とこの柳の御所付近のふたつの川筋に分かれていたらしい。そして束稲山の下を流れる川筋を桜川と呼んでいたという。おそらく 吉野山と同様、麓から山頂付近にまで、桜はびっしりと植えられていて、下から徐々に桜が開花していく模様は見事だったはずだ。この柳の御所付近から見る束 稲山の景色は想像するだけでワクワクするような思いがする。

しかし今残念ながら、現在の束稲山は、桜の山というよりは、ツツジの山になっている。おそらくツツジの方が桜より植えてからの手間が掛からないからだろ う。それでも束稲山にも、戦後に植えた桜が点在し、最近もまた道沿いに植樹されているが、とても往時のような輝きはない。やはり桜というものは、人との共 生関係がなくなった時、その輝きをいっぺんに失ってしまう花なのである。つまり束稲山の桜の木は、奥州藤原氏が滅び去った時、後ろ盾を無くし、急速に枯れ て行ってしまったということだろう。

吉野山に行けば、年中桜の植樹に励んでいる光景が見られる。これはやはり、あの役行者(えんのぎょうじゃ)が、金峰山で、桜の木の中に神の存在を看過して から、桜を守ることそのものが、神の意に叶う行為と見なされて以来のことなのである。

吉野においては、桜というものが単なる樹木ではなく、「神が宿る木」なのである。そこにはアニミズム(自然崇拝)から来る桜に対する信仰(敬意と祈り)が ある。

私は人も樹木も同じで、誰かに「愛されなくなったり」あるいは「邪魔とされたり」あるいは「無用と言われたり」した時にはその空気を察知し、いっぺんに生 きる希望を失い自然に死を受け入れてしまう習性(あるいは無意識)があるのではないかと思う。だから人は大切な人や掛け替えのない樹木には、目一杯の愛情 を注いで接しなければいけないのである。

この写真を一目見た時、私は、この束稲山に厚くたれ込めた鉛色の雲に、ただならぬ妖気のようなものを感じた。そして、桜の木が「私を邪魔に思う人々がい る。苦しい」と呟いている声が聞こえてきたのである。

写真を送ってくれた鈴木紀子さんのメールの最後には、「言葉にならない思いがあります」と記してあった。当日は雪は降らなかったものの、自動車が飛ばされ るかと思うほどの強風が、平泉一帯を荒れ狂っていたという。やはり桜の精が、自暴自棄になっているのかもしれない・・・。


毛越寺大泉が池 桜の頃


毛越寺 桜の頃 
(06年5月6日 佐藤信行撮影)

 3 水辺の都市平泉と毛越寺

私たちは、平泉バイパス工事などのために、平泉周辺の環境が著しく劣悪化し、柳の御所のしだれ桜が枯死寸前となっていることをつぶさに見てきた。工事の進 行に伴い景観も実に見苦しいものとなった。。柳の御所跡の東側には、その平泉バイパスののり面が、万里の長城のように聖なる空間を完全に遮断してしまって いる。こうして、初代清衡が、西方浄土の存在を天下万民に白日の下に伝えようと造営した水の都平泉は、極端に水を怖れ受け入れぬ過剰な堤防都市に変容させ られてしまったのである。

実は平泉の環境と景観に関わる問題は、これだけには止まらない、衣川の堤防工事に伴う衣川遺跡群保存の問題、醜悪な看板撤去の問題、高館直下にある変電所 移転の問題、金鶏山に見える鉄塔移設問題等々、まだまだあるのだ。特に問題なのは、第一に上げた衣川遺跡群保存の問題である。このまま工事が推移すれば、 堤防工事によって衣川側の遺跡群などは取り返しのつかない被害を被る可能性がある。とりわけ「接待館」の保存は、緊急を要する課題である。

何故ならば、これまで、「接待館」と言われていた区画が、堤防敷設工事に先だって行われた発掘調査によって、吾妻鏡に記された藤原基成の居館「衣川館」で はないかとの声が上がっているからである。藤原基成は、都市平泉の成り立ちを研究する上で、重要人物で、「接待館」が第二の柳の御所と呼ばれるのは、その 為である。

しかも、「接待館」の発掘が進むことによって、平泉の権力機構の実態や源義経の関わり方、平泉での生活、自害の場所まで、特定されることだって、考えられ るのである。しかし、残念ながら、この第二の柳の御所跡「接待館跡」の保全の方向と、衣川一体に拡がる膨大な衣川遺跡群をどのように保全するかという方向 性は、明らかになっていない。

平泉にとって、世界遺産に登録されるということは、ひとり平泉にとっての栄誉だけではなく、東北地域に何らかの関係を有する者にとって、小躍りしたくなる ようなうれしいニュースに違いない。しかしながら、現在のように、明らかな環境破壊と景観の喪失に目を瞑った形で進められている世界遺産推進運動は大いに 問題である。このことによって、世界遺産に登録されるか否かは別にして未来に取り返しのつかない禍根を遺すことにもなりかねない。

私情を差し挟さまずに、現在の平泉の環境と景観について、冷静に判断するならば、誰の目にも、現在の平泉には過剰な開発の手が入っていることを認めざるを 得ないであろう。そして、これは「乱開発による人類普遍の遺産を保護する」という世界遺産条約の理念に反しているということになる。

そこで、まず往時の平泉がどのような環境と景観を持つ都市であったのか、少しばかり考えてみたい。テキストとして、前川佳代さん(考古学 京都造形芸術大 学)の論考を手がかりとしてみる。

前川さんは、都市平泉について、おおむねこのように説明している。

都 市平泉の一 面は、四神相応の地を選び、浄土思想や自らの理念に基づいて創り上げた広大な苑池空間である。ここでいう「苑池」とは現代用語の庭園より規模が大きく、古 代都城に付属した「苑」に類似した広大な領域に、山や池、寺や邸宅などを配置した空間を指す。 ・・・平泉の苑池の意義は、浄土・神仙世界の具現化、そして王城鎮守という意識であったと考える。・・・平泉は、西の山際が迫る地形ゆえ、池は降雨の時に 沢水が急激に都市域に流入しないための水溜的機能を有す。また鈴沢池に近い溝は池に向かって勾配が下がるため、排水施設と考えられる。そして汚染物を北上 川へ流すまでに沈殿させ、浄化させるような機能も想定できる。そして反対に、北上川が氾濫したときなどは、鈴沢池や猫間が淵は自然遊水池となり、都市域を 保護したものと推測される。」(「平泉の苑池」平泉文化研究年報 第1号平成13年 岩手県教育委員会)

前川さんの主張は、平泉の景観の背景には、単なる「浄土思想」ではなく、そこに中国の伝統的宗教である「神仙思想」と天皇家に忠誠を尽くすという意味の 「王城鎮守の思想」の三つの要素が絡み合って出来上がったということである。その上で、平泉には「苑池的景観」があったとする見方をしている。要するに、 池と庭園の都市のイメージということになる。

毛越寺・観自在王院の伽藍配置図

毛越寺・観自在王院伽藍配置図
(藤島亥治郎著「平泉建築文化研究」吉川弘文館 1995年刊)

現在の平泉で、往時の景観が色濃く残っていて「苑池的景観」となれば、毛越寺しかないように思われる。往時の毛越寺の偉容は、圧倒的で当代無双の寺院とい われていたという。それは浄土を観想(イメージ)させるための完璧な装置とも言えるような庭園と伽藍の配置からみても十分に了解できるのである。

この毛越寺は、初代清衡の時代から造営され始めたともいわれ、二代基衡の時代にほぼ完成したものと考えられている。しかしながら、実はこの寺は、「京都白 河の法勝寺(ほっしょうじ)をモデルにしたもの」(入間田宣夫 日本史リブレット「都市平泉の遺産」山川出版社 2003年刊)とみられている。三代秀衡 が造った無量光院が宇治の平等院を摸したと、吾妻鏡に記されているから、平泉は、独自の文化というよりも、当時の都京都の最先端を行く寺をモデルにしてい るようにも見受けられるのである。

そもそも、日本における浄土信仰の起こりは、平安時代の中期に、平安貴族たちの間で、西方浄土教主といわれる阿弥陀仏にすがって極楽往生しようとの信仰が 広まって、浄土教の経典「浄土三部経」の中の「阿弥陀経」や「観無量寿経」にあるような極楽の景観をこの世に建築・築庭技術によって、造り出すことが、一 種の流行となったことに端を発している。

そして日本独特の浄土建築の特徴は、何と言っても、阿弥陀堂である。この阿弥陀堂の始まりは、比叡山に、慈覚大師円仁(794ー864)が建てた常行三昧 堂とされている。毛越寺には、常行三昧堂という名の御堂が大泉が池の北側に面して建っていて、この御堂には、本尊として阿弥陀仏が座し、さらにその奥に は、円仁が留学した中国から帰国する際に、現れて加護したとされる「摩多羅神」(またらじん)という神様がが鎮座している。例年ここで、「二十日夜祭」と いう祭が行われるが、

これについては、あの江戸期の旅行家で日本民俗学の走りともいわれる菅江真澄(1754−1829)が、次のような記録を遺している。

摩多羅神は、比叡山にも鎮座している。実は天台の金比羅権現(こんぴらごんげん) の事を言うとの説や素盞鳥尊(すさのおのみこと)の事との説もある。」(「かすむ駒形」より 現代語訳 佐藤弘弥)私はこの阿弥陀仏と「摩 多羅神」という神様の神仏が混交して祀られているところに実に日本的な文化を感じるのである。

ちなみに阿弥陀経に書かれた浄土のイメージを上げてみればこのようになる。

極 楽国土に は、七宝の池あり、八功徳の水、その中に充満せり。池の底、純(もっぱ)ら金紗を地に布けり。(池)の四辺の階道、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)よ り成る。(階道の)上に楼閣あり、また金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・しゃこ・赤珠(しゃくしゅ)・瑪瑙(めのう)をもって、これを厳飾(ごんじ き)す。池中の蓮華、大いさ車輪のごとし、・・・極楽国土にはかくのごときの功徳の荘厳成就せり。」(中村元他訳 岩波文庫 P136− P137 )。

このことをみても、浄土のイメージには池や水が欠かせないことがわかる。そしてふと気づいたのであるが、毛越寺という寺院の中心にあるものは、実は伽藍で はなく、水を満々と張った大泉が池である。そこに映し出される日の光は、時の流れに合わせて宝石のように刻々と表情を変化させ、浄土もこのようなところで あろうと思わせてくれるのである。

前文化庁長官の臨床心理学者河合隼雄氏(1928-  )が、この毛越寺に訪れて、「ここに立っていると、まったく下界と隔絶され、人工の構築物やその他の塵のような景色が見えないのは凄い・・・」という旨の 発言をされた。実は毛越寺の結界内には、人工の建物も存在するのであるが、それら常行堂や開山堂のような小さな御堂も、河合氏自身の眼には、毛越寺という 浄土世界にとけ込んでしまって、人工物のようには見えなかったということであろう。それほど完璧な配置が毛越寺には今でも存在しているのである。もちろん 伽藍が消失しているなど、見た目のイメージはかなり違っているとは思うが、根底にある平泉の建都精神というものは、昔も今も少しも変わっていない。つまり 現在の毛越寺の心和むような風景が往時の都市平泉全体に拡がっていたと思われるのである。
佐藤弘弥

柳の御所跡の園池の復元?

柳の御所跡 園池の復元地 
(07年3月24日 佐藤弘弥撮影)

池の形状が砂利などによって分かる。右に見えるのは高館山中央に金鶏山左に見える。左 に見える鉄塔は金鶏山に向かって真っ直ぐ伸びている。


 4 平泉 世界遺産入りのために逆に開発が進むという不条理

地元岩手の新聞に「柳之御所遺跡で、平泉藤原氏時代の姿を復元した池が完成した。」(岩手日報 3月23日)との記事があったので、どのような形状なのか 是非見たくなり、06年3月24日早朝、平泉に向かった。行ってみると、立ち入り禁止の札が掛かっていて、遠くから望遠で撮影するしかなく、残念ながらあ まりよく全体像が掴めなかった。

それにも増して、驚いたのは、かつて緑豊かなところだった平泉全体が、至るところで掘り返されていて、粘土質の土塊がむき出しの状態になっているという現 実だった。半年前よりも、それは遙かに進行しているように感じた。おそらくその原因は、平泉が世界遺産登録に向けての最終段階に入っているためであろう。

簡単に言ってしまえば、世界遺産に登録されるためのお化粧をしているということだろうか。世界遺産に登録されるためにそのような厚化粧ならぬ過剰な開発行 為(?!)をしなければならぬとしたら、世界遺産条約の精神と大いなる矛盾が生じていることになりはしないだろうか。


平泉バイパス 高館からの眺望

平泉バイパス 高館 直下の眺望
(07年3月24日 佐藤弘弥撮影)

平泉バイパスが完全に姿を現した。左には東北本線の貨物列車が走る。衣川周辺の堤防工 事のクレーンも写っている。高館直下の眺望は、日本中どこにでもある景色に成り下がってしまった。

この日(07年3月24日)、私は改めて平泉をあちこち歩き回ってみた。すると柳の御所跡だけではなく、平泉バイパス工事の周辺、衣川堤防工事周辺、無量 光院跡周辺、加羅御所跡周辺、衣川遺跡群跡周辺など、ほとんどの地域が、様々に遺跡調査や堤防工事などの名目を持って掘り返され、無惨な土色の街に成り下 がっていることだ。はっきり言って今平泉は、中尊寺や毛越寺などを除き美しさとはほとんど無縁の状況にある。

特に無量光院周辺は、眺望の変貌が激しい。かつてそこには、民家が点在し、水田がかつての無量光院のあったとされる池の形状そのままを伝えるように存在し ていた。春になれば、そこに水を張って田植えが行われた。民家には、例年鯉のぼりがはためいていたのを覚えている。そんな景色を見るにつけ、かつての栄耀 栄華を偲びながら、平泉に住む人々の平泉文化に対する誇りのようなものを肌で感じてきた。

少し前まで、ここに佇んでいると、「秀衡公は、この地に無量光院を映す池を拵えた。私たちは無量光院は映せないが、せめて池の形をそのままに伝えよう。そ うすれ ばいつかここに再び無量光院がキラキラと輝くその日が来るかもしれない・・・」そんな平泉の人々の声が聞こえるような気がして、熱い思いがこみ上げてきた ものだ。

しかし今、民家は移転させられてしまい、復元(史跡公園化)のための広大な区画が土塊の大地となって拡がっている。こうして、すべては世界遺産登録という 大命題のために、平泉の住民の生活は、否応なしに隅に押しやられてしまっている。私は世界遺産入りを大いに賛成するものであるが、世界遺産条約価値そのも のが、今そこに住む人々の生活を押しのけて進められるような性格の国際条約ではない、ということだけは念を押しておきたい。


無量光院前の不釣り合いな看板と椅子

無量光院前
(07年3月24日 佐藤弘弥撮影)

不釣り合いな椅子が並べてある。背後の松林の付 近が無量光院 跡。左の松は中島付近

私は以前から、ずっと思っていることがある。それは発掘調査の美名の下に行われる発掘現場の見せ方の問題である。発掘現場にも、美しい管理の仕方や見せ方 というものがあって然るべきだ。ところがたいていの発掘現場というものは、何年もの間、柳の御所跡のように、土塊がむき出しになり、あるいはそこに青いビ ニールシートを被せたりして、実に醜いものである。特に平泉や京都、奈良といった歴史的埋蔵史跡を持つ観光都市の場合は、文化庁が中心となって、発掘現場 のあるべき管理の姿のついてのガイドラインを示すべきではないかと強く思う次第である。考古学の先生側からすれば、そんなものがあると、仕事がしづらいと 言われる可能性があるが、観光地となっている地域では、この発掘現場の管理のあり方は、考えなければならない問題である。


衣川 接待館跡

衣川 接待 館跡
(07年3月24日 佐藤弘弥撮影)
昨 年秋 頃は青いビニールで覆われていたが、上に土を被せ整地されていた。第二の「柳の御所跡」と言われるような地域だけに、今後保全の問題が議論されるはずだ。 それにしても、黄色の看板は美しいものではない。遠くに三角の三峯山が見える。

今回は、平泉の対岸の衣川遺跡群についても見て歩いた。四号線を境に、東側が堤防工事でトラックやら掘削機が土曜日にもかかわらず頻繁に蠢いていた。四号 線が走る衣川橋の西側にある接待館を中心にする衣川遺跡群周辺でも、かつて田んぼや畑はすべて堤防工事の前提となる発掘対象地となり、土塊がむき出しの状 況となっていて、ひどく醜い姿が拡がっていた。やはり衣川地区も、平泉世界遺産登録のあおりを受けて、住民は戸惑っている、という声を聞いた。かつての父 祖伝来の田畑が降って湧いたように、史跡だからという理由で、発掘に供され、代替え地やそれに見合う僅かな金銭をもらっても納得できないというのも無理か らぬ話だ。

かつて安倍氏の政庁跡だったとの言い伝えのある並木屋敷跡の一角もまた家屋が移転に応じたと見えて消えて無くなっていた。こうなると、日本にとって、世界 遺産条約というものを改めて問い直したくなるような気がしてくる。

地元の関係者やマスコミは、もちろんこぞって世界遺産入り賛成で、そこから掲載される記事や情報というものは、極端に言えば大本営発表に近く、世界遺産登 録にマイナスになるようなことはなかなか登場しない。平泉世界遺産報道において、一番欠けているのは、たまたま遺跡の上に住んでいたという理由で、これま で何不自由なく静かに暮らしてきた家屋田畑を手放したり、移転させられたりという現実があることを仕方のないことと軽く見ていることだ。

衣川縁から東に衣川橋方向を見る

衣川橋周辺 で進む堤防工事
(07年3月24日 佐藤弘弥撮影)
衣川堤防工事現場は現在佳境に入っている。工事車両がひっきりなしで通っている。

平泉を例にとって見れば一目瞭然であるが、世界遺産登録するということが、本当の意味で、地元に幸福をもたらすものであるか、私は改めて問い直す必要があ るのではないかと思う。元々この地に存在する歴史的遺産の価値は、世界遺産登録するしないに関わらず普遍的なものである。しかしそれが現在の平泉の緑が奪 われた土塊だらけの風景を見ていると、世界遺産の登録要件を満たそうとする余り、あり種の急激な乱開発の流れに巻き込まれてしまっている感じがする。

私はこれに強い憤りを覚え、どこか「不条理」のようなものを感じてしまうのである。小説家のアルベール・カミユは、「不条理」という言葉について「自分を 圧しつぶすものを神とあがめ、自分を素っ裸にしてしまうもののなかに、希望の理由を見いだす・・・」(シューシュポスの神話」新潮文庫 清水徹訳 昭和 44年刊)と記している。平泉で起きていることは、まさにこのカミユの言う「不条理」が実際に起きているという感じがするのだ。

そもそも、世界遺産条約とは何度もいうように、人類普遍の遺産を戦争や乱開発によって、崩壊するのを防ぐという目的で1972年に制定されたものだ。今そ れが逆に平泉では、世界遺産入りのための下準備という名目の下に、様々な形の発掘や乱開発が待ったなしの形で進められているのである。





泉が城より春浅き衣川をみる 
(07年3月24日 佐藤弘弥撮影)

衣 川の流路が、第二の柳の御所跡と目されている衣川の接待館跡他の衣川遺跡群を保全するために南に移動させられることになったようだ。この国交省の決断を、 退任間近の増田知事は「英断だ」とするが、果たしてそうか。「夏草やの夢跡」が、平泉バイパスによって跡形もなく消え去ったように、西行が愛した衣川の岸 辺の絶景は消えてしまうのであろうか・・・。


 5 衣川の流路を変えて堤防を造るというニュース

07年3月25日早朝、一関のホテルのラウンジで、朝食を取ろう としていると、びっくりするような新聞記事に出くわした。岩手日報朝刊の一面トップに、「接待館遺跡保存衣川の流路変更」という大見出しがあり、タテに「世界遺産登録へ配慮 国交省方針 治水との両立も図る」と、続いていた。

内容は、衣川の「流路を約50メートル南側にずらして、新たに堤防を作る」 というものである。このやり方は、柳の御所跡が発掘調査の結果、平泉館跡の可能性が高いということで、北上川の流路を東に100mズラしたのと同じ手法 で、これ自体は別に驚くには値しない。問題は、これを「英断」と是認する空気が地元岩手にあることだ。

すでに昨年中には、国交省は、中尊寺の直下に当たる接待館跡の対岸付近の試掘により、そこに重要な遺跡はない、との結果が出ており、文化庁や県、及び国交 省は、流路変更について発表のタイミングを計っていたものと推測される。

平泉バイパスの道路を東にズラす設計変更の時は、反対運動が実ったと、関係者は安堵に胸をなで下ろしたのであったが、さて今になって考えてみると、どう か。柳の御所の上を通らなくなったことは確かであるが、柳の御所跡付近の環境も景観も著しく変貌を遂げてしまっている。そして「こんなはずではなかった」 と小声でささやく住民もけっして少なくない。「平泉バイパス工事」という計画そのものが、はじめから問題だったのである。しかも、自然にあった大河北上川 の流路を変えるというのは、天に唾をするようなものとしか私には思えなかった。今から、松尾芭蕉が「夏草や・・・夢の跡」と声を圧し殺すように詠んだあの 情景を取り戻すことは、容易なことではない。だから、私は今回の衣川の流路変更もはっきり言って反対である。何がなんでも、高い堤防を敷設するという近代 河川工法一辺倒の治水がそもそもおかしい。かつての都市平泉は既に見てきたように水辺の都市であり、衣川河口付近は流水を受け入れる構造となっていた。


月山橋から上流をみる

月山橋より衣川上流をみる 
(07年3月24日 佐藤弘弥撮影)

衣 川は芭蕉が云うように、この下流の付近から泉が城をめぐるように流れが二手に分かれる。衣川は御所跡と目されている衣川の接待館跡他の衣川遺跡群を保全す るために南に移動させられることになったようだ。この国交省の決断を、 退任間近の増田知事は「英断だ」とするが、果たしてそうか。「夏草やの夢跡」が、平泉バイパスによって跡形もなく消え去ったように、西行が愛した衣川の岸 辺の絶景は消えてしまうのであろうか・・・。

衣 川は芭蕉が「奥の細道」で云うように、泉が城の手前で流れが二手に分かれて大河北上川と注いでいる。今回の衣川の流路変更は、衣川の接待館跡ほかの衣川遺 跡群を保全するためのものである。「夏草や兵どもが夢跡」と芭蕉が詠んだ景観が、「平泉バイパス」によって、跡形もなく消え去ったことを考えるならば、今 度は芭蕉が敬愛する西行法師が愛した衣川の岸辺の絶景が消えてしまうのである。

衣川の岸辺一体は、あの西行法師が歩き、

とりわきて心も しみてさえぞわたる衣河見にきたる今日しも

と、詠嘆した歴史的景勝地である。またこの地は王朝文化華やかなりし平安の時代より、和歌に詠み込まれるなど都人の郷愁を誘った美しい「歌枕」の地であ る。それが堤防工事によって跡形無く消えるのを許していいわけがない。

衣川周辺には、弁慶が立ち往生した跡とされる場所や川の中には「たたら石」と呼ばれる踏み石などもある。今回の流路変更によって、これらをすべては消失し てしまう。そしてコンクリートの岸辺とコンクリートの川底が上流に向かってどこまでも伸びていくことになる。これはおよそ世界遺産には相応しくないおぞま しい景色であり、無謀な計画というしかない。


この国交省の計画変更に対し、もうじき退任する岩手県増田寛也知事は、の定例会見(3月26日)で「英断だと思う。治水と(遺跡保存の)両立のため、県の やれることはやりたい」(朝日新聞、岩手県内版 27日)と話したということだ。このことで、衣川周辺の景観も、柳の御所跡同様、急速に醜悪な工事現場と 化してしまうであろう。まさに「平泉バイパス」の教訓が生かされていないということになる。


接待館跡発掘現場

衣 川接待館跡

(06年6月24日 佐藤撮影)
遠くに束稲山 右手の丘陵は関山中尊寺

「接待館跡」については、重要な遺跡なので、少し説明を加えておきたい。住所は衣川の七日市場という地にあり、衣川を挟んで対岸には、中尊寺がある。吾妻 鏡にもある通り、藤原秀衡の母が往来する旅人を接待するために建てたと言われる場所である。およそ東西110m、南北60mほどの区画である。

秀衡の母と言えば、二代基衡の妻(生没年不詳)であり、前九年の役(1056-1062)で源頼義(988−1075)に投降し、後に九州に流され松浦党 を興したとされる安倍宗任(生没年不詳)の娘である。おそらくは囚人となった父と共に京都で育ち、後に基衡の妻として奥州に下ったものと思われる。和歌や 管弦にも通じた教養の高い女性だったことが想像される。彼女は、夫基衡が毛越寺を建立したのに対し、通りを挟んだ東隣の広大な一角に観自在王院を建立し た。

思うに基衡の妻は、奥大道と呼ばれた道の都市平泉の玄関口に観自在王院を建て、衣川という川を隔てた平泉の奥座敷にこのような「接待館」というのだから、 当時の彼女の人柄と権勢が偲ばれる。

その女性の人となりを伝える行事が、八百数十年の時を越えて、平泉では連綿と伝えられている。それは観自在王院で五月四日に行われる奇祭「哭祭」(なきま つり)である。菅江真澄(1754ー1829)は、その著「かすむ駒形」(1786)で、次のように記している。


花 立山という山がある。それは基衡の妻がある年の四月二十日に亡くなったのであるが、このご夫人が生前色々な花を好んでおられたので、様々な花を花立山に挿 して飾り、亡骸をこの山に埋葬したということである。基衡の妻は、かの安部宗任の娘にして、和歌への思いも大変深いお方で、木や草花を特に愛でられたと言 われている。今も四月二十日の命日には、僧侶が大勢参加して、葬儀のような儀式をして、泣くまねをし、手を合わせ、数珠を揉んで、幡を立て、天蓋(てんが い)に、宝螺(ほら)を吹き、梵唄(ボムバイ)を歌う。これを称して、四月の哭き祭という。実に奇妙なお祭りである。昔は、この哭き祭の日には、知る人も 知らない人も僧侶とともに一緒になって、経を読み、唄を歌い、金鼓(コムグ)を叩いて、ある人などは、その声がかすれるまで、よよとばかりに泣いたという ことである。「かすむ駒形」 現代語訳佐藤)」

吾妻鏡にある衣川館には、京都からやってきた公家の藤原基成一族が住んでいたと記されている。さらに義経が亡くなった場所もこの地だとされる。基成はその 娘を、そんなに年齢の違わないはずの秀衡に嫁がせて外戚関係を結び、娘が産んだ子は四代泰衡となった謎の人物である。今後、この接待館跡の調査研究が進む ことになれば、この基成が平泉の政治と宗教にどのようなに関わっていたかも明らかになるかもしれない。

今後の調査で明確になってくると思うが、接待館は、奥州平泉にとって迎賓館のような壮大な建物ではなかっただろうか。その接待館周辺の景観を、衣川の流路 変更という無謀な河川工事によって、台無しにしていいのか。平泉バイパス工事が、柳の御所跡の景観にどんな状況をもたらしたかのか、私たちはもう一度その ことを考えるべきだ。「史跡保全と治水の両立」という一見耳あたりのよい言葉も、世界遺産登録目前の平泉にはまったく似つかわしくない開発優先の発想でし かない。


つづく

  この記事は、07年3月14日付け市民メディア・インターネット新聞「JanJan」に 転載されました。

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2007.3.25 佐藤弘弥
義経伝 説
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