2004年秋 しだれ桜通信 6

しだれ桜よ蘇れ!!

-しだれ桜蘇生祈願祭-
 

柳の御所跡のしだれ桜
(9月19日 午後1時 佐藤撮影)

御所跡の一隅に生ふ桜から夢幻(ゆめまぼろし)か慈悲の華ふる

一本の桜の木から始めて平泉を桜の園に

9月19日は、朝から雨が降っていた。この日は、午後に柳の御所跡で、しだれ桜蘇生祈願祭が予定されていた。このままで行けば、雨中での神事に なるかと心配された。テントを使用することも考えられたが、11時を過ぎると、雲間から日が射し始めた。

1時過ぎに、現地に行ってみると、しだれ桜周辺の環境が、かなり変化し、良くなっているように思われた。まず硬い地盤に染みこまずに溜まってい た水は、すっかりと吸い上げられていた。これは県が動力で水を吸い出してくれたお陰である。ただし、地下水の行き場が確定している訳ではないから、やは り、応急措置とは言え、排水溝を据え付けることは必要であろう。

桜というものは、ある意味で人の助けを必要とする樹木である。吉野山の桜が、古代から今日まで、日本一の桜の園としての地位を不動のものとして いる理由は、吉野が信仰の山だからである。吉野の人々にとって、桜そのものが、ある意味で信仰の対象と云ってよい。

その吉野にも負けないほどの桜の園が、この平泉の地にもあった。柳の御所跡から北上川を東に望めば束稲山が見える。この山の桜を観て驚いた西行 法師は、「聞きもせじ束稲山の櫻花吉野のほかにかかるべしとは」と詠んだのであった。

束稲山を桜の園に変えたのは、安倍氏の時代であったと思われる。安倍一族の居館があったとされる衣川村には、桜の名所と呼ばれる場所がいくつも 残されている。一長一短で桜の園が出来上がるはずはない。おそらく西行法師が、訪れた頃は、安倍氏の長であった頼時(?ー1057)が、束稲山を桜の園に しようと植林を始めてから150年から200年ほどの時が経過していたのではないだろうか。

しかし桜というものは、環境の変化に敏感な上に、人の助けを必要とする。安倍氏の後を受け継いだ奥州藤原氏が滅ぼされた時、支えを失った束稲山 の桜の園もまた平泉から消滅したしまったのである。

そこで私は、もう一度、平泉を桜の園にする運動を提案したいと思う。それは人と自然の共生を象徴すると共に、かつて平泉に存在した豊かな景観を 取り戻すことになると考えるからだ。もちろん気の遠くなるような時間が必要となる。その事業は、私たちの孫や子の時代でも、完成することはない。でもその ような事業を継続する住民の精神性こそが世界遺産「平泉」という名に叶う行為であると信じる。今こそ、この柳の御所跡の一本のしだれ桜を守ることから始め よう。

いつの日か西行さんを驚かす桜の園に古里の山


9月19日の行動

柳の御所資料館での今後の行動について討議
(2004年9月19日 午後2時半 目の前のボトルは、EM剤の原液)

山高神代桜が甦り、柳の御所のしだれ桜が枯れるわけがない

午後、2時半、柳の御所資料館において、司会に高橋比奈子さん(盛岡市議・NPO地球環境・共生ネットワーク)が立ち、地元において、桜を蘇生 させるための行動が討議された。念頭に、佐藤が経過を説明し、昨日、東京において、山高神代桜を治療されている星野研究員(EM研究機構・東京事務所)と 会い、このしだれ桜の状態を話したことを説明した。その上で、山高神代桜は、その寿命が、1800年とも2000年とも言われる桜で、それを考えれば、柳 の御所跡のしだれ桜は、100年から150年とまさに青年期であり、一時的に環境が悪くなった位で枯死することは考えられないこと。蘇生させることは十分 可能ではないか、場合によっては、一度星野氏に診ていただくことをお願いしても良いのではと語った。

次に平泉商工会の関宮治良事務局長から挨拶をいただいた。実に思い入れたっぷりの話であった。「もう少し異変に気付くのが早ければ、ここまでひ どい状態にならなかった。残念・・・」と関宮氏は述べられた。これには理由がある。氏の家は、以前、しだれ桜の直き前にあった。正確に言えば、北上川より に建っていた。云うならば、御所跡のしだれ桜は、関宮家の門口の桜であったことになる。

関宮氏は、今年、このしだれ桜が、残った顛末について、「そして桜は残った」というエッセイを書かれている。その中で、平成4年3月のしだれ桜 のエピソードが紹介されている。

北上川治水工事に伴い、この桜は、伐採されることが決まっていた。建設省からそれを請け負った人間もいて、その費用も受け取っている。桜の命運 は、平成4年3月末までに終わるかに思われた。

そこで町の建設課長が、たった一人で、この伐採計画に待ったを掛けた。
「○○さん。もう少し待ってくれないか。もし建設省から怒られたら、俺が伐るなと言っていいから」町の役人がそのようなことを言うのは聞いたことがない。 異例中の異例だ。それほど、このしだれ桜は、地元の人たちにとって、特別の桜だったのである。
 

田平早苗(EM研究機構・盛岡事務所)研究員の講習会

盆栽名人の吉田千秋氏がEM剤とともに水を掛けることを提案
平泉の住民が、現地でEM剤を原液から増やし、桜に散布するための講習会を実施した。その後、住民の吉田氏より、「桜に水をかけ てやるべきではないか!?」という提案があった。この提案に対して、高橋氏より「大きな噴霧器が、NPO地球環境・共生ネットワークにあるので、これで水 をかけましょう」ということになった。本日の次のEM剤散布は、10月2日にすることが決まった。



 

「桜生きよ」と祈願祭
(2004年9月19日撮影)
(午後3時30分)

清衡公の思いに叶う桜生きよ

柳の御所跡のしだれ桜は、特別な樹木だ。およそ150年の間、この地にあって、古都平泉の変遷をつぶさに観てきた。まさに平泉の生き証人であ る。

その生き証人の桜の命が危ない。2004年9月19日、平泉の人々はこの特別の桜に祈りを込めて、蘇生祈願祭を行った。

お手本は、ひとつの故事だった。聞くところによれば、日本一の樹齢を持つと云われる山梨の山高神代桜は、かの日蓮上人と地元住民が蘇生の祈りを 捧げることによって、見事に甦らせたと伝わっている。当時山高神代桜は、樹齢千年を越えていて、枯死寸前だった。これを祈りによって甦らせたのである。ま さに奇跡だった。

平泉の柳の御所跡のしだれ桜の寿命は、僅かに150年。甦らせずにおくものか。そんな気迫をもって、柳の御所跡のしだれ桜蘇生祈願祭が執り行わ れたのであった。

生き生きよ桜生きよと木霊に気迫の祈り捧げたり今し


しだれ桜の真下に設えられた祈願の祭壇

柳の御所資料館にて、経緯説明、今後の活動方針の確認、EM剤を作る勉強会などを終えた後、午後3時半より、地元の有志15名、 盛岡より参加の高橋比奈子さん(地球環境・共生ネットワーク)ら4名と佐藤弘弥(平泉を世界遺産にする会)の計20名で式は、始まった。式一切を導いてく ださったのは、駒形和則禰宜であった。

祝詞の奏上に始まったが、その内容に驚いた。
「平泉は、藤原清衡公によって開かれた都市であること。その都市は、黄金の都市と呼ばれたが、本質は、長く悲惨な戦争の続いた奥州の人々の心を癒し、平和 の大切さを感じさせるための都市を建設を志向したこと。
そして又、不幸にして戦争によって亡くなった生きとし生けるものの御霊を浄土へ送りたいとの祈りが、この地には込められていることが盛られていた。
最後には、中尊寺落慶供養願文の清衡公の意志が、この桜の木となって顕現している」

とまで記されていた。素晴らしい内容で、参加した誰もが、「その通り」と唸ってしまうような名文であった。
 
 

ふるさとの山の峰々夕暮れて桜蘇生の神事を終ゑぬ



 

駒形禰宜の手から桜蘇生の祈りを込めた紙吹雪が舞う

次に、白い紙が、駒形禰宜の手から放たれ、しだれ桜の周辺に散る花びらのように舞ったのであった。ある参加者は、この光景を見 て、「現代の花咲爺さんの話のよう」と表現された。まさに私たちが心に期していることは、枯れ木に花を再び咲かせるという祈りである。この祈願祭の祈りが 天に通じて、来春か来来春、この柳の御所跡のしだれ桜が咲く日を待ちたいと思わずにはいられない。


一本の桜を守ると集い来る人も桜か柳の御所に
 

99歳の柳沢翁は玉串を捧げた後、「君が世」を斉唱して蘇生を祈った
(午後4時00分)

柳沢基保翁は、御年99歳。現役で日本美術工藝社の社主を務め、日本中の神社に備品その他を納めている人物だ。とにかく元気だ。 2003年6月、98歳で栗駒山登山に成功し、これは現在までの栗駒山最高齢登山記録となっている。今年(2004年)は6月13日、神奈川の腰越の浜で 行われた「腰越状群読の儀」では、見事な声で、「腰越状」を朗読し、源義経の無念の心情を謳い上げた。同日、藤沢の白旗神社「源義経公鎮霊祭」では、玉串 を捧げた後、義経公を偲んで、白旗大明神の義経公に謡曲を献じられた。

2004年9月19日、柳沢翁は、玉串を神前に備えた直後、突如として、「君が代」を斉唱された。みんなが呆気に取られている中で、トレード マークの朱色の上着を身につけられた王は、背筋をピンと伸ばし、瀕死のしだれ桜に向かって、ありったけの思いを込めて「君が代」を歌った。

「君が代」は、現在「国歌」となっているが、その原典は、古今集第七賀歌の、

「わが君は千世にやちよに さざれ石の巌となりて苔のむすまで」である。

この「君」という語であるが、古今集において、この歌は「題知らず」、「読人しらず」となっており、必ずしも、これを「天皇」と考えなくてよい と思われる。「君」とは尊い人。大切な目上の人を意味し、この歌の本来の意味を考えれば、「賀の歌」であるから、長寿を寿ぐ歌と解釈してよい。

周知のように「君が代」が国歌となって、節が付けられたのは、明治に入ってからのことである。現代において、柳沢翁のような一個人が、しだれ桜 の長寿を願って、「君が代」を斉唱することは大いに意味がある。この時の柳沢翁の祈りはこのようなものであった。

「大切な大切な柳の御所のしだれ桜よ。この地球という小さな星が存在する限り、未来永劫この地にあって、聖地平泉を見守りつつ花を結んで欲し い・・・」

実に清々しく美しい光景だった。

百歳(ももとせ)を生きたる翁は祈り込め「君が代」歌い「桜」に捧ぐ



2004.9.26 Hsato

平泉景観問 題HP