菅原次男氏への讃辞

白河神社を越え奥州に入る菅原氏
(1999.6.27)


誰も考えなかったようなことを、いとも簡単にやってのける人物がいる。山伏姿で、藤沢の義経公の首塚から、43日500キロの道のりを、徒歩で歩き通した菅原次男さんも、そんな人物の一人だ。よくもまあこのスピードの時代に、57歳の男性が、17キロもある笈(おい)を背負い、500キロの距離を、歩き切ったものだ。

菅原さんが、これほど義経公にのめり込むきっかけは偶然に聴いた「琵琶の音」であった。12年前の夏、車で「判官森」の前を通った時、不思議な琵琶の音が、車載ラジオから流れてきた。その余りの心地よさに、「誰が弾いているのだろう?」と思ったが、すぐに忘れてしまっていた。するとまた別の日にも、「判官森」を通っている時、同じ曲が流れて、たまらずラジオ局に訪ねて曲目と奏者を聞けば、その曲目はなんとズバリ「義経」。奏者は世界的な薩摩琵琶奏者の鶴田錦史女史であった。鶴田女史は、あの故武満徹(現代音楽の巨匠のひとり)をして「もし鶴田さんと出会うことがなければ、私の人生もずいぶん変わったものになっていただろう」とまで言わせたほどの芸術家。武満にとってもインスピレーションの源泉そのものあった。こうして菅原氏は、義経公の御霊を鎮めることを、自らのライフワークとしたのであった。

菅原さんの発想は、実に単純明快だ。「義経公の首塚が藤沢にはある。また地元栗駒の沼倉・通称「判官森」に義経公の胴体が埋まっている。これを合わせて埋葬することこそ、究極の鎮(しず)めの行為ではないか」また「そこで大事なのは、その二カ所が、単なる伝説伝承などではなく、史実として十分検証に耐えうるものでなければ、駄目だ」そこで菅原氏は、古文書を探し始める…。

そして12年の歳月が流れた。菅原さんはその間のことをこのように振り返る。「本当は義経公没後800年の年にすべきだったかもしれないが、その時は、私の中でまだ十分に煮詰まったことではなかった」どんなに素晴らしい発想が浮かんだところで、焦ってやっていては、尻切れトンボに終わってしまうこともある。やはり12年の歳月は、菅原さんにとっては必要だったのだろう。

不思議なのは、義経公没して810年の間、様々な義経研究者やファンもいたであろうに、分離されたままの義経公の首と胴を合わせるという極めて素朴な供養の形を、誰も気付かなかったことだ。それはおそらく、義経公という悲劇の人物の死を認めたくない民衆の気持ちが、どこかで介在していたのかもしれない。江戸時代に、伊達の殿様で伊達綱村公(仙台藩第四代藩主)が、義経公終焉の地である平泉の高館(たかだち)に「義経堂」(ぎけいどう)という小さなお堂を建てたことはあるが、首と胴をひとつにしようという発想は、浮かばなかったようだ。

ある意味で、菅原さんの発想は、義経公に導かれたとも言える運命的なものであった。

ともかく菅原さんの「首と胴の合体供養」というこの発想が、古文書等による歴史的な裏付けを得た時、発想は発願(ほつがん)となり、多くの人の共感を呼び、たちまちのうちに多くの支援者を得ることになった。一見無謀とも思えるこの計画も、実は菅原さん一流のカモフラージュだったのかもしれない。この話を菅原氏から聞いた瞬間、私もどうにか菅原さんの夢の実現に一役買えないかと支援者の一人に名を連ねさせていただいた。

世の中は、氏のような人物がいるからこそおもしろい。菅原さん、あなたは20世紀最後のヒーローだ。本当にご苦労さまでした。佐藤
 


義経伝説ホームへ

2000.7.吉日