「邦楽ジャーナル」1996年5月号(VOL.112)より


特集:現代邦楽を検証する2

2月号に続く第2弾。今回は、最近相次いで亡くなった現代邦楽の巨匠、作曲家杵 屋正邦氏と藤井凡大氏、そして現代邦楽の名曲「ノヴェンバー・ステップス」の 作曲者武満徹氏とその初演者の琵琶演奏家・鶴田錦史さんへ追悼の意を込めて、 生前交流の厚かった尺八演奏家の横山勝也氏と、三味線演奏家の杵屋勝芳寿さん に原稿を寄せていただきました。また、パソコン通信を利用して、25日から2 ヶ月にわたって「現代邦楽に思うこと」を意見交換しあった、その電子会議室の 模様を誌上再録しました。ここでは横山勝也氏の寄稿文を掲載いたします。
 
 

鶴田錦史さん、武満徹さんを想う   横山勝也●尺八演奏家

  不世出の名人、鶴田錦史さんが逝って、はや一年が過ぎた。三十年余のコン ビを組んで苦楽を共に、一つのものをつくるということをして来たが、私自身に とってこんなに大きなことだったとは思いもよらぬことだった。そのうえ、去る 二月二十日、今度は二人の共通の大恩人、武満徹さんが急逝されてしまわれた。 後に残った私の心中を、もはや、御二人にお伝えする術もない。実は、気力も失 せてしまっている。こんなことではいけないと思いつつ、生きているものの務め として、重い気力をふりしぼって、与えられた仕事を全うしなければと思ってい る。
 
 

「ノーヴェンバー・ステップス」
(横山勝也,小澤征爾,鶴田錦史)

鶴田さんの一撥の重み
   思えば鶴田さんとの三十有余年は正にやじきた道中であった。恐らくお互い に一人だったらあそこまでは頑張れなかったのではないかと思う苦労もあったが、 共になぐさめ、はげましあってやれたからこそ続けられたのだと思う。年は親子 の差程あったが、共に親友であれたことは、ひとえに鶴田さんの度量の広さ故で あったと今となって思う。
  人一倍どころか人の十倍二十倍の苦労と努力で、江東区の多額納税者の筆頭 に成るほど事業に成功し、さらに琵琶界中興の祖と呼ばれるにふさわしい貢献を された。その人となりのなかに、学ぶべき多くの貴重な人生哲学があった。琵琶 の一撥一撥にその重みを感じとったのは、私ばかりでないだろう。武満さんにとっ て琵琶が鶴田さんでなければならなかったのは、実にその点なのだ。
  鶴田さんは優秀なお弟子さんも育てられた。技術的にはもう文句のつけよう もないすばらしい方々だ。唯、音楽上生みの苦しみや人生の達人になるまでの道 程から獲得された、間や気迫、一音一音の意味は一代限りのもので、それぞれの 御門下は、御自身の人生の中から拮抗しうるそれらを獲得しなければならないの だろう。大変なことだ。
  二十年程前、ポリドールのレコードのライナーノートに助演して下さった鶴 田さんのことを、「すごい人、可愛い人、面白い人、やっぱりすごい人」と記し たことを思い出したが、今でもその思いは変わらぬが、加えてなつかしい人にも なってしまわれた。一期一会、会者定離、の哲理はとうに判ったつもりでいても、 覚悟の程はなかなかに身につかず、だからいまだ生かされているのだろうか?
  鶴田さんは、しかし幸せ者であった。いつも影で支えて居られた養女、幸子 さんがいた。正に献身の一言である。御門下も立派であった。
  亡くなられる二月程前であったか、病床を見舞った私は、萎えて子供の脚の ようになっている鶴田さんの脚をマッサージした。鶴田さんは、大人しく、気持 ち良さそうにじっとしていた。やがて病院の向かいにあるホテルで幸子さん、鶴 田さんとなごやかな食事をして外に出た。「また来るね」と挨拶して道を歩いて いて、ふと後に視線を感じ振り向くと、鶴田さんが、私の恐らくハゲ上ったかっ ぱのような頭を指さして、大笑いしていた。鶴田さんらしいと思った。
  お互いに手を振りあったのが、私との最後であった。まがうことなき名人、 そして人生の達人であった。
 
 

「ノヴェンバー・ステップス」のニューヨーク初演

武満さんの哲学と希望
   二月二十日、武満徹さんが亡くなられた。
  二月ちょっと前、草月の勅使川原宏さんのパーティ会場で、ワイングラスを 片手に帽子をかぶって、プレドニンの副作用か少しむくんでは居られたが、経過 が良いこと、膠原病が出ていることなど話され、「七月に都響と『オータム』の レコーディングを頼むね」と立話をしたのが私が武満さんとお会いした最後となっ た。
  思えば、三十四、五年前にさかのぼる。篠田正浩さん監督の映画『暗殺』の レコーディングで、はじめてお目にかかって以来、映画『怪談』の「雪女」『切 腹』『利休』などやNHK大河ドラマの『源義経』、『エクリプス』『ノヴェン バー・ステップス』『オータム』などの作品を通して永いおつきあいをさせて頂 いた。『エクリプス』『ノヴェンバー・ステップス』では国の内外で御一緒の旅 も多かったので、想い出に残るいろいろの場面が、昨日のことのようによみがえっ て来る。その想い出を今、綴る気持ちにはとてもなれない。
  雑誌『すばる』(集英社)の五月号に、亡くなられる数日前に書かれた詩の 断片が、四枚のコピー用紙の裏側にエンピツで何度も推敲されたそのままで掲載 されている。
  途中からでは真意が伝わるかどうか気になるが……。


 『ある哲学者が「希望」は終ったと言った。
 「希望」がロマン主義の呪縛に手足を抑えつけられた空想ででもあるなら、その発言も、比喩的    としては、気分的に解らないでもない。
だが哲学者としては言わずもがなのことを口にしてしまったような気がする。
なぜなら「希望」と「終り」のふたつのことばが言語として作用し同化しえ た場合、「希望」はけっして希望そのものではなく、「終り」もまた終りとは別 の意味作用の言葉でなければならない。
ぼくはいかなる場合でも、ぼくの「希望」は捨てない。
哲学者が見出した絶対希望を哲学者が捨てたとしても。
だがつぎのことは、たんに比喩としてではなくても成就しよう。
 「哲学」は終った。
 「希望」は持ちこたえていくことで、実体を無限に確実なものにし、終りはな い』
 

  この詩を、私は武満さんにとっても私達にとっても、哲学も希望も終わらし てはならないものだと言われているように思えてならない。武満さんは、私が言 うまでもなく大作曲家であったが、まぎれもなく、誰よりも哲学した方であり、 哲学と音楽を切り離すことは出来なかったことは明白な事実だ。
  死は往々にして理不尽な絶対としてやってくる。覚悟があろうとなかろうと、 準備があろうとなかろうと。奥様の浅香さんのお話だと武満さんは、まだまだ死 ぬとは思って居られなかった由。でもしかし、死の影の近くにあることをずっと 思われていたに違いない。やり残したお仕事が沢山あった由。世界のあちこちか ら多くの期待をされていた。口惜しい気持もあったのではと思うのだが、武満さ んは淡々と逝ってしまわれた。
  幾度だか、「横山さん、尺八の独奏曲を書くからね」と、三十有余年の私へ のねぎらいの言葉だったのだろうか、今となっては知る由もないが、あまり優し さを見せない武満さんの特別の言葉だったように思えてならない。
  風貌も超人的で、なにやら宇宙人のような感じもするが、こよなく自然を愛 し、人を愛した。立花隆さんがNHKの特別追悼番組の最後に言われた一言、 「武満さんの音楽は、自然や人間に対する愛を表現している」。正に私もそのよ うに思ってきた一人であった。
  何よりも、なまけものの私が、どうやら頑張ってこられたのも、『エクリプ ス』や『ノヴェンバー・ステップス』で広い世界観を与えて下さった武満徹さん のおかげであった。
 
 

●鶴田錦史(つるた・きんし) 薩摩琵琶演奏家。楽器や演奏法を改良し、琵琶の世界に活気を呼び戻した。武満 徹作曲の『ノヴェンバー・ステップス』(1967年)を小沢征爾指揮・NYフィル、 横山勝也の尺八とともに初演、大きな反響を呼び、以後国内外で100 回以上演奏 をする。1995年4月4日、脳こうそくのため死去。享年83歳。

●武満徹(たけみつ・とおる) 作曲家。ほとんど独学で作曲を学び、1950年ピアノ曲『二つのレント』でデビュー 。以後意欲的に作曲活動を行い、国際的に活躍。尺八・琵琶・オーケストラのた めの『ノヴェンバー・ステップス』(1967年)他、邦楽器を用いた作品も多い。 1996年2月20日、ぼうこう癌のため死去。享年65歳。



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