FIFA
ワールドカップ
美しき敗者ジダンに捧ぐ
ー頭突き事件なんて問題の本質
ではないー
ジダン伝説の誕生 悪夢かファンタジーか
ジダンの頭突きがこれほどの問題になると誰が予想しただろう。ワールドカップサッカー決
勝戦の延長において、突如として起こったハプニングに世界中の目が注がれている。
朝起きて、ニュースの冒頭でこの映像を見せられた時、直ぐさま、ジーコのサッカーボールへのツバ吐き事件を思い出した。神さまと呼ばれるジーコが引き起こ
したこの事件も波紋を投げかけたものだった。何しろあのジーコが、サッカー選手の魂とも言うべきサッカーボールに満場の観客の前でツバを吐き、審判への強
い抗議の気持ちを表して試合場を後にしたのであった。
ジダンの場合、世界のサッカーファン何十億人の耳目が集中する決勝戦での一件だけにその波紋はジーコのそれとは比較にならないほどの事件に発展してしまっ
たということだ。
しかし私はジダンの行為を暴力行為として単純に非難するようなことはしたくない。そもそも今やサッカーは、国家の名誉をかけて戦う格闘技でそのものであ
り、スポーツに名を代えた戦争の側面がある競技である。
ジタンをはじめこの世界最高の試合に参加する選手たちは、国の名誉と個人のプライドをかけ、それこそ闘争本能むき出して戦っている。古代の競技で、敗者の
チームは皆殺しに遭うというような競技が存在したということだが、現代サッカーにも、その精神は受け継がれていると思うのである。
そこでイタリアの選手が、ジダンに何らかの挑発行為をしたということが言われている。しかしそんなことは事の本質ではない。つまり挑発行為が有ったか無
かったか、またその挑発の中に、人種差別に通じる言葉やジタンの母を侮辱するような発言があったどうかという憶測は、マスコミの勘ぐりであって、問題を大
きくして部数を稼ごうという彼ら特有のスキャンダルを煽り立てる行為に過ぎないのだ。
それよりも、あのスーパースタージダンが、キャプテンの腕章をそっと外し、燦めくような優勝トロフィーの横をすり抜けて去ってゆくシーンこそ美しいものが
あった。言っておくが、彼らは命を賭け身を削るようにして一戦一戦を戦っているのだ。
あるひとつのきっかけで切れそうになることもある。それを必死で抑えながら彼らはプレーをしている。その挙げ句の衝動的な事件であることを、分かっている
ならば、ファンは黙ってジダンに拍手を送ればよい。
晴れの表彰式にもジダンは姿を見せなかった。深い後悔の念が彼の心を支配しているのは自然なことだ。母国フランスの歓迎式に、ジダンは他の選手の影で、後
悔の念のこもった表情で、手をさり気なく振った。同僚の選手は、ジダンを誇りとしているのがありありと見えた。またそれ以上に、シラク大統領をはじめとす
るフランス国民のすべてが、母国のヒーロージダンの沈痛な心もちを察して最高の讃辞と拍手を送っていたのが印象的だった。
サッカーとは何と崇高で素晴らしいスポーツだろう。それを気付かせてくれたのは、現代最高のプレーヤージダンであった。今日、世界中のどこかで続く戦争と
いう悲惨な現実が一方でありながらも、世界の国々の人々が、ひとつのボールを夢中で追って、頂点を目ざして火花を散らし、そして勝者と敗者が決まる。これ
がワールドカップである。今回のドイツ大会が成功裡に終わったことを祝いながら、やはり私はここでも、優勝したイタリアチームよりも美しき敗者ジダンを称
賛せずにはいられないのである。2006.7.12佐藤
ジダンに捧げる五首
足早に立ち去るジダンの傍らの優勝トロフィー眩しかりけり
ジダンはや怒れる神のごとくして頭突き一閃敗者となれり
物言わぬジダンの心の奥にある戦士の本能誰そ知るらん
後悔の念を宿した瞳して無言のジダンに母国の称賛
子らは皆ジダンの如くなりたきとボール追うかな戦地の子らも
2006.7.12 佐藤弘弥
義経伝説
思いつきエッセイ
★ジダン伝説の誕生と義経伝説