泰衡無惨

−中尊寺蓮は泰衡が蓮U−

 
藤原泰衡という人物の生涯を考えながら、人の運命と才というものを考えてしまっ た。泰衡は、言わずと知れた奥州藤原氏の四代目の頭領であり、自らの短慮によって、曾祖父から三代百年をかけて築かれてきた平泉を滅びに導いた人物だ。で もこの奥州の滅びについては、ひとえに彼の双肩に罪をかぶせることはできない。

彼のような能力の少なき人物が、大政治家である父秀衡の突然の死によって、奥州全体 を相続した時のことをまず考えてみよう。別に彼が父に匹敵するような能力の持ち主であれば、たいした問題ではなかったかもしれない。彼が才豊かな者であれ ば、「父ならばこうしたはずだ」という強い信念を持って、どんな難局が押し寄せたとしても、うまく乗り切ってみせた可能性だってある。歴史は絶対ではな い。常に別の方向に行く確率だって捨てきれない。

ところが、泰衡は、鎌倉にどっかと腰を下ろす頼朝の飴とムチの圧力に屈し、もっとも 頼りにすべき人物義経公を殺害してしまうという愚を犯した。もしも泰衡を支える人物が、優れた才の持ち主で、この小心な若き跡取り息子を支えていれば、も しかしたら奥州は別の運命を辿ったであろう。しかし泰衡を支える一族の足並みは乱れきっていた。

平泉は、父秀衡の意志を継いで行こうとする陣営と、平泉を新たな奥州の都にしようと する陣営に分かれてしまっていた。前者の中心は、父秀衡の意志を受けて義経公を政治の中心に据えた奥州にしようとする長男藤原国衡である。そして後者はも ちろん凡庸な若者泰衡であるが、この背後には、京の生まれの公家である藤原基成というクセ者がいた。

早い話が、前者と後者では、武闘派と和平派の違いがあるであろうか。公家に対する政 治的工作に絶対自信を持つ和平派は、義経公を政治の中心に据えるということにたまらないほどの愚かさと危険を感じている。そこに頼朝からの巧妙に仕組まれ た数々の脅しが入る。二十歳を過ぎたばかりの泰衡にとっては、とにかく祖父である基成をちらちら見て、政策判断をする。このような形で、政治が機能するは ずもない。

結局、この平泉の分裂を巧みに突いた頼朝の筋書きの上で、泰衡は踊り、ついに義経公 を攻め滅ぼしてしまう。その愚かな判断の背後には、義経公の首さえ鎌倉に届ければ、平泉の都は安泰でいられるはず、との短慮があった。頼朝が約束など守る はずがない。彼が欲しいのは、義経公の首などではなく、奥州すべてが欲しかったのだ。まさに頼朝は、稀代の大盗賊のようであった。

才なき武士(もものふ)泰衡の、最期は哀れの極みだった。よりにもよって臣下であっ た河田次郎というものに裏切られ、幼き首を刎ねられて死んだ。実に悲しくもあっけない幕切れだった。でもよくよく考えてみれば、仰々しい首取りの話を除 き、いつの世にもあるごくあるありふれた物語のようにも思えてくる・・・。

滅びし武者泰衡に捧げる二首

 朝露の雫を誰の涙とてそれは問はまし泰衡が蓮 
  月光の蒼き光りに誘(いざな)はれ滅びし者の花開きゐる

 佐藤

 


2001.7.17

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