鶴見和子小論


日本的思想の新展開


 はじめに

2006年7月31日、戦後日本を代表する社会学者の上智大学名誉教授鶴見和子氏が京都府宇治の自宅で亡くなっ た。享年88歳。

名門鶴見家の長女として東京麻布に生を受けた氏は、日米開戦の足音が現実に迫りつつあった昭和14年(1939)9月、一冊の処女歌集を自費出版し、アメ リカに颯爽と 渡って行った。21歳の若さだった。

アメリカの大学では、マルクス主義哲学やデューイの功利哲学を中心に学ぶ。しかしながら 日米の虹の架け橋になろうとた若き乙女の思いは無惨にも引き裂かれる。日米海戦の勃発だ。その後、戦禍は拡大の一途を辿り、氏はやむなく日本に戻る。

間もなく原爆の投下があり、日本の無条件降伏。それでも鶴見氏は、終戦で首うなだれてなどいなかった。政治学の丸 山真男や経済学の都留重人など気鋭の学者らと共に「思想の科学」を創刊する。また民俗学者の柳田国男の知遇を得て、その日本の伝統文化に深く根ざした思想 に強い影響を受ける。

それ以後、鶴見和子氏の歩みは、単なる社会学者に社会運動家というワクに止まってはいなかった。日本の社会や文化 を西洋流の科学的で分析しながら、一方で柳田民俗学を肯定的に受容して、社会格差や社会的矛盾の解決のモデルとして「内発的発展論」を提唱するようにな る。これは言ってみれば、明治維新以来の中央集権型政治手法へのアンチテーゼであり、それ以前、地方で独自に継承されてきた各地の民俗文化を各地の市民が 自ら自発的に創造→発展→継承させて行こうとすることである。

中国の研究者との農村部の研究や水銀公害に見舞われた水俣の悲劇に社会科学の光を当てながら、「内発的発展論」 は、徐々に理論として磨かれて行った。またこの過程において、鶴見氏は、柳田と共に日本民俗学の祖と言われる南方熊楠との運命的な出会いを果たす。

彼女の思想的到達点と思われる「曼荼羅の思想」はこうして彼女にもたらされたのである。今後、「マンダラ」の研究 は、最新宇宙論などとの相関関係も含め、今後様々な学問の研究者に汲めど尽きせぬほどのインスピレーションを与え続けて行くに相違ない。

メーテルリンクの「青い鳥」ではないが、彼女が必死にアメリカの大学で学ぼうとしていた ものは、実は日本文化の研究の成果の中に眠っていた。しかし私は鶴見氏の柳田や南方との思想的邂逅(かいこう)が遠回りだったとは思わない。むしろ天は絶 妙のタイミングで、ふたりの巨人に鶴田氏を引き合わせたものと感じる。異文化との比較検証の後に初めて、日本文化の輝きというものが見えて来るものであ る。

まさか、鶴見氏は、最後に自分が到達する境地が一見古めかしいイメージしかない真言密教の「曼荼羅図」の今日的解 析としての「南方マンダラ」にあったとは、アメリカの大学で意欲的に勉強している時には露ほども思わなかったに違いない。だから人生は面白いのである。本稿では、鶴見和子氏の思想をコンパクトに概観しながら、その思想の特質と可能性を探ってみたいと思 う。


 1 忘れていた短歌に救われる

今私は、一冊の本を前にしてある人の御霊に祈りを捧げている。本の題は「邂逅(かいこう)」(藤原書店2003 刊)と言う。著者のひとりが社会学者の鶴見和子氏で、もうひとりが免疫学者の多田富雄氏だ。

新聞の訃報によれば、鶴見和子氏は、さる2006年7月31日、京都府宇治の自宅で息を引き取られたとのことであ る。享年88歳であった。

この本の中で、多田富雄氏は、鶴見氏を、失礼な言い方ながらと断りながら、「山姥(やまうば)」と呼んだ。それは 11年ほど前(1995年12月)に脳出血で倒れ、左半身がマヒするなどの後遺症と闘いながら、自己の社会学の理論である「内発的発展論」という言葉を再 度、自分の中で捉え直しながら、もの凄い執念をもって、生きておられる強さに感服した多田先生一流の称賛の言葉であった。

周知のように多田先生も5年前(2001年5月)、突然脳梗塞に襲われて、右半身マヒと言語発声に障害を受けてし まっている。

本来、この本の企画は、鶴見氏と多田氏の対談であったが、やむなく往復書簡という形で、出版に漕ぎ着けた本であっ た。私はこの本を読みながら、知性というものが、どのようにして、生老病死の苦を乗り越えていけるのか、という点に強い興味を惹かれて購入したものであっ た。

鶴見氏の病気の発症は、多田氏の6年ほど先輩に当たることになる。鶴見氏は、病気で生死の域を彷徨っている時、突 然忘れていた和歌への感性が甦ってきた旨の話を述べておられる。

体がマヒして、ペンも取れずにいる時、溢れるように飛び出してくる歌を妹さんに筆記してもらった。そしてそれが彼 女の第二歌集「回生」となったのであった。第一歌集から何と半世紀ぶりの第二歌集であった。乱暴な言い方が許されるならば、生死を彷徨う彼女の心を救った のは、彼女の中に深く眠っていた歌心だったかもしれない。

 半世紀死火山となりしを轟きて煙くゆらす 歌の火の山
 片身(かた み)麻痺の我とはなりて水俣の痛苦をわずか身に引き受くる

この二首の歌を読むと、心に眠っていた歌の感性が、理性という扉を打ち壊して、内部からマグマのように吹き出てい るのを感じる。人間は理性の海ばかりでは生きられないのかもしれない。感性という感情の扉を開くことによって、心の憶測にある無尽蔵の生命エネルギーのよ うなものと出会えるのかもしれないと感じた。

別の言い方をすれば、肉体が生存の危機の緊急指令を出した時、心の奥の奥から「この魂はまだこの世を離れるべきは ない」という別の生存プログラムが発動したのかもしれない。これは鶴田氏の理論である「内発的発展論」の実践プログラムの可能性もある。これは知性という ものが人生の苦を乗り越えていく時のひとつのモデルとも考えられるのである。


 2 幼き日の教育

鶴見和子氏は、大正7年(1918)、厚生大臣まで務めた政治家鶴見祐輔(1885−1973)の長女として東京 の麻布に生を受けた。母親は幕末に活躍した土佐藩の後藤新平伯爵(1857−1929)の娘である。まさに絵に描いたような名門家のお嬢様として育った。 幼少頃から、花柳流の初代花柳徳太郎から日本舞踊を本格的に修養し20歳で名取りとなる。歌人の佐々木信綱氏(1872−1963)には、15歳から短歌 を習い、21歳の若さで第一歌集「虹」を自費出版している。この当時の名家の教養の付け方を思う時、私はもうひとり敬愛する文化人白州正子氏(1910− 2001)のことをどうしても思い出してしまうのである。

白州氏の父は、薩摩藩出身の樺山愛輔氏(伯爵)で国会議員で実業界でも活躍した人物である。祖父は西南戦争で活躍 し後に初代台湾総督になった樺山資紀(すけのり 1837−1922)である。白州氏は、6歳から梅若流二代目梅若実氏(1878ー1959)に能を習う ようになる。母方も薩摩藩の出の川村家で昭和天皇の養育を担当した名家であった。

私は鶴見氏と白州氏の生い立ちが似ているということに興味がある。それは共に名家であるという点ではなく、幼い頃 に当代一流の人物から一生涯を貫くような芸事を学んでいることである。

鶴見氏の亡くなる最期の時まで、凛とした姿勢を貫いた清々しい人生を全うされた背景には、幼い頃に、本物の師とめ ぐり逢い舞というものや歌を詠む術を習得していたということにあるのではないかと思うのである。鶴見氏が幼い頃、はっきり言って、何でこれほど厳しい芸事 を習わなければならないのか、などと一度や二度は、思ったであろう。まして同じ年頃の友だちが、のんびりとやっているのを目の当たりにしていたら、プロ中 のプロの人物に、舞や歌を習うということは、苦痛に思ったことがあっても不思議はない。

舞や歌というものの伝統を考えれば、家元制度などもあり、その世界では「一子相伝」(いっしそうでん)という言葉 があるくらい厳しいものである。奥義は跡を継ぐたったひとりのわが子、あるいは相伝者にしか教えないのである。こうして日本の伝統文化の多くは守られてき たのである。

「三つ子の魂百まで」という言葉がある。まさに幼くして培った本物の人物との出会いや修練が、鶴見氏という人物の 骨格を決め、そして心の眼を開かせたというべきである。教育論の立場から言えば、幼くして本物に学ぶという点は力説しておきたい。現代教育はともすれば、 進学教育であって、人間教育という側面が著しく欠けている。したがって進学の試験に合格する知識は身につくが、人間の生涯を支えるほどの素養や教養という ものがまったくと言って良いほど身につかない。学校はむしろ人間教育を意識的に避けているようなところも見受けられ、子供におっかなびっくりで接してい る。

日本の伝統文化の世界では、教える者は師であり、教えられる側は弟子である。そこには自ずと上下の関係がある。と ころが、今の教育制度では、師は師ではなく友達の延長のような情けない立場になってしまった。現代教育が無くして久しいものを、私は鶴見和子氏の幼き日に 受けた教育に見るのである。


 3 異文化を学ぶ

昭和14年(1939年)21歳の鶴田氏は、津田英学塾(現津田塾大学)を卒業し、意気揚々とアメリカの大学(ヴァッツサー大学)への留学を果たす。両学 のきっかけは、昭和13年(1938)、父と同行してアメリカに渡った時、世界青年会議所の開かれていたヴァッツサー大学に行ったことであった。この時、 鶴見氏は、アメリカの女流ノーベル賞作家のパール・バック女史と会う。そして彼女の自宅に招かれ、以後交際をするようになった。昭和14年には、パール・ バックの著書「この胸の誇り」を日本語に翻訳し、女性雑誌「婦人之友」に連載を開始するという幸運に浴す。

第一歌集「虹」に次のような三首がある。

みどり濃く果も 知らざる大洋(おおなみ)を我が越え行かむ其の日待たるゝ
火の山は咲き盛る躑躅(つつじ)の朱(あけ)の波裾原の風に波荒立てり
腹しろき鴎三つ四つ飛びて行く海の涯(はたて)の虹を横ぎり

第一首は、日一日と留学の時が、迫って来るのが待ちきれないようなキラキラとした歌だ。第二首は、後ろに「軽井沢」の添え書きがある。赤いツツジが満開に なって五月の風に海原の波が荒立っているようにそよいでいるのであろう。爛漫と咲くツツジと火の山とは希望に胸膨らむ若き鶴見氏の心そのものである。第三 首は、船に乗って外国に発ってからの船の中での一風景だ。海原に出現した虹を横切るように、鶴見氏の乗った船の前を虹を横切るようにして白い腹をしたカモ メが力強く飛び去ってゆく。このカモメもまた鶴見氏そのもののように感じる。

この歌集「虹」は、若き日の夢見る乙女の歌集である。絵に描いたようなエリートの家系に生まれた一人の若い女性が、やがて日本とアメリカの間で起こる太平 洋を挟んでの戦争のことなど、少しも意識しないかのように、第一次大戦後、世界の富と文化が集中していったアメリカに旅立ったのである。

ヴァッツサー大学に留学し哲学や社会学を学ぶ。本当にふしぎな程のとんとん拍子の人生だ。その根源にあるのは、歌集「虹」の歌の色調としてある育ちの良さ のようなものがあり、周囲の人に好かれ、引き立てられる誠に得な人柄があったのではないかと推測する。ともかくアメリカ人に臆することなく、異文化をどん 欲に吸収する心構えが出来ていたことは事実である。これは夏目漱石のロンドン留学のようにほとんど下宿に籠もり放しとはまったく対極にある態度であっと思 われる。

昭和16年(1941)太平洋戦争が勃発する年、鶴見氏はヴァッサー大学大学院哲学修士となり、同年コロンビア大学大学院博士課程に進学する。翌年(昭和 18年)には博士資格試験に合格した。しかし太平洋戦争の戦線拡大によって、やむなく米国から強制送還されることになる。アメリカの国力を知っている鶴見 氏にとって、祖国日本と友や師が住むアメリカが太平洋を股にかけて戦争をするというのは、痛恨の出来事だったはずだ・・・。


 4 南方マンダラから鶴見マンダラへ

何故今、鶴見和子という人物を取り上げるのか。それは彼女の思想が、日本文化の新しい発展に貢献した巨大なモニュ メントに映るからである。彼女は単なるアメリカ流功利哲学や社会学の紹介者ではない。西洋の優れた学術文化と日本文化を比較検討することによって、日本文 化に新たな発見をし、また西洋文化の根本的に潜在する欠陥をそれによって補う可能性を示していると考えられる。

日本文化の世界的価値とその世界史的可能性を計るためには、どうしても異文化との比較と異国から日本を俯瞰的に見 つめ直すことが必要だった。言ってみれば、鶴見和子氏のアメリカ留学は、日本文化の神さまがひとりの女性を自らの使徒として送り出したほどの意味を持つも のだったかもしれない。更に彼女のよく使用する用語をで言えば、鶴見和子にとって、アメリカとは「萃点(すいてん)」だったという言い方も可能だ。

この「萃点」とは、簡単に言えば様々なモノが「集まる一点」というほどの意味である。元々この用語は、世界的な博 物学者で柳田国男(1875ー1962)とともに日本の民族学の祖とも言われる南方熊楠(1867−1941)の「南方曼荼羅」と呼ばれる図像(ずぞう) から来ている。周知のように曼荼羅は、密教のマンダラ図のことであるが、高野山の高僧、土宜法竜(ときほうりゅう)師(1834−1921)に、宛てた 1903年7月18日付の手紙の中に、この図像と共にこのように説明している。

「図中(イ)のごときは諸事理の萃点ゆえ、それをとると、いろいろの理を見出すに易くてはやい」(「南方マンダ ラ」南方熊楠コレクションT P297 中沢新一責任編集 河出文庫 1991年刊)

南方の説明によれば、萃点とはマンダラの中心である大日如来とは明確に言っているわけではないが、多くの線がこの 場所において交差し、情報が多く集まる場所という言い方は出来そうだ。線を道と考えれば、シルクロードの交易都市にも見える。現在の国家で言えば、世界中 の文化の中心地になってヒト・モノ・カネが集まるアメリカそのものである。もしも同じ才能を持ったふたりの人間が、ひとつ学を究めようとすれば当然萃点で あるアメリカに行った方が勝ちである。南方熊楠は、当時の世界の地の中心であったロンドンの大英博物館に七年間(1992−1999)も連日通って、己の 知を磨いたのである。

更にこの「萃点」の特徴は、ある点ではなく、中心以外から吹いてきてこの一点に集まっているというひとつの潮流で あることである。これは萃点は時間の経過の中でゆっくりと別の地点に移動するということもあり得る。これは中心部と地方の格差問題を解くヒントを与えるこ とになるのである。

鶴見和子氏と南方熊楠との出会いは、まったく偶然なもので、昭和47年(1972)、彼女が54歳の時、出版社(平凡社)より、南方熊楠全集第四巻の解説 を依頼されたのが きっかけであった。この偶然というものが、鶴見氏代表作「南方熊楠ー地球志向の比較学」(「日本民俗学大系 4 南方熊楠」講談社1978年刊 所収 「講談社学術文庫」として1981年刊)とし て結実したのである。


 5 クマグスとクニオからのインスピレーション

東京生まれの鶴見氏にとって、南方熊楠との出会いは衝撃的な出来事だったはずだ。何しろ、熊楠の風貌には、野人のような凄みがある。

彼が明治39年(1906)の神社合祀令に対して取った行動は、鶴見氏の思想的営為に計り知れないほどのインスピレーションを与えたと思われる。

神社合祀令は、明治政府が、廃藩置県で国家の中央統制を強める過程で起こったことである。明治政府は、市制町村制を公布などして、町や村の統廃合を進める 一方、各地域にあった神社を、伊勢神宮を頂点としたヒエラルキーに再編成しようと画策した。日本中の八百万の神々は、こうして国教化した国家神道の下に吸 収されて行ったのである。それこそ村々の境の辻々にあった神社は、神社も合祀によって、一村一社とされ、青々とした神木は伐られて日本各地で、地域の心の 拠り所を失ったのである。今の言葉で言えば、神社合祀令は、地域のアイデンティティを消滅させる結果を招来する。何よりも南方熊楠は、そのことを畏れたの ではあるまいか。

熊楠は、合祀令に対し烈火のごとく怒り、膨大な意見書を「牟婁新報(むろしんぽう)」(1909年)に発表(以後連載)し、これに抵抗の姿勢を示したので ある。

 熊楠の主な反対理由は以下の7つであった。

1 合祀によって敬神思想を高めるというのは地方官僚の言い分に過ぎない
2 合祀は人民の融和を妨げ自治機関の運用を阻害する
3 合祀は地方の衰退させる
4 合祀は庶民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を乱す
5 合祀は愛郷心を損ねる
6 合祀は土地の治安と利益に大きな害をもたらす
7 合祀は勝景史蹟と古伝を失わせる

この合祀令の抗して、熊楠は43歳から54歳までの足かけ11年闘った。この間、アメリカからは研究者として破格の待遇で、招かれたにも関わらず、熊楠は この消耗な運動のために全身全霊でぶつかって行った。

「一九一〇年八月には、一八日間田辺の警察に 拘留され、一九一一年には、大阪警察に告発され、罰金刑を科せられたこともある。」(「南方曼荼羅論」鶴見和 子著 八坂書房 1992年刊 所収「自治思想の系譜ー南方熊楠の世界」P67)

この真剣な南方熊楠の行動に心を動かされて、味方についた人物がいる。それは後に日本における民俗学の祖と言われるようになる柳田国男であった。柳田は熊 楠より八歳年下であるが、農商務省に入省し、当時は「内閣書記官記録課長」というれっきとした明治政府の官僚であった。この時、熊楠44歳、柳田は36歳 であった。農政学を学んだ柳田は、日本の農業の成り立ちと将来について考えているうちに、地域にある民俗的伝統や風俗に着目するようになっていた。そして 明治43年(1910)には、「石神問答」、「遠野物語」を相次いで自費出版している。このふたつの著作を、熊楠は拘留中の獄中にて読んだと、記念すべき ふたりの往復書簡の第一書簡において記している。柳田は、熊楠の博学に驚くと友に、熊楠の合祀反対の根本にある地域の伝統文化の喪失に結び付くかもしれな いということに強いシンパシーを感じたのであろう。柳田は、熊楠の意見書を自分の資金を提供して、「南方二書」として出版(1911.9)までして、熊楠 の私闘に応援をするのであった。

神道による国家の統制によって、日本各地にあった神社が国家のヒエラルキーに組み込まれて行く中で、各地の社の杜はどんどんと失われて行った。
紀州熊野は熊野三社を有する日本有数の神域である。そんな地域で も、明治政府は情け容赦なく、八百万の神の古き神道の伝統を国家神道の論理に組み込んで行こうとした。柳田は、明治政府の官僚でありながら、「地域のアイ デンティティ」が、国家の論理にすり替えられて、日本人の心を支えている地方固有の伝統が失われて行くことは、日本農業の衰退を招き、地方経済の疲弊に止 まらず、日本という国家の衰退を導きかねないという思いを持つに至ったのであろうか。

明治政府の持つ政治思想は、西洋流の近代化の思想である。そこには徳川政権260年間の鎖国政策によって、立ち後れた日本を西洋の国家をモデルとして強引 なまでの欧化政策をとったのである。当然そこには日本各地域で固有に発展してきた文化との軋轢が生じる。その軋轢をどう捉えるかで、立場は両側に分かれ る。ふたりの往復書簡を詳細に分析する余裕はないが、以下のように言えるのではないかと思う。

熊楠は明確に地方の固有の文化を守り、地方の自治というものを守る立場である。それに対して、柳田は心情的には熊楠の主張を理解しながらも、近代化を推し 進める明治政府の官僚として、近代化と地方の伝統文化が両立できるような道探しているような感じもある。ともかく、熊楠には、一点の曇りもないところがあ るが、一方柳田はどこか曖昧で、八方丸く納めようとするような日本的曖昧さがある。

このふたりの考え方について、鶴見和子氏は、次のように言っている。

「柳田と南方の学問の共通点は、『東国の学 風』を創るということでした。・・・外国の学者はずっと模倣ばかりやってきたが、これからわれわれの学問を創出しなければならない。今の言葉でいえば内発 的な創造性ということになります。・・・柳田は、戦後、新国学というものを提唱しました。本居宣長、平田篤胤の国学に基礎をおいておいていました。南方 は・・・おさないときに強い感化を受けたのは大乗仏教です。真言密教です。・・・柳田と仁摩方は同じ東国の学風を創るという共通点に立ちながらこのよう に、根が違っていました。」(「南方曼荼羅論」鶴見和 子著 八坂書房 1992年刊 所収「柳田国男と南方熊楠」P118ー120)

私は、鶴見氏の「内発的な創造性」という文言に強く惹きつけられる。ふたりの日本民俗学の巨人の違いを冷静に分析しながら、ふたりの共通認識として、地域 固有の文化を基礎とした「内発的な創造性」に着目したことは、鶴見氏が、「内発的発展論」という思想を創出する大きなヒントになったのではないかと思うか らである。

つづく


2006.8.2-8,10 佐藤弘弥

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