マンダラとは何か?!
1ユング心理学とマンダラ

ユング心理学の重要なキーワードに「マンダラ」 (Mandala)という言葉がある。周知のようにマンダラは、元々インドのサンスクリット語で「Manda」という本質を意味する言葉に「得る」という 意味の接尾語が着いた仏教の儀式などに使用される図絵のことである。したがってマンダラは、本質や真理に至るための図ということに解される。チベット仏教 (ラマ教)の宗教儀式などの際、僧侶たちによって、何ヶ月も掛けて制作される「砂マンダラ」の荘厳な美しさは圧巻である。

マンダラは、単なる装飾的な図絵ではない。それは仏教 の宇宙観を感得するための助けとなるイメージの増幅器のようなものである。日本では平安初期に空海が持ち帰ったことで有名な「胎蔵界曼荼羅」(たいぞうか いまんだら)と「金剛界曼荼羅」(こうごうかいまんだら)が有名だ。前者は、大日経をイメージしたもので、中心には「大日如来」が鎮座し、周囲には諸仏や 菩薩などが整然と配されている。後者は金剛頂経に基づき作られた大日如来の悟りの智慧を象徴するもので、このふたつを合わせて「両界曼荼羅」と呼ばれる。

この魔法の絵とも呼ばれる東洋の「マンダラ」にヨー ロッパの心理学者ユングが注目した理由は、臨床の現場で、患者が治療の過程で描く、マンダラ的な絵に何度も遭遇したことに始まる。そこからユングは、患者 たちの見る夢の内容にも着目した。するとマンダラを象徴するような夢が多いことに気がついたのである。ユングは、人間の心の奥に得体の知れない何かが存在 することを直観した。

ユングはそこで、チベットの高僧に、接見してマンダラ の話を聞いた。すると彼はこのようにマンダラを説明した。

「マンダラとは・・・精神の像・・・であって、・・・ ラマ僧のみが想像の力によってこれを形成することができる。マンダラは一つとして同じものはなく、個々人によって異なる。また僧院や寺院に掲げられている ようなマンダラは大した意味を持たない。なぜならそれらは外的な表現にすぎないからだ。真のマンダラは常に内的な像である。それは心の平衡が失われている 場合か、ある思想がどうしても心に浮かんでこず、経典を紐解いてもそれを見出すことができないので、みすからそれを探し出さなければならない場合などに、 (能動的な)想像力によって徐々に心の内に形作られるものである」(C・G・ユング「心理学と錬金術?」第三章「マンダラ象徴」1976 人文書院)

ユングは、この東洋の不思議な絵図を、単なる東洋の人 間に特殊な内面の表象などではなく、それが同時に、人間普遍の宇宙観を示すものであると考えるようになった。一面的に見れば、マンダラ図というのは、中央 に中心概念があり、ある面で非常に中央集権的というか一神教的に見える。しかし大日如来という中心概念はマンダラにとって、絶対的な意味を持ものだろう か。どうもそうではないようである。

2 アンドロメダ大星雲にノスタルジーを感じる理由

さてここにアンドロメダ大星雲の写真がある。アンドロ メダ大星雲は、我々の銀河系から230万光年離れたところに位置する渦巻き状の銀河である。その直系は10万光年にもなる星の大集団である。少し離れて、 アンドロメダと我々の銀河を見れば、近くで輝く、双子のような銀河に見えると言われている。最近の研究によれば、やがて我々の銀河とこのアンドロメダ銀河 は、お互いの重力によって引き合い、やがて一緒になって、さらに大きな銀河に成長するものと見なされている。アンドロメダも我々の銀河も、その中心には、 光さえ脱出できないブラックホールが存在すると考えられている。

このアンドロメダの写真を見ると、私は、いつも何故 か、不思議な郷愁に駆られてしまう。この感情は、おそらく、このアンドロメダの形状が、自分の内にある心の表象と形状が似ていて、共振を起こしているせい かもしれないなどと勝手な想像をする。そうなると人間は、誰しも心に「マンダラ」を持っていることになる。その可能性を示唆して見せたのが、ユングの深層 心理学であった。

東洋で生まれた仏教の発展の中で、マンダラ図が、制作 された理由は、おそらく先のラマ教の高僧が言った如く、人間の心が、潜在的かつ能動的(自力的)に「心の平衡」を保持しようというする機能があり、それが マンダラを描くか(あるいはイメージ)することによって増幅される可能性があるのではないかと思う。つまり精神が何らかの均衡を失っていた患者にとって、 マンダラのような図を描く行為は、その心が癒されてゆく過程そのものと成り得るのである。

我々の母なる地球は、太陽という恒星(星)を中心にし た太陽系(これもひとつのマンダラを形成しているが)に属している。かつて我々の祖先達は、太陽を含む天空のすべての星が地球を回っていると考えていた。 ところが我々の地球こそが、太陽の周りを巡っていることを知った。さらに、我々の太陽系は、我々の銀河の中心に位置しているのではなくいわば辺境に存在し ていることを知らされた。またさらに、銀河もまたさらに巨大な島のような銀河団の中の一員に過ぎないというのである。
 

3 マンダラは多神教的な構造を持つ

マンダラを構造的に考えれば、マンダラという部屋に 入った途端に、その前の扉を開けると、その奥にさらに大きなマンダラが次々と現れるようなものだ。そのように考えると、自分たちの地球という部屋も、無限 の宇宙の始まりか終わりか分からなくなってしまう。

一見一神教の概念図のように見えたマンダラだが、例え ば、アンドロメダというマンダラの隣に、同じような我々の銀河というマンダラが存在することを想像すると、その中心は、将来は統合される可能性があるもの の、現状ではふたつの中心点が存在することになる。こうなるといったいマンダラの中心はどこかが分からなくなってしまう。しかもこれも見る地点からの錯覚 であり、さらにもっと視線を引いて考えれば、ふたつと思っていたマンダラは、さらに無数の銀河に囲まれた局所の有り様に過ぎないことが明らかとなる。
要するに宇宙には無限のマンダラが鏤められているのである。

このように宇宙の構造をマンダラ的に考えると、禅の○ (円相)のように、実は宇宙には、中心というものはなく、どこまでも中心も辺境もない果てしのない空間が広がっているということが当たっているのかもしれ ない。円の周囲を歩いているものにとっては、今いるところがだけが中心であり、実は中心というものがない。心理学における「マンダラ」という概念も、案外 その中心概念があるようで実はないユングの弟子の河合隼雄氏が言う如く、「中空構造」こそマンダラの本質なのかもしれないと思うようになった・・・。了  佐藤記

 

 


2004.7.23 佐藤弘弥

義経伝説ホームへ

義経エッセイINDEXへ