茅ヶ崎の義経伝説を巡る


 

茅ヶ崎の総鎮守「鶴嶺八幡宮」の一の鳥居
(2004年12月23日 佐藤撮影)

鶴嶺の鳥居の裏の一隅の弁慶塚に塵ひとつなき

1 弁慶塚

茅ヶ崎駅に降りたのは、十二時四十分頃であった。そこから国道一号に出て平塚小田原方面へ歩くこと二十五分余りで、千の川の袂に着いた。そこにはスカイブルーの橋が架かっていて、「鳥井戸橋」の名が記されていた。橋の向こうに、朱色の鳥居が見えた。青い冬の空に朱色が映えて実に鮮やかだ。鶴嶺八幡宮の鳥居だろうか。

いよいよ「弁慶塚」に対面出来るのかと思うと胸が高鳴った。橋を渡り鳥居の正面に来ると、朱色の鳥居は、やはり茅ヶ崎の総鎮守鶴嶺八幡宮の一の鳥居だった。参道が真っ直ぐに遙か向こうまで伸びている。道の両側には、松が植えられていて、独特の雰囲気を醸し出している。実に大社の印象である。

ところが、弁慶塚が見あたらない。鳥居の側に弁慶塚があるということを聞いていたが、それがない。すれ違う人に「恐れ入ります」と聞いてみる。土地の人だろうか。その人は、「はあ」と言ったきり、キョロキョロと辺りを見回していたが、「ほら、あそこに弁慶塚の矢印がありますね」と指さしてニヤリとした。地元の人も、この地に弁慶塚があることを余り知らないようだ。確かに「弁慶塚→」との小さな札が民家の塀に掛かっていた。鳥居を潜り20mも下ったところだ。

矢印は民家の一角にあった。「ご遠慮なくどうぞ」という表記に促され、恐縮して小さな公園のようになっている庭に足を踏み入れた。庭の奥の一隅に何かそれらしいものがある。近寄れば、石囲いに壇上に「弁慶塚」の小さな石碑が立っていた。高さにして80cm余り。裏には何も記されて居らず、いたってシンプルなものだ。

背後に立札があり、「弁慶塚の由来」が書かれていた。
 

武蔵国稲毛(川崎市)の領主稲毛三郎が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、建久九年(1198)十二月二十八日その落成供養を行った、源頼朝は多数の家臣を引きつれてこの式に参列、盛大な落成式が行われた、頼朝はその帰途鶴嶺八幡宮附近にさしかかったとき、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年(1199)一月死去した。五年里人たちは相計り義経一族の霊を慰めるため、ここに弁慶塚を造ったと伝えられている。

昭和57年十一月一日

茅ヶ崎ロータリークラブ
茅ヶ崎郷土会

千の川に架かる鳥井戸川の近くにある弁慶塚
((2004年12月23日 佐藤撮影)

この説明によれば、この弁慶塚は、義経の霊を慰めるために里人が立てたということになる。不思議だ。もしもここで頼朝が倒れて亡くなったとすれば、頼朝遭難の碑か何かを立てて、供養してもよいはずではずである。それが何故義経なのか。何かよっぽど、怖ろしいことが、その日に起こったのであろうか。手を合わせて、その場にしばし佇み、いったい何があったのかと考えると、背筋を冷たいものが走った。
 
 

茅ヶ崎の弁慶塚にひざまずきはてなふしぎと思案はめぐる





2 旧相模川橋脚
 

鶴嶺八幡宮の一の鳥居のある鳥井戸橋から、平塚の方へ東海道を500mばかり歩くと、有名な史跡「旧相模川橋脚」がある。不思議なのは、「相模川橋脚」とあるが、今そこを流れているのは、小出川である。ここを昔は、相模川が流れていたと言われている。八百年の間に川筋が変わったということである。相模川はこの周辺を流れる時、「馬入川」(ばにゅうがわ)という奇妙な名で呼ばれていた。

この「馬入川」という奇妙な名の由来は、頼朝の乗った馬がそこにはまったというので、馬入川と称したと言われている。しかしこれは俗説であろう。おそらく真相は、浮き橋で馬がよく川にはまることがあって、「馬がよく入る川」、そして「馬入川」となったもので、それがいつしか頼朝の奇っ怪な死と結びついて伝説化したものと思われる。

もうひとつ大きな疑問がある。相模川は大河なので、当時はきっと舟のようなものを繋いだ浮き橋のような構造だったのではないかということだ。それにしても民衆の想像力は、結局頼朝と義経の確執とそれに続く頼朝の死亡のエピソードを「馬入川」という奇妙な名前と何となく結びつけて、伝承してきたのであろうか。

現在そこには、大きな「下町屋橋」という橋があり、その橋の左方に「旧相模川橋脚」という史跡があった。しかし残念なことに、現在橋脚には、すっぽりシートが被せられていた。文化財保存の為の「確認調査工事」(期間7月1日〜)とのことだが、工事終了日は、記されていなかった。来年桜の咲く頃には、元の雰囲気が戻るのだろうか。

茅ヶ崎下町屋橋の袂にある史跡「旧相模川橋脚」
(2004年12月23日 佐藤撮影)

生者には死者の怨霊黒雲の合間飛びくる矢玉のごと見ゆ

史跡の傍らに、こんな板婢が立っていた。
 

史跡

旧相模川橋脚

大正15年10月20日 文部省指定

小出川に沿うこの一帯は、永らく水田であったが、大正十二年(1923)および十三年一月の大地震によって七本の橋脚が地上に出て来た。その後、地上に埋もれたもの三本が発見された。相模川は、鎌倉時代には、この辺を流れていたが、川すじの変化によって西方へ移ったもので橋脚は土中に埋まったまま七百年をへて再び地上に露出したものである。橋の巾は七米(四間)くらいと推定され、全国でも数少ない大橋であったと考えられている。

昭和四十六年三月十五日

神奈川県教育委員会


板婢の説明によれば、これは大正十二(1923)年9月1日に起きた関東大震災の時に、当時の水田の中から、突如として現れた数本の杭が現れ、これが調査の結果、旧相模川に架かっていた橋脚の一部ではないかということになり、それから三年後、急遽、「旧相模川橋脚」として、史跡に指定されたたことになる。結果、この橋脚は、1198年十二月二十七日の折りに、頼朝が橋供養のためにやってきた因縁の橋と考えられているのだが、どうしても素朴な疑問が残る。

大河の相模川に架かる固定式の橋などを造る技術が、その当時あったとは、どうしても思えない。当時の川幅がどれほどのものかは不明であるが、少なくても200mだとしても、浮き橋以外には考えられない。その上に、橋脚の幅が7mというのも、余りにも短い。これでは、現在の小出川でも間に合わない幅である。更に軽々なことは言えないが、地質学的にみて、僅か八百年ばかりの間に、河が1.5キロも移動するというのも疑問である。平泉の柳の御所の前を流れる北上川も、川道が移動したと云われるが、僅か100mばかり東であると推測されている。

ところで、吾妻鏡の建暦二年(1212)二月二十五日の条に、次のように記されている。
 

相模国相模河橋数ヶ間朽ち損ず。修理を加えるられるべきの由、義村これを申す。相州、広元朝臣、善信のごとき群議あり、去ぬる建久九年、重成法師これを新造し、供養を遂ぐるの日、結縁のために故将軍家渡御す。還路に及びて御落馬あり。幾程を経ず薨(こう)じたまひをはんぬ。重成法師またわざわいに逢ふ。かたがた吉事にあらず。今さらあながちに再興あらずといへども、何事かあらんやの趣一同するの旨、御前に申すのところ、仰せて云はく、故将軍の薨御は、武家の権柄(けんぺい)を執ること二十年、官位を極めしめたまふ後の御事なり。重成法師は己が不義によって天譴(てんけん)を蒙るか。全く橋建立の過(とが)にあらず。この上一切不吉と称すべからず。かの橋あること、二所御参詣の要路たり。民庶往反の煩ひなし。その利一にあらず。傾倒せざる以前に早く修復を加ふべきの旨仰せ出さると云々。(全訳「吾妻鏡」三 新人物往来社)


これは、頼朝が橋供養にきてから、十四年後の建暦二年(1212)二月の公式文書である。将軍は、頼朝の次男実朝(1192-1219)。橋が傷み修理する必要が生じて、将軍実朝が、倒れるようではいけないと、修理を命じた文書である。ここで重要なのは、頼朝の死の真相が語られている点だ。この間、どのようなことがあったかは、もちろん定かではないが、頼朝の身に異変が、この橋から鶴嶺八幡宮の一の鳥居の周辺で起こったことは確かである。距離にすれば500mばかりの街道の一角での出来事である。そこに怨霊となった義経が介在してくるのだが、私はどうしても陰謀の臭いを感じてしまうのだ。

橋のことについて言えば、確かにこれを読む限り、「傾倒せざる」とあるのだから、浮き橋ではなく固定の橋脚のように思える。ただ大いに疑問が残る。果たしてここに記されている「相模河橋」とは、本当に相模川に架かる橋を指しているのだろうか。稲毛重成が、架けた橋は、本当に相模川だったのか。こんなことを書くと、通説に異を唱えることになるので言いにくいのだが、当時の相模川の川幅がどれほどのものかは分からないが、何百メーターもある大河に、固定式の大橋を造る技術があったとは思えない。もしも仮に相模川に橋を架けるとすれば、浮き橋以外には、当時の技術からして無理ではないだろうか。関東大震災で現れた橋脚が余りに鮮烈であった為に、先に結論がきてしまって矛盾が生じた可能性はないのか。この橋が小出川や千の川に架かった橋というのなら辻褄は合うのだが・・・。

空を見上げると、さっきまで晴れ上がっていた西の空に急に不気味な雲が集まってきて、沈みゆく夕日を塞いで辺りが暗くなった。雲間からは洩れる夕日は一筋の光となって、小出川の河口を照らしている。橋脚の傍らで、生者だった頼朝が見た怨霊と化した義経を思った。ふたりの兄弟の確執を思った。改めて歴史の闇に隠された血を分けたふたりの兄弟の生と死のドラマの凄まじさを見て怖くなった。それにしても、稲毛重成は、亡くなった妻(政子の妹)の供養をしようと、橋を造り、その大工事の完成を祝いに来た頼朝は、10年前に策を弄して殺害した弟義経の怨霊を見て死んだのである。
 
 

怨霊の九郎判官現れし矢的原(やまとはら)とは何処にありや





3 御霊神社

最後に義経を祀るという御霊神社に行くことにした。千の川沿いに茅ヶ崎駅の方に戻って行くと、既に夕暮れが迫っていた。時計をみれば、午後4時近くを指していた。そして東の空には、かなり膨らんだ月が白い光を放ちはじめていた。

御霊神社の存在については、今日ここに来るまで、まったく知らなかった。弁慶塚に行った際、地元の方に、「この付近に義経さんを祀った跡などはありませんか?」と聞くと、「鳥井戸橋の前を向こうに渡って南湖という場所に御霊神社がありますよ」と、教えていただいた。とにかくびっくりした。茅ヶ崎にも義経公を祀る神社はあったのだ。

義経公を祀る茅ヶ崎の御霊神社
(2004年12月23日 佐藤撮影)

白き月御霊神社に懸かるのを無念の人の潔白とよむ





十三夜の月が輝きが増すのを横目で見ながら、南湖の左富士と呼ばれる景勝地に戻り、住宅地を抜けて御霊神社に着いた。鳥居の左前に赤い昔ながらの郵便ポストがある。この鳥居から50mばかり参道があって、奥に瀟洒な社が立っていた。御賽銭箱に笹竜胆の紋が彫ってあった。鈴を鳴らし二礼二拝の型通りの祈りを捧げた。社の左脇には「御霊稲荷神社」があり、朱色の鳥居と奥に小さな社がある。

見れば本殿の扉に以下のような由来書が掛けてあった。
 

御御霊神社由来

勧請年月日不詳と雖も、往古より御霊山西運寺の領有地にして毘沙門天をまつる毘沙門堂あり。これ現称御霊神社の前称なり。(この間一時御霊社と称する事もあり)

口碑に依れば治承年間(1177〜1182)当大庭庄懐島に住む懐島権守平景能、この堂に鎌倉権五郎平景政の霊を奉斎すと。

又建久九年(1198)源頼朝、相模川橋供養の際、義経の怨霊現る。乗馬驚き、公は落馬、亡したる為、人々、其の怨霊を慰安する意厚く、義経の霊を当社に合祀す。

代々西運寺住職別当たりしも、明治初年に神仏分離に際し独立するに至る。今の社は昭和四年改築す。


なるほどと感じた。この神社は、神仏混交の時代には御霊山西運寺の毘沙門堂であった。もちろん毘沙門天は、義経の守り本尊である。義経の怨霊が現れた後、この周辺の人々は、義経の怨霊を畏れ、その霊を鎮めるために、義経を祭神として祀ったものであろうか。それにしてもいつも思うことだが、明治維新以降廃仏毀釈によって、日本人の信仰に大きな傷がついたことを思い知らせれる。その理由は、この御霊神社が、この背後の位置にあるかつての別当寺の西運寺に比べ、粗末な印象に見えたからだ。

もしもこの神社が、廃仏毀釈で分離されずに、そのままであったら、もっと別の発展を遂げていたであろう。日本学を標榜する哲学者梅原猛氏は、明治維新について、「廃仏毀釈は仏を排斥して神を遺したといわれているが、実は神も排斥した」(岩波書店「世界」2004年9月号)と明確に語っている。同書で、氏は、「滅ぼした人たちを鎮魂する神社をつくる」のが「日本の伝統」と云うことも言っている。その意味では、義経を祀る藤沢の白旗神社も、茅ヶ崎の御霊神社も、日本の伝統を具象化した神社ということが言えるのではないか。

茅ヶ崎に判官館はあるかとぞ尋ね歩けば御霊社に着く
 

茅ヶ崎の鶴嶺八幡宮
(2004年12月23日 佐藤撮影)




4 鶴嶺八幡宮

長い参道を抜け鶴嶺八幡宮に向かった。歩きながら湘南の海からこの参道を通って八幡の神がこの地に勧請された経緯を思った。伝承によれば、源氏縁の八幡様は、鎌倉の鶴岡八幡宮の勧請以前に、既に懐島(ふところじま)と呼ばれたこの地に祀られたとも伝えられる。

八幡宮の特徴は、長い参道である。この鶴嶺社の参道は、764mほどの距離だという。大きな太鼓橋を過ぎて南大門を潜ると、左右に石灯籠が並んでいる。玉砂利の参道をさらに行けば、左右に源平池があった。池は水を抜かれており、正月の初詣の準備だろうか。鴨たちが数羽わずかに残った池の水溜まりに群がって戯れていた。奥にかすかに本殿が見えた。まさに境内の配置は、鎌倉の鶴岡八幡宮とうり二つである。

社伝によれば、この地に京都の石清水八幡宮を勧請した人物は、源頼義(988-1075)と云われる。奥州鎮守府将軍として奥州多賀城に赴任した頼義は、前九年の役(1051-1062)で息子義家(1139-1106)と共に奥州の安倍一族と対峙し、苦戦の末に出羽の清原氏の助力を得て、これを滅ぼすなどした源氏の棟梁であった。もちろん頼朝や義経は、この人物の血を引く武将である。安倍一族との戦の戦勝祈願をするためにこの地に八幡宮を建てたものであろうか。

さて私がこの鶴嶺八幡宮に注目した理由は、義経の鎌倉第(鎌倉邸)を探していたからである。これまで平家打倒で立ち上がった兄頼朝の下に勇んで馳せ参じた義経の郎等は、わずか数名で、そのために義経の宿舎は、頼朝の宿館であった大倉第の一室ではないかと云われてきた。ところが最近の研究から、義経の家臣団の数が、奥州の佐藤氏(継信・忠信)の郎等を中心に、数十名から百数十人という説が出るようになってきた。

私は、平治物語(百騎)、吾妻鏡(兵の数の記載なし)の記述、福島の白河神社附近に伝わる伝承などを綜合して、八十騎ほどではないかと思っている。おそらく、義経が得意とした奇襲戦法も、高度に訓練された騎馬軍団を手足のように駆使できたからであろう。

八十名説の根拠についてであるが、例えば、一の谷の合戦で、この時、義経と共に鵯越えから逆落としを敢行した者は、七十騎と云われていて、先の私の八十騎という数字ともほぼ符合する。私の考えでは残る十騎は、後方支援に回ったのではと思うのである。

また翌年の屋島の合戦でも、嵐の海をついて船出した義経の兵は150騎であったが、佐藤継信が義経に飛んできた矢弾を受けて死んだ翌日、平家軍が陣地を奪回しようと押し寄せてきたところを敢然と追い払った時の兵の数も八十騎であった。このことからも、義経の家臣団の数が割り出せると思うのである。

奥州の信夫庄に大鳥城を擁する佐藤一族は、奥州藤原氏の縁戚で、共に藤原秀郷の流れを汲む部門の家である。平治物語にも、当時の佐藤基治(元治)の妻の話などが記されているが、白河の関を越えて、奥州の守りの要の位置に佐藤一族がいることは、それだけでも奥州藤原政権内での力を示すものと云ってよい。

最近では、義経の最初の妻が、この佐藤家の娘ではないかと云われるようになった。そうすると佐藤基治にとって、義経は大切な娘婿ということになる。義経は、鎌倉に参じた時、すでに女児の父であり、この女児は政略によって伊豆源有綱に嫁いでいる。貴種の源義経を婿に付けた佐藤基治は、鎌倉でいえば、北条時政にあたることになる。そして、義経のために二人の息子を含む精兵の奥州騎馬軍団を餞別として与えたのであろうと推測される。まさに義経の無類の強さの秘密はここにあったと思われる。

もしも義経の騎馬軍団が80騎ほどの数であるとすれば、この人馬の寄宿する場所が必要となる。奥州の産馬を飼い、この兵士たちが、三年間も、鎌倉に居たのであるから、大変な費用であったろう。この勘定方も必要であり宿舎を構える必要もあったはずだ。八十騎の人馬が暮らせる場所と言えば、やはり相当な広さを確保しなければならない。鎌倉に、今義経第と伝わるようなところは一切見あたらない。

小さな義経の宿舎は鎌倉にあったとしても、精兵八十騎を鍛えておくには、やはり郊外が一番相応しいと考えられる。第一候補として、私は、藤沢の白旗神社一帯から現在の遊行寺にかけての一帯を、第二候補として、この茅ヶ崎の鶴嶺八幡宮(懐島)一帯を想定したのである。その理由は以下のようなことからである

つづく



2004.12.24 佐藤弘弥

義経思いつきエッセイ

義経伝説