続・栗駒の話







序文
 
私は栗駒の古老から聞いた話を、(それは昔話しや、伝説や、世間噺などであった)昭和四十三年に自費出版で五〇〇部を発行した。

その時は高校学校の先生方や、民俗関係の先生方から、こんなものを書いて恥かしくないのか。学問的に価値のないものと批判された。

しかし、その後に、大谷辰紀先生の『山の神舞』、三崎一夫先生の『陸前の伝説』、『一関市史』等。更に株式会社日本標準発行の『宮城の伝説』、同『宮城のむかし話』等にも引用され、参考文献として用いられたりして居り、又その後残部あれば欲しいとの照介を受けている。

あれから十年、ようやく解ってもらえたことに感慨を深くしているところである。常民の生活を知るには、何よりも伝えられる世間噺しが一番である。それこそが常民の生きた歴史資料なのだ。そんな単純な理を私は、民俗学という未踏の道を己の足でひたすら歩み続ける宮本常一氏に学んだ。宮本氏を初めとする先生方の努力により、これまで学問的に扱われなかった伝承や御伽話に光りが当たって来たことが何よりも嬉しい。一見ただの笑い話のような話の中に、実は日本に営々と住んで歴史の中で忘れ去られてきた庶民生活の歴史そのものが眠っている。

さきに書いた「栗駒の話」のあとに、又、聞いたのが二、三あるので、「続・栗駒の話」として残して置いたなら何かの参考になるだろうと思ったので覚え書きとして書き残したいと思い、このノートに記すことにしたのである。

私も六十五才となった。この頃、ボケも始まって来たようにも思える。人の話を聞いても、すぐに忘れること多く、又忘れたのを思出すことが困難になって来た。ろくなことは出来ないがやって見ようと思う。
 
 


第一話

狩野善雄君に聞いた話

一、
ムジナ(狸)とマミ(笹熊)は同じ穴で越冬するといふ。ムジナは越冬期間でも穴の外に出るがマミは三月下旬越冬が終るまで穴より出ないと言ふ。
外気が暖く感じられるようになると穴の内で
マミ「ムジナ衆や、バッケェ(蕗の台)出たかや」
ムジナ「まだまだ出ない」
ムジナはマミをだまして独りでバッケェを食ってしまうだとや。越冬からの食付は蕗の台であると云ふ。

二.
熊の越冬からさめるとヤツジックイ(水芭蕉)が食付であると言ふ。

三.
又、熊は仔を放しときは六月頃である。
山イツゴが熟して一面のイツゴの盛々である。仔熊は一心にイツゴの実を食っているとき親熊は逃げてかくれる。
仔熊はそれから独立するといはれる。

四.
熊は地竹(熊笹)を好む。筍を抜いて笹中を、かかえて歩く。一ヶ処に集め筍の皮を爪で砕く。筍の皮に従に爪で傷をつけ中身だけ食って捨てる。人間が筍子
があると思って拾ふてだまされることがある。

五.
熊は酒コ好きだ。
小都田の佐藤嘉爺は酒好きだから後山の岸焼き小屋の近くに濁酒造っていた。今日あたりは出来ているだろうと思って、手桶をタガイテ(持って)行って見たれば、濁酒の桶が無くなっていた。
そこら中をタネダ(探した)(尋ねた)けれども無かった。沢のイリ(奥)で鼻イビキが聞えるので、行ってみたれば熊が酒気を吐いて寝ていた。そばには濁酒造った桶が横になって転っていた。
嘉爺んちあ、オツカネエ(恐しい)からソコソコと帰って来た。
ぢんちあ、口惜しかったから、なんとかしてかたきとってやろうと思っていた。
息子と相談して又、酒コ造っていたツモ。今度はキヅク(強く)造って、まっとキヅクする様に焼酎買って来て追加して桶には笹を覆って置いた。
又、熊が来て濁酒コ全部飲んでしまった。酔ってしまって寝て一週間も起きなかった。ぢんちあまし、息子と二人でモドッチ(荷縄)で縛って生どりにしたツモ。

六.
此頃は又、狐がフダ(多く)になって来て野菜畑を荒される様になった。
狐は肉食の動物で鶏金を襲ことがある。キミ(黍)やキウリ(胡瓜)も食ふ。
一夜の中に畑を荒らされることがある。
狐と言ふ字もこのことから出来たのかも知れない。

七.
フンヌキ(刈株を足に刺しこと)には
1. 味噌キウが良い
2. カマキリ虫を黒焼きにして飯で練って張付ける
3.熊の骨でとる
釘を踏んだときには金槌で傷口を打つ

八.
エノゴが出たときは
ホドアク(熱灰)に足のカカトを三点つけてそのあとにオキ(燠)をはさむ。

九.
馬が笹を食って喉(ノド)につまったときは三本足にして曵くとなほる。

十.
凍傷の薬
笹の葉を土器のつぼでむし焼きにしてうどん粉と酢で練って張る。
市野々の倉松爺んちあは、まじないをした。

十一.
乳はれのときは、タンポポの根をつぶしてうどん粉で練って紙にのばして患部にはった。
 
 


第二話

千葉竹治さんの話

昭和五十四年の夏、県道改修工事のために山下一氏先生のショウ徳碑を馬場農業担平センターに移転した。そのとき千葉竹治さんが話して呉れた。

昔々講談社から「キング」と云ふ雑誌が出ていた。あるときの新年号に衆議院議会議長の藤沢幾之輔先生が「随咸随想」と題して寄稿したことがあった。先生から村役場宛に二冊の「キング」誌が届けられ「私は栗駒村で少年時代を過したが二入の偉い先生の薫トウを受けたことは幸福であった。但しあるとき二人の先生の意見が異ったことを記憶している。即ち山下一氏先生は武士の子は鰯(イワシ)の骨や頭を食ふは賤しい行為であるといって魚の食い方をたしなめた。
丹野清内先生は武士は戦場を馳け刻苦カン難に耐えなければならない。
食事はどんなものでも食ふべきものであることに鰯(イワシ)の骨も頭も食べよ」と言ったとカイジュツしていた。
そのキング新年号を山下、丹野両先生の子孫に届けてほしいとのことであった。山下先生の弟子には一ノ関の穂積小一郎。今、千葉市郎左ェ門、沼倉では千葉太郎左ェ門。遠蒔敬治郎先生(大工先生)等がある

(大工先生)
遠蒔敬治郎先生(大工先生)には面白い話がある。田植が終るとみんな温泉に湯浴に行ったものである。米と味噌と酒など運搬して半月も湯浴場で楽しく過しことは嬉しいことであった。先生は湯浴に行ったつもりで自宅で風呂をたてて入り座敷で自炊しながら格別の料理で酒を飲みながらユカタがけでゆっくり休養していた。

ある日雷雨があったときに家人は田草取りしていたが小麦を庭に干していたことを思出した。けれども敬治郎先生が家で風呂に入って休んでいるから干物は仕末してけたろうと思っていた。書飼に帰って見ると庭の小麦は雨にうたれてずぶぬれになったままであった。おかたが
「なんだべ、ちんつあま干し物入れてけたらえかつたべに」て小言いつたれば先生は
「湯浴場から干物入れさコラレねかった」
といってしましていたといふ。
 
 


第三話

三の字が集った話

三条の小畑栄三郎が文字の兵三郎村長にたのまれてサラガメ(皿カメ)のサンリン(山林)で林道工事を請負って木鉢の千葉喜三郎に仕事をさせていた。喜三郎は親分の栄三郎に仕事の打合せに現場から三条迄下りて来た。昼食(おひる)のときほほかむりして食っていたつも。友達が来て「めし食ふときはほほかぶりとって食ったらエがべちや」て言ったつも。ほほかぶりが返力したつも「カテめし食ふのにほほかぶりしてなしたてや。ホデ一そめし食ふとき裸になんねべなんめえ」と返答したとや。
 
 


第四話

岩沼の佐々木喜一郎先生

岩沼の佐々木喜一郎先生は「二木の松」の調査をされた方である。
先生は郷土史は中央の先生方は知らないものである。たとえば松山街道を聞いても知らない。
又、松尾芭蕉は日記に、古市源七と書いている。ある研究者が古市源七を調べても判らなかった。それは地元で聞くと古内伝吉であった。郷土史家は調査して資料にすることが肝心であろう。
 
 


第五話

千葉正美さんの話  天狗(アマイヌ)事件のこと

むかし沼倉に天犬(天狗)事件というものがあった。アマイヌとは、神社に一対の唐獅子を建立しているものであった。一匹は口を開いた「阿」(ア)と呼ばれ、もう一匹は「蘊」(ウン)と呼ばれて、口を閉じている二匹のライオンの像である。

明治四十一年の頃に村会で各部落の神社を駒形根神社に統合することにした。その時、桑畑部落の速日神社で唐獅子を置いて来た。(運搬の時残した)

円年寺の山上和尚が、それを寺の馬頭観音様に持って来て祭っていた。

ところがお駒様の宮司鈴杵伊織神官が人夫を頼んで、円年寺から無断で神社に運んで来た。それで寺と神社とが、犬喧嘩をして、今でも仲が良くない。

その時の人夫は、千葉宗助、鈴木末五郎、五十嵐巳之吉、千葉正美。今福節、の五人であった。 

こうして神社側は勝利したのであったが、
人夫をした宗助の父、千葉常治が気の毒に思ったので、登記人となって、村内から寄附を募り、円年寺へ石の燈籠を建てた。

しかし宗助を憎んでいた和尚は、常治に対してもその死後、法名に院号を付けず庵号で済ませた。

このことで和尚は、世間から非難が大きかった。宗助はどうでも、常治は、村の収入役、村会議員、村の山林係書記、その他を歴任した名士として知られた人であったからだ。
 
 


第六話

悪日

旧暦 十七日 葬式 悪し
〃   一日 婚礼 悪し
    九日・十九日・二十九日 ? 家作屋根葺に悪す
気を付けよ
 
 
 


第七話

風呂場の話

昔は風呂場に電灯がなかったから夜は灯ちんをつけて湯に入った。
金沼は目が弱かったから湯につかりながら「先の人が石ケンを忘れて行った」と思って石ケンの浮いていたので体にぬりつけて洗った。ところがそれは石ケンでなく固い糞であった。
湯加減が上等であったから「アーエー湯だった」と言って上機嫌であったそうだ。

これは婦人の話
子供が湯の中で糞たれて浮んでいた。女の人が びん付油だと思って頭につけてたとや。
 
 


第八話

曾我の雨

曾我(そが)の雨 旧五月二十八日
 
 


第九話

史講会にて




五十八年一月二十五日 史講会にて

三浦哲郎氏 ○「懸魚」持参した。銅制の魚の形のもの
         ○ 屋根葺の巻物。三浦氏、書写したもの

鎌田重三先生 ○長楽庵の文書と碑文
 
 


第十話

召集

慶応四年八月の戌辰の後には各村々から召集された事であったろう。
栗原の小野寺専吉(嘉永二年二月二十九日生(一八四九年))も召集になった。この人は結婚したばかりの人であった。

それを気の毒に思って浅野勇七(嘉永五年三月二十八日生(一八五二年))といふ人がおれが行ってけっからといって代現に応召した。
専吉方では勇七さんは恩人であると感謝していたといふ。
 

慶應四年八月、戊辰の役のとき玉山の丑松(ウシマツ?)は軍夫として召集になったが父親の久沼は、丑松は久沼が年寄ってからの子で戦争にやるのがもぞこッいので明玉の人を頼んで代人に出てもらった。
「籾 十六俵。銭 大盃で一杯。」の約束だったといふ。

久沼はそれまでは財産家であったが、それからはあまりくらしが良くなかった。籾十六俵は玉山で一年間の収穫物であった。久沼の先妻は子がなく津渡井(沼倉)から子供二人を連子した後妻をもらった。一人は田中の西に別家に。一人は(金成町)大原木に別家に出した。
丑杉は自分の子で晩年の子であった。

位牌は楢板であり今も柳ノ目の忠雄さんが所持しているといふ。
 
 


第十一話

堰義文化財について

栗駒町に人間が住んだのは、いつのころからであったろうか。その当時の生活はどんな生活であったろうか。それを教えるものは貝塚、古墳、エゾ塚、エゾ穴等の遺跡遺物である。即ち遺跡調査によらなければならない。
遺跡は縄文時代に長い間人が住んで居た所であることがわかる。

そこからの出土遺物によって役何年前のものであるかが明にされることが出来る。その人々は栗駒町を開拓した人達であり、われわれの先住民である。

出土品はその頃の生活内容の保証人であり歴史の保証人である。然しこの保証人は今、地下にしまいこまれています。そして長い間忘れられています。それを掘り出して調査する仕事が考古学といふ学問なのである。

ヘロドトスといふ人はギリシアの有名な歴史学者であるがイギリスのペトリーといふ考古学者は
「一つの土器のかけらはヘロドトスの「歴史」全巻よりもずっと雄弁である」といったといふ。この話でこの言葉の意味がわかると思ふ。

長い間には有機質のものはくさってしまう。残されているものは石で造った器具と土をこね固めて焼いた土器である。
その土器と石器を調査して祖先の生活を知り町の歴史を確立する必要がある。

石器を唯一の道具として狩や漁を仕事とした原始時代、その後金属器具を使い農業起した古代と長い時代の頃を研究するには考古学を勉強しなければならない。
日本の考古学者は時代を区別するのに土器を以て一つの基準としている。

原始時代 先土器時代――土器をまだ使っていなかった時代
         縄文時代―――縄文式土器の時代

古代 弥生時代―――弥生式土器の時代
     古墳時代―――土師器式土器の時代。この時代に古墳がさかんに造られた

土器や石器の調査は先ず出土品を見つけることでありますが、畑の耕作のあと、道路工事のあとなどを註意する、即ち表面採集といふことである。
場所は展望が良く清水のあるところといはれているが、高原地が理想である。
標高は栗の木の植生限度といはれる、黒土と黒土の下、赤土の中と地層の確認が必要になって来る。

※ 大洞式といふ土器の標準様式は東大の山内清男教授によって設定されたものであるが、大船渡市赤崎町大洞遺跡から出土した土器のこと。

さきに町教育委員会で発行した小中社会科

副読本「わたくしたちのふる里くりこま」五六頁に町内で土器や石器のほり出されたところ

○ 尾松の桜田、栗原、八幡、清水田
○ 鳥矢崎、猿飛来、あらやしき、梅田、小学校西
○ 上文字
○ 姫松の長者原

五七頁
姫松泉沢、長者原遺跡から「たて穴式」のすまいのあとが二つ発見されたとあります。又、エゾ土疂、鳥矢崎古墳が報告があります。

栗駒の沼倉には次の出土品があります。
1. 滝野遺跡 関場正氏畑 土器、石器
2. 上田遺跡 狩野善雄宅地 石器
3. 楠ヶ沢遺跡 千葉信夫水田、佐藤晃弥山林、佐藤順太夫畑、土器、石器
4. 鳥屋山遺跡 口有林土器、石器
5. 木鉢遺跡 千葉晃男宅地(石器)
          千葉信男畑(石器)
これらは昭和五十年頃より五十九年迄に千葉光男(文化財保護委員会)によって報告されています。

文字の鍛治屋からは
野沢館の遺跡から(千葉義光宅地)石器の出土品が出ています。これも金野正氏と千葉光男によって報告されています。
 


第十二話

風土記書上げ

風土記書上げの
沼倉村 田代 百十九〆五百二十九文
    畑代  十八〆四百六十三文
  内茶畑代       四十五文

(一〆は十石・一文は一升)
 
 


第十三話

茶臼

円年寺の境内に茶臼がある
むかし農家の嫁が一日の重労働につかれて夜業のとき眠気をもよおして困ったときはこの茶臼に願をかけ手でさしれば眠気が退散すると信仰を集めていたものである。
 

茶臼  

沼倉円年寺の茶臼を紹介する。
茶はツバキ科の常緑低木でと東南アジアの温・熱帯地方が原産地であるという。
五月頃に嫩葉を採取して製し飲料とする。
湯を注いで用いるのを煎茶といい、粉にして湯にまぜて用いるのを抹茶という。

いつの頃からわが國に栽培され愛用されたかは不肖には不明である。

安永六年書上げの風土記には

沼倉村 田代 百十九貫 五百二十九文
       畑代  十八貫 四百六十三文
   内茶畑代        四十五文

松倉村 田代 百二十貫 七百四十二文
       畑代  十三貫 六百四十二文
   内茶畑代      二百二十七文
(貫=十厘 文=一升)

と報告されている。
ここで気にかかる事は雄潘一関には茶の栽培がなかったことである。あるいは茶栽培の北限は栗原郡迄と考へられる。

茶の栽培と同時に考えられることは、製法のことである。

一. 乾燥して湯を注いで飲む
二. 乾燥して粉にして湯にまぜて飲む

製粉の道具に臼が考えられる。
※ 広辞苑には「茶臼」茶葉と碾いて抹茶とするのに用いる。

石臼

京都府宇治朝日山の石を古来賞用とあり茶臼は石室が問われていたことが考えられると現在沼倉の円年寺にある茶臼は、沼倉邑主・沼倉氏が京都より持参したものでなかろうかと想像できる。

この石臼は沼倉長林地内に学花山長林寺が隆盛を極めていたときに山火事に遭遇し堂宇焼失してその後再興ならず荒廃地となっていたが、先年(昭和四年)その焼跡から円年寺先住芳宗師によって移転され保管されているものである。現在屋外にあり風雪にさらされてはいるが貴覚な民俗資料である。長林寺相殿の太子堂は応永二年(一三九五)所建であるという今から五百九十年前である。
 
 


第十四話

永洞
菅谷不動尊

あるとき対岸の場所に移転したことがあったが、元の場所へ戻ると旗が立ったりしたので、又元に戻して宮を再建した。
それは滝の音を聞きたいといったと。
不動には滝がつきもの。

普賢堂の長谷地にも菅谷不動尊あり
 
 


第十五話

義経の足跡石
衣石の近くに義経の足跡石あり。
 
 


第十六話

火のたきつけ方

雨の中で濡れたとき火をたきつけるには、竹の皮を綿にして火をつける。
 
 


第十七話

熊の生れは 十二月頃か一月頃以
育つ迄は巣の近くに居る。
 


第十八話

レオナルド熊さん
レオナルド熊さん。
鈴杵伊織氏の姉(北海道)の末子(七番目)である。
 
 


第十九話

鈴杵伊織氏
昭和六〇年二月五日
鈴杵伊織さんの話(八十八才)
橋本今朝法さんと同級生であった。
橋本は宮城農学校を出て美男子であった。彼は一年志願制で入隊して軍曹に任官、習年見習士官となる(小尉に任官した)
当時一年志願に入隊するには一〇八円を納めなければならなかった。私は一〇八円の金がないので行けなくて、二等兵で入隊した。当時(ママ)(年戻)で(ソウゾリトリ)で一年に一〇円であった。

■ 丁検査場は金成町つたや旅館にて行われ検査では騎兵であったが武田信兵事係の世話で歩兵にしてもらった。

丹野伸二氏より
「鈴杵さん兵隊は神聖で固いところと思っては駄目だ。エコヒイキのあるところだから、要領良く立まわれよ。早く自分を覚えてもらえ。
学科のときも質問のときは早く手をあげよ。答はどうでも」
といわれた。これはほんとうであった。

将校室に大宮■臣小尉であったが呼ばれて入った。
この人は中教院の先生の息子であった。こと人に世話になって二年兵(上等兵)にたたかれることをまぬがれた。

二年兵が夜消灯ラッパの前にビンタをした。
「これからお前達に大和魂(タマシイ)を入れてやる」といって一列に並ばせて皮のスリッパで顔を打ったものだ。
そのときは要領良く打たれる前に大宮小尉の室に入ってビンタをまぬがれた。

消灯ラッパは
「連隊長のマラ見たか 
太くて皮かぶり……」
と吹いたものだ(その様に聞こえた)
タンタンタンタンタタタタター
 


第二十話

山下一氏先生の歌






君(キミ)はまた弥太郎(イヤダロー)とは思ひども昨日今日来他人ではなし

桑畑弥右ェ門の人達
山下一氏先生の歌
 


第二十一話 

駒形根神社拝殿

作者南部久冶
2間〜3間
流れ造り

図1


       

 
 
殿
 

平殿

神主の拝ぐ


 

     拝

奉幣便参拝
 

一般参参拝

殿

 


第二十二話

図2


秋葉山神社

昔の駒形根神殿

招コン社

 

長  房


 
 

2間


 
 

8尺
 


 
 

2間

                                               (縦2間)
 
 
 


第二十三話

菅原一郎さんより

三チイタツ
四月一日 綿ぬきのちいたつ
六月一日 むけのちいたつ
八月一日 八さくのちいたつ

五部の句
一月一日
三月三日
五月五日
七月七日
九月九日

貝塚
山田 佐藤定治の清水のそば

五霊山
一. 富士嶽―――富士山
二. シャカ嶽  ?
三. 月嶽―――月山
四. 鳥嶽―――鳥悔山
五. 駒嶽―――駒ヶ嶽
 
 


第二十四話

鋳銭の記録

栗駒ダムの上流にて鋳銭の記録

正徳元年(1711)仙台藩では幕府に鋳銭許可願を提出したとき
寛永13年より15年迄、領内三迫と申しし所にて鋳銭申付候。(獅山公(伊達吉村)冶家記録)例も御廃候

「寛永年中我先君政宗卿之時放本口栗原郡三迫鋳銭於西北口亦有(中略)有司清野頼繁者(称十郎左衛門)自謂寛永年中之来跡皆廃己在」

幕府は全口入処にて鋳銭処を設けた。
水戸、仙台、吉田、松本、高田、長門、備前、豊後中川内膳領内、
 
 


第二十五話

五色

五色 
五方位形
木青色 東 団形
火赤色 南 三角形
金白色 西 半月形
水■色 北 円形
土黄色 中 四角

空・風・火・水・土

玄武――壬癸子坎北水
    鬼門丑寅艮土
青竜――甲乙卯震東木
    風門辰巳巽木
朱雀――丙丁午離南火
    病門未申坤土
白虎――庚韋西■西金
    天門戌亥乾金
 
 


第二十六話

山野寺力男氏方にて
61.12.5 三丁山野寺力男氏方にて
申助さん、一郎さん、宗冶さん、力男さん
西山
カンガ墓  おかん(女性?)
そこに松の大木があった。部落の人達がその松の倒木を蔀に配示した。
 
 


第二十七話

根岸館

伊達政宗は火矢を以て火功め、水の少ない館で上堤下堤より引水
長照寺の境内に養老水といふもの(名水)有り
 

999−34
若木農業協同組合
東根市若本通り一?六九
〇二三七−四七−〇〇〇一
 
 


第二十八話

松倉河原ヶ田の若木碑

弘化三年
若木大権現

松倉に若木といふ囲名なし
然るにここの行政区を若木行政区という碑のためなり
 
 


第二十九話

弁慶作の歌

六十一年十二月 高田菅原宗冶氏方にて菅原一郎(三丁)氏と会談の折に
碓氷峠から群馬県側に下った所に数字で書かれた歌碑がある。
『弁慶』作の一ッ家の歌の碑といはれる

一ッ家の碑

八万三千八三六九三三四四一八二
四五十二四六百々四億四百

山道はさむくさみししひとつやに
  よごとにしろくももよおくしも

山道は寒く寂しし一つ家に
  夜毎に白く百夜置く霜

あるいは別のももある由なり
それは

八万三千八三六九三三四七一八二
四五十三二四六百四億四百
山道は寒くさみしな一つ家に
  夜毎身にしむもも夜おく霜
 
 


第三十話

松倉行屋囲の古碑

六十一年十二月
三丁菅原一郎氏調査
松倉行屋囲の古碑

棹石 
高 7尺5寸
巾 3尺6寸
厚 1尺5寸

台石
横 3尺6寸
縦 6尺3寸
厚 1尺8寸

文化九壬申歳四月八日
湯殿山
道師五大院光栄
174年前
(棹石才数約四〇才
重量 約七二〇貫目
大石 才数約三四才
重量 六〇〇貫

文政十二
若木大権現
二月十日 導師五大院

文政四年
庚申塔
九月十二日

文政九年九月十日
金比羅大権現
施立 □□□
 
 


第三十一話

神社宝物

昭和六十二年十二月二日 一の宮鈴杵方にて神社宝物披見

1. 修験道院跡寺山号並社堂別当書上候事
2. 五代院歴代
過去■仮竹伝   井底斉一蛙私記
3. 鈴杵祖先歴代記
4. 拝命弊令書及請書辞職願等扣書数
明治二十一年 鈴杵宿称正勝人
六十四世裔孫
鈴杵大澄代
5.沼倉邑絵図  校
 
 


第三十二話

伊達吉村候

大東町大原が出生地であるが、資料には黒川郡宮床村としてある。
吉村の父は二代藩主忠宗の八男で母は片倉景長の長女松子なり。

政宗(@)−−秀宗・五部八姫・忠宗(A)・宗勝
                    |
                   光宗・宗良・宗倫・網宗(B)・宗房
                               |     |
                              網村(C) 吉村・村興
                               |
                              吉村(D)

〒029−07
岩手県東磐井郡大東町大原字山吹一一七
千葉一男(イチオ)
電話(〇一九一)七二-三九〇一
屋号 山吹屋敷
この家に大正十年差出の木鉢太郎左ェ門の書簡あり
 
 


第三十三話

庚申真言

真言はホトケたちの悟られた真理、あるいは、人々を救おうとする誓いを述べられた言葉である。密呪、神呪ともいう。
真言の長いものを陀羅尼という。
「オン、コシンレイ、コシンイレイ、マイタリ、(重複記号)、ソワカ」
 
 


第三十四話

滝の原の道路傍
延享四年(一七四七)
夜おそくまでかかるので家人はとくとやんだった

1. 廻り宿
2. 経費は宿で持つ
3. 毎月十五日の夜  フレはその日の朝
4. 組織  四軒(都田の上 佐々木・都田の下 佐々木・畳石の左 濁沼・新堀 渡辺)
5. お供餅
6. モチの馳走
7. 塩、水、燈明、おみき
8. おかたを近づけない
 
 


第三十五話

庚申講
1. 講の呼称と組織
2. 日取りとフレ
3. 宿と出席者
4. 供え物と料理。経費負担
5. 勤行と雑談
6. 御利益と神の性格
7. 禁忌
8. その他
 
 


第三十六話

弔詞
恩師山本将実先生病歿セラル
寔ニ哀悼ニ堪ヘズ依テ栗原郡
市野々会ヲ代表シテ謹ミテ弔詞ヲ呈ス
平成三年二月六日
栗原郡市野々会代表 千葉光男
(芦ノロ 山本佑殿)
 
 


第三十七話

開放講座

あいさつ 佐々木重雄氏
      県社会教育課
 
 


第三十八話

雲南さま
栗原郡志波姫町姫郷字入樟に宇南神社がある。
うなぎ(鰻)を神使とする

冬地にうんなん社が有るのはこんな話がある。
落雷が同じ場所に三度あれば雷神を祀るといふ。田の神様だともいふ。田の中に一坪程無肥料で作る田が有ってそこには石の祠がまつられてあった。雲南様といふていた。
宇南、運難、などと書く。
 
 


第三十九話

馬頭観音
おかんのんさま
延暦の昔
田村将軍が大嶽丸を退治の宣旨をこうむり、伊勢の国鈴鹿山の合戦では負けてどうにもならなかった。
それで千手観音を祈り、鈴鹿御前に対面あり大武丸退治の秘術を聞き再度の合戦でようやく勝った。
大武丸は逃げて栗原郡にかくれた。
朝廷は田村将軍に重ねて奥州鬼退治を命じた。
そのとき大和国長谷寺の雲井之坊からはなのわれた芦毛の馬を送られた。この馬に乗り奥州佐沼へ二夜三日の内に着いたといふ。
然るに鈴鹿御前は既にこの土にあって大武丸に酒をすすめていたので大変に酔って臥していた。
将軍は刀を抜いて首を切った。そしてそれを埋めてその上に観音堂を建てた。
大嶽の観音であるむくろは箆嶽に埋めた。箆嶽の観音である。石巻の牧山(牡史家郡)、水越の長谷(登米)、蒜香の小迫(栗原郡)、鱒渕の華足寺南部の三戸の七ヶ所にいづれも観音堂を建立された。
平城天皇の大同元年(八〇七)五月壬午の日午の刻にこの七ヶ所の棟上げに出席し最後の華足寺でこの馬が倒れた。これが鱒渕の観音様で奥州の惣鎮守だそうである。

鈴鹿御前は十一面観音の化身
田村麿は千手観音の化身
芦毛の馬は馬頭観音の化身
 
 


第四十話







明治年間に元寺小路の酒屋の親爺濁酒を荷を天秤でかついて売って歩いた。
あるときのこと北六番丁の伊沢氏邸の前で

ァ−北六番丁、上下見れば皆貧乏
伊沢平義一人金持ち……
ニゴリ、サーケー……

とフレて行ったといふ。

又銭湯で

ハァ−之朝や湯屋できんたま福の神

すると傍の人が早速

ハァ−去年の垢をお年徳神

と下の句を付けたといふ。

六番屋の濁酒売りが売り歩いていると、飛ぶ鳥も落し県令が二人曳きの人力車で勢よくやって来た。
すると突然に「県令さん」と呼んだ。六番屋、大声一番

ハァ−県令は坂で車を押すごとし
油断をすれば後に戻るぞ

とやった。車上の県令笑って「有難うー」
 
 


第四十一話

キクゾウ爺んつぁまの話

大正年間のことだが、松倉の鍛治屋屋敷のキクゾウ爺んつぁまの話である。
ある人が
「仙台には歌詠みが居たもんだな。名取川の「な」をとって歌ったのがあるんだとや」
名取川なせに なにして
ながされて
なをば ながして
なみだ ながさん
つんだとや。
そしたればキクゾウ爺んつぁ、「そんなの簡単だ。裏の上戸(あがと)川を詠んでみんべ」
上戸川 あんな あらせに
あのふしん あすに雨ふれや
あとは あるまい
上戸の橋は大水が出る度に流されていたのを歌ったもの。
 
 


第四十二話

松倉の館

松倉の館は日当りの良い。雪消が早く正月末から山仕事が出来た。
場所の良いのはお館山
彼岸が来ないのに寝たり起きたり
若い男女の逢曳の場所であった。
 
 


第四十三話

沼倉の誰か歌ったもか?

永洞玉山木鉢沢
それに続いて浦田原

これは雪の状況を詠ったもの

又どうせ住むなら

住んで良いのは桑畑、林、
ほんにいやだよ滝の原

これは桑畑、林、日照田は田が多く日照も多かったのであるが滝の原は日照がなく田も少く山稼で暮し人が多かった。

一の宮の神官様十二月のおへい束切りに畳石に寄ったところろ端で五六人の人達がにごり酒を飲んでいた。神官の姿に驚いて酒のなべをかくした。神官は面白なかった。
−−出せば飲む 出さねば飲まぬ この酒を、かん鍋 かくすなんだ このがか−−
 
 


第四十四話

御府全不動様

今は川台と言はれている山は昔の人は「おふがね」と言っていた。
迫川の上流で川巾の狭い所に弁慶の「つくり滝」といって三迫川を堰留て滝をつくったといはれる。
そこの川の上の絶壁に義経が勘(観)定したといはれる不動尊があり「おふがね不動」といはれる。それで何んでおふがねと言ふのか?は疑問であった。
たまたまテレビで府金さんの出演があったので照会をしたところ
岩手県岩手町教育委員会より返信あり。町内に約四〇世帯の府金さんが居るし、法務局の土地登記法に
岩手町大字沼宮内第二十地割字府金と、岩手町大字五日市第四地割字府金があることがわかった。府金家の紋は「丸に根笹」だといふ。五八年四月二十五日の「広報いわて町」に尾呂部館の記事があり江戸時代には府金村といったとあった。
野田街道と奥州街道の分れ路といふとありました。
 
 


第四十五話

蒲生氏

蒲生氏郷は戦国時代の英雄である。

限りあれば吹かど花は散るものを 心短き 春の嵐

などの歌がある。
この氏郷がかつて九戸政実の後から帰陣の途次、仙台領の衣川にかかりし折り、賊後の人夫が、鮭の川に溯るを見て

昨日たち今日きて見れば衣川 裾の綻び サケ上るらん

と口ずさむを聞いて氏郷大に感じ賊後を免じたといふことである。
「わが国の梅の花とは思へども」や「大宮人梅にもこりず桜哉」と共におかしくも興あることである。
 
 


第四十六話

ウドガモリ

ウドガモリの名は、何れにまされ出てたる処を「うとう」といふは東国の方言なり。山容によるものではないか。
 
 


第四十七話

巾着引の式

正月十四日の夜に行はれる伊達家の家例の一つ、巾着引の式には鯉を用いる。この夜、藩公は遠藤文七郎と新内遠江の二人を召される。が遠江は予め火打袋を懐にして出仕し、公の左右に人なきを計って、盃を藩公に献じ、者の替りにこの火打袋を差上げる。公はこれを受け、又、同じ様に懐から火打袋を出して下さる。

この火打袋はそのむかし密書を入れたことに擬するもので、公の傍には文七郎のみが侍する。肴は鯉の頭を備えるを例とする。
輝宗公のときに伊達宗の危機をこの密書の交換して救ったことに起因する。この新内氏は後の中村氏で岩ヶ崎館主となった。その後裔には有名な中村日向がある。
 
 


第四十八話

鎌倉権五郎と鳥海弥三郎

鎌倉権五郎は前九年の後のとき鳥海弥三郎に目を射られた。
然しその弥三郎は権五郎に射返され討死した。
その墓が泉村根白石の満興寺にあるといふ。
 
 


第四十九話

緒絶川

古川市の中央を流れる川緒絶川といふ。小川あり、ここに歌枕で名高い緒絶の橋がある。

みちのくの緒絶の橋やこれならん ふみみふまずみこころまどはす

『後拾遺集』左京太夫道雅卿
人皇五十代嵯峨天皇の准后おだえ姫のもの語り
 
 


第五十話

米といふ字を分析すれば八十八の手がかかる米は命の親じやもの
 
 


第五十一話

沼倉通信創刊号

平成十四年一月 私の米寿(八十八歳)を祝って、子・孫で赤いツンヌキと赤頭巾(ズキン)赤座布団二枚、寿と書いて贈られた。座布団一枚はマサキに贈られたものと思っている。
それでこの機会に続・栗駒の話の続きに思付いた事など書き残しておきたい。
白鳥省吾先生の
 
 白鳥
      東浪見通信
 省吾
千葉県長生郡東浪見村

を真似して
 
千葉
           沼倉通信
光男

を書残しことにする.
 
 


第五十二話

沼倉通信第二号

正月七日早朝に主婦が行った

七草たたけ 七草たたけ
唐土の鳥と いなかの鳥と
渡らぬ前に 七草たたけ
トントントン

爼の上でたたいた七草をかゆに入れて食べる

七草を歌にておぼえる
セリ、ナズナ――ペンペン草
ゴギョウ――ハハコ草
ハコベラ――ハコベ
ホトケノザ
スズナ――カブラ
スズシロ――大根
野草菜(薬草)

この日に七草がゆをたき始めてかゆをたく。その前はかゆをたかなかった。そのかゆに餅を入れたべた。その餅食いば風ひかねどや。丈夫になるだと。
 
 


第五十三話

沼倉通信第三号

鳥追い(正月十五日早朝)
苗代こぐカラスは 頭割って塩つけて
籠さ入れてからがいて 遠嶋さぼってやれ
遠嶋が近からば 江の島さぼってやれ
ホオーイ ホオーイ
そっち向いのがきめら ねでで寝小便とらされて
起きて鳥ぼいせね ホオーイ ホオーイ
あっち向いのがきめら 納豆鉢ねぶるとも
起きて鳥ぼえせね
ホオーイ ホオーイ

子供等は早起きして集団になって何かをたたきながらおらぶのであった。
 
 


第五十四話

沼倉通信第四号

美しどりこ
おら後のづさの木さ 美しどりこ止った
なにして首左こ曲がった 腹こへって曲った

下さおりてものこけ 足こよごれかんだ

川さえって洗え ヒビこきれつかやんだ
モッツ買ってくっつくれ ハエこせせつらやんだ
うつわこ買ってあおげ ぜにこねかやんだ
おがつあん銭箱さがせ おこられっかやんだ
そしたらいつまでだり 首左曲げてろ
 
 


第五十五話

沼倉通信第五号
田の草取り唄
土用の暑い日のトバ笠を着て汗でずぶぬれながら又、雨の日も一番草、二番草、三番草まで手取りをしました。田の草取り唄をうたいながら一日中泥田を掻き回した。稲作りではもっとも辛い作業でした。
−−お田の神様、はかござれ 晩のあがりは早いよに 
(別の人が「ヨイキタサッサト」掛声をかける)

ござれ来なされ二十日頃 二十日宵闇暗くとも

この家だんなさん朝起早い 門を開いて福を呼ぶ

この家かみさん牡丹のつぼみ ござるお客に酒々と

畑にぢしばり田にヒルモ、横座に年寄りいねばよい
「ヨイキタサッサト」
 



 

町の昔話一
お駒さまのご神宝

駒形根神社は栗駒山を御神体とする神社で延喜式内社です。社記によると「日本武尊御(やまとたけるのみこと)東征の折、大日霊尊外(おおひるみのみこと)五社の主神に祈願創建」したとあり山頂の御室(おむろ)と言われる岩窟(がんくつ)があって、そこには二十糎程の閻浮提金(エンブダゴン)の彫刻の御神駒が納められていました。エンブダゴンとは良質の金のことです。

ある時のこと、秋田の湯沢の在郷の鍛治屋がこの御神体の彫刻を盗んで来ました。そして、里人が寝静まった頃の夜中に一人こっそりと起きて仕事場に入り、炉の中に栗の木で焼いた鍛冶炭を沢山くべてフイゴをかけ御神駒を熔し始めました。その時です、駒は炉の中から飛び上がりました。そして鍛治屋の眉間をトモ脚でけとばし、夜空に一条の光を放ち東空にとび去りました。

件の鍛治屋は仕事場に倒れ気絶したまま遂に息を吹き返すことが出来ず、死んでしまったそうです。

翌朝栗駒山の東麓の三迫川の近くで朝草刈りをしていた人が居ました。山の上に光を発見したので尋ねて見ましたところ三本脚の黄金の駒形でありました。獄宮の御神体であることがわかりましたので、駒が降りた場所にお宮を建て里宮に祀りました。この彫刻は今、栗駒町指定の文化財になっています。
 
 


町の昔話二

和尚と猫

むかし江刺郡の正法寺でさきの住職が亡くなってからは無住となっていましたが、近くの寺から一匹の猫をつれて来た和尚が住職となりました。

ある夜、和尚の枕元に一匹のねずみが現れていうには「これ和尚、よく聞けおれはこの寺の古ねずみだ、先の和尚もその前(さき)の和尚も俺が喰殺したのだ、こん度はお前を殺すぞ」と告げて消えました。

和尚はそれからは生きた心地も無いままに、なやみ続けていました。そして可愛がっていた猫にその事を打ちあけて「なぞにすべや」と語りました。猫は「それは恐しいことだ、俺だけでは勝負に自信がない。栗原郡に俺の兄貴分がいるから兄貴と相談して見っから、気をたしかに持ってでけらえん。」と慰めました。

ある晩のことでした。寺の天井裏でドダン、バダンと激しい格闘の音がしました。和尚は起き上り一心に読経を続けていましたが、やがてドダン、バタンの音が納り、静かになりました。

翌朝、天井裏に一匹の大ねずみと二匹の猫が倒れていました。一匹の猫はねずみの目にかみつき他の一匹はねずみのキンタマに喰いついていました。栗駒町に猫の沢というところがあるそうです。兄貴猫のふる里だということです。
 
 


町の昔話三

徴兵検査

明治政府となり、徴兵令がしかれ国民皆兵となりました。

青年は二十歳になると必ず徴兵検査を受けなければならないきまりです。青年は兵隊にとられることを恐れていたので、なんとかして徴兵をのがれることを考えていました。

ある若者に丈太郎ずんずが、「検査の前にキンタマさウルシぬってげ。」と教えました。若者は、生ウルシをぬったのでかぶれてはれあがりました。しかし、徴兵はのがれることができたそうです。「明治八年の徴兵では松倉村三丁の小野寺亀造が最初でした。その頃は鉄道がなかったし、仙台には師団も連隊もありませんので、東京の連隊へ入営することになりました。松倉から歩いて行きましたので、七日間もかかりました。三か月も前から親類廻りをして、前の晩は立振舞をし、出立の朝は村中で見送り、盛んに励ましました。亀造は見送りの人達に“俺が軍人なれば、都合によっては支那満州まで行く。よろしく頼むぞ幸太おぢ。”と挨拶して出かけたそうです。」
 
 
 


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2002.5.27
2002.5.30 Hsato