「栗駒物語」より








楠ヶ沢遺跡

宮城バス栗駒線桑畑停留所から北方約五百メートルの地点で、清水に恵れた俗称楠ヶ沢と言われる日当りの良い沢がある。昭和四十七年二月頃、桑畑千葉一枝氏方にて、田の整理をしていたところ、多量の縄痕紋の見られる土器が出土した。そこに働いていた人々によってかなりの出土品は持ち去られたが土地所有者千葉一枝氏方では、残りの出土品を収集保管している、築館女子高の金野正先生によれば、土器は縄文文化中期後半のものではなかろうか、とのことである。

又、隣地の山林からは、多量の石器が出土して、佐藤晃弥氏方にて保管している。
 


沼倉村木鉢番所

宮城バス御駒橋停留所で下車し、お駒橋を渡り、西にのぼると徒歩十五分位して木鉢沢の部落に至るこの部落の木鉢屋敷千葉信次郎氏が木鉢御番所の番士の孫である。

木鉢屋敷の門口の草むらのあたり、今はさだかでないが、昔は(三十年位前までは)道路ふちに、高さ一米位、巾二米位の土塚があって朝草刈に出掛け、荷鞍馬に乗るときの踏台の役目をしていた。かたわらに一本の杉の木があったが、昭和四十五年頃に孫別家にあたる喜三郎氏方の馬屋改築の際に伐り役立てた。

そこの土塚のあたりが御番所門の跡であり、そこを、沢を渡り御番所があった。
その頃の井戸もあり、フルヤジト(古屋敷跡)と呼ばれている。

ここの道路は、往古は仙北海道(街道)といわれ、秋田県雄勝郡小安に通じていた。またの名を、羽後岐街道ともいわれ領内の重要道路で、御番所は、御番所門を二ヶ所に持って番士外六名の足軽を配したようであった。

(門は木鉢、赤坂、の二ヶ所)

番士孫左ェ門の書類には「出羽秋田領奥州仙台領栗原郡田代長根御境目守御留物番士被仰付」、とあり以後代々相勤め、明治二年廃令により御番所建物及び御番所門を解体されたようである。

御番所は街道に平行して建てられ、間口十七間、奥行七間の切妻平屋建で、一見して御番所たることを知ることが出来る。

通行人を監視のために、吹雪の日でも大戸を開けていたと言われている。

御番所の番士の役目は、
一、 出入荷物の検査
一、 通行人の検査
が主であり、宿泊の設備をもっていた。これを荷宿(ニヤド)といった。又田代長根には荷替小屋、綿小屋、等があり、数人の背負子と駄馬を有した。

この御番所の特異なことは、日本海側と、太平洋側の産物の交易にあったことである。即ち気仙沼の商人が、一関を通り魚類、乾物を秋田領に運搬、又三迫川下流の商人が、どじょう、うなぎ等の鮮魚と金成耕土の主食類を運搬する。又秋田側から(それは大阪、京都よりの)木綿、綿、紅花の搬入のための主要な街道であったことであろう。御番所は、これら荷物の検査料として商人より、荷物の十分の一を徴収した。これを御役御取立と言った。

外に給料の足しに、山林五十町を所有していたらしい。「御合力被下置地(付)の木鉢山と申所長五百間横三百間程之所所持仕候」とある。

参考のために次のことを供することにする。

  覚
一、領内より他領へ相出の荷物見届留帳(トメチョウ)に記置(スルスオキ)番代之節三問屋留帳に引合申可事。
一、他領の商人荷物馳入(アキントニモツツケイリ)は御役人書付羽書(ハガキ)により色品慥(タシカニ)聞届け駄数個数相改め留帳に記入。
一、脱藩馳落者婦人通行者厳重吟味申可事。
一、夜間通行禁止之事。
何分方(イジレカタ)御境目なりとも一ヶ月切に御用便に又は歩扶(ブフ)御伝馬戻馬に成共相付急度御首尾之有可候。

尚九代孫左ェ門が報告した報告書の控を掲げることにする。
 安政五年七月五日書上仕候控
栗原郡三迫沼倉村ヨリ秋田領へノ海道筋田代境迄道法里数ヲ始メ先年御境目守被仰付候、代号代数並御道具御預リ品外ニ秋田領米相場共ニ取調左ニ申上候。
一、沼倉村ト松倉村之境ヨリ平六坂迄 三十丁二十九間
一、平六坂(今ノ大峰前)ヨリ国見下迄 壱里
一、国見下ヨリ(今ノ日影)今坊平迄 壱里
但シ此間ニ木立ト申所有之同所ニテ文字村ヨリ海道出合候
一、今坊平ヨリ並坂(今ノ前坂継子坂)迄 壱里
此間ニ鳥居嶽有之前ニ馬草森ト申両山有之申候、右鳥居嶽ノ下ニ駒形根神社ノ鳥居有之申候(今ノ大路)
一、並坂ヨリ二階倉迄 壱里
此間ニ大路沢ト申大沢有之候
一、二階倉ヨリ田代御境迄
此間ニ九万沢ト申ス大沢有之候
合里数五里三十丁二十九間
一、御境塚ハ正保二年御築立罷成申候
但シ御境塚築立之節川嶋豊前様、遠藤次郎様、姉歯惣九郎様、秋田ヨリハ根元正右ェ門様、瀬和孫衛様、外ニ花山村文字村沼倉村右三村ヨリ御境目守並ニ古人御山守立会申候其後享保十四年四月御築立罷成申候
一、寛永年中御境目守被仰付候ト計聞伝居何年ニ被仰付候哉留控無御座候
一、御境目守代数ノ儀ハ拙者迄ニ拾代勤仕罷成申候
一、預り品御道具
一、小がらみ 壱本
但シ何年ノ頃ニ相渡サレ候哉留控無御座候、年号可申上様無御座時ニ兵具方御設ノ様御改罷成申候
一、米三千俵
但シ秋田領米相場壱俵ニ付此代八百文
右之通被仰渡趣承知仕一書ヲ以テ如斯ニ申上候  以上
  三迫沼倉村木鉢
  御境目守 孫左ェ門
 安政五年七月
 野村伊七郎様

(筆者注 亭保二年八月鉄砲二丁請求の事実はあるが、この預り品道具には記載がないから交附のことは不明である)
(筆者注 四反坂、田代長根御境正保弐年子之八月二十二日双方より御□□様御立会之上仙北より古人七人、花山村より古人四人、沼倉村より弥六先祖孫左ェ門、平左ェ門先祖清左ェ門、弥一郎先祖越中、右三人立会御境江塚相立相成候との文書あり)
 


御駒様御神輿

お駒さまは、駒形根神社と称号し、駒形根大明神をまつる。

栗駒山(標高一六二八メートル)の山頂に奥宮があり、沼倉字一ノ宮に里宮をまつる。

祭神は大日霊尊(オオヒルメノミコト)、天常立尊(アマトコダツノミコト)、国常立尊(クニトコダツノミコト)、五勝々速日尊(アカツカツハヤヒノミコト)、天津彦穂邇尊(アマツヒコホニノミコト)、日本磐余彦火出見尊(ヤマトイワレヒコヒデミノミコト)、の六柱である。延喜式神名帳に記載され奥羽一百座、栗原郡七座の一であり景行天皇の皇子日本武尊の御観請と伝えられている。

栗駒山のお室の(奥宮のことをお室という)雪が解けて流れる迫川は栗原、登米の両郡の野をうるおして、北上川に注ぐ、この川に沿って先祖達はくらして来た。

栗駒山の残雪が種蒔坊主となって現れる頃となれば苗代に種蒔し、八十八夜の頃白馬となって姿を現わせば耕して、人々はこの山を中心に農作業を進め精進する。

収穫の秋ともなれば、五穀を捧げ感謝の祭を行なう。祭日の前夜沐浴してらい拝する御駒精進の講が各地に行なわれるが、遠くの人達は講中の代参を派遣する。

駒形根神社は、嘉祥三年慈覚大師が下向して駒形山大尽寺と称し大日如来を祀ってから神仏混淆となり祭式は仏式となっていた。元文四年二月の頃、栗原郡一迫、二迫、三迫の流域と岩手県西磐井郡の氏子達が神式でお祭りをしたいと藩に出願していたが、元文四年三月十一日草刈正左ェ門と言う人が京都役人になって上洛する事になった。この機会に、仙台藩社寺奉行遠蒔権四郎、神社の氏子総代千葉孫左ェ門、別当観常院宿林が同道して上洛し、鈴鹿豊前を通じ神道管領吉田三位兼雄卿に願出で許可された。

寛保三年六月一日人皇百五十代桜町天皇より、日宮の神号を賜わり天皇の御宣命をも賜わって以後神式によって祭祀された。御神輿は明和五年に肝入芳賀理七郎の代に式定され、昭和四十六年十月二十九日施行されたのは第二十一回目である

氏子の供奉役割は、総代会にて村老の意見を徴して協議を重ね、村の古人にて之を決定する、となっている。村内の家柄を重じ御宣命持御輿を中心とする大行列が村内を廻る。

第一 御掃除方
   御先払
   御先乗
   赤御幟
   麻上下古人
   御先躯
   法螺
  
第二 騎馬
   御弓

第三 御鉾
   乙女
   大鼓打
   笛吹
   獅子

第四 御塩振
   御榊
   御宣命

第五 御神体幣
   麻上下古人
   御花米箱
   神職
   御神
   御日笠
   麻上下古人
   御神体幣
   御日笠御記録
   祭主
   大笠
   狭箱
   長刀
   御榊

第六 御塩振
   大鼓
   笛
   獅子
   乙女
   御鉾

第七 御弓
   騎馬

第八 御殿押
   白御幟
   後乗者
   供奉総締役

となっているがこれに参加する人員は毎回五〇〇名位、内少年、少女約二〇〇名位である。

午前八時頃里宮を出御、各部落にて御小休昼食して午后三時頃三迫川の清流にて御浜入りの行事の上宮殿に入御に及び神楽を奉納して御直会とする。
 


沼倉飛騨守について

安永六年書上げの沼倉村風土記に、
 一、岩目館  高さ三十丈  南北四十二間
               東西三十間
 一、白岩館  高さ二十五丈 南北三十間
               東西三十間

「右御館主沼倉飛騨守と申御方の由申伝候処年月相知不申候」とある、沼倉氏は沼倉村の神主であったとつたえられる。

系譜によれば、沼倉氏の姓は藤原、大織冠鎌足公より四世の左大臣魚名公よりいで、第十九代藤原家隆公を始祖とするとある。

建長五年後深草天皇時代、奥州に採地三千町を賜って下向、同所同国三迫沼倉邑に移居するに及んでから、始めて沼倉氏を名乗ったという。

家隆公は朝庭より従二位下を賜わって居り北家に属す(藤原氏は四家あり、南家、北家、式家、京家を藤原四家といった)、ときに勢力争いに破れ、僅かに三千町歩の採地を以て奥州に左遷されたものと思われる。

家隆公が奥州に下向のとき、白河の関で手植えされたといわれる大杉がある、筆者が昭和四十四年の秋、白河関跡を訪れたときに、二位の杉と書かれた立札があって「この杉は、藤原家隆手植せるもの約八百年を経る」とあった。又家隆公下向の折りに詠まれたと思われるものには、
 見渡せば 霞のうちも霞けり 煙たなびく塩釜の浦

始めて沼倉に着かれて岩目館に入られて
 滝の音 松の嵐も馴れぬれば うち寝るほどの夢は見せけり
 いつかわれ 苔のたもとに露置きて 知らぬ山路の月を見るべき

ひそかに再起の志を抱き
 君が代に 阿ぶくま川の埋木も 氷の下に春を待つけり
 谷川の うち出る波も声立てつ 鶯誘ひ春の山風
 花をのみ 待つらむ人に山里の 雪間の草の春を見せばや

又、あるときは同じ藤原氏でありながら勢力のない身となって、私は老い朽ちてしまった。今更、再起心も反逆心も何もないと、
 春日山 谷の埋木朽ちぬとも 君に告げこせ 峰の松風

春日山は藤原氏の氏神である。

家隆公は沼倉には永く住わずに京に帰り、みぶの片田舎に住まわれたので、世にみぶの二位と称されたともいわれている。

沼倉には三代以後又は五代以後になってから住んだように思われ、その間は代官を置いたようである。代々ともに熱心に領内の開発に努め、文明年中には栗原郡内に約一〇〇町歩の開田をしたともいわれ、滝野堰(今の上田堰)も沼倉氏によって開さくされている。沼倉の城主として十三代の間栄えたのであったが、天正年中に伊達政宗により没落した。その後、子孫が各地に落行したが、岩手県、宮城県、秋田県といづれも栗駒山を中心として残っている。今、沼倉氏の子孫と称する人々を尋ねると郡内には岩ヶ崎、若柳、高清水が主であり、登米郡米川、中田町黒沼、岩手県一関市老流及び花泉町、秋田県湯沢市及び雄勝町川井稲庭町等である。
 
 



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2002.7.8  Hsato