栗駒の話 
第三十一話

出せばのむのはなし

一の宮の郷社駒形根神社は栗駒山奥の院の里宮であります。

むかし宮司に鈴杵筑麻という方がいました。旧の十二月になると大年神を迎える行事に御幣束切りに各部落を氏子廻りするのでした。

ある年のことでありました。滝の原のある家に寄りましたところ先客があって、大きな燗鍋で濁酒をのんでいましたが、どぶろくさがしが来たとでも思ったのでしょうか、その家のおかあさんがあわててその燗鍋を勝手元へかくしました。

そのとき宮司は内心甚だおもしろくなかったのでしょうか、歌を詠みました。

出せばのむ出さねばのまぬこの酒をかん鍋かくしなんだこのかか

そしたればかかさんは言いました。

「おら酒さがし来たのかと思ってたまげした。宮司さんだら安心したからさあ一つ熱いところあがってけらえ」

冬至の頃ですから身体が冷えるので、熱いドブロクの味は又別格で宮司はすっかり上機嫌で帰宅に及びました。
 


 

第三十二話

脱帽をとって下さい

お駒様の御神幸は近村まで有名なお祭りの行事でありました。明和五年より行われて四年に一度は行うことにしておりましたが、最近では十年もこの行事を休んでいます。

昭和三十二年が第十九回目でありました。この御神幸は稚児行列で十三才未満の少年少女が約五百人お供することが特色です。

お駒様とよばれる神社は奥の院が栗駒山にあり、一の宮は里宮です。嘉祥三年慈覚大師が下向されて駒形山大昼寺と称し大日如来を祀ってから神仏混淆となり、祭式は仏式となりました。

元文四年二月の頃、栗原郡一迫、二迫、三迫川の流域と岩手県西磐井郡の氏子が神式でお祭りをしたいと仙台藩に出願していましたが、元文四年三月十一日草刈り正左ェ門と言う人が京都役人になって上洛する事になりました。この機会に、仙台藩社寺奉行遠藤権四郎、総代千葉孫左ェ門、別当観常院宿林が同道し上洛しました。そして鈴鹿豊前を通じ吉田三位建雄卿に願出、桜町天皇御親筆の日宮の神号をいただきました。

それより奥州一の宮駒形根神社と称することになり神式で祭祀することが出来ました。孫左ェ門はさらに京都に留まり陰陽博士土御門殿の門人となり三ヶ年修業して来ました。孫左ェ門二十五才でありました。上洛の費用は全部舅の松倉内の目屋敷佐竹佐七より借りました。

さて御神幸は氏子の順序を定め、郷土、古人、代数百姓として新百姓は最低で行列の先頭にてお掃除役を奉仕する、沿道の善男善女はおみこしを参拝するために土下座までするのでありました。この行列を指揮するのは総締役を最高に十数人の継締役があります。

ある年のお神幸にお先払(お露払)役に菅原友吉がなりました。友吉はお役目から五尺の青竹をもって「脱帽―」と叫んで来ました。沿道に駐在所の巡査がいましたが、巡査が怒って、「なにをこの百姓野郎失礼な」とどなりました。友吉も「なにを巡査のくせに」とどなり返しました。巡査は腰の帯劔を抜きましたから友吉はあわてて一の宮の社務所まで逃げかえりました。

巡査は一の宮まで追いかけて来ました。社務所には総代頭千葉太郎左ェ門が居りましたが、そこで居合せた人々でその巡査の腕を押さえて刀をとりあげました。翌日岩ヶ崎の警察署にこのことが報告され、巡査は直ちに罷免されました。

又ある年の御神幸のときのことでした。岩倉の東吉がお先払役でした。東吉は元気のよい若者です。五尺の青竹を持って「脱帽、だつぼう」とおらびながらこの行列を先導して来ました。

沿道には参拝の氏子のみならず近郷近在の参拝客が群っています。すると上席である麻裃を着けた古人の山下己代冶がお先払役の東吉に応援しました。

「みなさん脱帽して下さい。脱帽をとって下さい」沿道の参拝客も行列にあるものもクスクスと笑っていました。然し本人は古人で継締役ですから大真面目で連呼しているのです。

「脱帽をとって下さい。脱帽をとってください。」
 

第三十三話

貫門御免は二軒であった

栗駒地区(旧栗駒村)には長屋門を建てた家は一軒もない、ただ駒形根神社のナガドクは長屋門である。住民は神社の門に似せてはおそれおういと言うている。

村で門構のある家は内の目の佐竹、堰の上の菅原隆一、貴船の雄吾、洞場の濁沼竜吉、万代の清水、釘の子の炭屋、木鉢の千葉等であり、いずれも貫門(サの字形の建柱)である。

丸三の千葉竹治棟梁が弟子あがりして大工になったばかりの頃であった。木鉢で門の建替することになったので、原の遠藤敬治郎先生と二人で工事をした。工事は二日間位で完了したので主人の太郎左ェ門が門の前に机をかざり灯明をあげ礼拝し、家族や分家の者どもや手伝人一同にお墨附を朗読したことをまだ記憶していると言う。その文書の中に、三迫、沼倉村、お境目守孫左ェ門、松倉村百姓喜右ェ門戊辰の役に際し秋田小安口湯元兵粮係総務候よって貫門御免相成候 明治二年正月某日 奉行何某であったと語っている。

よって仙台藩より許可された門は木鉢と堰の上の二軒であり、その他は後年に自由になってから建てられたものである。

なおこの貫門の寸法は図の通りである。(千葉竹治原話)
 

第三十四話

とるべて、とられた話

大原の己之吉は炭焼き渡世でありました。年中山にのぼって炭窯の近くに小屋を造って住んでいましたから、風呂には半年も入ることがありませんでした。ですから顔はまっ黒く手足はガサガサと荒れ体中アカだらけでした。

ある年の冬、漆原の弥治郎さんの家では夜磨臼ひきに五、六人の若者達が手伝いに来ていました。己之おじも来合せて手伝っていました。やがてひきかたも終り夜食をご馳走になり風呂に入って雑談に興じていました。そしていやがるのに「“己之おじ”お前も風呂に入ってこう」と皆んなで入れようとしました。むかしは風呂水を毎日替えることがありませんでしたから今晩も四、五日目で、たてかえしの風呂でありましたので明日は風呂水を替える予定でしたから、半年ぶりのあかを洗ってやるつもりでしたが、己之おじは悪く考えてしまいました。「皆んなして俺を風呂に入れて俺のあかを取る気だな」と考えました。「ようしそんだら俺もその裏をかいてやろう」と思いましたから「そんだら一風呂いただくかな」と言ってそろっと(静かに)入ってそろっと上って来ました。

手拭いは絶対に使いませんから上って来たればたて替しで風呂に浮かんでいたあかを全部体につけて来ました。首は輪になって、体の毛には一本一本全部あかがついて黒く、まるで熊の背中の様でした。皆んなはたまげてしまいました。今まで溜ったあかを全部とられてしまったのでした。

己之吉おじは大変落着いていました。「俺とこ風呂さ入れて俺からあか(肥料)とる(盗る)べと思ったべが、盗るべてとられたべ、ああいい気持つだ」と言ってさっさと帰って行きました。

(註)
むかしは肥料は糞、尿や風呂水などでした。今の様な化学肥料がなかったのです。

第三十五話

流し木

むかしは自動車もなく道路も細道でありましたから流送が行われていました。

イリヤマで官林を払下げ薪に作り、棚に積んで乾燥して川に流し、里まで運搬していました。

三太は力持ちで働き者でありました。薪を一本一本どんどん迫川に投げ入れ、仲間といっしょに四里も流して下るのでありましたから薪は途中で渕によどんだり、瀬にかかったり岸に滞ったりして仲々思うように流れませんでした。それらを、あるときは川に入って腰まで水にぬれながら流すので苦労は一通りでありませんでした。それでも仲間といっしょに働くことは又楽しいものでありましたから、雪解水のあふれる迫川の流し木は若い人達のたのしい行事でもありました。それに山小屋の生活は一そう楽しみがありました。米は俵であるし、味噌も野菜も、魚も沢山あります。酒は濁酒が大きな桶になみなみと造りこんでありました。

あるとき若い人達はかけをしました。一升入りの薬缶に濁酒を入れてヘノコ(男根)のさきに掛けて小屋を一回り廻ったらその酒をやることにしました。三太はヘノコを固くして重い薬缶をかけらくらくとやってのけました。仲間のものは誰も出来ませんでしたので遂にその酒は三太のものになりました。皆んなは感歎しました。

三太は又あるときは一人役の田打ちをヒンノメイ(午前中)に済ましたこともあります。一人役は三十刈です。今の十アールにあたります。田打ちは三本鍬で両足をひろげ、乗打つと言う掘った土を三片ずつ積んで並べて、またいで進む方法でした。向岸とこっち岸に濁酒を用意して置き、岸に着くと一杯飲んでは引返し引返し威勢よく働きましたから遂に一日分を午前中に済ませました。
 

第三十六話

日本は広い

渡木橋(どぎばし)の次郎おじが始めて旅に出ました。一年中山の中で暮らしてばかりいたのでどこも見たことねいから見るもの聞くものたんまげてしまいました。

地蔵沢を越えて天王坂の峠から栗駒の谷あいに開けた広土を見て感歎しました。

「ああたまげた日本の国ってここだべか広いことやー」そしたれば連れの一人が言いました。
「いやいや日本はこの五倍も広いんだぞ」と言って聞かせました。そうしたれば別の連れが「なに貴様、かたるけい、そのほかにも秋田つどこもあるんだぞ」と語りました。次郎おじはすっかりたまげてしまって、腰ぬかして一歩もあるけなくなりました。
 

第三十七話

あがと川の歌

昔、松倉の鍛冶屋の喜久造ずず(爺)は即興歌がうまかった。

あるときある人が尋ねて来たときに、「西行法師は偉い歌人であった。仙台の名取川で“な”の字を歌い込んだ歌がある」と感心して

名取川なぜにんzにしてながされてなみだながしてなをぞながさん

と言う歌を示した。

喜久造ずずはそんなの簡単ださといって、裏の上戸川原(あがとがわら)を“あ”の字で歌って見せた。

上戸川原あんなあらせにあのふしんあすにあめふれやあとはあるまい

喜久造ずずはその他多くの即興歌を残していたが今は忘れられてしまっているのが惜しい
 

第三十八話

よろしくたのむぞ幸太おぢ

栗駒に「よろしくたのむぞ幸太おぢ」と言う言葉があります。

この言葉の語源は三條の小野寺亀造が入営するときの言葉でありました。

明治八年に徴兵令が布かれましたから百姓の壮丁は徴兵検査を受けなければなりませんでした。壮丁は兵隊になるのを恐れました。なんとか徴兵をさける様に考えていました。

ある若者に丈太郎ずずが「検査の前にキンタマ(睾丸)にウルシ(漆)をぬってえげ」と教えました。

若い者は生ウルシをぬったのでキンタマがウルシカブレになって大変に苦労しました。しかし徴兵はのがれました。

栗駒の徴兵の始めは三條の小野寺亀造でありました。その頃は仙台には?隊も師団もありませんでしたので東京の?隊へ入営しました。栗駒から歩いて行きましたので七日間もかかりました。

三ヵ月も前から親類へあいさつ廻りして前の晩は、タツブルマイ(出発振舞)して出発の朝は村中で見送り、盛んに励ましました。亀造は見送りの人達にあいさつしました。

「おれも軍人なれば都合によっては支那満州までも行くかも知れぬ、よろしくたのむぞ幸太おぢ」

今でも色々の場合に「よろしくたのむぞ幸太おぢ」といわれています。
 

第三十九話

ガクマ

ここまで話しがきたのでもう話もおわりです。

むかし栗駒の人達は便所(かんじょ)の尻ふきには四、五本の藁を六寸位に折って棒に作って使いました。

又、篠竹の細いのを切り二ッ割にして使ったのもいます。それでも上手にやったので怪我もしませんでした。

金持の家では杉の丸太を切って割箸の様に作って使いました。

庄屋のおずんつあは、木小屋の日当りの好い場所で丸太割りしていました。そして割箸が何把も積んでありました。その割箸の様なのを籌木(ちうぎ)とよんでいました。

玉山ではガクマと言う草が生(ほ)きてありましたので、この草を刈って蔭干しにしておくと、ぽやぽやとやわらかく、手ざわりも良い上等のふき物が出来ましたので、来客のときはこのガクマを便所に備付けておりました。

又このガクマはおなご(婦人)達の使うのには上等のものでもありましたから、若い婦人達は常にたもとに潜ませておりました。

弥之助村長さんが玉山の田中の家に婚礼振舞によばれました。一番の上座で御馳走になりました。宴なかばにして便所へたちましたが、便所にガクマが用意されてありましたので、戻りに双方のたもとにガクマを失敬して来ました。座にもどるとみんなが歌ったり踊ったりしていましたので、村長さんもすっかり面白くなっておどり出しました。あんまり上手におどったので先刻失敬してきたガクマがたもとからぽたぽたと落ちました。

皆んなが大笑いしました。村長さんはほめられたと思ってますます上手におどりました。たもとからますますガクマが飛び出して来ました。
 

第四十話

有難い曼茶羅

むかし天保の年に栗駒の法華堂、円念(年)寺が雷火により焼失したときの話です。

雷火ですから大雨の中を黒煙がたち、炎々としてほのおが広がり恐ろしい昼火事でした。女、子供は泣きわめき駈けつけた群衆の怒号はすさまじいものでした。

そのとき黒煙の中を一條の光彩がほどばしり空中に何ものかが飛び上り消え去りました。人々の中にはそのことに気附かずに消火に努めていたものもありましたが、これを見たものは不思議に思いおそろしく思いました。

その後一ヶ月位も経たある日、達古袋村の伝右ェ門が岩ヶ崎町の用達しの帰りに栗原郡と西磐井郡の郡境の地蔵沢で、栗の木に幡(はた)のような長いものが掛かっているのを見付けました。

伝右ェ門は不思議におもって木に登りこれをとって見ると幡ではなく、何やら細かい字がいっぱいに書いたものでありました。伝右ェ門はそれを家に持ち帰りましたが、あるとき桑畑の卯左ェ門が放牧の馬尋ねに達古袋村まで行きこのことを聞きました。

翌日卯左ェ門が伝右ェ門を尋ね、そのものを見せて貰いましたところ、それは妙法蓮華経のまんだらでありました。

卯左ェ門はそのまんだらを貰い受け円念(年)寺へ奉納いたしました。もともとこのまんだらは円念(年)寺の什物でありましたが先頃の火災のとき炎上する黒煙の中を空中に飛び去ったものが円念より一〇粁の西北の山中に止ったものでまことに不思議と言うべきでありましょう。この由来を記したものが桑畑の千葉一枝氏方に現存してあります。
 

第四十一話

花咲爺

むかしあったど、ずんつぁまと、ばんつぁまあったど。犬こ一匹飼ってたどや、ずんつぁま、犬こば大事にして山さ木伐りに行ったときは、焼き飯ば半分に分けてかせて、魚こ半分にわけてかせだと、

その犬こあるとき、「シシ狩りにあばぁせ」て、ずんつぁまさ語ったど。そして爺んつぁま「よしよし」と言って、鉈とまさぎり、こだしこさ入れて背負ったれば、犬こ「おれさつけなさろ、べんともおれが背負ってけっから」と語ったから、爺んつぁま「ええから、ええから」と言ったども「ええからつけなさろ」って語ったのでつけて行ったど。

坂こさ行ったれば「爺んつぁ、おれの背中さ乗ってあばせぁ」と言ったど。「ええから、ええから」て語っても聞かねので、犬こさのさって行ったど。山さ行ったれば、犬こ「爺んつぁまさ、シシば呼ばってけっからうんととってあばせぁ」て言って、大きな声で、「あっつむけあのオアシシこう、こっつむけえのイノシシこう」て言ったので、うんとシシ狩りして来たど。

隣の爺んつぁま来てたまげて「なじょにして取ってきました」と聞いたれめ、「犬このおかげでしゃ」て言ったど。そしたれば「犬こ貸してけなさろ」て、やんだつの無理に借りて行って、犬こなにも語ねのさ、犬こさこだしとまさきりつけて行ったと。

坂こさ行ったれば、犬こなんにも語ねのに、犬この背中さのさって行ったと。

山さ行ったれば、犬こさ「あっつむけえのアオシシ……」とよばれて言いつけたど、犬こおもしろくねいから別によばったと。

「あっつむけえのかめバチ――こっつむけえのちちすがり、爺んつぁまのキンタマさすぐれさすぐれ」ってよばったので、大変大変あっつむけえからかめバチぶんぶん、こっつむけえからちちすがりぶんぶん、山ずうのハチとすがりと集ってきて、隣の爺んずのキンタマうんとさされたと。

爺んつぁまが「犬こ帰してけらえ」て行ったれば、隣の爺んつぁま「あんな犬こ殺して来ました」て言ったど。

爺んつぁま、どんな風などこだか聞いて行って、犬こいけて来たど。犬こいけたあとさ木こほきて大きくなったので、木ずるしこしゃて、ずるずる挽いたれば「爺んつぁめえさザックザック、婆んつぁめえさザックザック」いって大判小判がザクザク出はったと。

そしたれば隣の爺んつぁま、又来て「俺さ木ずるし貸してけなさろ」て、わかねと語っても持ってたんだど。そしてするし挽いたれば「爺んつぁめえさベタベタ、婆んつぁめいさベタベタ」て、ベタ糞ベタベタ出はって来たと。隣の爺んつぁま怒って、木ずるし割って窯口さくべてしまったと。

爺んつぁまきて「おらえのするし返してけらしゃ」言ったれば「窯口さくべてしもました」て言った。爺んつぁま悲しくなって「ほんであ灰こもらます」ていって、ざるさ灰こもらっていったと。

殿様の通るのにいきあったので、木さ上っていたれば殿様にめっけられたど。

殿様「そこにいるのは何ものだ」て言われたれば「枯木さ花こ咲かせる爺んずであす」と言ったれば、「そんで咲かせてごろうずろ」と言われたので「ばらっとまいてごしょうらん」と言って「ちちんぽんぽん黄金さらさら」と言ってまいたれば、花こぱらっと咲いだと。そして殿様からごほうびたくさん貰ったんだと。

隣の爺んつぁまが真似して枯木さあがっていたれば、殿様が「そこにいるのは何者だ」て言うたれば「枯木さ花こ咲かせる爺んつぁです」と言ったれば「そんで咲かせてごろうじろ」て言ったので、ちちんぽんぽん語ねで灰こばりバラッとまいたので、灰こ殿様のまなくさ入って殿様まなく見えねぐなってしまったど。

隣の爺んつぁま殿様の家来にしばられて、ろうやさいれられて罰あたったどや。

えんつこもつこさけた……。
 
 
 


HOME

INDEX

2000.08.30
2002.04.15 Hsato