栗駒の話 

 
第二十一話

八日吹雪(八日ぶき)

十二月八日は八日吹雪と言っています。

旧暦の十二月八日ですから寒にはいってからでたいへんに荒れる日になっています。

昔は雪が深く垣根杭が見えなくなるほど雪がつもりました。それに風が加わり、顔が針をさす様に痛み目は開いていられない程の猛吹雪でありました。この日はなるべく外に出ない様にして家の内で木の根っこを炉にくべて、男は藁仕事や農具の修理、女たちは縫い物をして暮らしていました。
仁太郎の嚊はこの日ぜひない用事のために町まで出かけました。それでも帰りを急いで二時頃には玉山まで帰りました。しかしこれからが大変なコースでありましたから、落合の鶴冶のかかは泊ってゆく様にすすめましたけれども、帰らなければ家族が心配するからと言って無理に出かけました。

それからが大変でありました。雪が胸あたりまで深く、一歩進むのに両手でかき分けて進み、又一歩出るのにそれをくり返し、まるで雪の中を泳ぐ様でありました。

それでも何時間かかかり吹雪の中で大粒の汗を流しながら努力しましたが、とうとう夜になり精魂つきて倒れてしまいました。

仁太郎は心配して妻の帰りを待っていましたが夜中になっても遂に帰らなかったので、翌朝近所の人達にもすけられて雪踏みしながら妻を迎えにいきました。なんとそのとき家からわずか三百メートルくらいの場所で倒れていました。

雪の深いのに歩行出来ず吹雪のために大声で助けを求めても聞こえなかったので、自分の家の灯りを目のあたりにして死んでいったのでしょう。

第二十二話

佐々木仁田の四郎


玉山は沼倉では一番いりの部落で雪の深いところでありました。

冬の間は十二月から四月の上旬まで町との交通が途絶えてしまうのでした。晩秋の頃は冬ごもりの仕度で大変忙しく、尿するヒマ(時間)もいたましい(もったいない)のでした。しかし冬になって雪が降ってからはいたってのんきなものでした。毎日お茶がわりにドブロク(濁酒)を飲んでは近隣の情を温めて暮らしたのでした。

ある年、米粉立の佐々木の爺んづぁさまが御年始に放森へ行ったれば、丁度に割山のエトコ(従兄)も来合せていたのでたまげて御馳走様になってしまいました。そして帰りは「こっちの爺んつぁん、林のエトコとおら家さあばせ、割山のエトコ、おら家さも寄っててけらえ」と言う訳で、三人連れだって帰って来ました。

玉山の道路は雪みちでありましたから一歩踏みはずしたら深い雪の中にはまってしまうのでありました。雪道は人の歩いたあとを次の人も歩き、人の歩いたあとをけものたちも通って、遂には一本の細い道を作るのでした。雪道だけふみ固められて残り、両側は深く積った雪でありました。

三人連れが不動橋を渡り米粉立の曲道のところに来たとき、遠くから吹雪の中を雪煙を立てて黒い固まりが飛んで来ました。あっという間に近づいたのを見ると一匹の猪でありました。猪は引き返すことを知らない動物でありましたし、細い雪道でありましたので双方で睨合いになったときです。米粉立の爺んつぁまが両手をひろげて猪に立向いました。そして猪の背にとび乗りました。猪は人間を振り落とそうと暴れました。爺んつぁまは落されては大変と猪の背中にカジリ付きました。そして三人掛りでカイ棒を振ってとうとう仕止めたのでした。雪道を通るときは必ずカイ棒(舟をこぐカイの形の棒)を持って雪を割ったものです。

それからは爺んつぁまには前歯が欠けてしまったのでしたが、子供達があそびに行ったときは歯のない顔をニコニコして笑って見せました。
 


 

第二十三話

金草の爺んつぁ

玉山の金草に市右ェ門という爺んつぁんがいました。玉山はイリで、冷水かかりの田圃でありましたから生活は苦しく細々と炭を焼いては暮らしていました。

師走になりました。市右ェ門のオカタ(妻)がいいました。

「爺んつぁま、今夜は二十三夜様だから餅ついて上げなくてなんねェー、米一粒もねえが」

そしたら爺んつぁまは朝からハバキ(臑当て)をして横座にあたっていましたが、煙草をのみながら「うん、心配することねえ、夕方になったらセイロウかけて火をたいてえろ」と言って町に出かけました。

町の米屋から外交をして糯米を八升ほど借りて小出し(藁で作ったサック)に背負って帰りました。松倉の小深田で水を飲むふりして背中の糯米を川に落としてしまいました。それは計画的でありました。糯米をうるかす(水に浸す)ためにわざと水に落としたのでした。町から玉山まで五里の道程でありましたから途中三、四回繰返している内に家に帰ったときは、すっかりうるけていましたから夕方オカタがセイロウをかけていたので、直ぐフカス(蒸す)ことが出来ました。

爺んつぁは貧乏を少しも苦にしなかったそうです。

第二十四話

山神様の木調べの日

旧暦で二月九日はお山神様が立木調べの日でありますから、この日はやまど(山仕事)に行かぬことになっています。

玉山の薄木沢の源太郎の父親は、右てば左、行かねんだてば行ぐといった困った人でした。根掘沢で炭焼きしていましたが、今日は九日だし雪も荒れるし、休んだらと家族は言いましたが、「山どしない日なんてあるもんでねえ」と言って無理に出かけて行きました。

家の人たちは心配していましたが、夜になっても帰って来ませんでした。部落の人たちにすけられて(手伝って貰い)行って見ると、根堀沢の上流の崖の下で木の下敷きになって死んでいました。

又ある年のことでした。鴻の巣の爺んつぁまも二月九日だから、今日は休むつもりでいましたがオカタに言われました。

「爺んつぁま、今日休んだらあすなさ(明朝)の米なぞにするすけ、休んでいられめっちゃや」「それもそうだなー」と思い直して、立石のイリに馬の荷鞍骨を伐りに行きました。出て行くとき「今日はやんだ日だなー」と思いながら――途中で戻ったりしたけれども又思い直して行きました。

家では夜になっても帰って来ないので行ってみると、栓の木の大木にはさまれて死んでいました。

それから二月九日には決してやまどをしませんでした。
 
 

第二十五話

渡辺の家には屋根に煙出しがなかった

滝の原の部落に渡辺を名のる家が四、五軒あるが、屋根には煙出しがついていませんでした。

昔、京都で頼光様に四天王と言われた四人の家来がありました。京都の羅生門に住む鬼が京の街を荒して困っていました。渡辺の綱はこの鬼を征伐に行って鬼の腕を切り落とし、その腕を自慢していました。

あるとき綱の家に姥が訪ねて来て「鬼の腕(かいな)を見せてけらえ」と言いました。綱は自慢してその腕を見せました。姥はその腕を「貸してけらえ」とお願いしました。綱はそれをこばみました。そのとき、今まで姥の姿をしていたのがたちまち鬼の姿になって自在かぎを伝って屋根の煙出しから逃げました。

それからは渡辺の一族は煙出しをつけませんでした。


 

第二十六話

明玉様はお帰りになった

栗駒の村の神社を統合することになりましたので(統合は明治四十一年村会にて決議)永洞の御不動様、玉山の明玉様、桑畑の速日神社、鳥屋の愛宕様、上田のお山神様は一ノ宮の駒形根神社に統合になりました。

九月二十九日お駒様の御縁日には祭典が盛大に行われ大変にぎやかでした。

翌朝のまだ夜の明けない頃でした。玉山の作太郎爺んつぁまが若柳の町に用事がありましたので一人で暗い山道をあるいて来ました。川台のお府金の滝のところまで来たとき、向うから提灯をつけた者が来ました。すれちがう時見ると六尺位の大男で、目玉のぎょろッとした気味の悪い男でした。黙ってすれちがうのが怖ろしいので声をかけました。

「おらァアガト(上戸)の作太郎だがあんだだれっしゃ、何処まで行ぎす」すると大男は「ああ俺か、俺は明玉明神だ。神社の統合で、きのう(昨日)一ノ宮さ移ったがあんまりエエ気分でなかったから玉山さ帰るどこだ」と言うてさっさと上って行きました。

作太郎じんつぁまはちょうちんの灯を見送っていましたが、不思議に恐ろしくも淋しくもなかったので、又一人で里へ歩いて行きました。

そして玉山では翌年から又、明玉神社のお祭りを部落だけで行なうようになりました。やっぱり、明玉様は一ノ宮さ統合しないで帰って山のいり(奥)の小さな部落を守護してくださると信じたからでしょう。
 

第二十七話

高印の鍬の柄

仙台のお城を築く時代にはブルドーザもなくスコップもありませんでした。田畑で使っている平鍬で土を掘りモッコに入れてかついで土方をしました。

栗駒は山イリの村でありましたからおおむかしからイリ山に上ってはげみ(稼ぎ)をしていましたので、殿様から鍬つる(鍬の柄)を供出する様に命令がありました。

皆んなで沢山の鍬つるを供出しました。その中で◯高の焼印の入ったくわつるが丈夫で使い良かったので大変おほめにあずかりました。そして◯高印に限り、お上の山(国有林)の内、川台山に限り伐採御免(届出の必要なく自由に入山伐採出来ること)のお墨付を頂戴致しました。(但し氏名不詳である)

その後大正年間まで岩ヶ崎、築館の市場でも◯高印つるは文字、花山などから生産されるものより高く買われていました。

(註) はげみ
古栗駒のイリ(奥)の人達は農耕を女達にまかせて男は全部山に上ってボッキ(棒木)ヘラ(鍬の柄の平木)エンバツ(柄鉢)等の農具、ヘラ(飯盛り用)シャクシ(杓子)ヒシャク(水汲み)等家具、下駄、足駄の歯などの生産に従事した。
 


 

第二十八話

木まくら

みちのくの栗駒やまの朴の木のまくらはあれど君のたまくら  古今六帖

古歌に詠まれている枕はどんなまくらであろうか、千年も前に作られた枕の形を想像するに玉山部落か都田、桑畑附近の部落で下駄、足駄、柄鉢などとともに、ハゲミ(稼ぎ)にイリ山に登った。ヤマド(山人)達が作った朴の木をくりぬいて形造った荒削りの素朴な作品であったでしょう。

その後長方形の箱形に進み、さらに舟ぞこ枕に進歩し、また実用を兼ねた引出し枕になったのでしょうか。

箱枕、舟ぞこ枕は指物師と呼ばれる人達の仕事になって来た。その頃はすでに古今六帖の以後である。

現存する栗駒での指物師は沼倉字馬場部落の和久安英氏唯一人である。和久氏は元公民館長、町文化財保護委員、栗駒和洋裁学校長などの職にある。指物はほとんど休業であり、加うるに古稀を越えており、まさに人間文化財の一人である。

氏に指物について聞いて見る。

むかし伊達藩の着座として沼倉には三七〇石の和久半左ェ門が居った。かつては藩の御祐筆であり格筆を誇っていましたが、三七〇石の小録で家士を養わねばならなかったので、その貧困ぶりは甚しかった。

ついては家士のほとんどが若干の農耕と手職にたよらなければならなかった。その内、天保年間に仙台蕃は凶作に見舞われて一粒の米も出来ないことがあった。備荒とてなく大いに困難を極めたために現在の和久安英氏の先祖和久悦蔵なるものを秋田の大館に派遣して技術を習得させて指物を伝習して凶作の困難を切りぬけたと言われる。

作品はお膳、参宝、まげ輪として栗駒の特産品にあげられ、舟ぞこ枕は有名であった。
 
 


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2000.08.30
2002.04.15 Hsato