栗駒の話

 

第八話

お駒様の里宮について



栗駒山は岩手・秋田・宮城の三県にまたがる奥羽山脈の秀峯であります。
岩手県では須川岳と予備、秋田では大日岳とも言われています。

毎年の雪解頃ともなれば残雪が湯田異な白馬の形に見え、また奔馬の姿に変わり、あるいは立馬に時季により種々変わるので、宮城県でも駒が岳、又栗駒岳とも称されていました。

栗駒岳に駒形根神社を祭り、山頂にあるのを岳宮といい栗駒一の宮に御里宮を祭ってあります。往古のことでありました。岳宮の御神体は三十糎(センチメートル)の閻浮提金(エンブダゴン=最良の金塊)の彫刻御神駒でありました。閻浮提金とは最上の黄金のことでそれは尊い御神体でありました。

ある年秋田の湯沢市の在郷の鍛冶屋がこの御神体を盗んで来ました。そして里人が寝静まった頃夜中にこっそり起きて仕事場に入り、炉の中に栗の木で焼いた鍛冶炭を沢山くべてフィゴをかけ、御神体の駒の前脚を溶かし始めました。この時です。駒は炉の中から飛び出しました。そして鍛冶屋の眉間をトモ脚でけとばし、夜中に一条の光を放って東空にとび去りました。件の鍛冶屋は気絶したまま遂に息を吹き返すことが出来ずに死んでしまいました。

栗駒山の東麓三迫川の近くで、朝草刈をしていた人がありました。山の上に光を発見したので尋ねて見ましたところ、三本脚の黄金の駒でありました。

岳宮の御神体であることがわかりましたので、駒が降りた場所にお宮を建て、里宮としました。戦前までは郷社駒形根神社として近郷に信仰をあつめて居りました。今でも御神体は三本脚の御神駒です。
 

第九話 

判官森(一)

沼倉の古館(または万代立てともいう)の城主は沼倉小次郎高次と申しました。兄の小太郎行信は杉の芽小太郎と称し、平泉の藤原氏に身を寄せていた源義經公の家来となって仕えておりました。小次郎高次は藤原秀衡と親交がありましたから義経とも深い交わりがあったことでしょう。

鎌倉の頼朝公は、弟義経を憎みつつも秀衡存命中は一指もふれることが出来ませんでしたが、秀衡の没後はその子泰衡に命じ義経の首を求めました。

泰衡は鎌倉勢とともにその居城を攻め日を放ちました。義経は奮闘しましたけれども遂に力及ばず、「鎌倉の犬侍共よく承れ、義経が死に様を良く見とどけよ」と大音声に呼ばわって、猛火の中に自刃して果てました。然し実は、義経公は高舘をのがれ北上し北海の地に渡ったのでした。又弁慶も衣川で戦死したのでなくて、義経といっしょに逃れれ衣川で矢を負ったのは身代わりの藁人形でありました。

それでは高舘で、我こそは源九郎なりと言うて自害したのは誰でしょう。実は沼倉の杉の目小太郎行信だったのです。

小太郎はその容貌義経公に似て、常に義経公の影武者として服装も義経と寸分違わぬいでたちでした。

猛火の中、偽って義経公と名乗り身替わりとなり自害したのでした。鎌倉へは杉の目小太郎の首級が送られたのでありましたが、兄の頼朝すら見違えたのでありました。

小次郎は兄の遺骸(胴体のみの)を持ち帰り、ねんごろに葬り墓碑および五輪の塔を建立し供養しました。この森を判官森と呼び義経の墓地と称し公儀に届けてあります。

碑面に曰く

大願成就

上拝 源九郎判官義経公

文治五年閏四月二十八日
 

第九話
 

判官森(二)

義経は高舘の戦いでは今はこれまでと兼房をよんで、「いまは自害すべきであろう」と仰せられました。兼房をつつしんで「見方が残らず討死されたとお聞きになられて御前様も二人の御子もただいま御自害なさいました」、と申し上げると、義経は「いまは安心だ」と仰せられて、内庭の岩に腰をおろし、金念刀(きんねんとう)でハラを十文字に切られました。兼房は御命令でありましたからと御前にすすみ寄り御首を打ち落としました。

そして兼房も自ら腹十文字に切り五臓をつかみ出して義経の首を自分の腹の中にかくし自分の着物でまいて息が絶えました。

清悦、常陸のきん獣が二人で御所に火をかけましたのでいっときの内に焼失しました。文治五年閏四月二十九日のことで義経は三十三歳でありました。そして五月十三日頼朝は平泉に下向されましたので義経の御葬礼が盛大に行われました。御葬礼所は、大崎氏の御在所は三迫沼倉邑に定められました。それは頼朝に味方した大崎氏がお願いしたのでありました。

葬列は義経の御死骸を(みこし)にて頼朝自身も騎馬で従い沼倉までお供されました。そして葬礼所においては弁慶、鈴木兄弟、佐藤兄弟、篠ノ源蔵、熊井太郎、備前平四郎、権ノ正兼房の十名の葬礼を同時に行いました。今そこは判官森と呼ばれて義経の歯かがあります。法名は通山源公居士。このことは、沼倉の千葉一枝方の蔵書「清悦物語」にあります。(天明二年十月写本で現存)

清悦は義経の近従でありました。高舘の戦いでは奮戦しましたが常陸坊海尊と二人は戦死しませんでした。そしてその後は長寿を保って当時の合戦の模様を語り歩いたと言われています。その話したのを小野太左衛門という人が聞き書きしたというのが「清悦物語」であります。清悦は寛永七年に死んだと言われます。
 

第十話

立石の金左ェ門

昔、立石に小笠原金左ェ門というものがおりました。大変にかばね病み(不精者)で顔を洗うこともせず手足もろくに洗わないで、風呂にもはいることがまれでありました。

家の仕事はろくにしないで毎日の様に里に下って夜はおそくなって帰るのでした。

金左ェ門はかばね病みでしたが仕事をすると器用でした。他所の家に行っては人の嫌がる仕事でもよろこんで手伝って、一生懸命に働くのでした。

秋の稲刈り時などはぬかり田の穂にほ取り(稲の棒掛け)などは若衆でも嫌がる仕事でありましたが、金左ェ門はおだてられると喜んで手伝って夕方暗くなるまで働くのでした。

金左ェ門の本業は炭焼きでありました。朝起きると山人したくでハバキ(臑当て)をして横座で火にあたっていました。

お正月を間近かにしたある年の詰の月(師走)でした。さすがの金左ェ門も正月の魚買うことを考えて毎日炭焼きに山に登っていました。

ある日のことでした。炭木を割っていたときにあやまってマサカリで足のかがとを割って大けがをしました。創口は大きく歩行ができないので部落の人たちみんなで背負って山を下り家に運んで応急の手当てをして、お正月を迎えました。

金左ェ門はみんなにすすめられて駒の湯が傷に効くというので正月早々駒の湯に湯治に出かけました。

一週間ばかり湯にはいっているうちに何年間かの垢がうるけてキレイに落ちていきました。足のかがとの垢もいっしょに落ちていました。すると何んたる不思議なことでしょう。マサカリで割った創傷がどこにも見当たりません。こつぜんとして消えてなくなっていました。

マサカリで割った創口は何年間も蓄積したかがとの垢の部分で止まっていたのでした。なるほど創口の大きい割に出血がなかったとみんなは語ってあきれかえったということです。
 

第十一話

平三寺様

昔、木鉢に平三郎というものがおりました。変わりものであったので誰もむこにもらう人もなくて、毎日寺へ遊びに行っていましたが、和尚のいうことなどは全然聞かないできままをしていました。

ある時、和尚様の不在のときに檀家から法事を頼みに来ました。和尚様が不在で檀那は困っていると、平三郎は軽く引受けて呉れましたので檀那はいたく喜んで帰りました。翌日平三郎は寺から衣をかりて和尚の姿で檀家に出かけました。

やがて読経が始まりました。平三郎は得意の美声を張りあげて朗々と読経しました。親類の皆は大変有難くなっておりました。お婆さん達は泣きながら拝んでおりました。

しかし檀那は不思議に思いながら経文を聞いておりました。どこかで聞いた様な御文章であるからです。そして思わず「うーむ」とうなりました。

この有難い御文章はまぎれもなく寺小屋で習っている農家手習帳の一節であったからです。でも皆んなはまだ感心して聞いておりました。

平三郎は落ち付いた態度で朗々たるものです。思わず檀那は「うまいぞ!!」といってしまいました。すると平三郎は今まで朗々とお経をあげていたのをぴたりと止めてしまいました。そして檀那に向かって「何んですか、私は興行でやっているのではありません。うまいぞ!!とか、うまくないとか言われては仏の供養になりませんから帰ります」と言って、おこった態度で帰りしたくを始めました。

実は平三郎は始まりは和尚のまねをして始めたけれども止め方をなぞにして(どうして)止めるか、お経の止め方を苦労していたのでした。

それから親類たちのとりなしもあって檀那もあやまり無事に納まりやがて供養の座につきました。

あとでこのことが知られ、それからは平三郎は村の人たちから平三寺様、平三寺様と呼ばれる様になりました。

(この人は木鉢の原という所に別家になりました)
 

第十二話

助だんぽう

沼倉の和久の殿様の家中のものに足軽で助だんぽうという者が居りました。大変落ち着きのないあわて者でありました。殿様から「古屋敷の中川へ行って屋敷の草取り人夫をたのんで来い」と言われて、皆まで聞かないうちに早速出て行きましたが、古屋敷をとんのけて(通りすぎて)中財まで行ってしまいました。そして中財に寄って「殿様から明日田植の人夫たのんでこいと言われましたのでお願いします」と言って頼んできたりして、たびたび失敗しました。

あるとき殿様が「助や、明日は重要な要件があるから仙台のお城まで使いに行ってこい」と言われました。

助は「ハッ」と恐れ入り、早速屋敷に下って休養し、翌朝は未明に起きて、旅仕度をして出立いたしました。

助は短躯でありましたけれども健脚でありましたから正午までには仙台に着きました。

早速お城に出頭いたして沼倉の和久より重要な用件でまかり出でた由を申し上げました。

面接所に通され奉行から「いかなる用件であるか」と尋ねられました。そのときです、助だんぽうはハタと困ってしまいました。

昨夕、殿様からあす仙台へ行って来る様にと言われたが、けさそのまま出立したので用件は何も聞いておらなかったのでした。

助は「ハッー」と恐縮してしまいました。アッと言う間に直ちに退出して引き返しました。

お城の奉行はあっけにとられてただぼうぜんとしてしまいました。

助はその夕方、沼倉まで帰って来たそうです。沼倉から仙台まで八十粁米と言われます。

それからは「仙台まで日帰りした助だんぽう」と皆んなに驚歎されました。

助だんぽうは本名を加瀬谷正之助と言います。馬場の金雄さんの曽祖父であります。
 

第十三話

筆 塚

栗駒郵便局の向いに雄渾な筆で筆塚と書かれた高さ二メートル位の石碑がある。

これは栗駒の和久家の手習師匠・渡辺半五郎先生の門弟が、師の徳を顕彰するために建立したものである。

筆塚は弟子千人を教えたものでなければ建てないものであったが、先生には三百人位しかなかったが、山村の不便な地で千人の弟子を求めることは不可能なことであったし、先生は手習師匠だけでなく、よく門弟の世話もした人であり、人徳のしからしむるところだったのでしょう。

ちなみに、塚には千本の筆を埋めてあると言われる。世話を受けたおもな人としては菅原運冶、高橋和助、庵原誠治郎などいずれも今日別家として礼を得ている。

先生の逸話も又数多く伝えられるが、たしなむことが過ぎてはよく弟子宅を回って酒を飲んでいた。そして懐はいつも空しかったがたいして気にもとめず、いたって朗らかに振まっていたと言う。

先生の口ぐせに次の歌が残されている。

酒のめば心はいつも春めきて借金とりも鴬の声
 

寅明神

留岡の菅原家は四軒ともに内神(家神か)が祭っていない。この四軒は共同して寅明神をまつっている。それは本家の先祖に寅之助と言うものがあった。この者を明神にまつって三月八日・九月八日にはお祭りをして拝んでいる。


 

第十四話

留岡では女が葬りに立会わない

むかし、和久様の葬りのときのことであった。会葬の人々が歎き悲しみながら野辺の葬りを済まして帰っても、岩出山(玉造郡)の伯母さんはとうとう会葬に間に合わなかった。遠いところから駆けつけるのだから急いで来ても遂におそくなったのでした。けれども和久様の親類は大変に厳格な人たちであったので、伯母さんの墓参りの持ち物を残して置いたので、伯母さんはただ一人でおそくなってから墓参りしたのでした。

真新しい土がその辺にこぼれ、造花やら焚火の跡、まだ線香もくすぶって野位牌はほの暗がりに白くぼやけてたまらなく淋しい場面でありました。

伯母さんははるばると岩出山からかけつけたけれども、葬りに間に合わなかったことを詫びてねんごろに拝んで、塔婆を建てて帰ろうとしましたが、そのとき着物の裾をしっかりおさえられてしまいました。いくら逃げようとしてもしっかり押さえられ、あわてればあわてるほど逃げられません。たまげてしまってその場に卒倒してしまいました。

家ではあんまり帰りがおそいので、松明をつけて迎えに来てみると、着物の裾に塔婆の先きを突きさしてこと切れておりました。

結局、一度に二人の葬りを行なったので、それからは留岡の部落では女が葬りにたたないことになりました。今でもこのことは守られています。

第十五話

三人の家来

和久様が参賀のために上仙するときはきまって次の者どもがお供に仰せつけられた。

林の丈吉(佐藤盛氏の先祖)兎田の木間猫(鈴木清氏の先祖)境の定左ェ門(佐藤直衛氏の先祖)の三人であった。

境の定左ェ門は読み書きが出来て、物織りで将棋・碁が出来、秘書として適任であったし、木間猫は芸人で唄って踊って跳ねて、太鼓・三味線・遊芸、何んでも御座れであった。丈吉は堅人で酒はたしなむ程度であったが、金持であったから貧乏な殿様には欠くべからざる存在であった。

ある年の正月、和久の殿様は常にしたこともない絹の褌をして参賀した。宴半ばにして御手洗いに立ったのがいけなかった。絹の褌をしていることを忘れてしまったから大変、早速丈吉を呼んで前後策を講じ、結局お包みにしてたもとに入れて沼倉までお戻りになられた由である。代替品は丈吉が調達申し上げる光栄に浴したことは申すまでもなかった。
 

第十六話

電気婆

日比谷公会堂前の広場で紫色の袴に百足袋、高下駄をはき箱の上に立って演説していた老婦人があった。

これは改進党の大隈伯爵とじっこんで、当時すでに「婦人参政権」を唱えていた電気婆である。

電気婆、蘇武はつ子は村長蘇武庄太郎の夫人であったが故あって離婚し、その後仙台および東京に出て貸蒲団屋を営みながら、村から出て来た兵隊さんなどを世話していた。

彼女は世話好きであった。ことに選挙が好きで選挙となると食事も忘れて奔走した。
街頭演説に、戸別訪問に、あるいは車中演説に随所に、紫の袴に白足袋、高足駄、しわくちゃ顔に化粧をほどこし、演説は立板に水の流るる如くとうとうたるものがあった。干渉に当る警察でも黙認していたとのことである。

そして電気婆が応援した候補者に落選したものがなかったと言われている。ただ、はつ子は仙台や東京に出てからは女世帯であったためにか、男の客が絶えなかったと言われ、いわゆる電光石火とも言われ、電気婆の愛称もこの辺より出たのではなかったろうか。
 

第十七話

ウマクなかったお菓子

仙台藩の座頭に芳賀コリウイチと言う者があった。栗駒の反目(そおりめ)から出た者で秀才であったから座頭に出世したのであった。

コリウイチは田舎の姪に仙台のお祭りを見せたいと考えていたので、あるときおシャン、おヨシの二人の姪をお祭りに招んだ。二人とも遠くても岩ヶ崎より遠くへは出たこともなかったし、仙台は初めての土地であったので見るもの、聞くものただただ珍しいものばかりであった。

夜は生菓子だの、上等のお茶菓子を出された。

「おら、こんなうめいお菓子はじめて食った」と感歎した。

翌日、街見物に出たれば店頭に美しい色の石けんを見つけた。おシャンは前の晩に御馳走になった生菓子のことを考えていた。思いきって買っておヨシと二人で食ったから大変、口の中は泡だらけ、とてもとてもたべられるしろものではなかった。
 
 

第十八話

おシャンに受取り候也

年貢は石納であった。栗原郡には大林にお蔵があったから、栗駒から大林まで運搬しなければならなかったから大儀なことであった。
ある年のことである。反目のおシャンも近所の人たちといっしょに馬に籾を積んで大林のお蔵まで行くことになった。

おどちゃんから「受取りば貰ってこう」と言われて行ったので、石をお渡しして一札いただいた。

「お役人様、おら読めねえからどうか読んでけらえん」とお願い申し上げましたので、お役人は「ひとつ籾八斗右正に受取り候也」と読み上げました。

おシャンはたいそう不服でした。

「お役人様、マサに受取りでなく、おシャンに受取りと書いてけらえ」

お役人は「受取り書っうものはこの様に書くものだ」と聞かせても承知しません。とうとうおシャンに受取りと書かせて帰りました。

マサは妹であった。
 

第十九話

立石の松

十二月の十二日はお山神の日である。栗駒のうちでも玉山、滝の原、木鉢等のイリ(奥)の人たちは稼ぎといって山の仕事をしてくらしていたので、この日は山人(やまど)を休んでお山の神様をお祀りした。

山の小屋に朝から仲間がみんな集まりお神酒をあげて、魚を供えて拝んでから大きな鍋をかけ、焚火をどんどん燃やして大酒盛りし、山仕事の安全を祈って下山した。

部落に下りてからも仲間の家をまわってハシゴ酒をして翌日(十三日)の午前中までは祝った。

木鉢のイリの立石の附近は仙台藩の藩有林でお林と言った。この山は留山でなくてアキ山であったので、部落の稼ぎ山に払い下げを受けてみんなで小屋を建てて仕事をしていた。

十二月の十二日のお山の神様の日は例によって山祝いすることになった。酒も沢山持って来たし魚も野菜も準備して焚物は前の日の内に集めていた。

当日はだんなの太郎左ェ門が用事があったので十五歳になる弟の弥六が代理で出席した。

境の熊吉が申すには「だんなの太郎左ェ門様なら今日の祝の正座(上座)は当然だが、子供が代人で上座することがどうかな」と言った。

皆んなは黙っていた。そのとき定左ェ門は「そんだら今日はみんなで歌を一つずつ詠むことにするべー、そして一番ええ歌を作ったのが上座するべー」と言った。みんなで賛成した。そしてめいめいに苦しい顔つきになって歌を考えていた。

うんうんとうなって苦吟している者もいた。そのとき十五歳になる弥六は苦もなく次のとおりによみあげた。

○ アキ(開き)山はみんな伐る木(気)で上りしが伐るに伐られぬ立石の松

とうとうこの歌に及ぶものがなかったので弥六に上座をとられてしまった。熊吉は木の尻にすわらせられて木のくべかたをさせられた。

やっぱり太郎左ェ門様の家は上座だなと感心した。

アキ山は皆伐であったけれども払い下げのとき、立(タテ)木と言って松・杉・朴・栗など五木を伐られなかったのを立木の松を立石の地名に替えて詠んだのであった。
 

第二十話

川原市

日照田の部落は栗駒山の麓にある小さな部落であります。昔は正月八日にここに川原市が開かれました。

三迫川の川原の広場に小屋掛けして魚屋、小間物屋、木綿呉服屋、うどん、そばや、酒を売る店塩、砂糖、白粉、紅、くし、マッチなどを売る店、日常の生活に必要なものは何んでも調達できるのでした。

いりに住んでいた人達もこの日は自分の製品を売りに出ました。農具である鍬の柄、鍬のへら、家庭用品、しゃくし、ヘラ、雪下駄、足駄、箕、木炭、薪、角物、板類に至るまで何んでもよいのでした。

最近に至っては建具の様な高級品なども出品されました。

村の若者達は七日までの稼ぎはホマチでありましたから元旦から精出してかせぎました。

八日にはこのホマチで着物を買ったり化粧道具などを貢いだり、二人でうどん屋に入ったりしてたのしい一日を過ごすことが出来るのでした。
 
 
 
 
 


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2000.01.17
2002.4.14 Hsato