栗駒の話
 

 
第一話

かくれる祠

むかし、沼倉に、狩野という家がありました。そこの、ばんつぁー(ばあさん)が、ある日、山さ、みず(水菜)採りに行きました。みずや、ふき(蕗)などを採りながら、沼倉館の沢のいりコ(奥)まで行ってしまいました。そこには、石の祠が建っていて、そこらじゅう(一面)、みずが一杯生えていました。ばんつぁーは、すっかり嬉しくなりました。みずを沢山摘んで、祠を拝んで帰りました。

次の日、また、ばんつぁーは、そこへ行って見ました。ところが、みずは一本もありませんでした。石の祠も見当たりませんでした。そこらじゅうを尋ねましたが、とうとう見つけねエで帰りました。家さ帰ってから、家族に話して聞かせましたが、ずんつぁー(じいさん)も、石の祠のことは、わかりませんでした。

秋になって、斎藤という、ずんつぁーが、栗コふれエ(栗拾い)に、沼倉館さ行きました。沢のいりコさ行ったら、石の祠が建っていました。そこらじゅうに、栗の実が、沢山落ちていました。ずんつぁーは、大喜びで、ふごコ(畚)さ一杯拾って帰りました。次の日また、そこへ行って見ました。栗コは、一粒も落ちていませんでした。石の祠もありませんでした。

冬になって、林という家の、ずんつぁーが、鉄砲ぶずに、沼倉館へ行きました。ウサギを五、六羽ぶって帰る途中、石の祠を見つけました。目印に、ナラぬぎ(楢の木)を削って帰りました。次の日、その木を目当てに、行って見ましたが、ナラの木もなければ、祠もありませんでした。

このほかにも、祠を見たという人は、何人かおります。しかし、二度見たという人は、おりません。本当に不思議な祠です。

むかし、城内というところに、庄造という若者が住んでいました。沼倉館で、ささ刈りをしていた時、ささやぶの中から、小さな石の祠を見つけました。庄造は、その祠を持ち帰り、御明神様と並べて祭りました。そして朔日・十五日・二十八日には、欠かさず拝みました。それから庄造に、だんだん運が向いて来て、大金持になり、「庄造旦那」と呼ばれるようになったということです。



 

第二話

漆万杯、黄金おくおく



沼倉城は、白岩館ともいわれ、沼倉邑の城主、沼倉飛騨守の館でした。敵に攻められて、落城したとき

  朝比さす夕日かがやくたらたら滝のその下に、漆万杯、黄金おくおく

という歌を残して、落ち延びたといわれていました。

多くの人たちが館にのぼって、宝探しをしたが、だれも掘り当てた人は、いませんでした。ある時、山田の濁沼家で放牧していた馬が、ともあす(後ろ足)に、漆を一杯付けて、戻って来ました。濁沼さんの人達は、びっくりしました。隣近所の人たちも見に来ました。

「こえずア(これは)、飛騨守が埋めだ漆壺さ(漆を入れて壺)、まっこ(馬)が、ともあす踏んどずたんだベエ(踏み出したのだろう)」ということになりました。そしてその辺、一帯を探し回りましたが、漆壺も、黄金の瓶もとうとう見付かりませんでした。

沼倉城は桜花館と言われ花ビラの形であり、館の姿が、大蛇のような格好をしていたので、蛇ケ館とも呼ばれました。前方からは攻めるに困難な館で、難航不落を誇っていましたが、裏側の玉山、即ち、大蛇の心臓部を攻められて、落城したと言われております。
 


 

第三話

鞍掛沼

 

玉山の三角森は、沼ケ森とも呼ばれております。標高六百六十メートル、稜線が美しく、ふもとは、なだらかな高原で、牛馬が放牧されておりました。初夏の太陽を浴びて、牛馬が若葉を食み、或いはたてがみを風になびかせ、掛けているときもありました。。

その沼が盛りの頂上近くに、紺青の水を湛えている周囲五キロメートルの、鞍掛沼と呼ばれている沼があります。この沼があるところから、沼ケ守といわれ、対岸の原生林のうっそうたる影を湖面にうつして、千古の神秘を伝えております。

頃は天昇一八年のこと。

白岩城(沼倉城)を逃れた、沼倉飛騨神は、奥羽山脈を越え、羽後の仙北に向かう途中、沼ケ森に差しかかりました。

往時、この辺一帯は湿原でした。飛騨守の馬は、ぬかるみに深くはいりこみ、両足は自由を失い、はらまで沈んでしまいました。飛騨守は迫り来る追っ手にいまはこれまでと、意を決し、愛馬を斬り、黄金の鞍を、桂の木に掛け逃げ出しました。ところが、馬がはまりこんでしまったところからこんこんと清水が湧き出し、たちまち沼となり、飛騨守の足跡を隠してしまいました。馬のかばね(体)も、黄金の鞍も、沼のそこに沈んでしまいました。追手はついに沼を渡ることができず、追跡をやめて、引っ返してゆきました。

それは旧暦七月七日の暁のことでした。それから三年に一度、七月七日の暁に、馬の首と黄金の鞍が、沼の面に浮かぶといわれてきました。

これをみた人は三年のうちに死ぬといわれます。

玉山に、おつき、おみつという姉妹がありました。沼ケ森の裏の焼野には、お盆の頃の季節はずれの、紫のわらび生える、といわれていました。旧暦七月七日は野良仕事を休み、お墓の掃除をしたり、お盆を迎える準備をしたりしていました。

ある年の七月七日、姉妹は、昼からゆっくり休むつもりで、臼くらいうちに起きて、焼野へわらび採りに出かけました。鞍掛沼に差しかかった頃は、まだ朝靄がたちこめていました。その時、一条の金色の光が流れたかと思うと、沼のどまん中頃に、黄金の鞍が、「ぽっかり」、浮かび上がりました。姉妹は、あまりのみごとさに、目を見張りました。やがて、その鞍が沈んでしまうと、急に恐ろしくなって来ました。「これを見たものは、三年のうちに死ぬ」、ということを思い出したのです。二人は急に急いで山を下りました。遂に駈け出しました。家に戻っても、食事もとらずに布団をかぶって寝てしまいました。

それ以来、姉妹は、無口になり、人に会うこともいやがりました。姉のおつきは、翌年に亡くなり、妹のおみつは、失明してしまいました。おみつは玉山の小屋倉の菅原健次郎さんの祖母で、三十年前に亡くなりましたが、毎年、炭俵用の縄をなっているおばあさんでした。決してこのことは口にしなかったそうです。姉のおつきは口外したために、早く亡くなったのでしょうか。
 


 

第四話

法師ヶ原の衣石

むかし、行者滝で、七人の行者が修業していました。この滝は、栗駒山の万年雪がとけてくる、夏なお冷たい貝堀川(三迫川上流)に注ぐ、二十丈ほどの瀑布です。両岸には、うっそうとしてブナの原始林が迫り、滝の中ごろの岩壁に刻まれている不動尊像は、怪しくあたりに鬼気を漂わせ、どうどうと鳴る瀑音響と共に、落ちに落ちる水は、風をつくり、霧を飛ばして、滝壺の中は、戦慄を覚えるほどです。

行者たちは、一心に念仏を唱えながら、修行に励んでおりました。長い間の修行で疲れたのか、心のゆるみが出て来ました。すこし、だらけて来たのでした。その時、一尺ほどの小蛇が突然現れました。小蛇は、この大滝を懸命に昇ろうとしていました。一人の行者がこれを見つけて、昇れるものかと嘲笑いました。他の行者たちも、一緒になって嘲笑いました。

ところが、この小蛇が見る見るうちに大きくなったかと思うと、行者たちに迫ってきました。行者たちは驚いて、我先きにと逃げ出しました。大蛇は、物凄い勢いで追っかけて来ました。

玉山部落のナメリ付近(地名)で一番若いソツン坊が、足をすべらして三迫川についらくし、流死しました。

法師ヶ原でコッチン坊が、愛宕でセイガク坊が、浦田原でマシイチ坊が倒れてしまいました。

小倉原でウサギダ坊が、松倉の宮林まで来て、マンカイ坊が倒れてしまいました。一番遠くまで逃げのびたホッカイ坊も、小深田平で、ばったり倒れてしまいました。七人の行者たちは、ことごとく斃死して、果ててしまいました。

この故事に因んで、現在、ナメリ(滑)、セイガク(正覚)、マシイチ(益市)、ウサギダ(兎田)、マンカイ(万海)、ホッカイ(法ヶ海)という地名が、残っております。

法師ヶ原には、衣石といわれる自然石があります。形が法衣姿で倒れた行者たちが、石に化したのだ、と村人は申しております。
 

第五話

立石の田圃には蛭がいない

むかし、立石の田圃は干泥田でした。小さい棚田の深い苗代には、五月の田植時など、ひと朝に何匹もの蛭に付かれて、脚といわず、手といわず、血を吸われてタラタラと流血する有様は、むしろキタナイ程でした。

人間ばかりでありません。代掻きの馬の脚などにも吸いついては、生血を吸うのでした。いや、そればかりではありません。人の体に産卵して繁殖する、恐しい吸血鬼でもありました。

ある炎暑の日でした。草深い立石の干泥田で、婆さんが、田の草を取っていました。背中がヒリヒリ焼けるように暑く、汗は滝のように流れ、それに風もなく、息苦しい昼下りの頃でありました。うす汚いボロボロの衣をまとった一人の坊さんが、疲れた足どりで、杖をたよりに通りかかりました。坊さんは、炎暑でのどが乾いて困っていましたが、連日の日照りで、沢の水も枯れていましたから、どこでものどをいやすことが出来なかったのでしょう。田の草取りしていたお婆さんに、水を所望しました。

お婆さんは田の草取りを止め、田から上って来ました。田から上がってきたお婆さんの脚には、モモ引きがはかれてないので、真黒いまでに蛭がついていて、ところどころ流血していました。親切な婆さんは脚も洗わず、さっそく、井戸水の冷たいところを、坊さんに差し上げました。坊さんは喜んで、いずこともなく立ち去りました。

その時、坊さんは婆さんに、こう申しました。「お礼に、今後この田圃に蛭がいなくなるようにして上げます。」

それから立石の田圃には蛭がすくなくなりました。この坊さんは、弘法大師であったといわれ、今日、弘法大師のおさずけといわれています。

 

第六話

強盗墓

むかし、宮の下の遠藤家に、二人組の、強盗が押し入りました。

主人の銀左衛門は長患いで奥の間に寝、弟家督の義惣太は、納戸に寝ていました。

強盗は大戸を開け、中の間から銀左衛門の寝ていた、奥の間に押し入りました。銀左衛門は「どろぼう!」と叫び、病身ながら、強気にも長押より、六尺棒をとり強盗に向いました。聞きつけた弟の義惣太も、六尺棒を持って、はげしく渡り合いました。格闘数分、二人の賊に押しまくられ、納戸の中まで追いつめられてしまいました。このうちに、銀左衛門たちの老母は、こっそりと裏口から抜け出し、駒形根神社の宮司に急報しました。宮司はほら貝を吹きましたので、賊の一人はあわてて逃げてしまいました。その時、残った賊は、納戸の入口においてあった、ひょうたんにつまずいて、中に入ってある豆をまけてしまいました。賊は豆に足を滑らせて転倒しました。義惣太はこのときとばかり六尺棒を振り上げ、賊をさんざん打ちのめしました。次の日、村中大騒ぎです。村役人に届け、義惣太に打ちのめされた賊は、検視をへて、盗賊ではありましたが、坊さんに引導願い、鴻の巣地内(大鉢沢)の赤坂の山林に埋葬されました。いまここに墓があります。それから赤坂は強盗墓と呼ばれるようになりました。

翌年、子どもを背負った婦人が、宮司を訪れ、「西磐井郡山の目村の赤萩の者ですが」と称して、この墓に焼香して立ち去ったということです。この賊は、奥羽の大盗と呼ばれた赤萩彦兵衛の子分だったのです。

また、宮の下の家では、今でも納戸の入口に、豆を入れたひょうたんを置いているそうです。

第七話

夜と昼は行燈の灯で区別した

昔は時計がありませんでした。ましてラジオもテレビもなかったので、暁に目ざめ、昼はおてんとう様(太陽)が高くなって影法師がまっすぐになれば午餉をとり、夕方おてんとう様が西の山にかくれると田畑から上がって(帰って)きました。暗くなれば松根っ子を割って灯して、真黒なカテ飯を食って暮らしていました。

伊達藩の頃、沼倉の木鉢に御番所が設けられました。千葉孫左ェ門が御番所守で足軽六名をもって固めていましたから、追われ者や兇状もちには苦手でありました。

御番所では夜間の通行を禁じていましたから、夜になると番所門をギュウーと閉めてしまいます。そして又あくる朝、明るくなると門を開けて通行を許していました。

ある時、旅の坊さんが「秋田へ越えるのだが通してもらいたい」と申し入れました。番士は「藩の命令で夜間の通行はまかりならぬ」と断わりました。すると坊さんは「夜間とは何をもって定めるか、是非門を開けてもらいたい」と押し問答になりました。

番士も返事に窮しましたのでこのことを御番所守へ申し上げましたところ、孫左ェ門は「どれどれ」と御門までお出でになり「夜と昼の境ははっきりいたしておるぞ、すなわち御番所において行燈にあかりを入れたるとき夜という。あくる朝、行燈の消えたるとき、すなわち昼である。ただいま行燈の灯りたれば夜間の通行まかりならぬ」と申し渡しました。

それからは夜と昼の区別がはっきりしたということです。

(註)
木鉢の御番所は羽後境御番所と呼ばれていました。この道路は羽後岐街道と称し秋田に通ずる重要な間道でありました。

御番所守は千葉孫左ェ門茂里(しげのり)以来代々世襲しておりました。

茂里は外に、田代長根御境目守、兎田山御林御山守をも兼ね、又駒形根神社の鍵持ちをも兼ねていました。御番所は道路に平行して建てられ、間口十七間、奥行き七間の切妻平屋建てであり一見して御番所たるを知ることが出来ました。
(田代長根とは奥羽山脈の分水嶺にあり栗原郡花山村の分にお境塚があります。)
 



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2000.01.14 
2002.4.15 Hsato