天狗の内裏


凡例

1. 本文の底本は、岩波文庫「お伽草子」(島津久基校訂の昭和11年10月30日刊)である。
2. 本編の校訂に忠実に生かし、旧仮名遣いも、これをそのままデジタル化するように務めた。

周知のように御伽草子は、室町時代に書かれた絵巻や絵草子などのことを指す。近世、大坂において23の物語が出版され、一般にはこの本が「御伽草子」と見なされている。奇想天外な話が多く、今日の童話やおとぎ話の原型となっていることはよく指摘されるところである。

詳しくは、島津久基著「義経伝説と文学」の牛若丸地獄廻伝説を読まれたし。

2002.11
佐藤弘弥 記

 
 
さる程に、判官殿は七つの年より鞍馬の寺に上(のぼ)らせ給ひて、御学問を召されつるが、もとよりこの君は毘沙門の御再誕の若君にて坐(まいま)せば、七つの御年法華経一部八巻、八つの年大般若経(だいはんいやぎやう)六百巻、倶舎経(くしやきやう)三十巻、噴水経(ふんすいきやう)十四巻、草紙にとりては源氏、狭衣(きごろも)、ふらうえい(ママ)、ひちやうたはたまきすずり(ママ)、ふらうえんしゆ(ママ)、古今、萬葉、伊勢物語、百余帖の草尽し、八十二帖の虫尽し、鬼が読みける千島の文(ふみ)、すきのみやきりせがつぼ(ママ)なんどとて、草紙にとりても二千四百二十四巻を読み明し、源(みなもと)心に思しけるは、悟りとやらんいふ事を、少し見ばやと思召し、十歳の時よりも、参学(さんがく)に上(あが)らせ給ひて、十三と申すに一千七百則(そく)を明し給ふ。或日の雨中(うちゆう)の徒然(つれづれ)に、南の壷に立出でて、花を眺めて在(おは)せしが、少し半(なかば)も過ぎぬれば、実(け)にや真(まこと)に花も盛はいと少し。人間も斯くの如し。

我は幼(いとけな)き時父を討(う)たせ、親の敵(かたき)を討たずして、暮れなん事はいと口惜し。実(まこと)や、我等が先祖の八幡太郎義家は、十五の御年門出(かどいで)し、名を天下に揚げ給ふと承る。恐れ多き事ながら、先祖を嗣(つ)いで、十五にならば門出すべし。然(さ)れば十三の年までこの山にて、徒(いたづら)に日を送りけるこそ無念なれ。実(まこと)やらんこの山に、天狗の内裏(だいり)と申すをば、音には聞けど目には見ず。如何にもしてこの内裏を見ばやなんど思召し、雨の降る夜も降らぬ日も、風の立つ日も立たぬ夜も、彼方此方(かなたこなた)と草木(くさき)を分け、尋ね巡らせ給へども、天狗はもとより神通自在(じんつうじざい)の者なれば、天狗の内裏は見えざりけり。

源(みなもと)心に思召すは、我幼(いとけな)かりし頃よりも、毘沙門に深く頼みを懸け申す。この内裏をも毘沙門へ祈誓(きせい)申して尋ねんとて、三十三度の垢離(こり)を取り、毘沙門堂へ入り給ひ、鰐口(わにぐち)ちやうど打鳴し、「南無や大慈大悲の多聞天(たもんてん)、我等年月歩(としつきあゆみ)を運(はこ)びし御利生に、天狗に逢はせて賜(た)び給へ」と、肝胆(かんたん)を砕きて祈られけり。夜も漸う更け行けば、少し微睡(まどろ)み給ひしに、有り難や毘沙門は、八旬許りの老僧と現じ給ひて、牛若君の枕上に立たせ給ひ、「如何に牛若、天狗の内裏が望みならば、五更(ごかう)の天も明け行かば、御坂口(みさかぐち)に待ち給へ。必ず教へ申さん」と宜ひて、夢はそのまま覚めにけり。源いよいよ信を取り、数(かず)の礼拝(らいはい)参らせて、夜もほのぼのと明け行けば、御坂(みさか)口に立出でて、御利生は今や遅しと待ち給ふ。忝くも毘沙門は廿(はたち)許りの法師と現じ、素絹(そけん)の衣(ころも)に紋紗(もんしや)の袈裟、皆(みな)水晶の数珠爪(じゆずつま)ぐり、けんしゆしやう(ママ)の沓を穿(は)き、牛若君の先に立ち、「如何に牛若聞き給へ。天狗の内裏の望みならば、これよりさんかい(ママ)に上(のぼ)りつつ、尋ね給ふことならば、五色(ごしき)の築地(ついぢ)があるべし。白き築地をば左手(ゆんで)になし、赤き築地を右手(めて)になし、青き築地、黒き築地、黄なる築地を、三界無安(さんかいむあん)の塵(ちり)と定めて、ただ一どうに踏み鳴して行かば、必ず内裏に行き著くべし」と教へ給ひて、掻消すやうに失せ給ふ。

源有り難く思召し、嶮(けは)しき山の岨伝(そはつた)ひ、尋ね給へば程もなく、五色の築地見えたり。牛若嬉しく思召し、我この程心を尽し、彼方此方とせしかども、尋ね逢ふ事あらなくに、斯かる奇特(きとく)の有り難さよと思召し、教(をしへ)の如く急がせ給ひける程に、真(まこと)に天狗の内裏の東門(とうもん)ま近く著かせ給ひ、先づ外(そと)の築地を御覧ずるに、石の築地を八十余丈に築(つ)き上げて、石の大門を建て、それより内には、鉄(くろがね)の築地を六十余丈に築(つ)き上げて、鉄の門を建て、それより内には銀(しろがね)の築地を四十丈に築(つ)き、銀の門には夕日を出して立て給ふ。それより内には金(こがね)の築地を三十余丈に築(つ)かせ、金の門には朝日を出して立て給ふ。白洲(しらす)には金(こがね)の砂(いさご)を敷きたり。御曹司はをめず内に入り給ひ、屋形の様(やう)を御覧ずるに、七宝を展(の)べたる如くにて、音に聞えし極楽世界といふとも、これには勝らじとぞ見侍る。御曹司は唐木(からき)の階(きざはし)を六七間(けん)上(あが)らせ給ひ、内の体(てい)をつくづくと御覧ずれば、納言(なごん)、宰相巳下(さいしやういげ)、北面(ほくめん)の者共が、衣冠気(いくわんけ)高く引繕ひ、ひつしと居流れ並居たり。源を見奉り、「如何に方々(かたがた)、上古にも末代にも、この内裏へ人間の参る事あらず。不思議なり」とぞ犇(ひしめ)きける。「さて如何なる人ぞ」と尋ねける。源この由聞召し、「我等と申すは、この山にて学問致せし少人(せうじん)なるが、当山(たうざん)にて七十五人の稚児(ちご)の中より、今日某(けふそれがし)花の盤(ばん)に指(さ)され申して、花を尋ねて出でければ、斯かる内裏へ参りたり。東方(とうはう)ならば薬師の浄土、南方ならば観音の無垢(むく)世界かなんどと存じ候。とてもこれまで参りてあれば、帝(みかど)に御目にかかりたき由、奏聞(そうもん)ありて賜(た)び給へ」と仰せければ、この由人々承り、「只人(ただびと)とは見え給はず。如何様(さま)奏聞申せ」とて、紫寝殿(ししんでん)に参り、大天狗(だいてんぐ)にこの由斯くと申しければ、大天狗はもとより神通(じんつう)の事なれば、「よしよし苦しうなき人ぞ。源氏の遺腹(わすれがたみ)に、牛若殿と申すぞや。如何にも御馳走申せ」とて、畳には縁金(へりがね)渡し、段々叢雲(むらくも)に敷かせ、柱をばこんきんどんきんにて巻き、天井をば金(きん)や唐綿にて張り、正座(しやうざ)には、畳七畳重ねて敷き、銀(しろがね)ぶんとう立てらるる。

扨大天狗は間(あひ)の障子をさつと開(あ)け、「源(みなもと)様の御入りは、夢か現(うつつ)か幻(まぼろし)か、此方(こなた)へ御入り候へ」とて、正座なる七畳の畳へ請じ奉り、我が身は畳三畳引下り、手を合せ合掌し、三度礼(どらい)し奉る。扨小天狗一人近づけて、「愛宕(あたご)の山の太郎坊、比良(ひら)の山の二郎坊、高野山(かうやさん)の三郎坊、那智のお山の四郎坊、かんのくら(神倉山)の豊前坊、彼等五人の天狗達に、珍しき御客設けてありつるに、御参りありて、慰め給ひて賜(た)び候へと申せ」と言ふ。「承る」と申しも敢へず座敷を立ち、刹那(せつな)が間(あひだ)に走り帰り、「只今五人の天狗達御参りある」と申しも敢へぬに、五人の天狗は供の天狗数多(あまた)引具して、表の縁(えん)にぞ参られける。大天狗見るよりも、「如何に各々聞き給へ。源様の御入りなれば、各々をも申しうけて候なり。是へ是へ」と請じける。「畏り候」とて、座敷に入り手を合せ、皆一同に礼(らい)しけり。五人の中より黄金(こがね)三千両、金(こがね)の盆に橘形(たちばながた)に積ませ、君に捧げ奉る。御盃とありければ、山海の珍物(ちんぶつ)を調(ととの)へ、いつき伝(かしづ)き奉る。酒(しゆ)も早半と見えければ、又大天狗、小天狗一人近づけて、「大唐(だいたう)のほうこう坊、天竺の日輪坊、此等二人の天狗達に、珍らしき御客招待申したり。御出であれと申せ」と言ふ。「承る」と申して、白洲にゆらりと下(お)りけるが、片時(へんし)が間に走り帰り、「只今二人の天狗達、筑紫の彦山(ひこさん)に双六(すごろく)打つて在(おは)しますが、今是へ」と申しも敢へぬに、二人の天狗、供の天狗を数百人打連れて、表の縁に参られける。大天狗は見るよりも、如何に二人の天狗達、源様の御入りなされ候ぞ。それへ御通り坐(ましま)して、御見参に入り給へ」二人の天狗「承る」と申して、若君の御前(おんまへ)に参り、喜ぶ事は限りなし。面々(めんめん)我も我もと酒宴をなして、遊ぶ興にぞ乗じける。

御盃もとりどりなれば、大天狗は居たる座敷をゆらりと立ち、「如何に二人の天狗達、余りに興も候はぬに、御身達の先祖より伝はる神通を、御饗応(もてなし)に一つ」と好(この)まれけり。二人の天狗は易き程の事なりとて、中座(なかざ)を指(さ)して走り出で、大唐のほうこう坊、間(あひ)の障子(しやうじ)をさらりと開(あ)けて、「御覧あれ」と申されけり。源(みなもと)つくづくと御覧ずれば、大唐の径山寺(きんざんじ)を眼の前にうつし、とうしん(燈心)にて鐘を釣り、高麗国(かうらいこく)の撞木(しゆもく)にてつきて御目にかけ、又なんかい堂に火をかけて一度に焼き払い、御慰みに見せらるる。さて天竺の日輪坊も、間(あひ)の障子をさつと開け、「御覧あれ」とぞ申さるる。源御覧ずれば、霞に綱を渡し、雲に橋をかけて、遠山(とほやま)に船を泛べて、自由自在に上(のぼ)りつつ、いと不思議さぞ限りなし。又大天狗五人の天狗達に好まれけるは、「御身達の饗応(もてなし)には、兵法(ひやうはう)一つ」と好まれけり。「承る」と言ひも敢へず、白洲に飛んで下(お)り、秘術を尽して見せ申す。源はもとよりも、兵法望みの事なれば、広縁(ひろえん)にゆるぎ出でさせ給ひ、ま近く寄りて御覧じけるに、心詞(ことば)も及ばれず。喜び給ふは限りなし。

扨大天狗申されけるは、「二人の神通、五人の兵法も御目にかけ申す。我等が御饗応(もてなし)に、何をがなとは存ずれども、珍らしき事候はねば、五天竺を御目にかけ奉るべし。此方(こなた)へ入らせ候へ」とて、玉の座敷へ請じ申し、先づ東の障子をさらりと開けて見させ給へば、東城国(とうじやうこく)七百六十余州を一目に御覧じて、唐紙(からし)百帖に写し給ひける。南の障子を開けければ、南天竺七百六十余州の民の住家(すみか)、残りなく見えければ、これも百帖ばかりに遊ばしける。西の障子を開くれば、西天竺(さいてんぢく)七百余州の山の姿、木の木立(こだち)、目(ま)のあたり明らかに見えけり。夢幻(ゆめまぼろし)とも覚えず。及ばずながら書写(かきうつ)し給ふなり。北(ほく)天竺の水の流れ、中天竺すべて五天竺の様体(やうだい)を、五百余帖に写させ給ひ、末代(まつだい)の宝にせんと、喜び給ふは限りなし。

その後、御台所(みだいどころ)より大天狗の許へ御使ありけるは、「ちと申上げたき事あり」。何事やらんと簾中(れんちゆう)へ入り給へば、御台大天狗の袂に縋りつつ、「実(まこと)やらん娑婆よりも、若君の御出でありて候由承りて候。自らも娑婆の者にて候へば、恋しく思ひ候。自ら娑婆より参りて、御身と契をなせしも、昨日今日とは思へども、早七千年になるぞかし。その年月の御情(おんなさけ)に、片時(へんし)の暇(いとま)を賜はれかし。出でて御目にかかりたくこそ在しませ」と、掻口説(くど)き宜へば、夫(つま)の天狗如何(いかが)あるべきとは思へども、流石岩木(いはき)ならねば、「実(け)にも真(まこと)に唐土(たうど)、天竺、我が朝に、双ぶ方なき若君なれば、御目にかかりたきは理(ことわり)なり。

疾(と)く疾く出でて対面あれ」と許されければ、御台斜(なのめ)に喜びて、十二単(ひとへ)を引交(ちが)へ、緋(ひ)の袴を踏みしだき、あんせん王のけせう(ママ)の守を掛け、口に仏語を唱へ、我に劣らぬ女房達、数多引具して立出でたるその姿、玉の鬢(びん)づら花の顔容(かほはせ)色やかに、秋の月の遠山(えんざん)に出で、地水を照らす如くなり。源は御覧じて、あはや是こそ大天狗の御台所と思召し、「実(け)にや女房は、過飾(くわしよく)に余りし者ぞとよ。是へ是へ」と御請じある。御台座敷に直りつつ、若者をつくづくと拝み申す。ややありて御台申しけるは、「斯くと申さんも恥ぢがはし。然(さ)りながら自らが先祖を語り申すべし。斯く申す自らも、娑婆の者にて候ぞ。国を申せば甲斐の国、処を申せば二橋(ふたつばし)、こきん長者と申して在(おは)せしが、そのこきん長者が一人娘の、きぬひき姫とは自らなり。

我十七歳の春の頃、花園山(はなそのやま)に立出でて、管絃をなして遊びしに、自らは琴の役にて、その目の爪音何時(つまおといつ)に勝れていみじかりしを、自ら心に思ひけるは、恐らくは日の本に、双ぶ方もあるまじな。今日の爪音誰か勝らじと高慢せり。その折神風(かみかぜ)ざつと吹き来り、そのまま天狗に誘(さそ)はれ、斯かる内裏に参りつつ、昨日今日とは思ひしかども、年月(としつき)を数ふれば、七千余年になるぞかし。この年月を送りても、事にし楽しみ候はねども、一つの喜びには、死して冥途に在(おは)します二人の親に、月に一度も亦は二度三度(ふたたびみたび)も拝み申す。是ぞ一つの楽しみなり。若君も二歳の御年、父に後れさせ給ひぬれば、さこそ恋しく思(おぼ)すらん。我が夫(つま)の大天狗は、一百三十六地獄、又は九品(くほん)の浄土にも、日々(ひび)に飛行(ひぎやう)し給ふなり。御身の父義朝は、九品(くほん)の浄土に大日(だいにち)にそなはりて在(おは)します。構へて自らが申すとは仰せ候はずとも、大天狗を理(わり)なく頼ませ給ひなば、終(つひ)には逢はせ申さるべし」と、受け喜ばせ、打解け顔(かほ)に語りけれは、源斜(なのめ)思召し、「さはありながら不思議さよ」とぞ仰せける。

斯く打物語らひて、「めでたく御酒(みき)を参らせよ」。「承る」と申して、若き女房御酌に立ち、とりどり御酒(みき)をぞ勧めける。我が身も加へに参りつつ、「何の興も候はねども、この酒の由来を語り申すべし。抑(そもそ)もこの酒と申すは、忝くも妙法蓮華経の、六萬九千三百八十四字の文(もん)を以て回向(えかう)し、良薬(らうやく)に造りし薬の酒にて在(おは)します。一つ参れば衆人愛敬(しゆにんあいきやう)、二つ参れば人に羨まれ、三つは思ふ事叶ひ、四つ飲めば身代(しんだい)定まる。五つは五体五輪(ごりん)と現れ、六つは六道(ろくだう)の沙汰(さた)を表(へう)す。七つ飲めば仏名(ぶつみやう)にかなひ、九つ飲めば国の主(ぬし)となるとかや。殊に祝ひの御酒
(ごしゆ)なれば、九献(くこん)参れ」と勧められ、祝ひの献(こん)も通りければ、若君の御盃御台賜はり、「幾年月(いくとしつき)のめでたさよ」と、又御曹司に差し参らせ、暇(いとま)申して然(さ)らばとて、簾中深く入りにけり。

斯くて御曹司大天狗に仰せけるは、「さてもこの度の御饗応(もてなし)、申すもなかなか疎(おろか)なり。詞にも及ばれず、筆にも如何(いか)で尽し難し。御恩の程、山ならば須弥山(しゆみせん)、海ならば蒼海(さうかい)とても言い難し。何時(いつ)の世にかは忘るべき。とてもの御事に、ここに一つの望みあり。実(まこと)やらん娑婆にて承り候は、御身は一百三十六地獄、又は十方浄土にも飛行(ひぎやう)し給ふと聞きてあり。我が父義朝には、二歳の時後れ候へば、如何にもして一目拝み申したく候。一途(ひたすら)に頼み申す」と仰せければ、大天狗、「仰せは然(さ)にて候へども、是に於ては叶ふまじ。然(さ)りながらこの度の御出で、返す返すも忝く候。我と我との対談(たいだん)を御存じなされて候か。御語り候へ、聴聞(ちやうもん)申さん」。御曹司は聞召し、「我等と申すは、七つの年より鞍馬へ上(のぼ)り、経論聖教(きやうろんしやうけう)和漢の才(さい)、詩歌管絃(しいかくわんげん)に心を尽し、参学(さんがく)なども一千七百則(そく)を学びしが、その中に天も鉄壁(てつぺき)、地も鉄壁、四方(しはう)鉄壁なる時は、これが我との対談ぞ。萬法一如(まんほふいちによ)と聞く時は、さて三界に垣も無し。六道に辺(ほとり)無し。法に二法なし。仏に二仏坐(ましま)さず。これが我との対談なり」と宣へば、その時天狗、「あら有り難や、然(さ)らば御供申すべし。此方(こなた)へ入らせ給へ」とて、簾中深く請じられけり。

御曹司を玉の台(うてな)に置き申し、娑婆より召されし御小袖、直垂(ひたたれ)をば脱がせ申し、大唐(だいたう)の緋(あけ)の糸、我が朝の蓮(はす)の糸にて織りたる衣(きぬ)を召し替へさせ申し、御髪(ぐし)も括(くく)しの元結(もとゆひ)にて結(ゆ)はせ申し、生年(しやうねん)十三の若君を抱き申し、冥途を指してぞ急がれける。山路(やまぢ)にかかる折もあり、浜辺に下る時もあり、一百三十六地獄を、巡りて御目にかけらるる。

先づ炎(ほのほ)の地獄と教へしは、実(け)にも真(まこと)に恐しや。高さ百余丈許りの山なるが、炎の立つと見しよりも、刹那(せつな)が間(あひだ)に焼け砕け、微塵となり粉灰(こはい)となり、四方へばつと立ちにけり。又彼処(かしこ)を見れば、広さ八萬由旬(ゆじゆん)、深さも八萬由旬の血の池あり。「これは如何に」と問ひければ、「これこそ女人(によにん)の堕(お)つる血の地獄」と申しける。然(さ)れば女人と申すは、娑婆に在りし時、月に一度の月水(ぐわつすい)、又は産の紐解く時、衣裳(いしやう)衣類を脱ぎ棄てて、海にて濯(すす)げば、龍神の咎(とがめ)あり。池にて濯げば、池の神の深く戒め給ふなり。水汲み上げて濯ぎつつ、その水を棄つれば、地神荒神(ぢしんわうじん)の御身に、剣(つるぎ)となつて身を通す。川にて濯げば一切衆生が是をば知らで、この水汲みて仏に手向(たむ)け、出家を供養し申せば、即ちこれを不浄食(ふじやうじき)と召さるるなり。

扨この苦患(くけん)と申すは、血の池の面(おもて)に、鉄(くろがね)の綱を張り、五人の鬼が五色に変じ、池の面に追立(おつた)てて、この綱渡れと呵責(かしやく)する。中程までも渡り得ず、踏み外し、かつぱと墜(お)ち、五尺の身は沈み、丈(たけ)なる髪はただ浮草の如くなり。浮上らんとせし時は、鉄杖(てつぢやう)を以て又押入れ、あら悲しやと言ふ声は、蜘蛛(ささがに)の糸より細き声ぞする。「これこそ汝が娑婆にて為しける罪咎よ。我を怨みと思ふな」と、獄卒共の怒る声は、鳴神(なるかみ)よりも恐しや。「斯かる苦患(くけん)は、如何にしてかは遁るべき」と問ひ給へば、「さん候。娑婆にて百三十三品(ぼん)の血盆経(けつぼんきやう)をも保ち、又は御念仏をも申して、後生善所(ごしやうぜんしよ)と祈れば、直ぐに浄土へ参るなり。娑婆にて善は為さずして悪を好み、邪慳の心のみにて、仏(ぶつ)とも法(ほふ)とも知らずして、死する女の罪業(ざいごふ)なり」とぞ語りける。

それをば過ぎて、餓鬼道に著き給ふ。立寄り源御覧ずれば、有財餓鬼(うざいがき)、無財餓鬼(むざいがき)、ちくれん餓鬼と申して、数限りはなかりけり。石を重ぬる所もあり、花を摘みし者もあり。その中に餓鬼一人、踊り跳ねて笑ひ喜ぶ。源不思議に思召し、「汝が身にも可笑しき事があるよな」と宣へば、彼(か)の餓鬼答へて、「さん候。我等が身に嬉しき事の候。某(それがし)が七世(しちせ)の孫一人、今娑婆に在りけるが、出家になり候が、やがて浮かまん嬉しさに、是のみ笑ひ候」と申しける。源聞召し、実(け)にや仏の説き給ひし、一人出家すれば、九族天上(てんじやう)すると説かせ給ふ。今こそ思ひ知られたれ。親類中(なか)に出家一人あれば、その塁家(るいか)の内の牛馬(うしうま)まで、成仏申すと聞く。これ妄語ならば、成仏も妄語なるべしと、今こそ思ひ当れり。我武士(もののふ)の志なりしかど、斯様の事を思へば、兎やせん角やあらんと、思ひ弁(わきま)ふ方ぞなき。保元(ほうげん)、平治の乱に、一門皆討たれぬれば、菩提を弔(とぶら)ふ為ならば、出家もめでたかるべし。又親の敵(かたき)を討ち、本意(ほんい)を遂げん為ならば、弓矢を執りて孝養(けうやう)に報ぜんと思へば、忍びの涙堰き敢へず。

さてしもあるべき事ならねば、打過ぎ通らせ給ひしかば、修羅道に著き給ふ。立寄りつくづく御覧ずれば、先づ娑婆にて父を人に討たせ、その敵を討たずして、死したる者と見えつるが、我と我が身を切りつ突きつ、一方(ひとかた)ならぬ苦患なり。此処彼処(ここかしこ)を見給へば、娑婆にありしに違(たが)はず、合図(あひず)の鉦(かね)、太鼓、貝(かひ)なんどを吹き立て、入り乱れ切り結ぶ。負けたる方は逃げて行き、勝ちたる方は勝閧(かちどき)つくり、閧(とき)の声矢叫の音、天地も響くばかりなり。「扨この苦患は何として、遁るべきぞ」と宣へば、「娑婆の軍(いくさ)のその時に、討つ敵をば鉦(かね)となし、剣(つるぎ)を撞木(しゆもく)と観念し、過去の因果は斯くの如し。未来は共に成仏と、思へば即ち解脱(げだつ)なるべし」とぞ申されける。

それをも打過ぎ、地獄の数々、何れ疎(おろか)もなく、呵責(かしやく)の責隙(せめひま)なし。罪人の叫ぶ声、怖しきともなかなかに、筆に書くとも及び難し。
 
 


扨よりも、十方浄土を拝み奉れば、地獄の憂(う)きに引かへて、見仏聞法(けんぶつもんほふ)の諸仏如来(によらい)の御相好(さうがう)、有り難きともなかなかに、譬へん方なし。中にも勝れて拝まれさせ給ふは、西方(さいはう)極楽世界、九品(くほん)の浄土に如(し)くはなし。この九品の浄土にこそ、御曹司の父義朝は、大日如来となり給ひ、中尊(ちゆうぞん)に立たせ給ふぞ有り難き。大天狗北の方(かた)より参り、弥勒菩薩に御訪(おとづ)れ申し、礼(らい)し奉り通りければ、事も疎(おろか)や、瑠璃の砂(いさご)、玉の石畳、金(こがね)を以て埒(らち)をやり、七宝(しつぽう)の植木(うえき)光り燿き、功徳池(くどくち)の蓮華(れんげ)よりも光明(くわうみやう)を照し、その匂芬々(にほひふんふん)たり。

天人の遊ぶ光(ひかり)、花の色に燿き、迦陵頻伽(かりようぴんが)の囀る声、浪の音に至るまで、法文(ほふもん)ならずといふ事なし。此処に七宝を飾りし門あり。「これは如何に」と問ひければ、「あれこそ娑婆にて善根(ぜんこん)をなし、しじやうしん(至誠心)に念仏して、往生を遂ぐる時、この門を開きて迎へ給ふ。その時花降(ふ)り異香薫(いきやうくん)じ、音楽雲に響き、弥陀如来、観音、勢至、二十五の菩薩来迎(らいがう)し給ふなり」と教へけり。

宮殿楼閣(くうでんろうかく)は、過ぎ過ぐれども、尽くることなく、金銀(こんごん)瑠璃の砂(いさご)は、行けども行けども際(きは)もなし。音楽の音(おと)は自然(じねん)と響き、幡(はた)、華鬘(けまん)、瓔珞(やうらく)懸かる所もあり。
 

拝み申すに歓喜(くわんき)の涙堰き敢へず。御曹司をば「これに待ち給へ」とて、我が身は大極殿(だいごくでん)に参り、大日如来へ申しけるは、「娑婆に坐(ましま)す御子の牛若君、不思議の縁(えん)にて、これまで御供申して候。一目拝み申したき由仰せ候」と申し上ぐれば、大日聞召し、「こは無念の次第かな。師弟は三世の契、夫婦は二世、親子は一世の契なり。叶ふまじ」と仰せける。大天狗重ねて申しけるは、「仰せはさこそ御入り候はんづれ(ママ)ども、この若君と申すは、三世を悟らせ給ふなれば、あはれ御対面」とぞ申しける。大日仰せけるは、「仏法の三世の利益(りやく)の巷(ちまた)は如何に」と問はせ給ふ。天狗承り、「それこそ天上天下唯我独尊(てんげゆいがどくそん)と申しても、一きやう(経)も暗からず」と申しける。大日聞召し、「あら有り難や、然(さ)らば此方(こなた)へ」と召されける。

御曹司は御座に直らせ給ひ、仏(ほとけ)は蓮華に坐(ざ)し給ふ。あら痛はしや、三世を悟らせ給へども、まだ凡夫にて坐(ましま)せば、妄執(まうしふ)の雲薇ひ、御声ばかりは聞ゆれども、御姿は見え給はず。「如何に牛若。諸々(もろもろ)の経の中に、第一妙法の法体(ほつたい)をば、何と沙汰し申しけるぞ」牛若答へて曰く、「それ妙(めう)といつば、妙(めう)即ち妙(たへ)なる法(のり)と説き給ひ、二つも無く三つも無し。唯一乗(いちじやう)の法(ほふ)のみと、斯様に悟り申すなり」その時大日、「天地和合とふるたひちん(ママ)とは奈何(いかん)」牛若答へて申さく、「天地和合とふるたひちんといつぱ、天には九千八界七流れ、地にも九千八界七流れ、天には四十八天の雲を吐き、地には又四十九瀬の関を据え、天地和合とふるたひちん、各礼仏足対座(かくらいぶつそくたいざ)一めい斯くの如し」と申されける。大日又、「兜率(とそつ)の三関(さんくわん)とは奈何(いかん)」牛若答へて申さく、「兜率の三関といつぱ、やましもやま(ママ)も、引寄せて結べば柴の庵(いほり)なり。解くれば元の原(ママ)なりけり。

執(しふ)の心(しん)とは、斯様に沙汰し申しけり」。大日聞召し、「金剛の心(しん)とは奈何(いかん)」牛若答へて曰く、「金剛の心とは、阿字(あじ)十方三世仏、弥字(みじ)一切(さい)諸菩薩、陀(だ)字八萬諸聖教(しやうけう)、皆是(かいぜ)阿弥陀仏と沙汰し申し候なり」。又問ひ給はく、「金剛の正体(しやうたい)とは奈何。疾(と)く申せ」「さん候。金剛の正体といつぱ、木の恩にて木に入り、火の恩にて火に入り、水の恩にて水に入り、金(かね)の恩にて金に入り、土(つち)の恩にて土に入り、切るも切られず、焚(や)くも焚かれず、手にも取られず、目にも見えず。唯そのままの正体なり」。大日宣はく、「この土(ど)より娑婆へ生れし時、五つの借物(かりもの)あり。

何れの仏より何を借り奉り、娑婆世界へ生れけるぞ」「さん候。五つの借物と申すは、骨(ほね)は大日、肉は薬師、血は観音、筋は阿弥陀、気(き)は釈迦の御前(まへ)より借り奉りて生れ候。娑婆の縁(えん)尽き、浄土へ参るその時は、地水火風空(くう)と定まるなり」。重ねて大日仰せけるは、「娑婆の縁も尽き果てて、浄土に参る時、五つの借物をば、何と還し候ぞ」「さん候。木の徳にて木に還し、火の恩にて火に還し、土(つち)の恩にて土に還し、金(かね)の恩をば金に還し、水の恩をば水に還し、木を木、火を火に還す時、風吹き来つて元の土塊(つちくれ)となる。斯様に悟り申すなり」大日又宣はく、「如何に牛若。けんにんでう(ママ)の一句をば、何とか沙汰し申すぞや」。「さん候。けんにんでうの一句とは、凍(こほ)る一天の雪消えて後、解くれば同じ谷川の水、川は五つ、水は五色に流るるなり」「五戒の差別(しやべつ)はさて如何に」牛若承り、「五戒は、殺生(せつしやう)、偸盗(ちゆうとう)、邪婬(じやいん)、妄語(まうご)、飲酒(おんじゆ)なり。先づ第一、殺生戒(かい)と申すは、人間は申すに及ばず、畜類鳥類虫けらに至るまで、物の命を殺す事なり。その戒(いましめ)の歌に曰く、

報ふべき罪の種をや求むらん蜑(あま)の所業(しわざ)は網の目毎に

と斯様に戒(いまし)め申すなり。偸盗戒と申すは、人の物を盗みし事、例へば紙一枚(まい)、塵一條(すぢ)なりとも、呉れぬに取るは盗なり。然(さ)れば歌に曰く、

浮草の一葉(は)なりとも磯隠(いそがく)れ心なかけそ沖つ白波
又邪婬戒とは、妻の上に妻を重ねず。総じて人の妻を犯すを、邪淫戒の戒(いましめ)とす。歌に曰く、
さなきだに重きが上の小夜衣(さよごろも)我がつまならぬつまな重ねそ
斯様に戒め申すなり。妄語戒と申すは、なき事を嘘をつき、人を誑(たら)すが妄語なり。歌に
花雪を氷と人の眺むるは皆偽(いつはり)の種となるかな
さて飲酒(おんじゆ)戒は、酒飲む事を戒むる。
酒飲むと花に心を許すなよ酔(えひ)な醒(さ)ましそ春の山風
五戒斯くの如し」と仰せける。又問ひ給はく、「紙燭衰滅(しそくすいめつ)とは奈何(いかん)」答へて申さく、「我見燈明仏(がけんとうみやうぶつ)、本光瑞(ほんくずい)斯くの如し」大日とつて宣はく、「過去現在未来、三世不可得(さんぜふかとく)とは奈何(いかん)」答へて申さく、「過去にて為せし善根は、現世(げんせ)の善となり。これ一世(せ)の不可得(ふかとく)なり。現世(げんせ)にて後生菩提を起し、よく発心(ほつしん)すれば、未来にて仏果を得る。斯様に執り行ひ申し候」と、言葉に花を咲かせ、さも潔(いさぎよ)く宣へば、大日如来大きに歓喜(くわんき)し給ひ、扇を天に投げさせ給へば、有り難や妄執の雲霄(は)れて、互に目と目を見合せ給ひ、昔も今も、娑婆も未来も、親子の契(ちぎり)は陸まじや。「あら成人(せいじん)や。さてもゆゆしの牛若や」と、御喜びの涙れんれんたり。御曹司は夢現(うつつ)とも弁(わきま)へず、御涙堰き敢へず。「牛若是へ是へ」とありければ、よし憚(はばかり)はさもあらばあれ、御前(まへ)近く参り給へば、後(おく)れの髪をかき撫でて、「善哉(ぜんさい)なれや遮那王(しやなわう)、善哉(ぜんさい)なれや牛若」と仰せける。

さる程に義朝、口説(くど)き給ふぞ哀れなる。「果報少なき若共かな。自ら今の頃までも世に在るものならば、斯く憂目(うきめ)をば見すまじきに、過去の戒行拙くて、世を早うせしその後(あと)に、甲斐なき母一人を頼りとし、彼方此方と迷ひし事の不憫さよ。然(さ)りながら自ら、草の陰にて、徒(あだ)なる風をも当てじと、影身(かげみ)に添ひて守(まぼ)りしも、汝は夢にもしら真弓(まゆみ)、引かへ源氏の世になすべきぞ」御曹司は聞召し、流るる涙の隙(ひま)よりも、「それは兎もあれ角もあれ、斯様に仏にならせ給ひて在(おは)しませば、よに苦しみは候はぬか」。仏(ほとけ)この由聞召し、「別(べち)に苦しびは無けれども、ここに一つの思ひあり。都に平家の者共が、悪行(あくぎやう)なせし折々は、見るに面目なきままに、修羅(しゆら)の苦患(くげん)は脱(のが)れ難し。千部萬部の経も要(い)らず。敵(かたき)を討ちて賜(た)び給へ」御曹司は聞召し、「我等七つの年よりも、鞍馬の寺へ上り、学問究(きは)め、日々に御経読誦し、御菩提の為と回向(えかう)申す。然(さ)様に思召さるるならば、今日(けふ)よりして出家の心打棄てて、奥州に下りつつ、被官(ひくわん)、家来を引率(いんそつ)し、敵を討ちて参らすべし。守(まぼり)の神となり給ひ、弓矢の冥加(みやうが)あらせ給へ」と、事もなげにぞ宣ひける。

義朝斜(なのめ)に思召し、「然(さ)らば来(こ)し方行く末を、あらあら語りて聞かすべし。汝よくよく聴聞せよ。抑も我等と申すは、清和天皇の孫(そん)、又先祖の八幡太郎義家は、十五の年門出なされ、東夷(とうい)を平げ、名を天下に揚げ給ふ。御身も十五になるならば、奥へ下り、秀衡、佐藤を頼みて、都に切つて上(のぼ)るならば、何の仔細も候まじ。先づ来年は十四なり。父が十三年の孝養(けうやう)に、五條の橋にて千人斬(せんにんぎり)せよ。九百九十九人斬つて後、熊野の別当湛増(たんぞう)が嫡子、武蔵坊弁慶が来(きた)るべし。討つな、助けて被官(ひくわん)にせよ。後々までも御身が用に立つべきぞ。それより屋形に立帰り、血祭せよ。それより吉次(きちぢ)を頼み、東(あづま)国に下るものならば、十禅寺小松原にて、美濃国の住人、関原(せきはら)与一といふ者が、三十六騎に騎馬(きば)うたせ、都へ上るとて、汝に遇うて緩怠(くわんたい)すべし。相構へて、仮初事(かりそめごと)とは思ふとも、源氏の門出なる間(あひだ)、逃(のが)さず斬つて落せ。左手(ゆんで)を汝討つならば、右手(めて)をば我等討つべきぞ。

ここに一つの大事あり。汝が東(あづま)国へ下ると聞かば、母の常磐(ときは)が追懸(おつか)け留めんその為に、後(あと)を慕ひて下るとて、美濃と近江の界(さかひ)なる、山中(やまなか)といふ所にて、熊坂(くまさか)といふ夜盗(よたう)の奴原(やつはら)に、害せられんぞあさましき。よしそれとても力なし。これも前世の宿業(しゆくごふ)なり。然(さ)りながらやがて敵(かたき)は討たすべし。その時汝は美濃国垂井(たるい)が宿(しゆく)、ちうこうばう(ママ)といふ者が所に泊るべし。吉次が財宝(たから)を奪(と)らんとて、夜盗共が入るべし。相構へて、母の敵である間(あひだ)、逃(のが)すな、余すな、斬つて棄てよ。思ふ本意(ほんい)を遂げ血祭せよ。それより下るものならば、駿河国番場(ばんば)の宿(しゆく)、ふぢや(藤屋)太夫といふ者が所に泊るべし。あら無慙や、汝は不思議の病(やまふ)に冒されて、後枕(あとまくら)とも弁へじを、吉次は打捨てしたるべし。ふぢやは優しき者なるが、女房は邪慳放逸(じやけんはういち)の者にて、汝を吹上浜六本松に棄つべし。其処(そこ)にて汝空しくならん無慙さよ。然(さ)りながら、三河国浄瑠璃(じやうるり)姫を下し、よきに看病するならば、やがて平癒(へいゆ)なるべきぞ。それより後は何の仔細もなく、奥州に下りつつ、秀衡、佐藤を頼むべし。

その後四国讃岐国、法眼(ほふげん)に伝はる、いしたまるた(ママ)神通といふ巻物あり。法眼が一人姫(ひとりびめ)、皆鶴女(みなづるをんな)に契を籠め、彼(か)の巻物を盗み取り、それより帰り、又日の本より艮(うしとら)に当りて、きまん国(ごく)といふ島は、鬼の島にてありけるが、鬼の大将は、八面大王と申すは、四十二巻の虎の巻物を持ちてありけるぞ。彼(か)の島に渡り、大王が婿になり、一人姫(ひとりびめ)の朝日天女(あさひてんによ)に契をなし、この巻物を引出物(ひきでもの)に取り、それよりも立帰り、秀衡五十萬騎を引率(いんそつ)し、汝十八と申すには、都へさし上すべし。そのうちには、伊豆国北條蛭が小島に在りつる、汝が兄の兵衛佐(ひやうえのすけ)も、人数(にんじゆ)催し出づべし。一同に心を合せ、都に押して上るならば、平家は必ず滅ぶべし。西海(さいかい)に追ひ下し、屋島の檀の浦にて、互に軍(いくさ)を励むべし。

その時平家の大将能登守教経(のとのかみのりつね)、汝に合うて矢壷(やつぼ)を乞ふべし。相構へて臆せず受けよ。これをも我等外(はづ)すべし。然(さ)りながら奥州の住人に、佐藤荘司(しやうじ)が二人の子に、兄の継信(つぎのぶ)が、汝が身替(みがはり)に立ち、この矢に当りて死すべし。これも前世の宿業(しゆくごふ)にて、それまでの命なり。その後平家は滅びつつ、汝が二十一と申すには、必ず天下を治むべし。然(しか)らば兵衛佐をば、関東に御所(ごしよ)を建て、鎌倉殿(かまくらどの)と崇(あが)むべし。汝は都堀河(みやこほりかは)の御所とて仰がれなん。その時は何の仔細もあるまじ。然(さ)りながら、梶原が汝が事を、兄の兵衛佐に讒言し、兄弟不和になるべし。その仔細を語りて聞かすべし。前(さき)の世に、頼朝(らいてう)・時政(じしやう)・景時坊(けいじばう)とて、三人の聖(ひじり)あり。頼朝(らいてう)といひしは、今の兵衛佐、時政(じうやう)とは、北條の四郎時政なり。景時坊(けいじばう)とは、梶原が事なり。

その時汝は、大和の社に籠りし鼠なるが、笈の中(なか)に飛び入りて、六十余州を廻(めぐ)りし功徳(くどく)により、今、牛若と生れをなす。然(さ)れば経の文字を喫(く)ひしにより、景時坊(けいじばう)憎し憎しと思ふ念によりて、讒言を以て、汝年三十二の四月二十九日には、奥州高館(たかだち)にて空しくなるべし。斯くの如く前世の因果は、車のにはに(ママ)廻(めぐ)るが如し。構へて人をも身をも怨むなよ。汝が死して参る、浄土を拝ません」とて、間(あひ)の障子をさらりと開(あ)けて、「あれ拝み候へ」とて見せ給ふ。有り難や、金銀(こんごん)、瑠璃、七宝を以て展(の)べ舗(し)き、瓔珞(やうらく)にて飾り、二十五の菩薩聖衆(ぼさつしやうじゆ)、音楽をなして舞ひ遊び給ふ。哀れ再び娑婆へ帰らずとも、斯かる所に留(と)まらばやなんど、思召すこそ有り難けれ。大日仰せけるは、「未だ娑婆の縁尽きず、帰り給へ、牛若。構へて後生菩提を悲しみ、片時(へんし)が間(あいだ)も念仏を忘れず、しじやう心(しん)、信心、回向、発願心(ほつぐわんしん)を旨とすべし。暇乞の餞(はなむけ)に、娑婆を見せ申さんとて、とある障子を開(あ)け給へば、三千大千世界に、何日(いつ)の何時如何様(なんどきいかさま)の事ありとも、我が身を鏡に映す如くに、一目にこそ見えけれ。斯かる奇特(きとく)は、流石六通(ろくつう)の仏菩薩(ぶつぼさつ)にて坐(ましま)せば、申すもなかなか疎(おろか)なり。

「御名残惜しくは候へども、暇申してさらば」とて、御門(ごもん)を指して立ち出で給へば、大日も暫(しば)しが程見送らせ給ひ、互の涙堰き敢へず。大天狗と打連れて、内裏に帰らせ給ひ、紫宸殿の簾中に入り、御台(みだい)に申し給ひけるは、「御身の仰せにて、父の御目にかかり、有り難さぞ限りなし。暇申して大天狗、暇申して御台」とて、表を指して出で給ふ。大天狗も御台所も、「御名残惜しの若君や、今暫(しば)し」とありければ、「又こそ参り候はめ。今よりして、師弟の契約(けいやく)申すなり」とて出で給へば、金(こがね)の門(もん)まで送り申す。「さらば」と言ふと思へば、東光坊(とうくわうぼう)の、中(なか)の座敷へ帰らせ給ふ。

斯様の事を聞くからに、この世の中(うち)は仁義礼智信を表(おもて)とし、内(うち)には後生菩提を願ふべし。これも源氏未繁昌、百代の御果報故とぞ見えたりける。


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2002.11.13
Hsato