島津久基著
義経伝説と文学
本篇

第一部 義経伝説

第二章 義経に関する主なる諸伝説

第二節 牛若丸時代に属する伝説

(四)義経島渡伝説及び牛若地獄廻伝説

(い)義経島渡伝説

この伝説は主人公義経の年歴からすれば、浄瑠璃姫伝説の後に位置するものであるが、前々條及び前條の伝説と密接に関係しているから、便宜それに続いて取り扱おうと思う。そしてその義経も実は牛若丸時代と殆ど間隔の無い少年英雄として語られている。

内容

人物 御曹司義経。蝦夷が島の鬼かねひら大王・同女あさひ天女
年代 (奥州滞留時代)
場所 千島一名蝦夷が島及び航海中の諸島
御曹司義経がなお奥の秀衡の許に滞留している頃、一日秀衡を召して、都へ上る方策について諮ると、秀衡は平家を討滅して天下を掌握しようという望を果たす為には、これから北の海中にある「千島とも蝦夷が島とも」呼ぶ島に渡って、その都きけんじょう(喜見城)の主、かねひら大王と号する鬼の秘蔵する「大日の法」と名づけた兵法の巻物を獲給へと勧めたので、義経は遂に意を決し、秀衡の許を辞して、四国土佐の港から出帆し、こんろが島・大手島・猫島・犬島・まつ(松)島・うし(牛)人島・おかの島・とと島・かぶと(兜)島・たけ(竹)島・もろが島・ゆみ(弓)島・きかい(鬼界)が島・ひる(蛭)が島等を経た後、高さは十丈許り、腰から上は馬、下は人で、その腰に太鼓を附けた異形の者共の住む馬人島や、男女の隔なく、皆裸体でいる裸島を巡り、女護島では名笛たいとう丸を吹いて危難を免れ、ちいさご島(小人島)一名菩薩島では島人の小躯に驚き、二十五菩薩の影向には随喜し、蝦夷が島の蛮人に害せられようとしては、再びたいとう丸を鳴らして窮地を脱し、終に千島の都に着いて、又もや王城の鐵門を守る牛頭・馬頭・阿■(イ+方)羅刹の鬼共の餌食となろうとして、三度音楽の力を借りて命を全うし、漸く大王に面謁すると、大王は義経の穎才に感じて、師弟の約を結び、「りんしゅ(林樹)の法、霞の法、小鷹の法、霧の法、雲居に飛び去る鳥の法」等を伝えたが、なお大日の法の奥義は允可しなかった。

偶々大王が催した宴席で、名笛を吹奏し、心を籠めた想夫恋の妙音に、大王の愛女「三十二相、八十すいかう(種好)のかたち」を具えた美人あさひ天女の心を惹いた結果、その夜御曹司は遂に天女と契り、その導きによって、大王極秘の大日の法を窃み覧て三日三夜に写し取ると、不思議や後は白紙となった。天女は後難を予言し、且その難を免れる法を教えて、義経を遁れさせた。

大日の法を盗まれた験は目前に現れて、天地は俄に晦冥となったので、驚愕した大王は、天女の援助で秘巻が読まれたことを悟り、急に鬼共をして義経の後を追わせたが、義経は天女に習った法を行って身を免れた代りに、大王は義経を捕らえ得なかった怒りの余り、姫が予期した通りこれを裂き殺してしまった。義経は再び土佐の港に着き、やがて秀衡の許に帰還したが、天女の霊が夢に現れて、その死を告げたのを哭し、教えられた法を試みると、果たして約の如く水上に一滴の血が浮かんだので、さては疑なき事実と、その代って犠牲になった志を憐れみ、厚く天女を弔った。かくて義経は、この大日の法を用いて、源氏の興隆を将来したのであった。義経は鞍馬の毘沙門天の化身、又、文珠菩薩の再誕で、天女の本地は相州江の島の弁財天であったという。

出処】御伽草子『御曹司島渡り』
【型式・構成・成分・性質】型式は全然英雄神話の一種である勇者求婚型である。唯逃亡に際して、青年英雄である義経だけが遁れ帰り、天女を伴わないのは一般型式の本格ではないが、逃走に当たって、物を投げて障碍物として、敵人を禦(ふせ)ぐことは、日本神話中での求婚説話の代表たる大国主神根の国行神話(『古事記』上巻)には欠けているのに、それが本伝説には具備していて、逃走説話の完型を成している。即ち義経が敵人に追跡せられるに際して、天女の教のままに、えんさん(塩山)の法を行って後へ投げると、「平々たりし海の面に潮の山七つまで」生じて、追手の前を遮ったとあるのがそれである。又本伝説には、大王から種々の難題を課せられて苦しめられることは無いが、代わりに途中の諸島に於いて、屡々(しばしば)将に死に至らしめられようとするほどの危害に遭遇している。そしてその場合の救助者は天女ではなくて笛であり、その観点からは芸術伝説の一種たる音楽説話特に楽徳説話を形成している。

兎も角本伝説は、完全ではないが明瞭に求婚説話の型式を具えているものである。併しそれだけではなく、本伝説は又、一方、特にその前半に於いて、ガリヴァー型(Galiver's Travels type)の巡島説話を形成している。即ち種々な珍しい島々を巡って異事奇聞を経験することを骨子とする一般型式に恰当し、蝦夷が島はその巡廻諸島の終極をなしているのである。求婚説話の必須條件としてではないから、全説話の構成上からは分離し得るし、この部分だけ独立した説話としても取扱われ得るが、求婚乃至秘宝獲得の途上に於ける冒険譚として、この求婚説話の一部を成しているとも無論言い得る。いづれにせよ巡島型の説話としては日本では古いものの一として注意すべき伝説である。

即ち本伝説は遍歴説話の一種型たる巡島型説話を挿話として含む音楽モーティフ(吹笛モーティフ)の勇者求婚型説話ということになるが、この神話的型式を継承していることに伴う神話味の上に、別に又本伝説は中世宗教伝説の一様式たる本地物分子とも合体している――但しこれは説話型式の上及び構成の上からは殆ど附着的の色彩に過ぎないのではあるが――為に、仏教的性質をも添加せられて、主人公が神仏化せられ、神話的成分及びそれに近い物が著しく賦与せられている。内容に於いても法術や怪異や頗る神話的要素に富んでいる。同時に文学的空想の成分も多く、伝説というよりは寧ろ遊離的な童話と目せらるべきものである。史実的成分は殆ど認め難い程淡い。兎も角、義経伝説中最も神話的且童話的な説話で、武勇伝説としては性質上からは准神話的武勇伝説と看るべきものであり、そして挿話として恋愛譚と遍歴譚と芸術(楽徳)譚とを有し、而も神仏化現説話としての宗教的著色を帯びている複雑な説話として取扱われねばならないものである。

本拠】世界的な遊離説話で、特に本拠と認むべきものは無いようである。骨子となっている史実も恐らくは無いであろう。古代の日本神話が時代的著色を施されて変容したものとも見られなくはないが、この時代に外来した遊離説話が、日本化したものと見る方がより自然であろう。島渡の部分に関しては、その遊離説話の原形に含まれていたと否とに関せず、次に述べる為朝の島渡伝説が移って来て、それが他の先行伝説や更に新な空想やを加えられて複雑化したのかと考えられるが、若し原話に欠けてでもいたら、巡島説話の完型を成す為に、更に他の或童話的遊離説話も与っているであろうとの想測もそれと矛盾しないであろう。

島渡の伝説としては本伝説以前に『今昔物語』(巻三一)の「鎮西人至度羅島値虎語」(第一二話)、「佐渡国人為風被吹寄不知島語」(第一六話)等があるが、巡島説話と名づくべき程でなく、漂流譚、少なくとも島渡説話と呼ぶべきであろう。近古では、同類の文学『一寸法師』にも島渡が語られてあるが、これは童話で且やはり漂流譚である。本説話と交渉はあるかも知れないが、あっても部分的に過ぎないであろう。而もその先後は遽に定められない。それよりも『保元物語』に為朝鬼ヶ島渡伝説(巻三、為朝鬼が島に渡る事)を伝え――『一寸法師』がこの伝説から影響を受けているであろうことは推断に難しくない――、これも巡島説話の完型ではないけれども、又直接説話上の交渉は少なくても、八郎御曹司の島渡が、やがて九郎御曹司の島渡に変わったとしても驚くべきではない。共に源家の武将として、又相似た運命に就いて、国民の追慕を集めている二人者でもある。『一寸法師』に影響しているであろう点と併せ考えて、少なくとも間接に、又英雄島渡という伝説的事実の移行という意味での本伝説の前身とも観られ得るであろうと思われる。

元来遍歴説話は世界何れの民族にも行われている童話的遊離説話であるが、事実としての旅行癖・行脚趣味も日本には古来発達し、文学形態としても紀行文学の一類を生んでいる程である。遍歴譚も支那のような広大な大陸国では『海内十州記』の如きものが出るのが当然であるに対して、四面環海の島帝国は、陸路遍歴以外に諸国漫遊が島巡りの形となって現れるのも自然でなければならぬ。加之室町時代には南蛮人の渡来があり、支那との交通は公私ともに益々盛となったのであるから、その間珍しい他国の人種・風俗・異聞等の輸入せられたものも多く我が国人が桃太郎童話に於いて空想しているような鬼ヶ島式怪島譚に、好適ともいうべき実例に近いものが偶然に齎らされたこともあったに違いない。況や鬼ヶ島の住民の状貌・生活に関しては、『保元物語』(巻三)のそれと、『盛衰記』(巻七)の鬼界ヶ島の習俗を記した條とを併せ読めば、略々時人の想考と又時人に伝えられた智識の一般とを知り得るのである。『古今著聞集』(巻一七、変化)にも、高倉天皇の承安元年七月八日、伊豆国奥島に、鬼共が漂着した記事が出ている。南洋の食人種ででもあったのであろう。同じ御伽草子の『一寸法師』にも狂言にも鬼ヶ島のことは作られて居り、また、手長・足長の人種の如きは、既に昔から清涼殿の荒海の障子に書かれてあったことを思えば、『山海経』等の影響をも併せて、馬人島・小人島等を義経に巡らせるのも唐突ではない。『今昔』(巻五)の「僧伽多羅五百商人共至羅刹国語」(第一話)は印度説話であるが、これを書き改めた『宇治拾遺』(巻六)「僧伽多羅刹の国に行く事」の如きは最早全く御伽草子になっていて、女護の島と鬼ヶ島の合体したような怪島譚で、直接ではなくとも、或は本伝説の成立にも影響していないとも限らぬ。唯いづれも完型の巡島説話とは看作し難く、それらの諸伝説を経て漸次に成長して来た島渡説話が本伝説に於いて終に巡島説話の典型を作り出すに至っているのを観るのである。

又本伝説は蝦夷にも行われた(『蝦夷談筆記』『北海随筆』)点から、或は彼地に本拠が見出されはせぬかとの疑も懸け得られぬこともないが、暫く後に掲げる金田一京助氏の説、即ち浄瑠璃(ユカラ)として行われる彼地のそれは、本伝説が却って原で、本土から彼地へ伝わって流布したものであろうとの推論に従おうと思う。更に本伝説と義経の末路に関する蝦夷渡伝説との関係に就いても、或は間接には何れかがその原となったかも知れないが、直接の関係は恐らくは無いであろう。

〔補〕ジョン・バチェラー氏著『アイヌ人と其説話』第二四章に、『御曹司島渡り』と同じ内容の口碑がアイヌに現存している由が見えているが、兵法書を「トラ−ノ−マキモノ」と呼んでいる点からなども、彼地固有のものではなく、内地からの逆輸入と見るが自然のように考えられる。

なお部分的には、娘が愛人の命に代わって親なる鬼に殺されること、及び血に変じた水の色によってその死を覚知せよと女が夫に約すること等は、『貴船の本地』と似ている。何れかが他の原話であろうが、その先後は遽に定め難い。又『島渡り』に鬼王が義経に向かって、「葦原国の大天狗太郎坊も我が弟子なり。四十二巻の巻物を相伝せんと申ししが、ようように廿一巻いの法まで行いて、それより末は習わぬなり。若しそれを習ってあるらん。それを習ってあるならば、我等が目の前にた、悉く語るべし」とあるので、本伝説は鞍馬伝説にも関係があり、且、この御伽草子は同伝説よりも、後のものであることを知るのである。

解釈】前條に述べたように、本伝説は前條の原形と目せられ得る。

そして勇者求婚説話の型式を借りている本伝説の内容上、義経伝説として注意すべき眼目は二つある。一は即ち武勇伝説としてで、これは前々條及び特に前條の伝説に於いて論述したと同一である。情話の含まれる事も前條の伝説と同じである。唯敵手が超人間である点は、却って前々條の伝説に類縁を見出すが、説話としての交渉は直接的には無いと思われる。二は中世思潮の一特色の具現である本地物としてである。即ち武勇伝説の主人公たる義経を、一面に於いて仏菩薩の化身再誕とし、弁財天のあさ日天女の行動をも、平家討滅に助力する為、権に人界に現れ給うた方便と観ようとするので、斯うして義経は愈々神化せられ、崇敬の度を増さしめられるのである。通俗的な説法の具に利せられたのではあるけれども、又それは時代民衆の欲求でもあり、史上の偉人を仏神の再来と説明して、その超凡の業蹟に、信仰的な自足の解釈を与えようとするに他ならない。そしてここに英雄崇拝心に宗教的尊信の意味を加えて、両方面からの渇仰の対象たらしめるのである。

なお本伝説には、次の如き種々の意義が含まれていると観ることが出来る。
 

1 前條及び前々條の伝説に認められると同じく、秘事秘伝を尚ぶ時代の反映で、而もその秘巻を益々神秘ならしめようとする為に、北海の端にある耳珍らしい蝦夷が島の、而も鬼の手にあるとしたのである。

2 その秘法は大日の法と称して、「現世にては祈祷の法、後世にては仏道の法なり。この兵法を行い給ふものならば、日本国は君の御ままなるべし」(『御曹司島渡り』)と秀衡が絶讃する無二の秘法である。即ちこの法は、冶国の法で、又兵法であり、而も同時に仏道の法でもある。そして最後の意味が最も重きをなしている。政治と兵法と仏道とを帰一させようとするもの、換言すれば、仏道を以てすべての道を蔽おうとするこの思想は、実に中世思潮の顕要な一面である。而もこの大日の法は、本伝説に於いては単に魔術程度にしか用いられていず、平家覆滅、天下治平の大功を収めさせたであろう推臆以外、純粋の仏道の法としての力は発揮せられていないのも注意すべく、要するに萬般の事象を仏道に索引しようとする時代色が興味深いのである。

なお、天女が惜別の詞に、「この兵法の威徳を語り聞かすべし」と言って、談義を始めるのも、中世風潮の一具現で、来由・縁起・功徳の説明は又秘事伝統の尊信と関連している。

3 島渡りの状景に於いて、これ亦時代現象として著しい倭冦の投影を看取し得ることである。即ち義経出航についての『島渡り』の叙述は、
御座船と号して尋常に飾り、首には鞍馬の大悲多聞天、艫に氏神正八幡大菩薩、艪櫂には廿五菩薩を書き奉り勤請し、祈誓申させ給い、土佐の港を漕ぎ出し、蒼波萬里へ押出す。
とあって、八幡大菩薩の旗を押立てて乗出し、八幡船と怖れられた倭冦を連想させるものがあるとは、芳賀先生の述べられた所である(大正二年度東京帝大講義「鎌倉室町時代小説史」)。但しこれは御伽草子作者の筆飾であるかも知れないが、同書成立時の時代粧を映している事には変わりはなく、その意味でやはり本伝説に投影しているとも言える。或は原話に於いて既に語られていたのであろうかとも思う。いづれにせよ国民の進取的海外発展の意気と冒険的勇気とは、又この伝説を育成する間接の力としてはたらいていることだけは認め得られる。

4 右に関連して我が国人の対外的眼光が漸く広くなり、且単に好奇的探検旅行趣味も増大して来ていることを示している。それは既に述べたように、南蛮人との交通等によって、多少世界的地理的知識を与えられた為である。三好孫七郎が呂宋経略の策を豊太閤に献ずる以前に於いて、『御曹司島渡り』は国民に広く歓迎愛好せられていたであろうことを疑わない。併し無知無学な民衆常識は、唯好奇心に誘われて、新に耳にした珍事異聞を、殆ど無自覚的に、唯驚嘆の情を以て迎え、或は紹介するに急で毫も合理的に考察判断することがない。舞台を蝦夷が島に取って、多少それらしく語っているのは面白いのに、同時に又これを鬼ヶ島としてしまったり(内地から遙に隔たった人外境と思われていたことは、『盛衰記』(巻四五)に宗盛が「千島に俘囚(とらわれ)なりとも、甲斐なき命だにあらば」と涙を流したと見えるのでも知れるが)、或は仄聞した南洋の風俗を応用したらしい裸島が北海の千島に赴く途中に存在するという矛盾を敢えてして怪しまなかったり、更に義経が奥州の秀衡の許から海一つ彼方の蝦夷が島に渡ろうとするのに、津軽海峡を越えないで、その出帆地は「四国土佐の港」である奇観は、特に面白く感ぜられる。土佐を発船の地としたのは、平安朝以来の物語・和歌の上で学んだ都人の地理は、紀行文の祖をなした貫之の『土佐日記』を、海上通航の案内記(ガイドブック)と頼むのを最も便であるとしたによるのか、或は又当時土佐は倭冦の発船地として特に知られていた関係でもあったのであろうか(『義経入夷伝説考』の金田一氏はこの「とさ」は、津軽の要津十三(とき)を四国の土佐に誤って考えたのであろうとの説である)。要するに本伝説は、又、今や漸く井中の蛙が大海に放たれかけて来ながらも、その知識はなお漠々として殆ど空中楼閣の如くであった中世民衆の地理的観念を示すものとしても意味がある。

5 既に一言したように、本伝説は一面音楽の霊力を説く楽徳説話であるとも観られ得る。本伝説に於ける義経は、僅かに一管の笛を以て屡々危難を免れ、これを吹いて蛮人を懐け、鬼の心をさえ和げるオルフォイス(Orpheus)のような音楽の大天才である。その目的たる大日の兵法を獲得出来たのも、これに託してあさひ天女に思慕の情を仄めかしたこの神韻の賜である。日本の物語文学中、音楽を中心とするものには、早く平安朝に『宇津保物語』があり、『源氏物語』も亦多く音楽を取扱っている。就中音楽の奇蹟を語る所謂楽徳説話としては『宇津保』(俊蔭巻)の俊蔭及びその女、孫仲忠、同書(棲の上巻下)の俊蔭女、『狭衣物語』(巻一上)の狭衣中将等はその代表的のものである。特に狭衣の方は本伝説の場合と同じく笛である。即ち『古今集』序に見える芸術の神秘的な霊力理論を具象的に説話化して、詩徳・歌徳等の伝説群と並立させているので、平安貴族の教養として必須條件をなしている管弦の神技に関する伝説が近古へかけて益々続出して来た(『江談抄』『宇治拾遺』『十訓抄』『著聞集』『古事談』『続古事談』『東斉随筆』『盛衰記』『仁明天皇物語』、舞『烏帽子折』、謡『蝉丸』『経政』『絃上』等)のも当然で、その平安貴族の理想人の半面を賦与せられている義経に、楽徳説話が附随しても奇とすべきではないのである。義経伝説中、義経の吹笛を語るものは甚だ多く、特に『笛之巻』『十二段草子』等はその尤なるものであるが、中でも本伝説はその代表的のものとして推されねばならない。

6 最後に附言すべきは、本伝説は義経の高館生脱後の蝦夷渡伝説を暗示又は肯定する意味を有するものとは思われないことである。彼は末路に関する多少の史的意義が含まれているもので、此は全く青少年時代に於ける童話的の物語である。桃太郎に牛若丸という史的人物が代ったのに過ぎないようなものである。蝦夷が島は、畢竟鬼ヶ島なのである。世界的な遊離説話である勇者求婚説話が、この時代の日本的な説話として現れるに当り、偶々その敵人の国として択ばれたものが、当時「西は西国博多の津、北はほくさん、佐渡の島」(『義経記』巻五)に対せしめた「東は蝦夷の千島」(同)であったに過ぎず、且その地の人種・風俗等に関して十分な知識はなお与えられてはいないが、少なくとも一般国民にとって実在する奇島として知られたものをもってすることが、神話的の根の国、童話的の鬼ヶ島よりも事実らしさと興味とを多大ならしめると考えられたが為であろう。『島渡り』に「てんくわの棒に附子(ぶす)の矢を持ちて」と記してあるのは、蝦夷人に関する知識が、朧気ながらも輸入されていたことを証するものである。(「てんくわの棒」はアイヌ語の「テンカコンナ」(獲物を振りまわすことであるという)の訛ではないかと言われている。附子は狂言『附子』にも主題とせられていて、植物から製した毒薬である)

が、兎も角も、本伝説から所謂義経蝦夷渡の事実なり伝説なりを読み取ることも、亦本伝説から蝦夷伝説への進化推移をも直ちに認容することも、頗る困難である。もとより義経戦死当時から、蝦夷に逃亡したとの風説なり想像なりが、時人に起こり得ることを許すべき事情がないではなかったとしても(後に詳説する)、それは自ら本伝説とは別箇の問題である。所謂今日伝えられる如き、義経蝦夷渡伝説の形成は、なお遙に後の事であろう。何となれば本伝説を除いては、この時代の伝説・文学に一もその片鱗痕跡を認め得べきものが無いからである。そして唯一の義経蝦夷渡に関係ある本伝説は、実は義経鬼ヶ島渡とも名づくべき荒唐な物語に過ぎないのである。唯本伝説が後の所謂蝦夷渡伝説の形成を間接に助長し、或は一度本伝説が蝦夷に渡って、彼地固有の神話と融合し、更にそれが内地に発生した蝦夷渡伝説の本拠となり、若しくは旁証的資料となって愈々その進展に資したという事は有り得よう。


成長・影響】本伝説は兵法書を中心とする点に於いて、鞍馬天狗伝説・鬼一法眼伝説と類を同じうするのみならず、互に何等かの関係があるかの如く思われる。特に前にも論じたように、『鬼一法眼』の素材の直接の本拠となったであろうとの推断は許されるのではあるまいか。文学としての先後は姑く措いて、少なくとも『御曹司島渡り』の内容を形成する本伝説が、『鬼一法眼』に影響を与えたであろうことは、否み難いかと思う。両書の構想並びに叙述を対比すれば、それを肯定せざるを得ぬのである。又本伝説の名笛に想夫恋の曲を奏でて天女の心を動かす事及びその條の文は、『十二段草子』と全く無関係とは思われない。いづれかがその粉本であろう。

本伝説の影響として特記すべきは巡島説話型の展開である。後世の島渡説話は、多くは本伝説に影響せられたようである。未完型の巡島説話たる『保元物語』の為朝鬼ヶ島渡伝説を素材として綴った、後の曲亭馬琴の『椿説弓張月』(後篇巻一・二)でも、為朝を鬼ヶ島のみならず、女護の島にも渡らせているのは、実際の八丈島の民族的事実が骨子となっているのは勿論であるが、屡々御伽草子に取材して想を構えている馬琴の筆として、本伝説の影響をも受けていると見て差支無い(但し、西鶴の『一代男』や、近松の『平家女護島』の外題もあり、女護の島の空想を助けたものは他にもあろうが)。近松の『源義経将棋経』(五段目)が蝦夷の義経大王が島々を巡った後に女護島司浄瑠璃姫の許へ赴くことに終局しているのは、本伝説と『一代男』との影響であることは疑うべくもない。

我が文学に現れた巡島説話中、史的英雄を主人公とする著名な伝説は三類ある。為朝と、義経と、朝夷とに関するものである。為朝・義経のものは上に挙げた。なお為朝に関するものには、鬼ヶ島で鬼の姫と腕押しや首引の勝負を争う狂言『首引』がある。朝夷の島渡りとして最も早く文学に現れたのは、金平本の『朝夷島渡り』であるが、これは一種の怪物退治説話で巡島説話ではないけれども、鬼ヶ島の鬼大王を服する点で、為朝島渡り及び桃太郎童話の流れを引くものであろうか。或は『御曹司島渡り』とも間接には関係があるかも知れない。黄表紙の『朝比奈島渡り』は恐らく『御曹司島渡り』の影響下にあると思われる。更に同伝説を読本に作ろうとして未完に終わったものは馬琴の『朝夷巡島記全伝』である。『巡島記』の題号から察しても、馬琴は必ずこの義経の島巡りを粉本にする腹案であったろうと思う。又この朝夷の渡島を義経の蝦夷渡に結びつけた作に為永太郎兵衛の戯曲『鎌倉大系図』、それを承けた福内鬼外の『源氏大草紙』がある。それから黄表紙『近頃島巡り』(市場通笑作)は、又朝夷の巡島説話から出たものである。そして少なくとも成長した後の朝夷巡島説話は伝説味は減退して、著しく童話的寓話的となっている。それは下の仮作説話の一類との混淆がある為でもある。

右の史的人物の巡島伝説でなく、架空小説で巡島説話の型式を用いた作品には遊谷子の『異国奇談和荘兵衛』(これは『荘子』に示唆を獲たものであることはいうまでもないが)、これから出た馬琴の『夢想兵衛胡蝶物語』(これ亦同じく『荘子』にも学んだことは題名の示す通りである)があり、又、一九には合巻『新製交島(こびとじま)廻』があり、風来山人の『風流志道軒伝』もこの種のものである。いづれも所謂ガリヴァー型の寓話的仮作物語で、支那文学に影響せられていると共に、本伝説の流れを引いているものである。

以上のように本伝説は後代文学に多大の影響を与えた外、求婚説話としてのそれ自体は発展しなかったようである。唯、その巡島説話の部分のみが、朝夷の巡島説話及び右に挙げた寓話的仮作小説の内容と混融して成長流布して来たという現象だけを見る。例えば徳川期に出た絵本『義経島巡り』(一名『義経巡島記』)の如きは、本伝説をそのまま継承しているのではなくして、寧ろこれから出た朝夷島巡りの説話が又逆転して来て、而も所謂義経の蝦夷渡伝説に加わったようなものである。『巡島記』の題号も馬琴の作から来たのであろうし、その巡遊の島々はカフリ島・首環島(ゆうかんじま)・小人島・夜国・カマカ・モノモタツハなどいうので、原伝説の片影を微かに留めてはいるが直接系統ではなく、朝夷や夢想兵衛やその他の模倣に、架空の想像上の外国知識を混じ、而も義経は、弁慶始め諸臣を随伴して廻遊するのである。

文学】『御曹司島渡り』(御伽草子二十三篇の内)が本伝説唯一の所載原典でもあり、同時に本伝説の作品化せられた唯一のものでもある。巡島説話の部分は特に童話的素材として適切である為、赤本『義経島巡り』、黒本『義経島渡』、絵本『義経島巡り』同『義経巡島記』等となって現れたが、概して原伝説とはかなりに懸隔がある。

(ろ)牛若丸地獄廻伝説
 

これは鞍馬山時代に属するものであるが、同じ遍歴説話の異種異型の伝説であるから、此処で併せて考察してみる。

【内容】

人物 牛若丸。鞍馬山の大天狗・同妻(甲斐国こきん長者娘きぬひき姫)。大日如来実は牛若の父源義朝の後生
年代 (鞍馬山時代)
場所 鞍馬山。地獄・極楽浄土
牛若丸は七歳で鞍馬に上り、東光坊の許で勉学し、学問頗る上達した。或時、鞍馬の山奥に、天狗の内裏というものがあると聞き、それを見ようと心を砕いても叶わぬので、毘沙門に祈誓してその所在の指示を希った。老僧と現じた毘沙門天から教えられた方向に牛若が尋ねて行くと、鉄門厳めしい内に、壮麗な内裏があった。主の大天狗は悦び迎え、眷族を招集して歓待を尽くし、種々の奇法を施させたり、自身は五天竺の状を目前に示したりして、珍客の目を娯ませた。大天狗の妻、これは天狗の棲処に在る唯一人の人間で、甲斐国こきん長者の独り娘きぬひき姫という女であるが、懐かしい人間界から来たこの源家の公達を、何をがなもてなそうと、終に牛若に勧めて、大天狗を案内者として、一百三十六地獄を見物させることにした。二人は数々の地獄を巡って歩いた(以上、刊本『天狗の内裏』上巻)。

大天狗は続いて若君を伴って、九品浄土に到ると、「この九品の浄土に、御曹司の父義朝は大日如来になり」安座して居られた。初めは如来の聲のみで、牛若と種々の仏法問答を試み、その器量をためした後、妄執の雲を霽して親子の対面をなし、我が心を慰める道は、仏法修行ではない。平家を亡ぼして我が仇を報ずるに如くはないと訓へ、更に牛若の未来に就いて、懇々として語り諭す所があった。かくて牛若は父と別れ、大天狗の内裏に引返し、此処で大天狗と師弟の約を結び、やがて辞して東光坊に帰った(同、下巻)。

【出処】御伽草子『天狗の内裏』。

【型式・構成・成分・性質】遍歴説話の一型式、勇者地獄巡型(詳しくは勇者地獄極楽巡型)の伝説である。この説話型は又勇者冒険譚の一型式としても取扱い得るのであるが、本伝説では後者の意味は特に附与せられてはいない代わりに、後半に挿話として未来記式予言説話型が附帯せしめられている。未来記の挿話は別として、地獄極楽の歴巡という型式に於いて前の巡島型と類種である。併し本伝説は前者が童話的なのに比して明白に宗教的で、即ち純粋の武勇伝説ではなくて、武勇伝説の主人公たる義経に結びついている宗教伝説(法談物)と観るべきものである。寓話味の含まっている点は従って両者に共通している。説話成分は神話的と空想的(仮構的)のそれが濃厚で、史実的成分は義朝父子の人物と、挿話内容を成している未来記としての義経に関する史的事件以外には殆ど認められない。要するに宗教譚と合体した准神話的武勇伝説である。

【本拠・成立】地獄極楽巡歴伝説、特に地獄実地見聞談は夙く『日本霊異記』に智光法師堕獄伝説(巻中、第七話)、藤原広足回生伝説(巻下、第九話)等が載せられている。元来この思想なりこの種の伝説なりは日本固有のものではなく、三世因果、転生輪廻の仏説の上に立っているもので、印度から支那を経て日本に輸入せられた三国伝来のものである。日本神話に於いても、伊弉諾神黄泉国行(『記』上巻。『紀』巻一、神代上)、大国主神根の国行(『記』上巻)があるが、本伝説に直接の系統を引くものではない。本伝説に影響を与えた本源の思想なり型式なりはそれら固有の神話ではなくして、却って外来の印度宗教譚に覚めらるべきでなければならぬのである。

『霊異記』の後を承けた平安時代の『今昔物語』となると、弥々多くの地獄極楽談を収めている。即ち印度及び支那説話としては巻六・九等に、日本説話としては巻一三・一四・一七・二〇等に見える。就中知られているのは西三條大臣良相回生伝説、即ち冥官の化現とせられる小野篁が閻王府に往来して恩人良相の命を救った奇話(巻二〇、第四五話)で、これは余程支那臭がある。又地獄の状が稍詳細で後世の形にかなり近いのは、越中国書生の妻立山地獄巡歴伝説(巻一四、第八話)、膳広国冥府行伝説(第二〇、第一六話)等である。降って同じく近古の小説で、同じく地獄廻説話として最も著名なのは、御伽草子の『富士の人穴草子』である。仁田四郎が人穴を探検し、富士権現の導きによって一百三十六地獄及び極楽浄土を廻る物語を題材としてある。武勇に附会して仏法を説き、勇者を借りて因果説の実証を示そうとするもので、本伝説と同種同型のものである。又『太平記』(巻二〇)の結城入道堕獄伝説も怪山伏の案内で行脚僧が冥府を観る話で、類話の一と言える。本伝説は以上の諸説話と直接間接に関係があり、此等の中の或ものからは特に影響を受けてもいるであろうことが少なくない――『人穴草子』とは最も密接な交渉があろう――のは否定することは出来ない。又、地獄絵の屏風や絵巻も平安時代以来書かれて居り、特にこの時代は通俗説法の弘通した時世で、勤進比丘尼の地獄極楽絵解なども流行している頃であるから、そうした空気の中から生成して来たことは疑無い。併し本伝説の骨子を成す説話の本拠は、実に意外の辺にあるのに驚かざるを得ないのである。

希臘の勇者譚として最も有名なホーマーの二大叙事詩、『イリアド』("Iliad")及び『オディッセイ』("Odyssey")と並び称される羅馬のそれは、ヴァージル(Virgil)(ヴィルギリウス)の『イニード』("AEneid")十二巻で、これは、トロイ戦争に敗れて、父を肩にして囲を逃れ、伊太利に走って終に羅馬建国の基を開いた英雄イニーアス(AEneas)の物語を叙したものである。その第六巻目はイニーアスの地獄極楽廻の説話で、之を『天狗の内裏』に比較してみると、決して単なる偶合ではなくして、確に本伝説の本拠たることを主張していると私は推断したいのである。今両者の説話内容を、條項に要約して、対比してみよう。
 

イニーアス伝説         
1 イニーアス伊太利の海岸に到着してアポローを祀った聖山に登り、夢に冥府の父の許に行けとの神託を受ける。
2 この山の巫女の洞を訪ひ、神託に随って冥府に入るに就いての方法を詢ると、巫女は黄金の杖を森林中に求めよとの難題を与えて、之を獲た後、導いて地獄に赴く。
3 先ず噴火山の火口から入って殺生湖を通過する。
4 黒河を渡り、嬰児界・寃死界・自殺界・哀傷界・勇士界等の各地獄を巡る。
5 最後に極楽に到り、亡父アンカイシーズ(Anchises)に会う。
6 父からトロイ人の未来と、イニーアスの世界征服の予言とを告げられる。

天狗の内裏
1 牛若鞍馬の毘沙門堂に祈って天狗の内裏を見ようと願い、夢想により山奥へ入って之を探ねる。
2 大天狗の内裏に到り、その妻の勧めによって、父に逢う為に、冥府の見物を大天狗に懇願すると、大天狗は法問を以て牛若を試みた後、案内を快諾する。
3 先ず炎の山の地獄と血の池の地獄とを観る。
4 餓鬼道・修羅道等一百三十六地獄を廻る。
5 最後に九品の浄土に赴いて、今は大日如来となっている亡父義朝に会う。
6 父から牛若自身の未来記、平家を亡ぼして天下の武将と仰がるべきことを予言される。


なおその他細い点は異同があるが、イニーアスが地獄で亡友パリニューラス(Palinurus)等と語ることがあれば、牛若も餓鬼道で一人の餓鬼と言を交え、極楽(エリジアム)(Elysium)でアンカイシーズが人間の火風土水から成っている事を説けば、浄土で牛若は大日の法問に答えて、人死する時は、木火土金水の原質に帰すことを述べる。そして巫女の洞、即ちドライデン(Dryden)の訳語を借りれば、"The Sibyl's palace"(The Harvard Classics 13 AEneid p. 219)はとりも直さず「天狗の内裏」に相当するのである。又鞍馬山から先ず入り込む炎の地獄の状を叙して、

高さ百余丈ばかりの山なるが、炎の立つと見しよりも、刹那が間に焼け砕け、微塵となりこはいとなり、四方へばつと立ちにけり。(『天狗の内裏』上巻)
としてあるのは、ヴェスビアスの噴火口を連想せしめられないでもない。既にホーマーの『オディッセイ』が、百合若伝説として日本化している事実が真ならば(「早稲田文学」明治三九年一月号、坪内逍遙博士「百合若伝説の本源」)、南蛮人渡来時代にイニーアス伝説が『天狗の内裏』となったとて、毫も不思議とするに足りない。
〔補〕『オディッセイ』の日本移植の中介者かと新村出博士に想像せられている葡国詩人カモエンス(Camoens)がヴァージルに私淑して、その名篇『ルシアダス』もこの先輩の詩体に則った(『続南蛮広記』所収「南風」)ことなども、一層如上の推定を円滑ならしめる。


牛若に関した余りに荒唐な伝説であり、又天狗の棲処を内裏というが如きも、宮廷生活に憧れていた時人の思想が、それを助けたではあろうが、余りに奇抜な感があるのも、これによってその疑問が極めてなだらかに解かれて来るであろう。若し本伝説の本拠がこのローマ建国叙事詩にありとすれば、トロイの戦捷者と、戦敗者とに関する泰西伝説が、各々日本化したことは、面白いことと言わねばならぬ(なお地獄廻は『オディッセイ』にもある。これに暗示を得て、ヴァージルはイニーアス地獄廻を書いたのであろうとドライデンは説いているが、『オディッセイ』の同部分は、後人の讒入であるとも言われている。いづれにせよ、少なくとも本伝説に影響したのはイニーアスの説話の方である)。
 

【解釈】義経伝説としての意義は、父義朝との対面にある。母の懐に呱々の聲を為していた日、面影すら眼に刻む暇をも与えずに、一朝戦乱の不幸が現世に於ける永久の別れを強いたその父義朝に、思いも寄らぬ幽冥の世界で相会う期を得て、親しくその口から我が未来を示され、遺志を託せられ、かくして愈々復讐の決意を固めしめられることは、平氏討伐の大功を樹てた九郎義経の使命の上に、甚だ軽からざる意味を与えるもので、その決意の動機を、祖先の系図を覧て発憤したにあるとし(『平治物語』巻三)、或は旧臣が密に来て勧めたにあるとする(『義経記』巻一)よりも、一層端的に、切実に牛若丸をして自己の使命を自覚せしめる所以で、かかる伝説が生成せしめられ、或は外来伝説が日本化するに当たって、国民の手によって義経に結びつけしめられて斯うした意味を賦与せられている所に、本伝説の主要な意義を認めざるを得ぬのである。

次に考察に値するのは、末段の未来記である。義経に関する未来記中、最も詳細で、最も完全なのは本伝説のそれで、換言すれば、その未来記中には所謂義経伝説を形づくっている伝説群の大部分を集成し得たかの観がある。即ち五條橋千人斬伝説(橋弁慶伝説)・東下り及び関原与市伝説・山中常磐伝説・熊坂長範伝説・浄瑠璃姫伝説・鬼一法眼伝説・島渡伝説・平家追討・継信身替伝説・梶原讒言の因縁伝説(謡曲『沼捜』にも見える所で、義経は景時坊という聖僧であった景時が笈の中の経巻の文字を喫い破った鼠であったという前生譚)等皆含まれている。そしてこれら諸伝説を集成した本伝説は即ちそれら個々のいづれよりも後に発生したものでなければならないのと、江戸初世頃発生したと思われる蝦夷伝説を含んでいない点で、その成形は室町末期と観るが妥当であり、この点からしても、南蛮人渡来の頃に伝えられたのではないかとの推測に、矛盾する所は無いのみか、却って助成さえもしているのである。

義経伝説を離れて単独の伝説として観れば、言うまでもなく、武勇に附会した宗教譚で、『人穴草子』に於けると同意味を有している。而も最も国民の崇敬同情を集めている史的且伝説的人物を利用して説法に資したことは、仏者にとっては最も便宜で、賢明で、有効な方便であらねばならなかった。浄土での父義朝との対面を外にしては、本伝説の主要部分は、全く地獄極楽の説明でしかない。その亡父義朝も亦今はその九品浄土の主として尊く有難い大日如来にましますのである。血族関係上の父たるのみならず、得道成仏の御法の父にましますのである。牛若丸自身も亦実に『御曹司島渡り』に於いて信ぜられたと同じく、「もとよりこの君は毘沙門の御再誕の若君にてましませば」(『天狗の内裏』上巻)、罪障の深い汚濁の凡夫とは自ら種を異にしているのである。偶々大天狗が介在して、鞍馬天狗伝説と同様の意味を有しているようであるが、それは唯附加的なだけで、牛若の地獄廻に際して、これが案内者を求めるに、否イニーアスを導いた巫女に相当する人物を求めるに際して、最も関係の浅くない、そして超人的である大天狗に於いて恰好の役者を得たというに過ぎないのである。又、その妻のきぬひき姫も管弦の上達に慢じた為に攫われて天狗の棲処へ伴われたという『樒天狗』式女人で(或地方口碑であったのかも知れぬ)、巫女の役を夫の天狗と分担しているだけである。畢竟浄土安楽国の仏、大日如来の義朝の口からして、牛若の使命が仏道修行ではなくて、平家討滅にあることを力説せしめた矛盾は、原伝説を忠実に踏襲した結果に外ならないので、本伝説の創り出された第一の動機はやはり『天狗の内裏』巻末の、「斯様の事を聞くからに、この世のうちは仁義体智信を表とし、うちには後生菩提を願うべし(下略)」とあるのに尽きるであろう。

若し上に論証したように、イニーアス伝説がその原形であるとすれば、これが日本化せられるに当たって、自ら払われた注意は、寧ろ如何に仏教説法の方便としての物語に利用すべきかの上にあったことが明らかに看取される。要するに本伝説は、宗教譚としても観られ得、而もそれが儒教とも武勇とも結合し、禅と念仏との混体でもあるような所に、室町期の時代色が遺憾なく表されている。そしてこの説話を内容とする『天狗の内裏』は、大日如来の信仰から観て、密教系の、或は地の池地獄の『女人血盆経』の教などのある所から、曹洞派の関係者か何かが執筆したのではあるまいかという推測が許されそうに思う。
 

【成長・影響】本伝説の成形が室町季世であるとして、これに影響を与えた筈の『人穴草子』(岩瀬京山の言う通り同書が「東山殿頃の御伽草子」(『歴世女装考』第二)であるとすれば無論、縦し義政時代でないとしても、仁田四郎地獄廻伝説の成形の方が本伝説のそれに先行してはいるであろう)から同じく影響を受けて成形した同じく地獄廻で且鬼神退治の武勇伝説と結合している甲賀三郎地獄廻伝説(御伽草子『諏訪の本地』、古浄瑠璃『甲賀三郎伝説』、出雲・文耕堂合作の『甲賀三郎窟物語』)と本伝説との先後は明らかでない。且、直接の交渉は無いかも知れぬが、勇者地獄巡型説話としての関係は親近で、少なくとも間接には素材上の流通はあるであろう。そして作品の上からは少なくとも本伝説の方が先だっていると言えよう。

本伝説自体としては成長を見なかった。義経と地獄とを結びつけた作として後に金平本の『義経地獄破』が出たが、これは本伝説とは全く別種のものであり、その内容は既に序篇で紹介した通りのもので、本伝説とは恐らく関係が無く、その直接の粉本となり先駆となったものは、狂言『朝比奈』(それから出た新内に『朝夷地獄廻』があり、『源氏大草紙』(五段目)にも朝夷地獄破伝説は採られている)であろうし、先後は不明だが同じ金平本に『金平地獄破』(道具屋吉左衛門節正本)も作られているし、他方では『魚鳥平家』『鴉鷺合戦物語』『仏鬼軍』等異類合戦物の一類にその様式を学んだものであろう。なおついでにこの金平本は後に『小夜嵐』(元禄一一年刊)、『続小夜嵐』(正徳年間刊)、『新小夜嵐』一名『地獄太平記』(正徳五年刊)等の地獄小説――いづれも同型の異類合戦物――の系統を生む俑を作った。右の『続小夜嵐』は地獄と極楽との戦で『仏鬼軍』と同構想、『新小夜嵐』は地獄に落ちた赤穂義士と閻王との戦であるが、それらの先駆をなした『小夜嵐』は源平の将士と閻王との戦で、その前年の『西鶴冥途物語』(元禄一〇年刊)から誘発せられたところもあろうが、内容は即ち『義経地獄破』を粉本としてそれを敷衍改作した小説であることの疑無いことは、両書を対比すれば直ちに首肯出来る。但しそれでは最早主人公は義経ではなくなって、彼はその討伐軍の一方の飛将軍になっているだけである。

【文学】御伽草子に『天狗の内裏』(二巻本・三巻本等があり、刊本は萬冶二年板)があり、絵巻としても行われたことは『羇旅漫録』(巻一)、『考古昼譜』等によって知られる。延宝五年刊の古浄瑠璃に同名の曲のある由が『近古小説解題』に記されてあるが、未だ管見に入らない。
〔補〕『天狗の内裏』本文は拙著『近古小説新纂』(初輯)に収めてある(猶同書「考説」の部及び新潮社編「日本文学講座」第一一巻、拙稿「天狗の内裏とイニード」(牛若丸地獄極楽廻伝説とイニーアス伝説)は本稿と重複する所が多いが詳説補足する所も少なくない)。古浄瑠璃『天狗の内裏』はその後東京帝国大学国文学研究室に購入せられた平出鏗二郎氏旧蔵本を披閲することが出来た。但し同書は延宝五年刊の五段本で、題号は恐らく本書に借りたと思われるけれども、僅かに第一段の大天狗が奥下りの牛若を祝う部分に本書を承けたと看られる節があるだけで、内容は浄瑠璃姫伝説を主としていて、本書の直接の改作という如きものではない。
 
 
 

第二章 つづく


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源義経研究

義経デジタル文庫

2001.12.1
2001.12.22 Hsato