ブルーノ・タウトが撮した
1930年代の日本


世田谷下北沢の古本屋で、「タウトが撮ったニッポン」(酒井道夫・沢良子編 武蔵野美術大学出版局 07年3月刊)という本を見つけた。古書と言っても、昨年(07年)3月に発売されたばかりの書籍だった。ブルーノ・タウト(1880−1938)は「日本美の再発見」という岩波新書(赤)が出ているドイツの著名な建築家だ。


 1 タウトの日本での足跡が見える130枚の写真

この人物が、1933年5月から36年12月までの三年間日本に滞在し、日本各地を旅して、各地の風景や風俗、建築物など、1422点の写真を残した。今回はその中からピックアップされた130点である。一枚一枚の写真には、日付の入ったタウト自身の日記風のメモ書きが添えられていて、優れた日本文化批評となっている。

この中には、奈良や京都、東京だけではなく、大阪、兵庫、愛知、岐阜、神奈川、群馬、宮城、秋田、岩手平泉の中尊寺の能舞台(白山神社)など、日本中を精力的に廻ったタウトの日本での足跡が辿れる構成だ。選ばれた写真は、タウトの鋭い視点が発揮され、実に味わい作品ばかりだ。

この本をめくっていると、最初に、昨年の2月から5月にかけて、開催された「ブルーノ・タウト展 アルプス建築から桂離宮へ」のチラシが挟み込まれていた。この展覧会は、渋谷区神宮前にあるワタリウム美術館で開催されたものだ。おそらくこの書籍の所有者は、ここで、この本を購入したのであろう。書籍の具合も読み込んだ跡というか手の油によって、少し黄ばみかけているところが、またこの本のイメージとマッチしていて、いたく気に入った。


 2 ヒトラーに追われて日本へ来たタウト 

この本をめくっていると、何故か、1930年代の日本にタイムスリップしたような気がしてくる。大阪の天王寺の街並み(1933.6月23日)には、乞食(ホームレス)が、横になっている姿が写されていて、タウトは、その下に、「ボロを着ているが健康でたくましそうな乞食」と記している。確かにその乞食は、悪びれる風もなく、着物を着て、大道の横に眠っている。確かに口髭が生え、立派な風貌だ。

折りからタウトが日本にやってきた頃は、世界大恐慌が日本にも波及し、昭和大恐慌の後遺症の真っ直中にあった。大恐慌の煽りでも受けて、志のある人物が、乞食に身を落としたのだろうか。そのように考えると時代を切り取ったような実に味わい深い写真だ。

また、1934年10月31日には、渋谷の忠犬ハチ公をパチリと撮している。タウトは、「渋谷にセントバーナードに似た大きな老犬ハチ公がいる。彼はそこでもう6年間死んだ主人を待っている」と記している。もちろんこのイヌは、セントバーナードではなく確か純粋な秋田犬である。ハチ公は、地べたに力なくうずくまって、悲しみに呉れているかに見える。側には、誰かが持ってきたエサがあるが、ハチ公は、それには何の興味もなさそうだ。


タウトが来日した当時の世相を考えてみる。巷では、世界恐慌が世界に黒い影を落とし始めていた。1929年10月、アメリカのウォール街の株価暴落から世界は、大恐慌に突入したのだ。日本経済も「昭和大恐慌」と呼ばれる未曾有の経済混乱に突入した。銀行は取り付け騒ぎを起こし倒産し、町には失業者があふれた。地方の農村では農産物の暴落によって、若い娘を売るなどの悲惨な状況まで起こった。そんな不況のどん底に日本社会はあった。

タウトが祖国ドイツを離れたのは、1933年3月1日だった。ヒトラー率いるナチス党が政権を奪取したのが、3月5日である。ワイマール憲法下の自由なドイツ国内の空気がヒトラーの出現によって一変し、左翼的な思想を持っていたタウトは、職を奪われ、逮捕寸前の危ない身の上だった。そして彼は迫害を逃れ、日本にやって来た。

日本でも、軍部が台頭し、1932年には、中国大陸に進出して、満州国を建国したのが、タウトがドイツを離れる1年前の1932年3月1日だった。そんな時代の一断片として、この写真を見ると、当時の日本人の経済的困窮のため息が感じ取れる気がしてくる。

この本の中で、タウトは、特に日本人の木造の住宅を褒めている。また日本人のしゃがむトイレをなかなか良くできているとも言っている。一方で日本橋の白木屋デパートなどのコンクリートの建物には、「退屈で趣味が悪い」と手厳しい論評を加えている。この辺り、一般の西洋人の感覚とは、まったく違うプロの建築家(芸術家)としてのセンスを感じる。


 3 日本社会から消えた「おんぶ」を撮したタウト 

私が特に、好きな写真は、「おんぶアルバム日記」と題された数点の「おんぶ」を撮った写真だ。昔の日本人は、赤ん坊を、おんぶで育てた。しかもこの赤ん坊を背負うのは、赤ん坊の母だけではなく、兄弟姉妹あり、あるいは隣近所の子供たちみんなで、ひとりの赤ん坊を背負っていた。ここに赤ん坊を中心とした「オンブ・ネットワーク」のようなものが、間違いなく確立していた。しかも、赤ん坊と背負う方は、背中でたえず密着をしている。赤ん坊が泣けば、肩を揺すってあやし、寝かせるようにする。何とも微笑ましい写真が並んでいる。丸坊主の兄が弟か妹を背負っている写真、5、6歳の女の子が、赤ん坊ではなく、お人形さんをおんぶしている写真。確かに、小さな子は、人形を背負っておんぶのマネ事をしていたものだ。年の離れた姉さんか、近所の姉さんに背負われて、目をきょとんとしている男の子。雪国と思われる田舎で、どてらのような厚手の着物を着た若い母に背負われて、おんぶの位置を変えるために動いて、ピンぼけている写真。

今、日本から「おんぶ」という風習は消えてしまったが、おそらくこの「おんぶ」というものを日本人がしなくなったのは、高度成長で、田舎から都会に人口が流入し、田舎でも、農家などで、機械化したために、隣近所の付き合いというものが、極端になくなったためだったかもしれない。日本の美風とも言える「おんぶ」は、新しく地域社会に生まれてきた赤ん坊の社会デビューの象徴でもあった。しかしそれが失われた時、日本の赤ん坊は、別の社会的適合の道を探らねばならなくなった。

このタウトの70数年前の写真を見ながら、日本の文化の変転を目の当たりにしたような気がした。でも、その写真の奥には、ブルーノ・タウトという稀有な芸術家の確かな眼が控えていて、それが日本文化の根底にある奥ゆかしい「美」をしっかりと見据えているようで、素敵な写真集だな、と思った。

タウトが撮ったニッポン

タウトが撮ったニッポン
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2007-02
★★★★★
【装幀の一枚】
1934年10月31日冬、群馬県高崎市にある達磨寺の洗心亭での一枚。一晩中雪が降り積もった翌朝、日が射してきた時の情景か。タウトと同伴してきたエリカ・ビッティヒが、縁側で住職の娘敏子に髪を梳いてもらっている(?!)。ドイツ女性エリカが、日本女性敏子と心を通わせている雰囲気がよく伝わってくる温かい風景だ。(佐藤弘弥記)

2008.10.29 佐藤弘弥

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