書評
多田富雄氏の新著
寡黙な巨人」を読む


多田富雄氏の新著「寡黙なる巨人」(集英社 07年7月刊)を手にした。

表紙をめくって、1時間半余り、私はこの本に躍る活字に惹き付けられるようにして一気に読んだ。多田富雄氏のことが偲ばれた。脳梗塞に倒れ、必死のリハビ リによって、不自由な手でワープロでの入力作業をし、それこそ一字一字を紡ぎ出すようにして、このエッセイを上梓されたことを思う。すると、本に向かい自 然に頭が下がる思いがした。

「寡黙なる巨人」とは、まさに多田氏のことである。「巨人」とは、6年前の01年5月2日、旅先の金沢で脳梗塞によって、突然不自由を強いられた時、多田 氏自身の脳裏の中で、胎動し始めたもう一人の人格を指している。

私は依然、多田氏がリハビリの日常を余すことなく活写したNHKのドキュメンタリーを見た時、「知はどのようにして苦を 乗り越えるか」というテーマでエッセイを書いたのを思い出す。

「寡黙なる巨人」は、人間の知性というものが、病気による苦を強いられた時、どのようにしてこれと正対し、苦を受け入れ、克服していくのか、という過程を 見事な筆致で教えてくれるまさに現代の「病床六尺」である。

ある日、突然不自由な身体になった多田氏に閃くものがあった。彼はこの時の様子をこのように記している。

「昨夜、右足の親指とともに何かが私の撫でピクリと動いたようだった。・・・私はかすかに動いた右足の親指を眺めながら、これを動かしている人間はどんな やつだろうとひそかに思った。得体の知れない何かが生まれている。もしそうだとすれば、そいつに会ってやろう。私は新しく生まれるものに期待と希望を持っ た。
 
 新しいものよ、早く目覚めよ。私は弱々しく鈍重だが、彼は無限の可能性を秘めている私の中に胎動しているように感じた。私には彼が縛られたまま沈黙して いる巨人のように思われた。」(前掲書 40ー41頁)

希望とは言え、その巨人は、このような詩を、不自由な多田氏に書かせた。

 歌占
  
 死んだと思われて三日目に 蘇った若い男は
 白髪の老人に なって言った
 俺は地獄を見て きたのだと
 誰にも分からな い言葉で語り始めた
(中略)
 死ぬことなんか 容易い
 生きたままこれ を見なければならぬ
 よく見ておけ
 地獄はここだ
 遠いところにあ るわけではない
 ここなのだ 君 だって行けるところなのだ
 老人はこういい 捨てて呆然として帰っていった


私はこの下りを読みながら、何故か、フィレンツェの市庁舎にあるダビデ像を思った。それは若きミケランジェロが、自由都市「フィレンツェ」ために掘った高 さ4mの巨大大理石像のことである。本来、ダビデは、巨人とは呼ばれない。巨人とは、青年ダビデが大きな瞳で見上げている伝説の怪物「ゴリアテ」のこと だ。ダビデは、この怪物を石の礫(つぶて)で倒したとされる英雄だ。大事なことは見えない敵に対し、ダビデが少しも怯むことなく、怪物に立ち向かおうとし ている精神の高潔さである。

私には、多田氏の脳裏の中で、新しいダビデのような不屈の人格が胎動していることを強く感じた。それはあらゆる不正を憂い、社会矛盾という怪物と闘うダビ デ像のイメージそっくりなのである。

この著の中に「日本の民主主義」と題するエッセイがある。

「・・・若い頃アメリカの町では、車椅子の人が自由に日差しを楽しんでい るのをよく見かけたのに、日本ではそんな風景をあまり見ない。

障害者になってみると、日本の民主主義の欠陥がよく分かる。多数の一般市民(マジョリティー)の利便は達成しても、障害者のようなマイノリティー(少数 者)のことは考えてくれない。・・・障害者用のトイレも少ない。新幹線に乗っても通路は狭い。駅では人の助け無しには乗り降りもできない設計になってい る。前もって電話して頼んでおかなければ利用できない。だからたとえ連休でも、障害者を見かけることは少ない。どこにでも車椅子で行ける欧米とは大違い だ。(中略)これが日本の民主主義の現実である。」(前掲書 144−145頁)

日本社会が、真の意味で成熟した社会になるためには、欧米同様に障害を持つ人が健常者と同等に暮らせるような生活空間を、当たり前に整備できるようでなければ無理だろう。
多田氏は免疫学の世界的な権威だが、本来はお医者さんである。患者を見る立場にあった人が、脳梗塞に倒れたことで、まったく逆の立場となった。そして今や リハビリ問題は、今、多田氏が文字通り、命を賭けて闘っているテーマとなった。

厚労省は2006年4月より、「聖域無き財政再建」という小泉政権以来の構造改革路線を、医療制度にも持ち込んだ。まさに医療の世界に市場経済の原理を押 しつけるような最悪の診療報酬改定が、患者・医療関係者の反対を押し切る形で強行された。この結果、180日を超えるリハビリ医療は、事実上できなくなっ た。

懸命にリハビリをしていた多田氏は当然この弱者切り捨ての所業に呆然となり、すぐにそれは憤りに変わった。「リハビリを打ち切られた患者の中には、機能が 落ちて寝たきりになり、実際に命を落とした人もいる。」(前掲書 237頁)と多田氏は発言した。この診療報酬制度改定は、リハビリによって命を繋いでい る患者やリハビリを生きる希望としている重度の障害者にとっては、まさに「死ね」という言葉と同義であった。

多田氏は、社会学者鶴見和子氏(1918ー2006)の死を、この診療報酬制度の改定によってもたらされた悲劇として、この厚労省の責任を一貫して追及し てきているのである。

私はこの著を読みながら、多田富雄氏の中で目覚めた「寡黙なる巨人」という希望の人格が、実は私たち人間の中にある新たな智慧というものの胎動と考えるよ うになった。私たちは、21世紀のダビデともいうべき多田氏の「寡黙なる巨人」の智慧を受け継ぎ、さまざまな社会的難問と対峙し、これと真摯に闘っていく 覚悟を持たなければならない。



2007.10.10 佐藤弘弥

義経伝説
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