多田富雄氏の新著

わたしのリハビリ闘争を読む

-最弱者の生存権は守られたか-

青土社 価格:¥ 1,260(税込)
発売日:2007-11-19
◆ 世界的な免疫学者多田富雄氏は、2001年、脳梗塞で左半身のマヒと声を失い、前立腺癌と闘いながら、リハビリ難民と呼ばれる社会的弱者の先頭に立って、 厚労省による容赦のない患者切り捨て政策の白紙撤回を叫んでいる。ハンディを負った「知の巨人」の凄まじい生き様に読者は何を見るだろう。★★★★★




多田富雄先生の新著「わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存は守られたか」(青土社 12月10日刊)が届いた。

多田先生は、2001年旅先で脳梗塞に倒れ、左半身マヒと声を失った。その後、必死のリハビリに専念しながら、自らの運命と闘って来ら れた。この 間、リハビリ医療によって、徐々に歩行やコンピューターによる一文字一文字入力訓練によって、執筆活動ができるまでに回復された。

多田先生にとって、リハビリ医療は「生きる希望」そのものだった。だが、2003年3月、多田先生は、残酷な通告を受ける。

話は2006年3月にさかのぼる。東大病院でリハビリ医療を受けていた私に、信じ られない通知が告げられた。今度診療報酬が改定されて、公的医療 保険で受けられるリハビリ医療に、上限日数が設けられた。あなたのような脳梗塞の後遺症の患者は、発病から180日を上限として、治療を打ち切らなくては ならない。まことにお気の毒なことです、というものであった。」(前掲書 11頁)

多田先生の「生きる希望」は、あっけなく打ち壊された。この日から、多田先生の人生が変わった。先生は、直ちに朝日新聞「私の視点」に 「診療報酬改定 リハビリ中止は死の宣告」(本書 1に所収)を投稿して、世論を喚起した。

日本中から次々と、多田先生の発言に共感を示す個人や団体が現れ、3月からわずか3ヶ月の間に、日本中から44万4022人もの人がリ ハビリ医療制 度改悪に反対する署名を行ったのである。このことは、リハビリ医療を「生きる希望」として生きている人々が、いかに多いかを物語るエピソードだ。こうし て、図らずも多田富雄先生は、リハビリ医療を必要とする多くの人々の「希望の星」となってしまった。

多田富雄先生は、この理不尽な政策との闘いの中で、ひとりの掛け替えのない知人を失った。その人物は、内発的発展論の思想で国際的社会 学者として著 名な鶴見和子氏(1918ー 2006)である。1995年に脳梗塞に倒れた鶴見氏は、リハビリに希望を見出し、京都に引っ越した上で、必死のリハビリを されてきたが、2006年リハビリ医療の打ち切りを宣告され、僅か数ヶ月後に亡くなってしまった。(本書 5、9、11に所収)

鶴見氏はこのような言葉を最後の著「遺言」(藤原書店 2007年3月刊)に遺した。

戦争が起これば、老人は邪魔者である。だからこれは、費用を倹約することが目的で はなくて、老人は早く死ぬ、というのが主目標ではないだろうか。 老人を寝たきりにして、死期を早めようというのだ。したがってこの大きな目標に向かっては、この政策を合理的だといえる。そこで、わたしたち老人は、知恵 を出し合って、どうしたらリハビリ尾が続けられるか、そしてそれぞれの個人がいっそう努力して、リハビリを積み重ねることを考えなければならない。老いも 若きも、天寿をまっとうできる社会が平和な社会である。したがって生きぬくことが平和につながる。この老人医療改定は、老人に対する死刑宣告のようなもの だと私は考えている。」(前掲書 170−171頁)

鶴見氏の病床には、辞世とも言える次の歌が遺されていた。

”政人(まつりびと)いざ事問わん老人(おいびと)わ れ生きぬく道のありやなしやと”

多田先生と鶴見氏の間では、往復書簡の形式で「邂逅(かいこう)」(藤原書店 2003年3月)という本が上梓されている。リハビリ医 療の本質を学ぶ時、また私は現代における老いというものを考える時避けて通れない名著である。是非お読みいただきたい。

多田先生は、「誰が鶴見和子氏の命を奪ったのか」という趣旨の論陣を張って、鶴見氏の無念を晴らすように、リハビリ制度改悪の問題点を 指摘し続けてきた。

この間の多田先生の、一言一言の発言は、コンピューターによって生成された声で発せられたものである。一言一言の入力作業も、私たち健 常者の何倍も かかる大変なものだ。また先生は、現在前立腺癌の再発とも闘っている。そんな状況にある先生が、己のありったけの命の火を燃やしてこのリハビリ問題と取り 組んで居られるのである。

先生の姿を思う時、私は聖地に向かって五体投地をしながら巡礼をする人々を思い自然と頭が下がるのだ。

にもかかわらず、厚労省は、このリハビリ医療制度に対する緩和措置を発表したものの、そこには明確に「改善の見込みのあるもの」との差 別的なハードルを外そうとしない。これは経済原則に基づいた患者の人権無視の医療制度に他ならない。

改善の見込みがないものは、リハビリを受ける権利がなく、死ぬ以外にないとすれば、これは「リハビリ難民」というよりは、国家による 「棄民制度」そのものではないだろうか。

2006年からこれまで、多田富雄先生のペンの力で明らかになった社会矛盾の残酷さを思いながら、私は、かつて世界中から、羨望の眼で 見られた日本の「国民皆保険制度」そのものが、完全に崩れ去りつつあるのではないかと思った。




2007.12.4 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ