千日回峰行の酒井雄哉師
「一日一生」を読む



酒井雄哉師のプロフィール

比叡山に千日回峰行を二回成し遂げた超人的な僧侶がいる。酒井雄哉(さかいゆうさい)師である。

どんなすごい人かと、その著「一日一生」を読んでみると、ごく普通の人。というより落ちこぼれの人生を送りかけた人だった。

1926年(大正15年)大阪で生まれたが、父の会社が倒産して5歳で東京に引っ越す。麻布中学を受験したが受験に失敗。夜学の商業高校に入学。しかし学業に身が入らず、教師の奨めもあり、1944年(昭和19年)予科練に入る。運良く特攻隊で命を散らすことなく生還。若い頃は、さまざまな職業を点々とした。

株売買のブローカーを父親とやっていた頃、大金を稼いだこともあったが、1953年、ソ連の独裁者スターリンが死んで、「スターリン暴落」が起こる。丁度今のサブプライムローン暴落のような金融危機だった。大損をして、借金取りに追われた。

いい歳だというので、親戚が気を使って、従妹(いとこ)の女性と結婚をする。しかしこの女性が大阪の実家に帰ってしまう。びっくりして、東京から大阪まで追いかけていくと、少しして、奥さんはガス自殺をする。結婚して二ヶ月しての出来事だった。せめて49日はいてくれと、義父(叔父でもある)にせがまれ、妻の実家の鉄工所を手伝うことに。何故か居座っているうち、義母(叔母)が、気分を転換させようと比叡山に連れて行くことがあった。

それから比叡山に行くようになった。そこで偶然、千日回峰行中の行者に出会う。その行者は、千日回峰行でももっとも厳しいとされる「堂入り」の最中だった。場面は、9日間籠もっていた堂から出てくるところ。何しろ堂入りは、9日間不眠・不臥・断食・断水で不動明王の真言を10万遍唱えるという常人の思考を遙かに越える過酷な修行だ。その行者宮本一乗阿闍梨の姿に触れた時、若き酒井師の心に強く響くものがあった。運命の出会いだったかもしれない。それからだいぶ時が経って、自分も出家し、千日回峰行を行う道に入っていくのである。

そして39歳(1965)で出家した。親子ほどの若者と一緒に、小僧修行に励む。それまでの落ちこぼれ人生がウソのようになり、叡山学院を首席で卒業し、天台座主賞を受賞したほどだ。そしていよいよ1973年千日回峰行に挑む。それから七年後の1980年、第一回目の千日回峰行に満行。引き続き二度目の回峰行を1987年に満行して、二千日回峰行を達成。大阿闍梨(だいあじゃり)となった。

千日回峰行は、丸7年をかけて行われる荒行中の荒行である。雨の日も嵐の日も、ひたすら夜中に寺を出て、比叡山中約40キロを歩き、午前中に寺に戻るというものだ。行の途中では、何があっても中断することは許されない。もしも途中で、この行を出来なくなった時は、たちまち自死して果てるという、そのくらいの覚悟を持って、行者たちはひたすら、千日山々を廻るのである。酒井師は、この荒行を二回行った。二千日回峰行を成功させた行者は、長い比叡山の歴史の中でも信長の比叡山以後3人しかいないというもの凄い記録だ。


千日回峰行とは

NHKで酒井師の千日回峰行のドキュメンタリーがあった。自身の寺で勤行を行った後、夜中(深夜2時)から6時間ほど掛けて、比叡山中を40キロほどの道程を歩きながら、255箇所の定められた場所を礼拝し、巡礼をするのである。すべてのものに仏が宿るとする天台宗の教えを実践し、不動明王と一体となるための修行であるという。このドキュメンタリーを見て、いかに信仰のためとは言え、ただただ驚くばかりだった。しかも、のんびり景色を見ながら歩くという行為ではない。獣のように小走りに走っているという印象だった。重いカメラをもって、酒井師について行くことなど不可能である。天狗か忍者の所業にしか見えなかった。

この回峰行の原型は、中国に留学した慈覚大師円仁が、天台宗の総本山五台山で行われていた回峰行を習って、日本で始めたものと言われる。これに山伏の山岳修行が加味されて、現在の比叡山の千日回峰行の形が出来上がったものと思われる。

酒井師は、白装束に薄くした木で編み込んだ独特の編笠を被り草履という出で立ちである。腰には、短刀と紐を持つ。これは自害の時の備えてのことだ。

千日回峰行は、単に千日続けるのではなく、厳しい戒律と決まり事が決められていて、その通りに進行する。まず1年目から3年までは、年間に100日間、この回峰行を実践する。4年目から5年目では200日間となる。これで700日の回峰行を終える。

ここからが、さらに辛い修行になる。一般に「堂入り」と呼ばれる修行だ。これは堂内に籠もり、9日間不眠不休で10万遍、不動明王を讃える真言を唱え、不動明王と一体となることを目指す。しかも食事と小用を足す時以外には、座れない。食事は愚か水を呑むことも許されない。この修行中に亡くなった修行者もいるので「生き葬式」と呼ばれるのである。

おそらく、普通の人では、間違いなく命を落としてしまうだろう。千日回峰行で、自分の身体を鍛え抜いているために可能になる荒行だ。この行を満行した酒井師は、水を取る桶を背負って、堂の中からフラフラと歩いて来るシーンがあった。本当に骨と皮だけの仏陀の修業時代の仏像を彷彿とさせるような姿だった。その姿を、遠くで信者さんたちが、暗がりから手を合わせて見守っている。まさに回峰修行を行っている行者は、生き仏なのである。

千日回峰行の残り300日は、さらに凄まじいものになる。6年目での京都にある赤山禅院まで約60キロを100日間歩く。7年目には「京都大廻り」といって、京都市内の決まった寺社を廻る一日80キロを越える距離を100日間続く。この時、信者さんたちは、酒井師が来るのを、毎日仏に会うようにして道に腰を下ろして待っている。酒井師は、その人の頭に、そっと数珠で撫でて通り過ぎる。7年目最後の100日は、再び比叡山中を歩き通し、千日回峰行は満行となるのである。

こんな凄いことを二度も成し遂げた人が、「一日一生」という気構えで生きていくと、あんまりつまらないことにことわらなくなるよ。・・・今日のことは今日でおしまい。しこりを残さない。恨みを明日に引きずらない。それは国家同士でも同じこと。一日一日、生まれ変わったつもりで新しい気持ちで出会うことができれば、世界もきっと穏やかになるだろうね。」という何気ない言葉が、重い言葉として響いてくるのである。


「一日一生」の寓意とは何か

最後に、酒井雄哉師が言われる「一日一生」という言葉に含まれた寓意というものを考えてみたい。単純に言えば、この言葉は、一日を一生と思って生きる、というある種の覚悟のようなものかもしれない。私たち普通の人間は、一日を長い一生の一コマとしか思って生きていない。一日を軽く見て暮らしている。その結果、この掛け替えのない一日を私たちは、無駄に過ごしている。何ともったいないことだろう。しかし今日という一日は掛け替えのないもので、二度と戻って来ない貴重な時間である。

確か、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一翁(1840−1931)は、毎日、寝る前に一日あったことを寝床の中で逐一思い起こし反芻(はんすう)すると言った。これは一日一生の精神そのもののように思える。毎日を一日一生と考えてこその成果だ。だからこそ、渋沢翁は、第一銀行からはじまって信じられない数の企業群を立ち上げたのだと考えられる。

酒井雄哉師は、この著の中で、90日に及ぶ常行三昧行をやろうとして、たった二日で、足がゾウのように腫れてギブアップしそうになったエピソードを語っている。その時、忘れていた師から言われた一言が沸いてきたそうだ。それは「呼吸だ」という言葉であった。これは酒井師の師が若い頃、ビルマ(ミャンマー)に修行中、歩く禅を行っていた頃、やはり同じような境地に陥った時、彼の国の高僧に聞いた一言だった。

常行三昧行は、天台宗では極めて大事な修行法である。常行堂に籠もり、一日20時間以上昼夜を問わず、ご本尊である阿弥陀様の周囲を歩きながら念仏を唱える。二時間の仮眠が許される。天台宗の僧侶でもある作家の瀬戸内寂聴さんは、中尊寺で出家した人物だが、出家をすることについて、「生きながら死ぬこと」であると言われた。確かに一理ある。この常行三昧行を行う行者は、生と死の領域を行き来しながら、人生の何たるか、世の中の何たるか、自分の何たるか、を探しているように思われる。

二千日回峰行を成し遂げた大阿闍梨酒井雄哉師は、今でも、恩師から叱られた時に授かった「東西日南北」という言葉を考え続けている。これは若い頃、二一枚の般若心経の写経をする時に、ズルをして、重ね書きがバレた時に中心に「日」、上に「東」、下に「西」、左に「北」、右に「南」を書いた紙を渡されたエピソードだ。その時、師は「これは聖徳太子さんが昔言った言葉だ」と謎のような言葉を言われたそうだ。別の著(「ただ自然に」小学館2001年刊)酒井師はこの意味について十数年経った後「(お前は)太陽が昇る東の国に何しに来たのだという意味ですか?」と言ったが、師は「答えを出したらおしまい。永久に考えてろ」と言われたそうだ。だからその教え通り、酒井師はそのことを、今さらのように思考し続けているのである。

このエピソードを考察してみたい。これは「一隅を照らす」という天台の根本の教えに通じる師の諭しように思われる。奈良の都で世界との付き合い方を考えた聖徳太子は、当時東の果ての後進国であったわが国の立場を重々知りながら、それを卑下することなく、対等な外交を関係を志向した。そこで「日出る国の天子が日の没する国の天子に手紙を差し上げます」とやった。

「一隅を照らす」という思想は、全宇宙(東西南北)あるいは全世界を考察することにも通じる。つまり「東西南北」を考えることは、若い酒井師に比叡の一隅から全世界を考えて生き続けなさい、という師の導きとも考えられる。

確かに修行とは、千日、あるいは二千日回峰行を達成したから終わるものではなく、生きている間中、絶えず日々考え続けることである。一日を一生として生きる覚悟があって、はじめて酒井雄哉師は、千日、二千日回峰行という信じられないことをやってのけられたのである。

「一日一生」を読み終えて、この本を閉じると、NHKのドキュメンタリーで酒井雄哉師がさらりと言われた言葉が思い出された。それは確か「私は頭が悪かったからこの道で頑張るしかなかった」というものだった。そして、師は屈託なく笑った。ホントに素敵な白菊のような笑顔だった。

2008.10.15 佐藤弘弥

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