菅江真澄

 さくらかり

桜賀理 下ノ巻


凡例
  1. 底本は菅江真澄全集第十巻(未来社1974年9月30日刊)所収を使用させていただいた。
  2. デジタル化で利点を生かし、日付と備考によって、容易に目的の箇所に飛びやすくした。 
  3. 尚、本文を利用される皆様には、もし誤りと思われる箇所や、誤写と思われる部分は、ご指摘いただきたい。 
2003年3月吉日 
佐藤弘弥


本文は、菅江真澄(本名:白井秀雄1754−1829)が著した各地の桜についての聞き書きである。ここに掲載したのは、「桜賀理」(さくらかり)の「下ノ巻」にあたる。現在までのところでは、上巻は、発見されていない。(佐藤弘弥)
母久呂玖(目録)
松嶋桜         一丁オ
花岡ざくら       一丁オ
雪舟の山桜       一丁ウ
八重一重桜       二丁オ
大堤さくら       四丁ウ
雨零(アメフリ)桜   五丁オ
捨(テ)神さくら    六丁ウ
乱橋さくら       七丁ウ
琵琶沼桜        八丁ウ
三哲ノ山ざくら     九丁オ
妙法山の糸桜      九丁ウ
山吹ざくら       九丁ウ
検断(ケムダム)ざくら 十丁ウ
駒形(コマガタ)ざくら 十一丁オ
桜田ざくら       十一丁ウ
小和清水桜       十一丁ウ
錦木の里ざくら     十二丁オ
由伎の宮桜       十二丁ウ
まきほりざくら     十三丁ウ
吹上ヶ桜      下ノ十三丁ウ
竜神ざくら     下ノ十三丁ウ
笛吹桜         十四丁ウ
笛竹ざくら       十五丁オ
笛滝ざくら       十五丁オ
日揚(ヒアゲ)野の桜  十五丁オ
連理のさくら      十六丁ウ
海松(ミル)前の桜   十七丁オ
千曳のさくら      十七丁オ
小田原ざくら      十七丁ウ
てらべの桜       十八丁オ
ふたまたざくら     十八丁ウ
小袴ざくら       十八丁ウ
うすぎぬざくら     十九丁ウ
廿九日(ヒヅメ)ざくら 廿一丁オ
徳一ざくら       廿一丁オ
三笠の山ざくら     廿一丁ウ
おくみやざくら     廿一丁ウ
燈台ざくら       廿二丁オ
ころころの河桜     廿二丁ウ
輪田寺ざくら      廿三丁オ
たむろの岡桜      廿四丁オ
河(ノ)辺のさくら   廿四丁オ
長岡の一重桜      廿四丁ウ
奈良の八重桜      廿五丁オ
いよざくら       廿六丁ウ



松嶋桜

松嶋の瑞巌寺の山続き、波あれ浜の近きに、五葉庵という寺あり。此寺に瑪瑙(めのう)にて作なしたる十六尊ノ阿羅漢其躯(たけ)五、六寸斗にて、もろこし人のめもあやに工ミたるは、たぐうかたなくぞ見えたるを安置たり。此あたりに老木の花のいとおもしろく咲たり。うべもここを桜岡といへり。「桜咲桜が岡のさくら花咲さくらありちるさくらあり」といふうた、よくもかなへり。此事は前に「月の松嶋」「雪の松嶋」といふ日記書キしとき「花の松嶋」といふ日記も書キて、此松嶋桜の事は其日記にものせたり。
 


けむだんざくら

此花、みちのくの胆沢ノ郡衣川の岸に在リ、験断桜は、いにしへ阿部貞任が旧宅(ヤド)の蹟也といへり。衣ノ関は卯ノ木といふ処に在り。また、下野ノ国河内郡にも衣川あり。又、近江ノ国にも衣川あり。『江原武鑑』二ノ巻に、天文六丁酉年九月廿五日、志賀ノ郡衣川ノ山に天神勧請あり云々、と見えたり。また、衣といふ処、国々にいと多し。参河国賀茂郡挙母(コロモ)あり。西行上人の歌とて、「ほどちかく衣の里となりにけりふたむら山を越えてきたれば」。

駒形桜(コマガタザクラ)

陸奥国磐井ノ郡小萩ノ荘(一関市)、山(ヤマ)ノ要(メ)ノ中郷、栗原ノ郡、此両郡(フタ)、此あたりは、みな、吾勝ノ郡なるを中津と訛りしただみ、また山野の中里なンどいへり。栗原ノ郡なる七社(ナナノミヤシロ)の其一社(ヒトツ)を駒形根神社(コマガタネノミヤシロ)と唱え、そを日宮(ヒノミヤ)とまをし奉りて、大日霊女尊を斉ひ、右に国挟立ノ尊、又吾勝尊、左に天常立尊、又、置瀬ノ尊、また右に斉ふ彦火ノ尊とまをすは、駒形峯(ネ)ノ大名神(オホナガミ)の御事(ミコト)をこそまをすなれ。此山いといと高(タカウ)してつねに郡雲(ムラクモ)たちおほひて雪いと深(フカ)し。巽(タツミノ)方は陸奥ノ国栗原、磐井に■(足+番)(ワタ)り、西ノ方は出羽ノ国雄勝ノ郡に跨リて、水無月近く雪まだらに消る。其形馬(サマコマ)に似て、あるは立チ、あるはふしぬ。人麿の歌に「みちのくの栗駒山の朴の木の枕はあれどきみが手枕」とよ(め=脱)る、此ほほ柏もこの山の麓あたりより採(ト)りて献(タテマツ)りしにや。雄勝ノ郡駒形ノ庄檜山平(タヒ)の近きあら山は、みな駒形の麓にて、今そこに、≪駒形日記≫にもおのれ此事をのせたり。おのれ書(カキ)し、≪波志和(ハシワ)の若葉≫といふ記(フミ)に、いにしへ有りし駒形山法範寺の蹟、尼寺の跡なンどは、平泉野といへる奥山にて、今の平泉は秀衡の、其野より、うつしたる処也。尼寺の事どもは、『西行物語』〔撰集抄をいへり〕につばらかに見えたり。そは五串(イツクシ)(厳美)村、本寺(ホムデ)村〔本寺古(モト)骨寺也〕の奥にて、こまがたねの麓也。そこに花の多かれば、そを「駒形桜」とはいふ也。

現代語訳

駒形桜(コマガタザクラ)

みちのくの磐井郡の萩荘から山ノ目、中里などから栗原郡にかけての辺りは、かつて吾勝郡(あかつぐん)と呼ばれていたが、これを中津(なかつ)と訛って云うようになった。また山野の中里と云うこともある。栗原郡の七社の一社に駒形根神社(コマガタネジンジャ)がある。それを日宮(ヒノミヤ)としてお祀りしている。大日霊女尊を本尊とし、右に国挟立ノ尊を祀り又の名を吾勝尊と云う。左に天常立尊を祀り、又の名を置瀬尊と云う。また右にお祀りする彦火尊と申す神さまは、駒形嶺の大名神(オホナガミ)の事を言うのである。

駒形嶺は、大変高い山で、いつも湧き出す雲に覆われてをり、雪深い山である。山の南東は陸奥国の栗原から磐井郡に連なり、西方は出羽国の雄勝郡にまたがっている。陰暦の6月頃になって雪がやっとまだらになって消えるのであるが、その姿が馬に似ている。それがある時は立っているように、またある時には伏しているようにも見える。

柿本人麿の歌が「みちのくの栗駒山の朴の木の枕はあれどきみが手枕」と詠んでいる。朴の木や柏の木は、この山の麓あたりより繁っていて、これを採って、献上したようである。雄勝郡の駒形の庄から檜山平(ヒヤマダイラ)のかけての険しい山々は、みな駒形の麓にあたる。このことは、「駒形日記」にも書いている。

又私が記した「はしわの若葉」には、このように記している。「かつてあったという駒形山法範寺の跡や尼寺の跡などは、平泉野と云う奥山にあって、現在の平泉は秀衡がその場所より、移した所なのである。」と。その尼寺の事などは、「西行物語」(撰集抄をいうものか)詳しく記載されている。(平泉野という場所は)五串(イツクシ)と云われた厳美村か本寺村(骨寺)の奥の辺りを指し、駒形根の麓のことである。その辺りに桜の花が多かったので、それを「駒形桜」と呼んだのである。

(訳 佐藤弘弥)

うすきぬざくら

みちのく磐井ノ郡東山ノ荘薄衣村(東磐井郡川崎村)に清悦坊が塚あり。清悦坊は小四郎清悦(キヨエツ)とて、判官義経に十六歳のころより仕へまつりて、後に仙術を得たりといへり。『清悦物語』といふものあり。そが中に国守政宗公、清悦をめし給ふことあり。いといと長寿の人也。此清悦が塚の近きにめでたき花ある処あれば、此くだりの名を「うすきぬ桜」とはいふ也。

 
 



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2003.3.19 Hsato
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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