さくらかり
桜賀理 下ノ巻
2003年3月吉日
佐藤弘弥
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本文は、菅江真澄(本名:白井秀雄1754−1829)が著した各地の桜についての聞き書きである。ここに掲載したのは、「桜賀理」(さくらかり)の「下ノ巻」にあたる。現在までのところでは、上巻は、発見されていない。(佐藤弘弥)
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松嶋桜 一丁オ |
松嶋の瑞巌寺の山続き、波あれ浜の近きに、五葉庵という寺あり。此寺に瑪瑙(めのう)にて作なしたる十六尊ノ阿羅漢其躯(たけ)五、六寸斗にて、もろこし人のめもあやに工ミたるは、たぐうかたなくぞ見えたるを安置たり。此あたりに老木の花のいとおもしろく咲たり。うべもここを桜岡といへり。「桜咲桜が岡のさくら花咲さくらありちるさくらあり」といふうた、よくもかなへり。此事は前に「月の松嶋」「雪の松嶋」といふ日記書キしとき「花の松嶋」といふ日記も書キて、此松嶋桜の事は其日記にものせたり。
此花、みちのくの胆沢ノ郡衣川の岸に在リ、験断桜は、いにしへ阿部貞任が旧宅(ヤド)の蹟也といへり。衣ノ関は卯ノ木といふ処に在り。また、下野ノ国河内郡にも衣川あり。又、近江ノ国にも衣川あり。『江原武鑑』二ノ巻に、天文六丁酉年九月廿五日、志賀ノ郡衣川ノ山に天神勧請あり云々、と見えたり。また、衣といふ処、国々にいと多し。参河国賀茂郡挙母(コロモ)あり。西行上人の歌とて、「ほどちかく衣の里となりにけりふたむら山を越えてきたれば」。
駒形桜(コマガタザクラ)
陸奥国磐井ノ郡小萩ノ荘(一関市)、山(ヤマ)ノ要(メ)ノ中郷、栗原ノ郡、此両郡(フタ)、此あたりは、みな、吾勝ノ郡なるを中津と訛りしただみ、また山野の中里なンどいへり。栗原ノ郡なる七社(ナナノミヤシロ)の其一社(ヒトツ)を駒形根神社(コマガタネノミヤシロ)と唱え、そを日宮(ヒノミヤ)とまをし奉りて、大日霊女尊を斉ひ、右に国挟立ノ尊、又吾勝尊、左に天常立尊、又、置瀬ノ尊、また右に斉ふ彦火ノ尊とまをすは、駒形峯(ネ)ノ大名神(オホナガミ)の御事(ミコト)をこそまをすなれ。此山いといと高(タカウ)してつねに郡雲(ムラクモ)たちおほひて雪いと深(フカ)し。巽(タツミノ)方は陸奥ノ国栗原、磐井に■(足+番)(ワタ)り、西ノ方は出羽ノ国雄勝ノ郡に跨リて、水無月近く雪まだらに消る。其形馬(サマコマ)に似て、あるは立チ、あるはふしぬ。人麿の歌に「みちのくの栗駒山の朴の木の枕はあれどきみが手枕」とよ(め=脱)る、此ほほ柏もこの山の麓あたりより採(ト)りて献(タテマツ)りしにや。雄勝ノ郡駒形ノ庄檜山平(タヒ)の近きあら山は、みな駒形の麓にて、今そこに、≪駒形日記≫にもおのれ此事をのせたり。おのれ書(カキ)し、≪波志和(ハシワ)の若葉≫といふ記(フミ)に、いにしへ有りし駒形山法範寺の蹟、尼寺の跡なンどは、平泉野といへる奥山にて、今の平泉は秀衡の、其野より、うつしたる処也。尼寺の事どもは、『西行物語』〔撰集抄をいへり〕につばらかに見えたり。そは五串(イツクシ)(厳美)村、本寺(ホムデ)村〔本寺古(モト)骨寺也〕の奥にて、こまがたねの麓也。そこに花の多かれば、そを「駒形桜」とはいふ也。
現代語訳
駒形桜(コマガタザクラ)
みちのくの磐井郡の萩荘から山ノ目、中里などから栗原郡にかけての辺りは、かつて吾勝郡(あかつぐん)と呼ばれていたが、これを中津(なかつ)と訛って云うようになった。また山野の中里と云うこともある。栗原郡の七社の一社に駒形根神社(コマガタネジンジャ)がある。それを日宮(ヒノミヤ)としてお祀りしている。大日霊女尊を本尊とし、右に国挟立ノ尊を祀り又の名を吾勝尊と云う。左に天常立尊を祀り、又の名を置瀬尊と云う。また右にお祀りする彦火尊と申す神さまは、駒形嶺の大名神(オホナガミ)の事を言うのである。
駒形嶺は、大変高い山で、いつも湧き出す雲に覆われてをり、雪深い山である。山の南東は陸奥国の栗原から磐井郡に連なり、西方は出羽国の雄勝郡にまたがっている。陰暦の6月頃になって雪がやっとまだらになって消えるのであるが、その姿が馬に似ている。それがある時は立っているように、またある時には伏しているようにも見える。
柿本人麿の歌が「みちのくの栗駒山の朴の木の枕はあれどきみが手枕」と詠んでいる。朴の木や柏の木は、この山の麓あたりより繁っていて、これを採って、献上したようである。雄勝郡の駒形の庄から檜山平(ヒヤマダイラ)のかけての険しい山々は、みな駒形の麓にあたる。このことは、「駒形日記」にも書いている。
又私が記した「はしわの若葉」には、このように記している。「かつてあったという駒形山法範寺の跡や尼寺の跡などは、平泉野と云う奥山にあって、現在の平泉は秀衡がその場所より、移した所なのである。」と。その尼寺の事などは、「西行物語」(撰集抄をいうものか)詳しく記載されている。(平泉野という場所は)五串(イツクシ)と云われた厳美村か本寺村(骨寺)の奥の辺りを指し、駒形根の麓のことである。その辺りに桜の花が多かったので、それを「駒形桜」と呼んだのである。
うすきぬざくら
みちのく磐井ノ郡東山ノ荘薄衣村(東磐井郡川崎村)に清悦坊が塚あり。清悦坊は小四郎清悦(キヨエツ)とて、判官義経に十六歳のころより仕へまつりて、後に仙術を得たりといへり。『清悦物語』といふものあり。そが中に国守政宗公、清悦をめし給ふことあり。いといと長寿の人也。此清悦が塚の近きにめでたき花ある処あれば、此くだりの名を「うすきぬ桜」とはいふ也。
2003.3.19 Hsato