菅江真澄

はしわのわかば




はしわのわか葉はしがき

このひとまきは、卯月のつきたちごろ、みちのくの大原の里新山(ニヒヤマ)川のあたりにて初桜を見、また鶴がね、亀がね、かまくら山なンどを見やり、あるは山吹ノ柵、大ざくら、検断(ケムダム)桜を見、中尊寺の田楽祭、また、さるがう、また葉室中納言の処女(ミムスメ)を達谷麿(タカヤマロ)がぬすみしものがたり、土御門泰邦卿のこころ葉の詠歌(ウタ)、時鳥の物語リ、また配志和(ハシワ)ノ式社(ミヤシロ)、安日ノ社、また神星社のゆえよし、また黒介(クロダスケ)といふ郷(サト)の百歳(モモトセ)の老■(女+夫)(トシ)が物語、また石手堰(イハデキ)ノ式社(カミヤシロ)にまうでしなンど、水無月は小にしあれば、廿日まり九日といふ日、つづき石とて座(マセ)る石神ノ式社(ミヤシロ)にまいり、阿倍ノ比羅夫、虫麿朝臣、黒麿朝臣のものがたりを聞キ、かくて河ノ辺に御祓せしまで、けふに書(カキ)をへたり。こは、つたなきものから、いまだ行見ぬ人いあらば、その分ヶ見ん栞(タヨリ)ともならむかと、ここにしるしおきぬ。

天明八年(1)戊申六月廿九日   菅江真澄


いにしやよひのころより花まちて此大原の里に在りて、(天明六年)卯月ノ朔ノ日、よべより雨のいやふりて、巳(ミ)ひとつばかり晴たり。新山(ニヒヤマ)川とて渓河(タニカハ)あり、また、砂金とるてふ濁川なンどみなどよみ流れて、それにかけわたせる橋どもはみな落流れたれば道遠くめぐりて、人行なやみ語らひ彳(タタズ)む。きのふまでは見つる室根山の残雪(ノコムノユキ)も、夜の間の雨にけちはてて今朝は見えず。はや初夏(ナツ)のはつ空(ゾラ)ながら、はつ花桜の、はつかにも色なき梢どもを、ねたしとうち見やりて、

花の咲ころも経(ヘズ)してぬぎかふるたもとは夏の名のみきぬらし

けふは此里に肆市(イチ)たちて、なにくれとものうりありくに、みちもさりあへず。群れわたる人の中におしまじりて是を見ありくに、並ならぶ家の切垣の内に、紅梅の、けふを盛リと咲たり。

あき人の花に馴れたるよき衣(キヌ)もおはぬものとて今朝はかふらし

二日 近隣(チカドナリ)の家の中垣のあなたに、桜の一ト本ト生(タテ)るが、きのふよりふりたる雨にうるひて、下枝のみ咲初(ソメ)たり。

めづらしなけふは卯月のはつざくら暮(ク)れにし春の色をこそ見れ

近きあたりに行まくおもへど、けふは日はしたなればやみぬ。

三日 人にいざなはれて、此里に遠からぬ片山里にいたれば、軒近くやや萌出(ヅ)る麻苧(アサヲ)の畠に、うすはなだ色なる麻衣着(アサギヌキ)たる老(オユ)の、枯(カレ)尾花を束ね持(モチ)て、それをひしひしとさしありく。そは某(ナニ)の料にかしかせりと問へば、こは、麻生(アサフ)に虫のいざる咒也といらふ。

山賤が短き裙の麻衣をばなの波を分る涼しさ

此畑中にささやかなる柴桜の咲たり、そを一枝といへば、老の折てくれたり。ある家(ヤド)に入リてしばしとて休らひ、湯づけくひ肘を曲(マグ)レば時鳥鳴ぬ。

めづらしな折りえてうれし初桜聞えてうれしやまほととぎす

四日 童あまた、此地(ココ)に云ふ紙鳶(テンバタ)と方言(イフ)ものを、この紙老子(シラウシ)の糸曳(イトヒキ)あひ、ひこしらふ。時ならぬ風巾(イカノボリ)やとおもへば、雄鹿の嶋なンどは七月十三日を始とし、秋田の久保田は極月(シハス)の末を初めとし、三河ノ国ノ吉田は正月の末より始め五月の五日を止禁(ヲハリ)とし、五月五日を紙鴟節句(タコセク)といふ。うるまの国(琉球)は、十月(カミナヅキ)をはじ(め=脱)といふよし『琉球誌』に見えたり。河岸(キシ)に大桜の咲たる根(モト)に此天幡(テンバタ)てふものの糸を引むすび、すまひなンどしてうち戯れあそぶ。また桜に燕の囀(サヒヅ)るもいまだに春の心地す。人々、花にうかれ酔(エヒ)ふしぬ。

うつばりのふるすわすれてつばくらめ夏と岩根の花に鳴なり

ついたちごろの月あかあかとさし出て、花を照す影水の面にうつるなンど、雁の鳴たり。ふりあふぎ見れば、ひとつら、ふたつら月に横たふさま、風情ことなり。

皈る雁雲の通路分クるとも霞まぬ月の空は迷はじ

かくて、夕月にみちもたどらで大原(東磐井郡大東町)に来(キタ)る。

五日 芳賀慶明〔長左衛門といへる也〕が家(ヤド)に在れば、朝とく、けふ此花折て来(キ)しとて、朝露に身もそぼちて、物ならふ童の手毎のつとにせり。あるじ、此山づとをうちまもらひをりけるが、筆をとりて、

たが為に咲のこりけむ桜花露おくふかき山に隠れて

と。見つつおのれも、

浅香山なにあさからじこころざし色香もふかし花の家づと

こは花の真(マ)盛リにあらめ、いざ花見ありかむ。■(木+累)子(ワリゴ)用意せよ、ふくべに酒つめよ、火縄わするなと云ひ捨て家(ヤ)を出(デ)て、鶴が嶺、亀が峯、鎌倉山(ヤマ)なンどいふ高根高根を遠方タにかぞへて、行行て八幡ノ神社(ミヤシロ)あり。ぬさとり奉れば花あり、まだ、なから咲たる桜もたちならびたり。

花の枝に卯月のいみをさしそへてまだ春風のにほふ神垣

慶明。

神垣に咲そふ花をみしめ縄かけて久しく神もみそなへ

ここに行キかしこにうつりありきて、永き日もくらぐらに皈り来つれば小雨ふり出ぬ。

六日 よむべの雨もなごりなう晴て、花かあらぬか、山のはごとにかかる白雲いとふかし。松井といふ処におもしろき飛泉(タキ)あり、けふはその滝見なむ、いざたまへとあるじ芳賀慶明のいへれば、やをらここを出たち、うちかたらひゆけば山吹が柵(2)といふあり。そが下ツかたに杉の一ト群ラ生ひたてる地(トコロ)あり。そこなむ、国ノ守吉村公(3)誕生(アレ)給ひたる御館(ミタチ)の跡なるよしをいへり。其君そこにて、「よしや吹けとても散り行花ならば嵐のとがになしはてて見ん」といふ秀歌なンども、ここにおましましての事となもいへる。此歌は、しるしらぬ男女、野辺に草苅る童までも、花見ればずンじありきぬ。亀峯山長泉寺といふ寺あり。山門の左右の柱に、「嶺上松逞万年青操、前渓水長千古流」こは梅嶺禅師とて、あが父母の国、三河の宝飯(ホイ)郡新城(シムシロ)といふ郷(トコロ)より産(イデ)て此寺の住持たり。山門の聯も梅嶺の筆蹟(テナリ)。また百十五代中御門院の御世享保元(二)年丁ノ酉の秋、庭の菊を見て、「あさなあさなおく露霜のきえやらでませに色そふ庭のしらぎく」とありしかば、此歌めでたしとて当今の御日記にとめられたるよし、都人のもはら物語にせしよし。そのころ在りし翁の口語(モノガタリ)とて残りぬ。

かめの峯尾上も長き泉寺うき世に引ぬ清きながれ江

とて彳めば、桜の枝ごとに斑鳩(イカルカ)の、ひじりこきと鳴也。また紅衣着(アケベコキイ)と方言(ナクトイフ)ところあり。また信濃ノ諏方(訪)束間(筑摩)のあたりにては、此■(唯+鳥)(イカルカ)の蓑笠着(ミノカサキイ)と囀(サヤヅレ)ば、かならず雨ふるといふ。ひじりこきとは、いづこにも鳴ぬ。「いかるがよ豆うましとはたれもさぞひじりこきとは何を鳴らん」と『著聞集』にも見えたり。

花鳥の色音にあかで春よりもおもひ夏野の道ぞたのしき

かの滝のもとに来たる。水は岩にせかれて、三ツに分(ワカ)れて落滝つ。巌のはざまに、いと古リたる松たてり。月出が比良といふ山の麓に寺あり、岩松山経蔵寺といふ。此滝のもとにありて、

岩がねの松のみどりも花の色もちらでぞかかるきしのたきなみ

慶明。

峰の松松井の水にうつろひてなみもみどりに落る滝つせ

芳賀氏、此月出山をもよみねといへれば、いらへて真澄。

あきたらずここに暮なば山陰を月出やまちて又花も見む

夕ぐれて皈りたり。

六(七)日 きのふまでは、ひむがし山、にし山、八瀬、大原の花の盛にこころひかれ、また江刺(エサシ)、胆沢(イサハ)の山々に咲出(ヅ)る花のしら雲も心にかかりて、此ころ、花の情の浅からざりし芳賀慶明のやどを出たつ。あるじ、花ちらば、とく帰り来てましなンどありて、

夏衣うらなく語る言の葉もいひこそのこせ今朝の別れに

返し。

いひ出ん言葉もさらに夏衣かさねてここにとはむとおもへど

また清雄といふ人あり、此ぬしの句に、

今のやうにふたたび風の薫れとや

今しばとて、近き花のもとまで送りしける人々を別るとて、

みちのべの桜よ花のこと(の=脱)葉よ花にわかるる旅ぞものうき

かくて行行田の畔の路をたどる。馬の毛を、しのの長串にさしてやきくろめ、又、わらを束ね切りやいて是も串につらぬきて、田のあぜごとにさしたり。そは鹿おどしといふ。古歌に、「あすよりはやきしめ小山田のわかわさのねを鹿もこそはめ」是(コハ)、焼標(ヤイシメ)にこそあンなれ。桜鳥(むくどり)といふが、いたく花に群れて遊ぶを、

むら鳥の羽風にちらん花の枝(エ)もやきしめはえよ小田のますら男

葉山権現とまをす神ます其山の麓に、桜の多かるを見つつし行クとて、

匂はずば花ともえこそ白雲の夏のはやまにかかるとや見む

渋民(大原の西六キロ)といふ処を経て猿沢(渋民の西北六キロ)といふいふ(ママ)村に来れば、ある、ふせるがごとき軒近う、花のいといとおもし(ろ=脱)う咲たり。こを見まくほりして、あなこうじたり、道遠き国の旅人也、しばしは休らはせてよといへば、よき事、休らひてといへれば、いとうれしく、

つかれしをかごとになしてとひぞよるしらぬあるじの花を見んとて

此邑を出れば、路のかたはらに観福寺といふささやかの寺あり。其寺の傍(ソバ)に高き岩ども群(ム)れ立(タテ)る処あり、それに虹(二ジ)のごとき橋を掛(カケ)て観音を安置(マツ)る。其堂の前に至れば、ここらの岩の面々(オモオモ)に阿羅漢尊者(アラカムソムザ)、また仏菩薩(ブチボサチ)の名号(ミナ)を彫(シル)し、また古歌(ウタ)、詩(カラウタ)もえりたり。また西行法師なンど、むかし今の世人をもえりたり。いかなるよしにかと問へば、唯うち戯れてせし事といへれど、もともあやしきもの也。莓(コケ)むして見えねど、苔(コケ)をはだくれば、苔の下に、あらゆる人の面像出(オモガタイヅ)るといへり。昔よりせし事と見えたり。半行坂(ハンギヤウサカ)といふあり、此地(ココ)は榛生(ハギフ)ノ荘(サウ)にして萩生坂(ハギフサカ)なるを、人みな訛(アヤマ)りて、もはら蓁生坂(ハムギヤウサカ)とはいふとなん。此坂の辺リに骨石、またの名を糸巻キ石とて、筆の管(ツカ)の太(フトサ)にて二三寸(フタキミキ)、あるは四五寸ばかりにて、そのさま、糸なンど引纏(マト)ひたる紡車(イトグルマ)の繆管(クダ)のごとし。そを堀(ホ)り得(ウ)けど全(ヨキ)はまれ也、もとも奇品石(アヤシノイシ)といへり。此あたりは東(ヒムガシ)山田河津(東磐井郡東山町)とて紙漉産(イダス)、みなその業(ナリハヒ)ある家ども也。誹諧(ハイカイ)ノ祖(オヤ)、ばせをの翁の『おくの細道』なンどいへる日記は、此東山より漉(スキ)づる紙を四ツ折リとしてかかれけるものにして、今はこを刻冊(エリマキ)としつれど、そを、いにしへざまに作れり。翁も、みちのく紙といふ名にめでてかかれたるものならむかし。見渡す峰の雲(クモ)、麓の雲はみな桜也。村々の垣根は山吹の色に埋れ夕日かげろふなンど、又たぐひなきおもしろさ、また横沢といふ処にいといと大なる窟(イハヤド)あり、そを籠(カゴ)山といへり。内、間広(マヒロク)て、石鍾乳(イハダルヒ)といふものところどころに掛(カカリ)たり。遠く桃の咲残りたるなンど、見ぬもろこしの、桃源の画(カタ)みしにひとし。こは春も見し処也。此夕為信の家に泊る。

八日 つとめて、里の童を道あないとして、きのふの路をいささか分て、大金(オホガネ)といふ処の岨に、桜の二三本(フタモトミモト)たてるが朝風に吹さそふをうち見やり彳めば、童の小河に臨(ノゾミ)てものうかがふさま、何ならむとおもへば石斑魚(カジカ)の鳴なり。水におりたち、ころころといふ声をしるべにすくひ上たり。此石ふしは秋に鳴くものならずやといへば、をりとして時もさだめず鳴(サカブ)もの也と方言(イヘ)り。なほ此花を見やりて、

汝れも又をしみやすらむ桜ちる山した水にかじか鳴也

童をさき立て拈花正法禅寺(4)(水沢市)にまうづ。此寺の署扁(ガク)は光明皇后の真翰(ミフデ)也、吾国の鳳来寺の額(ガク)にひとし。けふは釈迦仏誕生(サカブチアレマシ)し日とて、れいの花葺(フケ)るささやかの堂の内に、あめつちをさして香水盤(ウブユ)の中にたてり。大衆居ならびて、一日経ならんか、また、なきたまの名にや、いと細き卒堵婆に書(シタタム)れば、この灌仏会にまいりたるあまたの人とら、手毎にうけささげて皈る。いにしへ此寺は法相三論宗などにや、いといとふるき精舎(テラ)也。今曹洞にうつりて、南朝の頃、開山禅師の高弟無等良雄和尚は万里小路藤房(5)ノ卿なるよし、其世は世にひめて語りしといへり。此寺の庭に、源頼朝公実種(ミウエ)し給ひし槲とてあり。また大なる梅ノ樹あり、さるよしをもて大梅捻花山ともいへり。此寺の辺(ワタリ)に石灰木石(イシワタ)あり、石麪(せきめん)(6)あり、また黒蝋石(コクラフセキ)といふもの多し。黒蝋石(コクラフセキ)あるをもて此あたりを黒石ノ荘とよべり。また山内(サムナイ)といふ処に出たり、妙見山黒石寺とて修験寺あり。もと太上神仙を斉(マツ)りし寺にて、大同元年二月斐陀の番匠(タクミ)が集りて一夜の間(ウチ)に建し堂とて、いとふりし堂あり。とみなる事とて板なンど敷キもわたさず、残(タラ)はぬ処あり。正月八日の神祭(マツリ)は祇園の削残(ケヅリカケ)、尾張の天道ノ社の祭の如(ゴト)、夕ぐるるより小夜中カまで誰れとなう互に罵詈(ノノシリ)、根もなきあだ事に枝葉(エダハ)付て、まがまがしう■(ノリ)てうち笑ひ、堂をうち叩(タタ)き火をたきたつれば、さばかり積りし大雪も、きさらぎ、やよひのごとく、みなけちはつる音せりといふ。鶏の初こえたつころ、其長(タケ)三四尺斗リの級栲(シナ)の二重布(フタヘノノ)の長袋の内に、蘇民将来(7)の神符(マモリ)を三四寸斗(ミキヨキ)の木に書(カイ)て、そを千札(チヂ)まりも入レて、袋には蝋を流し油をぬりて神武神仙の御前に備へ、山臥梭尾螺(カヒフキ)、経よみ、いのり加持してその長袋(フクロ)を群集(ヒトムレ)の中カへ投ゲやれば、左右に方(カタ)分ケて素裸(マロハダカ)に出(イデ)たち、特鼻褌(タフサギ)もつけず、その袋をわが方へ取らむ、此方(コナタ)へ奪(ウバ)ひてむと上へを下へ捻(ネヂ)あひ、ひこしらふ。かかるあらそひに、むかし特鼻褌(タヅナ)の前垂(サガリ)を、袋の端(ハシ)に持からみて力まかせに捻(ネヂ)合ひ、曳(ヒキ)に引ほどに陰嚢(フグリ)破れて死たる人(モノ)あれば、特鼻褌(ハダマキ)てふものはゆめゆめ身にまとはずとなむ。此蘇民将来の神符(ミフダ)を掌(トリ)得たる組(カタ)にはその年田畠(タナツモノ)の能ク豊登(ミノル)といへり。夜しらじらとなれば袋を掴破(ツカミヤリ)、また取り持(モ)て雪踏みしだきはせ出て、小河の氷ふみ破(ヤブ)り飛入て、淵(フチ)に身を潜(カク)レむとするを曳(ヒキ)止めなンど、世にめづらしきあらがひ祭也。此妙見山黒石寺には、慈覚円仁大師の作の薬師仏(8)ノ仏形(ミガタ)をひめおける寺也。野道しばしへて黒石(クロイシ)ノ郷(サト)に出たり。路の傍(カタハラ)に四阿(アヅマヤ)めける小屋建(コヤタテ)て、その軒に貨銭(ゼニ)二貫を長緡(ナワ)につらぬいて掛たるに、童(ワラハ)、老人(オユ)などの居て、ひるさへいみじう守りぬ。此銭あやまりて盗れたらん時は、母貨(オヤゼニ)に子(リゼニ)あまた添へて、これをもてその禍(ツミ)を贖(アガ)ふ、つぐなひ貸也(オヒタミ)といへり。あないせし童は此里なれば、ものとらせて別たり。伊(胆)沢ノ郡に渡るに加美川(北上川)の舟とくも出ず、暮てのりぬ。月おもしろくつきたり。六日入村(前沢町川岸場)にきて相知る鈴木常雄の家(モト)に入りて、

旅衣月と花とにかたしき(て=脱)楽しき宿に又こよひねむ

夜もすがら、あるじとともに語りぬ。

八(九)日 けふの初午ノ祭見に中尊寺にいなんと、六日入リをたちて前沢駅(マヘザハウマヤ)に出(デ)て、霊桃(レイタウ)寺に訪(ト)ひて寺の上人をいざなひ漆寺の前を過るに、朽たる桜の蘖(ヒコバエ)花咲たるを、

枯れし枝も花の恵をうるし寺となふ御法のしるしならまし

うまやのはしなる大桜見てむとていたる。大桜ノ社あり、不動尊を祭る。いと大なる一重の山桜あり、此さくら、人たけ立ツところにてはかれば三丈四五尺めぐるといふ。信濃ノ国市田(下伊那郡高森町)の大桜には勝りぬべし。こは秀衡時代の花也といへり、此木あるをもて此村を大桜とはいふ也。また遠田郡に大桜あるてふ、そはいかならむ。

雪をつみ雲をあつめてひともとにかかるさくらの花をこそ見れ

衣川村(平泉町)に来る。世に衣といふ処多し、近江の志賀ノ郡も衣河あり、その外国々にも聞えたり。此処(ココ)に検断(ケムダム)桜とて名あるさくらあり、秀衡の世に、検断の役するもの置(オカ)れたる処也。またいにしへ、安倍ノ貞任の館ありし跡にて、義家公「ころものたてはほころびにけり」と弓に箭をはぎ、むかひ給へば、「としを経て糸の乱れの古(フル)しさに」と貞任、矢つぎばやに返しまをしたりしなンど語らひ、やをら其処にいたれば、

衣川みぎはの桜きて見ればたもとにかかる花の白浪

此衣川も、今はむかしと大に流のさまかはりたりといふ。高館落城(オチ)のとき武蔵坊弁慶、衣河を渡らむとてわたりしが、をりしも洪水(ミヅデ)て、みなぎる波を分ケわづらひ、うちものを杖につき中の瀬といふ処にしばし彳ムほどに、きしべよりは矢ぶすま作リて射かくる箭をひしひしと身に射たてられて、中ノ瀬にふし流れたり。きしに立たるうまいくさども是を見て、こと武者は流にしたがふ、いかに弁慶一ト人リ水上に流れ行事、見よ見よふしぎさよと、寄手の兵等(ツハモノラ)あきれたりといへり。そは、いにしへは衣川の末、北上川〔古名加美川也〕の上の方へ落たり、今は加美川の下に落ぬ。その洪水(オホミヅ)のとき、衣河も上(カミ)川もひとつになりて大海のごとなれど、弁慶はつねに見なれし中の瀬にのぼりつれど、多くの軍に射(イ)立られて、衣川水筋にしたがひて衣川の下へ流レたるを、今の世かけて、弁慶は川上に流(ナガレ)しとのみいひ伝へ、また、あぶり串さしつかね釣(ツ)りおく巻藁(マキワラ)てふものを、出羽、陸奥の方言(コトバ)に弁慶といふも、武蔵坊が、箭を蓑(ミノ)のごとくおびたるさまを、まきわらに串さしたる姿に似たるよりいふとなん、里の翁の語りぬ。かくて中尊寺にいたれば、あるとある堂の戸みなおしひらきて、白山(シラヤマ)姫ノ神社(ミヤシロ)の拝殿は、かねて、かかる料に間広げに作りなしたるに、白き幌(トバリ)をたれ、白き帽額(モカウ)引わたしたり。おひとつうまといひて白き神馬(ジメ)、獅子愛しとて、ぼうたん手ごとにもたる童子(ワラハ)なにくれとねり渡りはつれば、白山ノ神の御前に幔(トバリ)うちまうけたる舞台にのぼりて、そうぞきたつ田楽開口祝詞をはれば、若女ノ舞、老女ノ舞なンど、いと古風(フル)めかしきさま也。やをら衆徒集りて、さるがうはじまりぬ。法師(ホフシ)の頭(カシラ)に宿髪(ツケビン)てふものにして髪髻(カミユヒ)、墨衣(スミゾメ)の袖をぬぎかけ、あるは、まくりでにつづみうち、笛吹囃しぬ。この田楽、をとめ舞、うば舞などに事かはりて今めかしけれど、舞(マ)へる装束(サウゾク)は国ノ守より寄附(ヨセ)給ふものとて、めでたく奇麗(キラ)をつくしたり。今朝より風たちしがいよよ吹つのりて、あまた立ならび茂りあひたる大杉のうれもゆらゆら吹れ、枝葉の落散れば、人みなふりあふぎ空のみ見つつ、頭にものおほひ、もの見る空もなく、法師の附髪(ツケガミ)も吹やられ、かなづる扇も風にしぶかれて、こころのまにまにさしもやられず。いざ帰りなむと立騒ぐ上に、大なる杉の枯枝の落て頭うち、ぬかより血の流レたりなどなかなかの騒ぎ也。経堂、光堂の方へ逃ちる人もあり。また老嫗杉(ウバスギ)とていといと大なる空樹(ウツホギ)あり、此木としふりて香馥(ニホヒ)はなはだしければ、国ノ守めして「みちのく」と銘給(ナヅケ)ひしといふ。その木も今は吹折レ、今はたふれなんなど、人みなをしみ語らふ。此中尊寺に、薄墨桜(ウスズミザクラ)とていとよき花のありしが、枯て今はなし。そを弁慶ざくらといふ、むかし武蔵房やうえたりし花にや。中尊寺を出て義経堂にのぼりて人々ぬかづく。源九郎判官の由来(ユエヨシ)はこと処にもしるし、また、『清悦物語』とはいささかことなれり。また、此君の事をつばらかに記(シル)したる『義経蝦夷軍談』といふいくさの書(フミ)には、泉三郎忠衡、また金剛別当秀綱、亀井、片岡をはじめ、御家人ひとりも残りなくみな松前に渡り、秋田ノ治郎尚勝兵粮を運送(オクリ)、此人とら大に戦ひ蝦夷治りて、上ノ国といふ処にて、御台所若君ひとところ誕生ありて、嶋麿君と申事なンど見えたり。人々を別れて、此平泉の相知りたる民家(ヤド)に泊る。

十日 けふもさるがう舞あり。こよひまた一夜なンどあれど、風なぎたれば、此あたりの花のちり残るも見まほしく、また春のころ見し達谷(タツコク)ノ窟(イハヤ)、桜原といふ処は名さへおもしろければ、ふたたびとて平泉を出たつ。むかし悪路王(9)ひそかに都(に=脱)登り、葉室(ハムロ)ノ中納言某ノ卿の御娘ひとところおはしけるを盗みとりて、此窟(イハヤド)に隠れ住けり。都人あまた尋ね来つれど、一とせ花の盛に飲(ノミ)に呑(ノミ)て酔(エヒ)ふしたるに、姫君桜原を逃出て、人にいざなはれ都に皈り給ひしよしを云ひ伝ふ。また出羽ノ国雄勝ノ郡にも阿具(アグ)呂王が窟あり。また此達谷(タツコク)が岩屋といふは達谷麿(タカヤマロ)が栖家(スミ)し窟(イハヤド)ならむかし。五串(イツクシ)村(達谷の西南二キロ)に来る。此村名は五十櫛(イグシ)のこころもこもり祓串のよしもあらんか、美麗(ウツクシ)てふ名にして山水清く、飛泉(タキ)のさま、たぐひなう儼然(イツクシ)ければしかいへるにや。厳美(イツクシミ)ノ神ませり。此神の神社(ミヤシロ)とてはあらねど、瑞玉山(ミヅタマヤマ)の奥に旧(フル)き宮地(ミヤドコロ)の跡残れり、今はそのあたりを水山邑(一関市瑞山)の山王が窟といふ。此奥に平泉野といふ地(トコロ)あり。大日山中尊寺の趾、高林山法福寺の蹟、栗駒山法範寺の跡、尼寺の趾、円位法師の庵の趾あり、骨寺の跡あり。此あたりの寺々を、むかし七十四代鳥羽院の御宇(オホムトキ)、天永、永久のとしならむか、此平泉野より今の関山にうつし給ひしかば、そこも平泉の里となれり。今の平泉に逆柴山といふ名あり、是も旧(モト)平泉に在る山(ヤマ)の名也。骨寺の事、尼寺の事は選集抄に見えたり。そは、こと処につばらかに記(ノセ)たり。五串の滝とて人みなめでくつがへる飛泉(タキ)にのぞめば、玉の滝、またの名を小松が滝ともいふあり。京田滝、あたら滝、大滝、童子滝、はかり滝、魚屋滝(ナヤタキ)、麻一■(ヲガセ)の滝なンど滝は平ラ飛泉(タキ)ながら、ここら立するどき岩にせかれて、はざまはざまに、しらねりかけたるがごと白淡涌キかへり、日影うつろひて紫の波うち寄る岸には、桃、山吹、柳、さくらの枝さし交りて、世にたとへつべうかたなし。なほあきたらず見彳(タタズミ)て、

落滝の水いつくしく画(ウツス)ともいろどる筆のえやは及ばむ

ふたたびここにいたりて、奥ふかく、ねもごろにたづね見まく、こたびは田面(タヅラ)の路を来に、しめ引はえたり。

水ナ口に立てぞ祈る時は来ぬ五串(イグシ)の小田にもゆるなはしろ

山ノ目の駅(ウマヤ)(一関市)に出て大槻清雄の家(ヤド)を訪(ト)へば、しばらくありて清古筆をとりて、

珍らしなけふに待えし時鳥聞もはつねのものがたりして

返し。

此宿に聞クめづらしほととぎすけふをはつ音の人のことの葉

小夜すがら語らひふしぬ。

十一日 大槻の屋戸よりはいといと近き配志和神にまうづ。杜(モリ)の梢は花ちり若葉さし、まだ咲やらぬかた岨の木々もめづらし。鳥居の額は土御門泰邦卿の真蹟(カキ)給ひしといふ、手風(テブリ)ことにめでたし。そもそも此神社(ミヤシロ)は、斉奉(イツキマツ)りしよしを云ひ伝ふ配志和ノ社ノ内(カンサネ)は皇孫彦火瓊々杵ノ尊、左方(ヒダリ)は木花開耶姫命、右方(ミギ)は高皇産霊尊也。また神明ノ御社(ミヤシロ)をはじめ八幡ノ社、鎌足ノ社、安日ノ社、神星ノ社、土守ノ社、かかるみやしろしろにぬさとりくまぐま見ありくに、菅香梅とて、よしある梅も青さして、ここにも老婆(ウバ)杉とて千年(チトセ)ふりけむ、枝のなからに山桜の寄生(ヤドリキ)ありて花いたく咲たり。なほ木(コ)のもとにふりあふぎて、

いつまでもちらでや見なむ杉が枝の花もときはの色にならはば

此処(ココ)に菅神の御子(ミコ)ひとところさすらへ給ひしよしを云ひ伝ふ。むかしは梅のいといと多かる地(トコロ)にて乱梅山といひ、蘭梅山と書(イ)ひ、また梅が嶺といひ梅が森といふ。泰邦卿の歌に、「みちのくの梅もり山の神風も吹つたへこしわが心葉に」此御神は『文徳天皇実録』四巻、仁寿二年八月乙未云々「辛未陸奥国伊豆佐■(口+羊)ノ神〔宮城郡、式、伊豆佐売神ませり〕登奈孝志神〔気仙郡、式、登奈孝志神ませり〕志賀理和気ノ神〔斯波ノ郡、南部にませり〕並加フ正五位下ヲ、衣多手(キヌタテ)ノ神〔気仙郡、式、衣太手(キヌタテ)ノ神ませり〕石神(イハカミ)〔桃生ノ郡、式、石神社ませり〕理訓許段神〔気仙郡、式、理訓許段ノ神ませり〕配志和ノ神〔磐井郡、式、配志和ノ神ませり〕■(にんべん+舞)草(マヒクサ)ノ神〔磐井郡、式、■(にんべん+舞)草神ませり〕並ニ授従五位ヲ」云々と見えたり、尊(タトム)べき御神也。おのれ是を考おもふに、鎌足ノ社はいかなるよしありてか斉(イハ)ひ奉(マツ)らむ、安日ノ社は、神日本磐余彦天皇の官軍(ミイクサ)をそむき奉りし長髄彦(ナガスネヒコ)の兄なる安日、其御代に津軽の十三(トサ)ノ湊に流(ナガ)さる。其後(スエ)阿陪(倍)ノ頼時出たり。貞任、衣が柵(タテ)にすめり。此梅森山霊地にして、おのが館もいと近ければ、上祖(トホツミオヤ)の安日を神と斉奉(イツキマツ)りけむものか。神星ノ社はしらず。また貞任の男(コ)高星(10)二歳(フタツ)のとき、乳母がふところに抱て乱レを避(サケ)て、津刈(ツガロ)の藤埼に隠れてそこにすめり。高星子あり、月星といふ。其塚ども河岸にありしかば、崩(コボレ)うせて水ナ底に棺(ヒトキ)の落たるが井桁の如(ヤウ)に見ゆれば、そこを井戸淵(ブチ)といひしが今は名のみ也。また河越某なる畠の字(ナ)に高星殿、月星殿と、近きまで云ひしといへり。阿倍ノ高星の旧跡(アト)は藤崎に残れり。土守ノ社はゆえよしもあらむ、いとふるめける神ノ号(ミナ)也。また津軽の妙見ノ社の枝神五十嶋(イガシマ)ノ社あり、蝦夷を斉(マツ)るといふ。是(ソ)は斉明紀(ミフミ)に在る問■(トヒウ)ノ蝦夷胆鹿嶋、■(ウ)穂名といふ、其功(イサヲ)あるをもて葬し、塚に祠や建けむ。伊賀志麻といふ夷ノ名今も有なり、いがしまとは物の余(アマ)る事にて、十有某(イガシマイクラ)といふ詞也。蝦夷人名を付るに、其童(ヘカチ)、又女童(カナチ)が癖を見て付れば、世にいふ醜名(シコナ)多し。又問■(トヒウ)といへるところ、同津刈(軽)の比良内(ヒラナイ)〔夷語(エゾコトバ)のヒルナイのうつりたる也〕の藻浦といふ処の畠字(ハタナ)になりて、いまそこを太夫と云ひ、その近きに蛇口(ジヤグチ)といふ蝦夷住し処といふ。かかる事をおもへば、恐(カシコ)き事から、神に勲位のおましませるがごと、忠誠(イサヲ)ある人とらは神と、むかしは斉(マツリ)たらむかし。いざ皈りなむとて出たつに、人あまた居ならびてうたうたひ酒のむを見て、「(夫木集)もろ人の岩井の里に円居してともに千とせをふべきなりけり」と清古ずンじつつ語らひ連て、大槻のもとにつきたり。

十二日 (宮城県)桃生ノ郡鹿股(カノマタ)(河南町鹿又)の有隣(アリチカ)ノ翁、ところどころ尋ねわびて、けふも又あはでむなしく皈るなンど書て、

尋ねこしかひもなぎさにすむ鶴のこと浦遠く声ぞ聞ゆる

とある(を=脱)見て、

たちあそぶ方こそしらね友つるのうら珍しきこえのみはして

けふもここにかたり暮て、雨マばれ、庭の面におそ桜の咲たるに月のあかあかとさし出て、軒にかけたる無窮の額の文字さへしるく、庭に彳ミよみときて、

楽しさはいつをかぎりもなかぞらに月あり花もにほふこのやど

十三日 胆沢ノ郡にいまだ咲のこる花あらむ、いざ見にいなんと大槻清古とともに、磐井ノ郡山ノ目を出て伊沢ノ郡衣川の橋を渡る。衣の関(セキ)は、卯の木といふ処にいにしへ跡ありといふを聞て、

時も今咲や卯の木のほととぎす衣が関をたち出てなけ

夕暮近く前沢をへて、六日入になりて鈴木常雄の家(モト)に訪(ト)ふ。いにしへ此あたりはいくさのちまたにて、『続紀(ミフミ)』卅三巻、天宗高紹天皇〔光仁ノ帝を申奉る〕宝亀五年云々、「壬戌陸奥国言ス、海道ノ蝦夷忽発シテ徒衆ヲ、焚橋ヲ塞キ道既ニ絶往来ヲ侵シテ桃生ノ城ヲ敗ル、其西郭ヲ鎮守府之勢不能支ル、国司量テ事ヲ興軍ヲ討之」云々なンど見え、また七年二月云々、「庚辰発シテ陸奥ノ軍三千人ヲ伐ツ胆沢ノ賊」云々なンど見えたる地(トコロ)也。むかしは夷賊(エゾ)のみ多く住(スミ)たりけむ。此鈴木の家(ヤ)の庭にいにしへより長者神と祭る社、いかなるよしにて祭り来るとも、また長者なンどいふ家(ヤド)ありし地(トコロ)とも思はれぬなンどいへり。是を考(オモ)ふに、いにしへは姓に長者あり、また日本にて男子七人もたるを長者といふと『盛衰記』にもいへり。また、今いふ駅(ウマヤ)の本陣といふを長者と云ひし事も見えたり。『軍書伊勢物語』といふものに、在原ノ業平なンど将軍(イクサノキミ)にて、胆沢ノ郡に長蛇の備へをたてられし事見え、其いくさに勝利(カチ)あるをもて神をいはひ、そを、いましかけて長者神といへるにやなンど語らひ更たり。

十四日 あるじ常雄、大槻清古なンどいざなひ連て水沢にいたり、しほがまの花見てむとて出たつ。ややその処になれば、みやどころいといとひろく、いつの代ならむ塩竃の御神をうつし斉(イハ)ひて、四ツの釜(11)さへすえまつる。花の木あまたうえにうえて、けふを盛リと咲たるを人々うちながめ、歌よみ詩つくるをりしも雨いたくふりて、ぬるとも花のかげにやどらむなンどずンじつつ見ありけば、雨はなほ、いやふりにふれば、ほいなう人みな帰りいぬれば、我(オノレ)ひとり大林寺に入りて此寺の曇華上人を訪ひ、去年よりつもるなにくれと語り暮たり。

十五日 雨も余波なう晴たり。けふも、きのふのみやしろの花見んとてあるじの上人をはじめ、此近きわたりの人々とともに、かの花のもとにいたる。きのふに引かへて、けふはけしきばかりの風もなく、その楽しさ、いはむかたなし。神ぬしがひろびさしに人々円居して歌よみて、神に手酬(タフケ)まいらせんとて社頭花といふことをよめる。

うすくこき色はへだてど神垣に匂ふはおなじ花の真盛リ        寛戡(ヒロカツ)
あすも又手向やせまし神がきに掛てぞ匂ふ花のしらゆふ       信包(ノブカヌ)
玉垣の光もそひて咲花は神の恵のたぐひならまし           親賢(チカヨシ)
ちはやぶる神の恵の色そへて御垣の花やさき(ママ)咲匂ふらむ 僧曇華(ドムグエ)
芳野山ここにうつしてさくら花あかずや神もみそなはすらむ     氏喜(ウチヨシ)

おのれも、人々とともによみて奉る。

神垣の花の盛りをみしめ縄ながくもがなとかけていのらむ

夕ぐれ近くここを出て、大林寺に人々うちつどひかたらふほどに、けふの花見露ばかりもしらでなンどあり。

とひ寄らむこと葉も波のへだてなく道しるべせよわかのうら人

と、常珍(ツネヨシ)といふ人のよめる返し。

浅からずなれこしわかの浦人にこたへも波のよるもはづかし

小夜うち更るまでよめる人々の歌ども多かれど、ここには記(ノセ)ず。

十六日 此寺の背面(ソトモ)の小田のあと口といふ処に、焼米(ヤイヨネ)をまきありく男(ヲノコ)あり。何の料にしかするにやととへば、こは稲田に蝗(ムシ)のいざる咒也とと(ママ)いへり。かくてくるれば、れいの人とら集ひ来けり。

十七日 雨ふれば、花あるかぎりはいつまでもここにありてなンど、曇華上人なさけなさけしう聞え給ふ。

よしふらば雨にかさねん旅衣花にぬる夜の数ぞすくなき

十八日 ある翁のいへらく、近き山里に婚姻(ムカハサレ)あり。片田舎(カタイナカ)にはことなる珍らしき事のみ多し、見せ申さむ、いざたまへといへば、此翁にいざなはれて水沢を出て、その山里に道はるばるといたりて、婦(ヨメ)の隣の窓の内(ウチ)に在りてこれを見つつしをれば、七戸(ナナトコ)銹鉄水(ガネ)なンどをはりて其歯黒母(ハグロオヤ)も来りて、外(ト)に筵(ムシロ)しき若キ女あまた来集(キアツマ)りて、此未通女(ヲトメ)が顔(カホ)に糸剪(イトガリ)といふ事をせり。そは麻苧(アサヲ)の線糸(ヨリイト)を左右の指(ユビ)にて、此糸をちどりがけにとりて曳磨(ヒキスル)に、顔(カホ)の生毛剃(ウブゲソ)りたる如(ヤウ)にみな落ぬ。剃刀(カミソリ)てふものは用ひざるならはし也。かくて髪結はて紅粉(ベニ)、白粉(シロイモノ)なンどによそひたてば、翁さしのぞきて、はや彩色(ニゴミ)しかといふ。こは、此あたりにて物彩色(モノイロドル)事をにごむといへば、しか戯て翁がいへる也。その婦人(タヲヤメ)に縁綱(エニノツナ)とて、能狂言■(にんべん+舞)(ワザヲギマヒ)の婦人(ヲトメ)の鬘布(カツラ)の如(ゴト)に額(ヌカ)よりあてて、後(ウシロ)ざまにむすび下ゲぬ。そは白布あり、紅布あり、麻布や絹布あり。福者(トミウド)なンどは此縁綱(エニノツナ)、ことさらに長し。遠きは馬、近きは歩行(カチヨリ)して婿(ムコ)の家近けば(ママ)、先(マツ)あら男(ヲ)、新婦(ヨメ)を負(オ)ふ也。その負(オ)ふに肩荷布(スクヒ)、またいふ守布(モリデ)とて八尺(ヤサカ)斗リの布をもて負(オ)ひ、また守木(モリギ)(12)とて二尺(フタサカ)あまりの丸木〔勝軍木(カツノキ)にて作る、老て死たる死骨を、此木を箸として拾ふ也〕を二本(フタキ)紙二重に包て、水引もて陰結(ヲンナムスビ)、陽結(ヲトコムスビ)といふ事して、此守木(モリギ)に婦人(ヨメ)の腰掛(コシサセ)て負ひもていたれば、聟の門に菅莚重敷(スガムシロカサネシキ)ぬ。聟の莚を上へに婦(ヨメ)の莚を下タに重ぬべきを若雄等(ワカヲラ)、婦(ヨメ)の莚を上へに布(シキ)てむとあらそふ。婿(ムコ)の莚の下になれば聟の方のいみじき恥(ハヂ)なれば、互に小刀(コガタナ)手毎に持て大あらがひせり。老たる人出て、是を貰ひといふ事して左右(ミナ)しづまれり。二ツ結びのあぶら少竹筒(ササエ)、あるは守木(モリギ)のうけとり渡しに天地和合の掌(テ)、入リ手、出(ヒラキ)手なンどあり。聟の袴もて出て、嫁を重ね莚におろして水を飲(ノマシ)め、かの袴を婦人(ヨメ)に着ぬ。そは前襞■(マヘヒダ)を後(ウシロ)へ、後腰(ウシロゴシ)を前へに当(アテ)て、聟の家の横座踏(ヨコザフメ)ば袴は取(ヌギト)りぬ。此夜はゆめゆめ蝋燭を用ひず、みなあぶら火、巨松也。世に八寸台といふものを九寸といひ、平器(ヒラ)てふものを角(カク)といひ、その外古実風(フルメケルフリ)多し。かくて夜ふかく、馬にて水沢に皈りつきたり。

かねて、一夜をやどりねなンど、ねもごろ聞えたりしかば祥尚(ヨシヒサ)の家(ヤド)を訪(ト)へば、あるじ、まちわびるつなンどかたらひ更て、祥尚。

いひ出む言葉は露も夏ノ夜の庵にやどれる月の涼し

とありける返し。

ことの葉のつゆの光もなほはえて心涼しき月の小夜中

十九日 あるじ祥尚のいへらく、けふは此あたりの人々をここにつどはせて、くるるまで楽しみあそばむ、こよひもここにありてなンどいへるほどもなう小幡ノ為香のとひきて、

数ならぬ身も橘にとひえよればえならず袖の匂ひこそすれ

とあらばいらへて、

いつまでも人を忍ばむ立花のあかぬにほひを袖にうつして

また、あな久しとて邇高筆をとりて、

まちまちと遠き雲井の時鳥人づてならでけふこそはきけ

とある返し。

雲井路をけふたづねずばほととぎすかかるはつ音も余所に聞かまし

雨のいやふるに白玉椿のおもし(ろ=脱)く咲たるを見て、あるじ祥尚をはじめ邇高、為香、■(糸+力)松(タケツネ)なンどよめる歌ありしが、もらしつ。

二十日 朝とく大林寺とぶらへば曇華上人、庭の山吹真盛り也、きのふの雨にことさら色はえたりなンどあれば、いざとてはし居すれば、から鶸とかいふささやかのひわ、さはに来けり。

雨晴れて旭影(ヒカゲ)も匂ふ山吹の露ふみこぼすひわの群鳥

廿一日 あしたより雨ふる。

廿三日 けふここを立出て此里の人々をわかる。曇花上人、もはや、かくぼけぼけしう老たり、ふたたびのたいめ(対面)こそかたからめとて外(ト)に送り出て、

帰り行人や待らむふる里の花橘の咲匂ふころ

とあれば返し。

言の葉のにほひ言の葉の匂ひ(ママ)ばかりは明日も見むあかで別るる軒のたち花

氏喜の翁。

こえのみはここにしのばむほととぎす遠き雲路をよし皈るとも

返し。

あすよりはつばさしほれてほととぎす雲路はる(か=脱)にうきねなかまし

信包。

たちかへる道は雲井となりぬともこえなへだてそ山時鳥

返し。

鳴かはすこえをかたみに別れては人をしのぶのやまほととぎす

かく人々を別て、花見し塩竃ノ神社(ミヤシロ)にまうづ。いと多かる花ども、なから過るまでちりたり。

ほふりらがいはふ社にちる花をこころありてや朝きよめせず

社司(カミヌシ)佐々木繁智の家(ヤド)を訪(ト)ひ語らひ別て、ここをめてにとりて野くれ山くれ、散リ残る花見がてら徳岡ノ村(胆沢郡胆沢村)(に=脱)来りぬ。村上氏のもとをとひて、去年より雪の下タにまちわびし桜の今散行なンど、ほいなう見やり彳めば、また、ちるも一ながめ、おもしろしなンど人のいへり。

去年よりも雪にめなれしさくら花いまはた庭にふりつもりぬる

しかして、あるじのはらから良道とともにかたらひ暮たり。ここに三四日あるに雨風はげし。

廿六日 内場(ウツニハ)に磨臼(スルス)四ツ五ツすえて男女曳廻(ヒキマハ)し、こえをあげて唄ふを聞ケば、「河を隔て恋夫(ヲセセ)を持てば、舟よ棹(サヲ)よが気にかかる」と、おし返しうち返し、ほうし(拍子)とれり。かくその意を、

舟なくて渡る瀬もがなおもひ川こころにかかる波のよるひる

良道ノ云、庭の盛りの頃はかならず訪(ト)ひ来(コ)んとありしかば、そのころ詠(ヨミ)し歌とて、書刺(カウデ)にさしたるをとりて見せける。

こころあらば盛をまちてくれないの梅も片枝は花をのこして

とありしを見て返し。

梅が枝は青葉ながらも色ふかき人の心の花をこそ見れ

廿七日 よんべより雨いたくふりぬ。蓑笠着たる人こはづくり、やをらふみもて来るを見れば、此春平泉の毛越寺の衆徒(スト)(13)、皇徒(ミサト)に登(ノボ)りけるに、あが父母の国、吉田ノうまやなる殖(植)田義方のもとへ文通(フミ)あつらへしかば、其書(フミ)の返事(カヘシ)来るをくり返しまき返し見て、

うれしさに袖こそぬらせ事なしとむすびて送る露の玉づさ

あるじ良知、良道はらからの歌あり、また、こと人の歌もあれどここにはもらしぬ。

十(廿)九日 木々のいとふかく生ひ茂りたる中に時鳥の鳴(ワラハベ)クを、童の集りふりあふぎ聞て、「町さへ往(イツ)たけとか」と、此鳥の鳴く真似(マネ)する諺(コトワザ)ノあるなり。此処(ココ)に町といへるは肆市立(イチダチ)に行ク事をいへり。また時鳥を五月鳥(サツキドリ)とも五月鳥子(ゴグワチドリコ)とも、また田うえ鳥ともいふ処あり。また小鍋焼(コナベヤキ)といふ郷(サト)もあり。此こなべやきといへる事は、むかし、男子(ヲノココ)ふたところもたるひんぐうの君あり、太郎は亡妻(モトメ)の兄(コ)にて次郎は後妻(ウハナリ)の弟(コ)也。此弟(オトウト)しばし兄(アニ)の外(ト)に出(イデ)て遊び居(ヲ)るをうかがひ、なにくれとあなぐれいでて小鍋焼(コナベヤキ)てふ事して物煮(モノニル)を、兄(アニ)のゆくりなう外(ト)より来(キ)て、こは某烹(ナニニル)かとさしのぞけば、兄に見せじと、かなたこなたともてわたり、また兄の来たらばいかがせんと、もの陰(カゲ)にかくろひて、唯一人(ヒトリ)是を喰(ク)ひにくひて、あな腹くるしとふしまろび、背中裂(セナカサケ)て、くるひ死たり。其弟(オトウト)が霊魂霍公(ナキタマホトトギス)と化(ナリ)て、しか「あつちやとてた、こつちやとてた、ぼつとさけた」と叫(サケ)び鳴ク也。そは其よしなりといへり。『和訓栞』には、出羽にて尾揺(ヲタタ)くしやうと見え、東海道にては「本尊懸(ホゾンカケ)たか」と鳴クといひ、また社鵑(ホトトギス)の字(モジ)もさまざま多く、また沓作りの翁と云ひ名もさまざま、またくさぐさなる、はかなき童物語(ワラハモノガタリ)多し。一とせの夏尾張の国名古屋にて、五ツ六ツ斗リなる男子(ヲノワラハ)をいざなひ、ものにまいりけるとて人あまたうち群れ行クに、霍公(ホトトギス)の頻リに鳴クを此稚子(ヲサナゴ)の聞イてうち笑ふを、人々、若子(ワコ)はいかに聞キしか、某(ナニ)と鳴クぞと問へば此童(ワラハ)、「父(トツサ)へ母(カカサ)へ」といらふを聞て、居(イ)ならぶ人みな、おとがひをはなちて、はと笑ひし事あり。其子麻疹(アカモガサ)やみて死(ミマカレ)り。その親どもは、時鳥は、うべも黄泉(ヨモツ)の鳥か、かの国より、はやこ(早来)はやこと父母を呼(ヨブ)かと初音より血(チ)の涙(ナミダ)を流(ナガ)して、霍公(ホトトギス)の鳴けば、あなかなしと、耳をふたぎし事ありしを思出たり。

三十日(ミソカ) をちかへり時鳥の鳴ケば、

ほととぎすこえなをしみそ庭に咲く花の卯月も明日はちりなむ
 

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