菅江真澄

はしわのわかば



五月朔ノ日 あすは此家(ヤド)を出たたむ、去年より馴むつびたる人々に、ふたたびのたいめ、いかがなンどおもふ暁郭公の鳴けば、
時鳥なみだなそへそ見る夢もこよひばかりの宿のまくらに

ほどなう、しらみて、

二日になりぬ。去年より、なにくれと、たのもしかりつる人々の情さすがに、けふの別れに、むねうちふたがり涙おつるを、心づよくも巳ひとつ斗にあゆひしてたちづれば、良知の弟(オトウト)良道の云、

別れては道のちさとをへだつともかきつめてとへ壷の石書(ブミ)(14)

と聞えたる返し。

書(カキ)かはし壷のいしぶみ音づれん行クみちのくはよしへだつとも

とて外(ト)に出れば、家(ヤ)にあるかぎり門の外まで見送りせり。

おもひやれ去年よりなれて思事いはでしのぶの袖のなみだを

良道聞て、

言の葉を今は記念とみちのくのしのぶの山ぞともに露けき

しかして人々をわかれて、村上良知は前沢の駅(ウマヤ)に在りければ、そなたにて逢はむと、良知の子いまだ総角(アゲマキ)なるをみちあないとして、去年見し水文字の滝〔流のさま、草書の水といふ字の如也〕を見がてら前沢の郷(サト)にやや出たり。良知のやどれるもとに至れば、

あひなれし契りわするないづこにもおなじ心の友はありとも

と良知のいへる返し。

別(ワカ)るともなにわすれん友がきのへだてぬなかのふかきこころは

此夜は霊桃寺に泊る。此寺に三四日(ミカヨカ)はあれなンど長老聞え給ふに、語らひ暮て、

五日 けふ軒に蓬、菖蒲(エモギサウブ)ふける事、こと国にかはらず。陸奥は実方中将の故事(ユエヨシ)ありて、五月五日はかならずかつみ(まこも)を(ふ=脱)かせ、あやめはゆめゆめふかざるよし云ひ伝(ツタ)へ、また宗祇旅日記に藤原義孝が歌に、「あやめ草ひく手もたゆく長き根のいかであさかの沼に生ひけむ」とよめるをもて、其処の者に尋ねしに、中将の君くだりて、何のあやめもしらぬしづが軒端には、いかで都におなじかるべきとて、かつみをふかせられたるよりの事也といへり。また円位(西行)上人熊野へまいりける道の宿に、かつみをふきけるを見て、「かつみふく熊野まうでのやどりをばこもくろめとぞいふべかりけり」『著聞集』に見えたり。さりければ浅香ノ沼ならでも生ふる草にて、紀ノ国にも葺(フキ)けるならはしにこそあらめ。なにくれかにくれと、いにしへ今はことなれど、思ふまにまに。

かつみふくやどこそなけれあやめ草長き根さしの御代をためしに

軒に幡立るは、男子(ヲノココ)ある家々(ヤドヤド)には、いづこにてももはらすべき例(ナラヒ)なるを、此里にては女子持(ヲミナゴモタ)る家(ヤド)にて、また、さらに小児(コナキ)門にても、とみうどの門はことさらにものして、そのけぢめなきは、出羽路(イデハヂ)もひとし。こよひ、さうぶうちにやや似たり。安平広長(アムヘイヒロナガ)かりとぶらへば、こよひはこなたにあれとて、

時鳥声さへ匂ふあやめぐさかりねのやどの軒のあたりは

とある返し。

言の葉も菖蒲も薫る宿になほこえうるはしみ鳴ほととぎす

とて更ぬ。

六日 那須資福の牡丹(ホウタニ)けふを真盛とて、人々にいざなはれて見に行しかば、雨、けしきばかりふりて晴ぬ。

ぬれてほすいろこそまされ五月雨のふるもはつかの草の数草の数

那須氏のもとを出て、

七日 いと近き良友の家に、けふも人々も来(キ)集ひ、あるじめくわざして、うまのはなむけをかごとになンど、ねもごろにものしければ、かついたれり。ひねもす、さよすす(ママ)がら語りて明ぬ。

八日 よべより雨ふれば例の人々来けり。

九日 けふ此里を出たたむといへば、あるじ良友。

衣川袖のなみだは包めどももれこそ渡れけふのわかれに

返し。

いひ出ん言葉も夏の衣川うらなくおもふ君が別に

広長。

別れてはまた逢事もたのまれずいとど余波のをしき老の身

返し。

又いつとちぎりもやらで老の身の言葉の露に袖ぞぬれぬる

広影。

行袖にかけてちぎらむ別ても又あぶくまの川波もがな

返し。

別れても又あぶくまの名はあれど袖やぬらさむ波のよるひる

正保といへる琵琶法師のよめる。

行人にあふてふ事はしら河のせきの戸さしてとどめてもがな

とある返し。

おもひあふ心は通へしら川の関のうちとによしへだつとも

霊桃寺(に=脱)すめる僧(ホフシ)茵雲ノ云(イヘラク)

結交数月如同盟 豈計高楼此送卿 請見陌頭楊柳色 回風猶耐杜鵑鳴

とありける韻(スエ)の、鳴(ナク)といふ字もて返し。

青柳の糸くり返しほととぎす君に心をひかれてぞ鳴く

那須ノ資福。

したふぞよ軒端つゆけき草の庵にやどりし月の今朝のわかれを

返し。

あかで見し月を残して此屋戸にいとど余波の袖ぞ露けき

方長。

とどめえぬ袖の別のつらきかな衣がせきは名のみ也けり

返し。

此里にかたしき馴て夜を重ねいねし衣が関立うき

桃英といふ人の句に、

とどめばやせめて早苗の五寸まで

かくて人々を別れて、けふ、六日入邑(前沢町川岸場)にいたりて鈴木常雄かり訪へば、あるじのいへらく、黒助(クロダスケ)(水沢市黒田助)といふ片山里に百歳の老嫗(ウバ)あり。その長寿(コトブキ)を祝(ホギ)て酒さかな贈る、いざたまへ、久呂太須祁(クロダスケ)へといへれば、とも(に=脱)出たつ。加美河の舟渡りして江刺ノ郡にいたり行道といふ人をいざなひ、しかして其家にいたれば、そが孫(ムマゴ)ならむ五十歳(イソマリ)の男(ヲノコ)、ふくだみたる袴の襞■(ヒダ)をただし、こは、はるばるの道をなンど、かの酒さかな、老女の前にとりすう。老女は麻芋(アサヲ)の糸(イト)うみ居けるが、糸うみさして手をつきぬ。耳いととく目きよく、髪は黒髪まじりのおもざし、歯(ハ)は一歯(ヒトヒラ)もおちず、かねくろぐろと見え、年は七十八十(ナナソハソ)とやいはむ、三輪くむけぢめも見えず。ももとせの嫗(ウバ)といはむには、にげなかるべし。世にかかる人もありけるものか、うべも国ノ守より、ものかづけさせ給ひしとなむ語レり。此老女に酒すすめ、その末の坏をとて人みなとりめぐらす。此嫗、十三ノ歳にて此宿に■(女+息)婦(ヨメ)となり来て、今八十翁(ヤソオキナ)の子あり、五十の孫あり。うからやから、ところせきまで居ならび、盞めぐりにめぐれば酔ひしれて、此孫なるもの傘をひらき扇を持て、うたひ舞ふさま、かの、もろこしのけうの子老莢子が、舞ひ戯れて倒(タフ)れたるに似たりと、人々もこえをあげてはやしぬ。

ももとせの親に仕ふる楽しさ人も千とせの齢をや経ん

日くれて、みちはるばると行道のもとにつきたり。

十日 あさいして、日たけて起たり。けふは、此江刺ノ郡黒石(水沢市)ノ行道の家に在りて人々(と=脱)歌よみあそび、あすなん胆沢にいなんなンどいへるに、とみなる事とてふみもて来れば、こを見つつ常雄は皈り去(イニ)き。よべよりここに、めくらほふしども来宿(キヤド)りたるをよび出れば、南部閉井(伊)ノ郡の浦人、宮古(ミヤコ)の藤原(宮古市藤畑カ)といふ処といへり。語りさふらへといへば紙張の三絃とうだし、こわつくりして、尼公物語(15)とて、佐藤庄司が家(ヤド)に弁慶、義経、偽(ツクリ)山臥となりてやどりし事を語り、をへぬれば小盲人(コホフシ)出(イデ)て手をはたとうちて、それ、ものがたり語りさふらふ(16)。「黄金砂(コガネスナ)まじりの山の薯蕷(イモ)、七駄片馬(シチダムカタマ)ずつしりどつさりと曳込(ヒキコン)だるものがたり」また「ごんが河原の猫の向面(ムカツラ)、さるのむかつら」「鉈(ナタ)とられ物語リ」「しろこのもち、くろこのもち」などかたりくれたり。

十一日 もろこしの外にも大和ノ国、また此処(ココ)にも、竜門の滝とておもしろき滝のありと聞て見にいたれば、木々深く落たり。

松柏高きいはねにたつの門梢にかかる滝の涼しさ

蕨の岡といふ処に、躑躅(ツツジ)の盛なるを見つつしばしありて、

夏草にまじるわらびの岡のべにをりたがへてやつつじ咲也

行道をわかれて、北上川わたりて常雄のもとにつき(た=脱)り。ここに二日三日と日をふる雨ばれをまつに、前沢の杉ノ目真門といへる人訪ひ来て、今一日二日(ヒトヒフツカ)ばかりわがかたにありてよ、あまりとみにいそぎたちける、いざいざといへれば、真門にいざなはれてくらぐらに前沢につく。

十九日 けふは、つとめてここを出たたまくよそひすれば、あるじ。

わかれ行人に余波をおくの海の波かけ衣いつかほすべき

と真門のいへる返し。

おく海のなみかけ衣袖ぬれてふかき情をいつわするべき

片雲禅師、いましばしはありてなど聞えて、

秋風も吹来ぬ空にたちかへる人をとどめよしら河の関

とある返し。

言の葉にさそふ秋風身にしみてこころぞとまるしら河のせき

秋房。

別れても時しあらばと行人の皈らむほどを松しまのうら

返し。

たび衣かさねてとはむまつしまやなごりをしまのけふのわかれ路

要寛といへる翁。

とどめてもこころ止らぬたび衣袖の別にのこる言の葉

とある返し。

ふるさとにたちかへるともたびごろ(も=脱)かさねてここにまたかたらなむ

六日入リに皈る路すがら、蓬■(イチゴ)いといと多く花咲たり。

くるるともふみはまどはじみちのべのいちしの花のいちしろくして

かくて暮ふかく至る。

廿一日 雨の晴間加美川を見れば、ちひさき舟どものここかしこよりこぎ出(イ)で、あるは夏草しげりたる中を白帆ひきつつらき、田の面には、やがてうえわたらむ料に、こひぢかいならし、長やかの竹綱して馬くり廻しありく。その竹綱(タカツナ)とる女を、させごといふ。また畔どなりには早苗採(ト)り、家(ヤド)家にては養蚕(カフコ)にいとまなみ桑こきちらし、けこ、ちちご、たかご、ふなご、にはご(17)なンど、女ノ童桑(ワラハ)とりありく。また田ううる日は上下なそへなう、いといと長き萱(カヤ)の折筋(ヲリバシ)にて、ものくふためし也。田面に在りては、朴のひろ葉の小豆の飯(イヒ)は、いづこもおなじ。

廿五日 うえわたすさなへ見なんと、人々とともに畔伝ひ行ケば、いくばくならん、菅笠(スガカサ)白白と千町の面に見えわたり、森かげに卯の木咲たるを、それも時とて、早丁女(サヲトメ)花といへり。

菅笠の雪かあらぬさ(ママ)なへとるたもと涼しきさをとめの花

廿六日 あしたより雨いたくふりぬ。去年ことし来る聟(ムコ)なンどは、田面のをとめらに泥(コヒヂ)うたれて、どころまみれになりて身も重げに彳ムを、はと、うち笑ひては、また祝(イハ)ひすとて打かくるに逃迷ふなンど、どよめきわたり、家(ヤ)は飯(イヒ)かしぐをさめ、蚕養(コガヒ)する丁女(ヲトメ)のみにて、植女(ウエメ)は星をかざして田面によそひたち、ひねもす雨露にぬれそぼち、くれて螢のたもとにすがるころ、やに皈り来て、ふす間なき夏ノ夜に夢もむすばぬいとなさ、おもひやるべし。此早苗採(ト)りううる日に雨ふれば豊年(トヨトシ)也とて、ぬるもいとはでよろこびあへり。うべも古キ歌に、
「さなへとるけふしも雨のふることは世のうるふべきしるし也けり」

廿七日 雨のいやふりにふりて田井も溝(ウナデ)も水うち溢(アフ)れ、千町の面はさざ波うち渡り、北加美(キタカミ)川の流れ込(コ)ム小川なンどに舟さしめぐらして、鱒(マス)、鱸魚漁(スズキトル)もあやうげ也。こなたのあげた、くぼ田に、早丁女むれり。

ぬれ衣ほすまも波の袖こえてさなへとる也五月雨のころ

廿八日 あさてばかりここを出たたむといふを聞て、姉体(水沢市)といふ処にをるくすし安彦ノ中和(ナカマサ)。

たび衣袖のわたりの別より涙の川のせく方もなし

とある歌の返し。

なみだ川身もうくばかり旅衣袖の渡にくちやはてなん

盛方のもとより、

別てもおもひぞ来(オコ)せ朝夕もたえず其名はわすれずの山

返し。

情ある君がその名はわすれずの山また山はへだて行とも

祥尚のいひ贈ける。

みちのくの山路はるかにへだつともめぐりあはなんことをこそ思へ

返し。

別れてもけふを契にみちのくの山路はるかに分てとはまし

守清ノ翁は八十ととし高く、真白髪(マシラガ)は雪とつもり、髭もしらみはげながら筆をとりて、

五月雨にみかさまさりて衣川たち行人をしばしとどめよ

また此守清翁の句に、

螢ともなりて送らむさつきやみ

此翁のこころざし返す返すうれしくて、

衣河ふかき情に五月雨のはれまはあれど袖やぬらさむ

廿九日 常雄とともに、麻生(アサフ)といふ処に栖家(スメル)千葉ノ道利といへる人のもとにいたれば、山丹花(ユリ)のいたく咲たるを、

風吹ば露も盈(コボ)れて庭もせにさゆり花咲くやどぞ涼しき

例の酒進めけるに時うつりぬ。あるじ道利の翁、なにくれかたりける中に、此胆沢ノ郡若柳ノ荘駒形山ノ麓なる金入道(カネニフダウ)(胆沢村)といふ村にては、老嫗(ババ)の事を「ごんご」といひ、三四十歳(ミソマリヨソマリ)とわかき女をさして「ごんごひめご」とよび、娶(ヨメ)なンどは「姫子(ヒメゴ)」といひ、あるじし、酒宴(サカモリ)あるときに小謡(コウタ)舞といふものあり。そは盃を左に持(モ)て右に扇をひらいて、「酒は諸白御酌(モロハクオシヤク)はお玉、さしたきかたはあまたあり、さすべき方はただひとり」とて、つと、なみいる人の中に、ゆくりなう、うちつけにさしぬ。さされたる人は、した心はしらねど、うむじがほつくりて、かしらかきかき盞とりてひとつほし、あるは、かさねたうびなンどして、又たちて小唄舞(コウタマヒ)をせり。かかる小歌舞に、いとど酣(タケナハ)になりぬとなん。夏の始め楢(ナラカシハ)のわか葉をとり、敷莚の下にしきおして乾槲(ヒガシハ)として、是(コレ)をふところ紙として、人に、さかなかいのせて進(マイラ)せぬ、など語りぬ。さすがに山里の古風(フリ)見るここちせり。

かくて道利翁がもとを暮ふかく出れば、しばし野原の路行ほど螢いといと多し。

さつきやみわけこしぬれて草のはら露も螢も袖にこぼるる

更て六日入につきたり。


六月朔日 あくるやいなや、くまぐまのこるかたなう、蚤(ノミ)ノ舟(フネ)てふものを、節分(セチブ)の豆はやすやうに散(マキ)ありく。こは、羊蹄草(シノハ)(ぎしぎし)なンどいふ葉の銀蕎麦(ソノミ)をかく蒔(マキ)ありけば、是を舟として、蚤(ノミ)の、海にみな皈り去(イ)ぬてふためしとなん。しかして、時の間(マ)に掃き清めぬ。

ますらをが刈りてつみけむ草のみの舟こぎ今朝はくだる夏河

けふの朔旦(ツイタチ)を脱月立(ヌケノツイタチ)といひならはして、桑(クハ)の林のもとに行ケば、空蝉(ウツセミ)のもぬけのからのごとく魂■(白+鬼)(タマシヒ)とびさりて、人脱(ヒトガラ)のみ残り止(トド)マれるとて、桑の木一ト本見ても恐れかしこみ、蚕(トトコ)の養も、よべにとりてけふはものせず。秋田路のごと、歯固(ハガタマ)とて氷室餅(ヒムロモチイヒ)のためしはせざる也。あしたのくもりてひるはれて、夕ぐれ近く風たちて涼し。

五日 近どなりの里なる杉ノ目真種といふ人のもとにいたりて、余波とて夜ひと(よ=脱)かたらひ、ふすかとすれば水鶏鳴ぬ。

夢もまた残る■のねやの戸を叩キもはてずあくる夏の夜

六日 杉ノ目の屋戸を出るに真種。

別れなばふみこそ絶えめ思ひやる心は通へおもわくの橋

とありしかば返し。

わかれてはふみこそたゆめおもわくの橋は心にかけてわすれじ

常雄のもとに皈る。

七日 つとめてここを出たちなんといへば、此家に、保元平治の世の乱のころよりとり伝へたる、札(サネ)よき小桜威とおぼしくて、としふり破(ヤ)れたる鎧(ヨロヒ)あり。是(コ)は常雄が前祖(トホツオヤ)鈴木兵庫ノ頭常信の甲(ヨロヒ)也。鈴木常信は鎮守府ノ将軍源朝臣義家(アソミヨシイヘ)ノ卿の家令(ケライ)にて、すなはち将軍(キミ)の真筆(ミテヅラ)給りし感状あり、常信は数度(ヲリヲリ)の戦ひに勲功(イサヲ)ありし武士(ヒト)也。世々(ヨヨ)に勇士(イサヲ)ありしにや、義朝ノ将軍をはじめ北畠ノ顕家卿まで、代々(ヨヨ)の感状五枚(イツヒラ)あり。また掌形(テガタ)なきいといと小(チヒサ)く、虎の皮布(シキ)たる鞍あり。唐鞍てふものにや、結鞍なンどのたぐひにや、いと古キ物也。敵(アダ)よりとり得たる槍(ヤリ)あり、横刀(タチ)あり。また家の幟標(ハタジルシ)あり、そは頸なンど包みしものとおもはれて、いたく血にまみれたりしあとあり、よしある家の末葉(スエハ)也。あるじ鈴木〔養作といふ〕常雄のいへらく、吾世まで廿四代を経たり、かく今は民家(イヤシ)き家ながら、此よろひは千歳近きものから身の守リともなるべし。いささ分ケ贈らむ、故郷(フルサト)の裏(ツト)にもていきねなンどいひつつ贈られしうれ(し=脱)さに、庭牡丹(ボウタン)を見て、

千代かけてたねやまきけむよろひ草いや栄行家(ヤド)ぞ久しき

あるじ常雄、又かならず訪(ト)ひ来てなンどありて、

浦波はよしこゆるともちぎりおく事なわすれそ末のまつ山

とある歌の返し。

別れ行末の松山こゆるとも波のたちいにかけてしのばむ

雨のいたくふり来けり。家(ヤド)の人々みななみだながら、此雨にいかでかなンどあれば常雄。

けふのみと人をとどめむこころをや空(ソラ)にもしりて雨のふるらむ

返し。

ふる雨は菅の小笠にしのぎてもなさけの露に袖やぬらさむ

あるじの聟なりける鈴木常茂。

夢うつつこころもとけず行人にあかぬわかれをしたひもの関

とありける返し。

うちとけぬ思ひむすびてへだて行袖はなみだのしたひものせき

常茂、近きわたりまでとて送りして、やや常茂を別れて綾織(アヤオリ)(水沢市)といふ処にて雨もをや(み=脱)たれば、田づらの路に立て、

千町田にあやおりみだれふる雨の余波涼しき露の玉苗

やをら姉体(アネダイ)邑(水沢市)に来て安彦中和のもとにつきたり。あめなほ微雨(ソボフリ)て夕月の空ともいはず、さながら、さつきやみにことならず。遠かたに炬松(マツノヒ)二ツ三ツもてありくが、木の間に見えかくれゆくさま火串(ホグシ)のここちして見つつしをれば、その影は見えず螢のみぞ多かる。

とぶほたる照射(トモシ)は見えず雨にさへ汝(ナ)れがおもひのけつかたやなき

あるじとともに語らひ更たり。此処(ココ)に四五日(ヨカイカ)とありて雨のややを(や=脱)みぬれば、

十二日 けふは石手堰(イハデキ)ノ神にまうで奉らまく、あるじ安彦中和(アビコナカマサ)を前(サキ)に北上川の岸づたひに行ケば、雌嶋(メシマ)、雄嶋(ヲシマ)なンどいふここらの岩群(イハムラ)ありて、分ケやすからぬ路也。梢をよぢ蔓(カヅラ)をたぐりて、からうじてみやどころにいたりぬ。そもそも此御神は式の神社(ミヤシロ)(延喜式内社)にして胆沢(イサハ)ノ郡の七社(ナナノミヤシロ)の一社(ヒトツ)にて『三代実録』五巻ニ、貞観三年云々、「陸奥ノ国鎮守府ノ正六位ノ上石手堰ノ神、並預官社ニ」云々と見え奉る御神也。ここに忍穂耳ノ尊を斉奉(イツキマツ)りて、いにしへはゆえよしありて、宮造(ミヤツクリ)も大(オホ)キやかにおましましけむものかと察(オモハ)れたり。今はささやかなる祠(ホグラ)の神にしませば、人みな、そことえ知り奉らぬはかしこき事かな。むかし此北上河を加美川と云ひしも古神川(モトカミガハ)にして、此河上(コノカハノベ)に石手堰(イハデキ)ノ御神鎮座(シヅモリ)ませるよしをもて、加美河の名に流れけむものかと考(オモハレ)たり。御前(ミマヘ)にぬかづきて、

いはでいの神の御前の涼しさはきしによるべの水清くして

安彦中和、おなじさま奉る。

みたらしの清き流は絶ずなほめぐみも深きいはでいの神

ここにしばし休らふほどに、ゆくりなう雨ふれば、いそぎ皈るとて、

夕立に菅の小笠もとりあへずみのしろ衣ぬれて涼しき

中和、しとどにぬれて彳て、

かきくれて外山をすぐるゆふだちの雨のあしときあとの涼しさ

くれちかづきて安彦がもとにつきたり。

十四日 つとめてここを出たつに、中和、近きわたりまでとて送りす。妙見山黒石寺のこなたに休らへば、いと高き木のうれに幣(ミヌサ)、しらゆふ如(ヤウ)のもの付て、木のいたく茂りたる中より見えたるは山臥(ヤマブシ)の栖家(スミカ)にや。

優婆塞(ウバソコ)が一夏(ヒトナツ)こもるおこなひのしるしを峰のまぶしにぞしる

かくて拈花山正法寺にまうでむとて其寺に至る。けふは始祖(テラノミオヤ)無底禅師の斉忌日(トキビ)とて僧侶(ホフシ)あまたなみ居て、御読経(ミドキヤウ)のこえどよめかして、此おこなひも、なからをへぬ。此禅師の御弟子は無等良雄和尚とて、俗生(モト)は万里小路中納言藤房卿にて、出羽ノ国秋田ノ郡山内荘松原村の補陀洛寺(18)ノ二祖たり。開山は即(スナハチ)無底和尚也。無等良雄西来院を建て閑居し、又嶺梅院に住(スミ)て後(ノチ)寺を出て、至る処をしらずといふ。

法の師の心の花もえみのうちにひらけそめにし山ぞたふとき

しかして安彦中和を別るるに、なかまさ。

今しばしひきやとどめんつまごとの緒絶の橋を過るたび人

返し。

行がてにここちひかれて爪琴のをだえのはしをえやは渡らむ

ふたたび(と=脱)て別れて、夏山といふ処に来る。

さらぬだにぬれしなみだのたび衣また夏山の露分て来(キ)ぬ

酒■(酒+古)(サケウル)軒の胡床(アグラ)に人あまた居て濁酒飲(サケノミ)つつ、なによけむ、西根の池〔西胆沢ノ郡に在る大池也〕の鯉鮒(コヒフナ)と鼻声(ハナゴエ)に唄ひ、今ひとりのあら男(ヲノコ)、面(カホ)は丹塗(ニヌリ)二王の姿(サマ)して、あな世ノ中や、ますこし飲(ホシ)けれど価(アタヘ)なし、はや腰鮒(コシブナ)〔腰銭をいふ。むかし銭を鮒形(がた)に鋳(つくり)たるよしをもはらいへど、是を考るに、蝦夷人賃料をブンマといふ、ブンマの転(うつり)たるブナならんかし〕みながらつかひはたせりと酔哭(エヒナキ)なき(ママ)すれば、後(シリ)なる翁、いかりはらだちて声高(コハダカ)にののしり、あのばか、あさましのやつかな。わがふところに金一分(ヒトキリ)あり、是とらすべし、なんぼも飲(クラ)へと投(ナゲ)やれば、酒店(サカヤ)の女、手の前へには銭すこしたうべ、かねひときりを、なじよにすべいと云ひつつ提(ヒサゲ)にくみ出たり。みなひぢを曲(マゲ)て、はなうち鳴らすぞ多かりける。

味酒(ウマザケ)にえふればうさもなつ山の木陰涼しくひぢ枕して

此夜は田河津(タカウヅ)(東磐井郡東山町)に出て宿かる。

十五日 けふは、あまづつみせでいでたつ。此あたり、野にも山にも水乞鳥(あかしようびん)いといと多し。

狭衣に水恋鳥のおもひし給ふといへるも此鳥の事也。鳴声あはれげに聞えたり。ここを行行思ひつづけたり。

雨晴れてまた袖ぬらすうすごろも水こひ鳥の声のあはれに

此あたりは前(サキ)にも見し処也。猿沢ノ村(大東町)なる中津山忠(タダシ)といふ人の家(モト)に宿づく。童ども小麦(コムギ)の茎(カラ)を束(ツカ)ねて牛馬(ウマウシ)の形を作り、桃の木にて弓を造りひきまがなへて、ささやかなる篠の矢をはぎ、それをその馬うしに添へ五穀の苗を負せ、また粢(シトギ)をつくりて是秣として、うち群れ手ごとに曳(ヒキ)ありく。としごとの、けふのためしといへり。日高ければ大原寺にまいりて葉山ノ社の来由(ユエヨシ)を問(ト)へば、寺の優婆塞いらへていへらく、神はかしこくも、なぎ、なみ二柱の御神(オホミカミ)、八幡ノ御神をいつきまつりて、いとふるき神社(ミヤシロ)也。いにしへ気仙ノ郡に菅原ノ中納言某ノ卿とておはしけるが、都の名処(ナドコロ)ゆかしがらせ給ひて、大原、小原、八瀬、東山などをうつし給ひしころより、奥の葉山と云ひし処也。猿麿大夫も此猿沢より出生(イデ)られし処とて、家居の跡さだかに残れり。今そこを鶴が嶺ノ大権現とまをし奉りて、内には弥陀、薬師、観音安置(スエ)まつる。また小葉山(ヲバヤマ)の観世音は円仁大徳の作仏也。其菩薩(ボサチ)堂もあばれはてしとき、此山の麓に小丁といふ翁夫婦(イモセ)すめり。ひねもす此山に登りて木の実(ミ)、草(カヤ)の実を採(ト)り、草の根を掘りてくひものとして世をわたり、いつも観世音を拝(ヲロガミ)奉る事久し。あるとき山鳴り谷ひびきて、円仁大師の加持寒泉(ミヅ)たちまち涌キ上ガり、あやしの光かがやふ。小丁おどろきてこれを見れば、黄金(コガネ)ノ仏(ミホトケ)あらはれませり。其くがねのみほと(け=脱)をおのが家にもり奉り来て、柴棚を構へてすえ奉りて、あけくれ、あなかしこ、我に子一人(ヒトリ)たまへて(と)、いつも、いもせ、あけくれ祈れば、二人の夢に、汝がせちなるこころざしにまかすべし。見おどろき、いよよぬかづきいのり奉れば、七十に近きいもせの中に男子(ヲノコゴ)ひとり産(モテ)り。恐(カシコ)さ尊さ身にあまり、名を大夢とつけたり。大夢、をとなしうなりぬれば、かかる尊きみほとけを、かかるきたなき、おのが埴生(ハニフ)におき奉らむ事恐(カシコ)しとて、此処にうつし奉りしとなむ。また七十五代崇徳院の御宇(ミヨ)保延二(一一三六)年丙辰のとし、名取ノ郡の旭(アサヒ)ノ神子(ミコ)、補陀洛山(フダラクセム)の菩薩(ボサチ)をうつしまつりし処也。今は寺めぐりになずらへて、廿六番の札うちぬ処也。陸奥守藤原準房ノ卿の歌とて、「歌人の言の葉山の名も茂りもるるかたなき誓ひうれしき」名取の老女の事は『新古今集』に見え、また謡曲(ウタヒモノ)にも作りて世にいちじろく、人知れる女也。あやしき事あり、此山に■(金+且)鍬(スキクワ)たつれば小蛇(ササヤカノヲロチ)いくらともなう出(イヅ)るは、いかなるよしにか、さらに知れる人なし。むかしよりしかりと、いひ伝ふといへり。

十六日 ここを出て大原ノ里につきたり。此郷(サト)五月三日の夜みな灰となれど、芳賀慶明が家は河ノ辺に在れば事なしとて訪(ト)へば、よろこぼひて夜打更るまで月見語らひて、歌はいかにといへるに、

おもふどちこころのくまも夏ノ夜の月にかたらふ袖の涼しさ

歌二ツ三ツあれど、みなもらしたり。

二十日 ここを、近き日出たたまくいへば芳賀慶明ノ云、此暑サにいづこへか行べし、秋の来らば松嶋、雄島の月は往(イ)て見てまし。夏のかぎりは、此川のべの家(ヤド)に在りて暑サを避(シノギ)ねなンど、いとねもごろ聞えける事のうれしう、こころおちいぬ。養蚕(カフコ)の多かるも、みな、まぶしのわらにとりすがり、外(ト)には太麦刈(フトムギカ)りて、はつきに取りかけて乾(ホシ)、この雨間なくてと、いとなきをうれひあへり。

廿二日 河夏祓といふことを、

みそぎ川つみも流にはらひては水のこころのちりものこらず

廿四日 家に在りとある人々季忌宮精進(キノミヤサウジ)せり。けふ八幡ノ宮に詣(マウデ)て此寺に訪(ト)ひて、なにくれかたらふに住僧(アルジ)の云ク、享保のころならむか此寺に宥映上人とておはしき。いといと好キ人にてよめる歌多かる中に、「露すがる鳴子の綱も長き夜の月ひきこぼす小田のますら雄」といふ歌は、世に知られた歌也といへる。まことよしありし歌人とぞおもはれたる。

廿五日  牟■峯山(ムロネヤマ)(室根山)に登らむとて、芳賀慶明をはじめ、人々うち群れて吹上といふ処にいたりぬ。うべも風たち、あな涼しとて、人みな、なめらかなる苔のむしろに円居せり。

水無月のあつさもさらに夏衣裾ふきあげの風の涼しさ

といふを聞きて慶明。

分のぼる道をさかしみやすらへば風吹上のみねぞ涼しき

猶のぼれば、むかふ方遠からず君が鼻といふ山(室根山の東一キロ)あり、此山のさま、擲石(イシナゴ)うち重ねたらんやう也と人々見彳(タタズ)む。そを見やりて、うち戯て、

いくばく(の=脱)峰うちこえし雲印地(クモインヂ)勝チしか君がはなの高サは

とよみしを人々笑ふ。尾越(ヲコエ)峰こえ小竹(スズ)かい分て、やをら御神(カミ)の鎮座丹嶂(マセルタヲリ)にいたる。新山、本山とて神社(ミヤシロ)ふたつならびて、まことにかみさびたる処也。そもそも此本山は、「養老二(七一八)年戊午ノ九月十九日陸奥守将軍従三位兵部卿大野朝臣東人建之」と棟札に見えたり。室峯(ムロネ)ノ権現(ゴムゲム)とまをし、内には十一面観世音を秘(ヒメ)まつるといへり。こは四十四代元正天皇ノ御即位の霊亀の元(ハジメ)(七一五)より三四年(ミトセヨトセ)を経て、天明の今年(コトシ)までは千歳余年(チトセイクトセ)やふるらむ。また新山権現は九十四代花園院の御世「正和二(一三一三)年癸丑のとし、陸奥ノ司葛西形部大夫清信(19)建立」とあり、内には聖観世音菩薩を斉(マツ)る。

幣(ヌサ)とれば心も涼しむろね山峰より御よりはらふ山風

芳賀慶明。

かしこしないやび並居て諸人のあふぐも高し神の恵を

円仁大師護摩おこなひの跡とて、梵字彫(エリ)たる石苔(コケ)に埋れたり。高キに猶のぼれば気仙郡の浦々、味(アヂ)(網地)、二タ渡リ、金花山なンど、雲のむらだてる中に見えみ見えずみ見やらるる、いはむかたなし。人々■(木+累)子(わりご)、竹筒ひらきて坏とりぬ。かくて山を下ル。山のなからばかり小高キ処あり、そこに白牛の臥(フセ)る形(サマ)して方解石あり。真白(マシロ)なる処、いといと上品(ヨキ)石也。此皈さ、麓なる山里に休らへば家の■(女+夫)人(トジ)、こは、につかぬものから、ひとつめせとて、蕎麦(ソバムギ)の餅(モチヒ)とうだして進(スス)む。人みなたばむものは、なににまれたうびてむとて、ひたくひに喰へば、未嫁(ヲトメ)、桶にしたみこのせて醸酒(モロミ)うち入(イ)れて、かいやりしぼり漉(コシ)て、大ひさげに盈(ミタラ)して、是また、のみねとてもちづれば打えみて、いざ一坏(ヒトツキ)の濁(ニゴレル)酒を飲(ノム)べくとて、居ならびて飲(ノミ)ぬ。門田には田草(タグサ)とりどりにうたひ、また畔(アゼ)に休らひ、けぶりうち吹(フキ)つつ語らふを聞ケば、此田もやや穂に出(デ)なん、小楢(コナラ)の葉のはや二度耄(フタタビホケ)たり、今一度開葉(イマヒトタビホケレ)ば、いや穂に出(デ)なん。此年(コトシ)は秋世の中ならむ、藤天蓼(マタタビ)の葉粢白厚(ハシトギアツクシテ)いといと多しといふを聞て、稲作良(タノミヨカラ)ば、民家(オラ)はなにのうれたき事かあらん。あな楽し、飲(ノメ)や唄(ウタ)へと又手をうちてうたふに、はてしなければ、日も山に入りてくらければ、手火炬(タヒマツ)ふりて大原に皈る。

廿七日 小林(大原の西一キロ余)といふ山里の良善院ノ清隆法印を訪(トフ)らへば、法印はふるき器財(タカラ)もたる家(ヒト)にて、なにくれとうだし、また古仏(フルキホトケ)いくはしらもをがませ、又石弩(イハヤノネ)あまたありける中に、品(シナ)よげなるを五六(イツツムツ)贈られ、また大なる雷斧石(カミノヲノシ)をも、つとにせよとて贈られしが、此石半分砕(ナカラクダケ)しかば、

此屋戸はいく万代になる神の斧の柄さへもくだす山里

ここを出て、くらぐらになりて芳賀のもとに来る。

廿九日 水無月も、けふをかぎりにくれ行となもいへる。都都喜石(ツツキイシ)(続石―大原のすぐ西)ノ神にまうでぬ。こは阿倍比羅夫、あるは虫麿朝臣などの寄附品(ヨセラレタリシ)ものもありて、むかしは栄し処也。黒麿の歌とて云ひ伝ふ歌あり。「よき事を万代かけて続き石の神の恵も大原の里」しかいへれど、その時世の風(フリ)ともおもほえず、いにしへ貞観のころ、山城国大原野の大明神を斉奉(イツキマツ)りし処といへり。また寺を続石山大原寺といひて開祖は円珍(智証)大師にして、藤原清衡豊田の館より平泉へ移(ウツ)り来て、吾館の鬼門を守護(マモリマシ)給へと誓願(ネギゴト)せしは此神社(ミヤシロ)也。本地(ウチニ)は薬師如来を斉(マツ)りて円仁大師の作(ツクレル)也。此石神はいといと古キ御神也、さりけれど石神といふもいといと多し。『文徳天皇ノ実録(ミフミ)』四ノ巻(ミマキ)に、仁寿二(八五二)年八月乙未云々、「辛未、陸奥国云々、衣太手(キヌダテ)ノ神、石(イハ)ノ神、理訓許段(リクヨダ)ノ神、配志(ハシ)和ノ神、■(にんべん+舞)草(マフクサ)ノ神、並ニ授ク従五位下ヲ」云々と見えたり。〔天註――『三代実録』には衣多宗ノ神、理計段ノ神とあり、異本をもて誤字落字を補ふ〕

治れる御代いつまでもつづき石なほうごきなく神や守らむ

良善院の清隆法印をふたたび訪(ト)へば、さけ、さかなもとめ、あるじめけば、人々語らふ。雨のいたく零(フ)り出れば、此ほどかれがれなく田もありて水ほしく思ふ処へ、よき雨かなと人みなよろこびあへり。夕ぐれ近うなりて雨も晴たりしかば、河ノ辺に出て手あらひ口そそぎて、

みそぎ川あめにみかさもますかがみ秋うつしよる波の涼しさ

れいのごと、くれて芳賀のやどに皈る。


(註)
(1) 天明八年 正しくは天明六(一七八六)年で、後年、改写の際、書きちがえたのである。
(2) 山吹が柵 奥州総奉行であった葛西氏の臣大原信光の城だったところ。この家は天正一八(一五九〇)年にほろんだ。
(3) 国ノ守吉村公 伊達宗房の子。伊達政宗の曾孫綱村に子がなかったので、元禄八(一六九五)年、その養子となり、同一六年封をつぎ、宝暦元(一七五一)年七二    歳にて逝く。
(4) 正法禅寺 曹洞宗総持寺の二祖峨山の門下無底良韶が開創した。無底の示寂後(一三六一)、法弟月泉良印が同寺をついだ。無等良雄は月泉の弟子である。
(5) 万里小路藤房 藤原藤房。後醍醐天皇の近臣で中納言。元弘の乱のとき天皇にしたがって笠置山でとらえられ、常陸に流された。建武政権成立とともに京にかえ    り、再び天皇に仕えたが、政治的内紛にたえず、京都岩倉に隠棲、後行方不明になった。そのため方々に流寓伝説がのこっているが、いずれも確実なものはない。
(6) 石■ 『本草綱目』には瑞物として饑凶のとき天恵によって生ずとし、「石化為麪貧民取食之」とあり、石麪と称した。粘土の一種である。
(7) 蘇民将来 福徳を祈る護符の一つ、柳の木でつくる。これを入れた袋をうばいあう祭は江刺市米里の古四王・同市伊手の熊野神社にもある。
(8) 薬師仏 坐像で高さ一二五センチ、サワラ材の一木造りで、面長で極端につりあがった眼じりと射すくめるような眼は、他に類例を見ないもの。膝裏に「貞観四(八六    二)年十二月」と書かれ、結縁の人びとの名がならんでいる。貞観期の仏像で銘のあるのはこれだけである。
(9) 悪路王 この話は奥浄瑠璃三代田村によったもののようで、奥浄瑠璃はお国浄瑠璃ともいわれた。いま写本が三七種ほどのこっている。
(10)高星 安倍貞任の子高星の伝説は、寛政九(一七九七)年の《つがるのおち》に村長河越某からきいた話がくわしくしるされており、ここにその話が挿入されている    のは、この《はしわのわかば》が、後に秋田に住んだころ改写したことを示している。
(11)四ツの釜 宮城県塩釜の町に塩釜神社とは別に四つの塩釜をまつった社がある。その釜の一つは鎌倉時代のものと見られ、他はやや新しい。それにならってここ    でも釜を神体としてまつったものであろう。
(12)守木 結婚式のとき夫が新妻をもり木で背負うことは《おののふるさと》天明五年一月二〇日の条にも見えている。
(13)毛越寺の衆徒 《かすむこまがた》天明六年一月二八日の条に、毛越寺の衆徒二人が比叡山へのぼるのでこの法師に故郷への手紙をたのんだ。四月二七日その   返事をもって帰って来たのである。
(14)壺の石書 壺の石書のことは《いわてのやま》天明八年七月五日の条にも見えており、その方が本物であろうと言っている。しかし一般には多賀城碑がそれと信じ   られており、芭蕉も多賀城碑を壺の石碑と書いている。
(15)尼公物語 奥浄瑠璃の外題の一つ。奥浄瑠璃には源平関係のものが多い。
(16)それものがたり語りさふらふ この語り出しの口調のともなうものを早物語という。節に抑揚がなく早口に語られるもので、《ひなの一ふし》に一〇篇ほどおさめてあ   る。
(17)にはご 蚕は上簇するまでに四回皮をぬぐ。それを眠るともいう。はきたてたばかりのものをけご、一民が終ると二齢といい、二齢の蚕をちちご、二眠を終って三齢    をたかご、三眠をふねのやすみといい、四齢をふなご、四眠をにわのやすみ、五齢をにわご、にわごの終りに繭をまく。
(18)補陀洛寺  《かつてのおゆみ》に見えており、そのほかにも無等良雄の開山を伝える正応寺・西来院のことにも、同じ書物でふれている。多分《かつてのおゆみ》を    書いた後に、この文章はここに挿入せられたと見られる。
(19)葛西清信 葛西氏は千葉県葛飾の豪族。清重は源頼朝に仕え、文治五年の奥州征伐に功あり、奥州惣奉行となり、その子孫は石巻に城をかまえ、代々岩手南部    から宮城北部一帯を領して大きな勢力をもっていた。



HOME
INDEX

2002.11.22
2002.11.27  Hsato