日本農業再生の道を探る思索の旅(8)


農の哲人二宮金次郎伝を読む 中

− 徹底した現地調査の人−


一説によれば、二宮金次郎は、身長が6尺1寸というから182cmもあった ようだ。今に残る肖像画を見ると、細面 で、彫りが深く、無精髭を生やし、神経質そうな顔をしている。現代の人物でいったい誰に似ているだろう、と考えて、すぐに脳裏に浮かんだのが、イチロー だった。確かに金次郎は、朝の4時から、田んぼに出て、夜の8時頃まで働いたというから、そのストイックさは、確かにイチローに近いものがあったのかもし れない。イチローも、試合の始まる2時間も前にだれもいない球場にやってきて、たったひとりでランニング、ストレッチなどのルーチンワークを繰り返してい るという。


  1 イチローと金次郎の接点「積小致大」

叔父の家における菜種の栽培は、金次郎にとって、成功の序曲に過ぎなかった。収穫の喜びを知った金次郎は、次に、近所に大洪水で湿地になっていた用水割を 見つけ、これに稲を植えることを志す。さっそく排水を施し、水を調整して、遺棄された稲穂を植えた。細心の注意を払って管理すること数ヶ月、わずか二俵余 りではあった。しかもこの地は年貢の掛からない非課税地であったので、丸々自分のものとなったのである。

内村は、この収穫について、「尊徳は真の独立人だったのです!『自然』は、正直に務める者の味方であることを学びました。尊徳の、その後の改革に対する考 えはすべて、『自然』は、その法にしたがう者には豊かに報いる、という簡単なことわりに基づいているのであります。」(前掲 83頁)と興奮気味に記述し ている。

この時、金次郎は「積小致大」(せきしょうちだい)の考えを悟ったと言われている。

私は、この「積小致大」について、今年で200本安打を7年連続続けている大リーガーイチローが、感想を訪ねられる度に「小さなことを積み重ねることで偉 大な記録に達することができる」と必ず答えることに近いものを感じるのである。

こうしてわずか叔父のところに来てから8年後の24歳の時には、亡き父が手放した土地をほとんど買い戻し、さらに買い増しをして二宮家を復興してしまうの である。


 2 服部家の財政再建の苦闘

だが、若い金次郎は、もっと勉学がしたかった。自然について、人の道について、その奥にある法則を掴みたかった。そこで彼は小田原藩家老職服部家に奉公す ることにした。この時、金次郎は、服部家の子息三人に付き添い、藩校の講堂から漏れ聞こえてくる教師の四書五経の講義や朱子学の太極の考え方を学んで自分 の思想に取り込んだのではないかと思われている。

2年後29歳となった金次郎は実家に戻った。この服部家に奉公した二年間の間に、非凡な金次郎は、「五常講」(ごじょうこう)という一種の信用組合を考案 し組織した。これは余剰名資金を、用人などに融通する融資スキームだ。「請」であるから連帯責任性を取り、貸倒リスクを低く抑えるなど、非常に合理的な思 考に基づいて出来上がっている。全体として、2006年度ノーベル平和賞を受賞したバングラデッシュのムハマド・ユヌス氏(1940− )が創設した「グ ラミン銀行」(注*)の「マイクロクレジット」とよく似ている。

注*「グラミン銀行」
83年設立。利用者は現在230万人。融資総額は35億ドル。基本的な融資は、借り手は女性(全体の95%)。5人で1グループを作り、返済の責任を連帯 して負う。最初グループの二人が融資を受け当初6週間後の返済を終えると残りのメンバーにも融資がなされる。最初の平均融資額は35ドル程度。年利20% の金利で、一年サイクルで融資が継続される。(季刊「環」藤原書店 VoL27 2006Autumnより 佐藤弘弥作成)

金次郎が32歳の時、信用を得ていた服部家当主十郎兵衛より、正式に服部家財政の立て直しの依頼を受ける。初め金次郎は、五常請や米相場などの財政的方法 で、立ち直るものと考えていたが、小手先の改革は、結局駄目なことに気づかされた、

ここで金次郎は、服部家窮乏の原因を、金次郎は徹底的に見つめることにした。問題は1200石取りの服部家が、藩財政の窮乏によって借り上げが行われて引 かれ、さらに藩からの借金も差し引かれ、実収は403俵と約3分の1に落ち込んでいた。にもかかわらず、服部家は、依然として、1200石の家計を続けて いることだった。

結局、金次郎は、千両を越えていた借財を5年間で返済するための計画を立て、毎年の予算を厳しく練り上げた。質素倹約を旨とする規範を作り、借財の返済に 努める反面で、藩から受けた融資金を利用して「五常請」(ごじょうこう)などで小さな利益を積み上げて行った。こうした金次郎の努力によって、服部家は4 年間で借財が消え、逆に300両の自己資金ができるという成果をもたらした。金次郎の高潔さは、この300両の内から100両を頂戴したにもかかわらず、 服部家の使用人たちにこれをすべて分け与えて、自分の報酬以外は受けとらず、自家に帰って行ったのである。


 3 二宮金次郎の方法「徹底した現地調査」

服部家にいた四年間で、金次郎は自己の農政理論の根幹となる思想を手にした。金次郎の生涯の財産となったのは、実はこれである。彼の思想は、さまざま後世 の史家によって分析されているが、私は「仕法帳」と呼ばれる「現地調査報告書」の作成ではないかと考える。つまり徹底した再建しようとする家あるいは田畑 の調査分析である。しかも金次郎の「仕法帳」は、単なる机上での資産や財産の分析ではない。彼は、自分の足を使い、目を信じ、徹底的にフィールドワークの 手法で問題を調べ尽くすやり方だ。その上で、実態を完全に把握し、「分度」というものを見極める。

分度とは、簡単に言えば、実態に見合った「適正な価値判断」を行い、計画を立て、その計画を忠実に守って生きることである。さらに細かく言えば、年貢を徴 収する側の分度と農民の分度を明確に区別し、過去十数年の年貢の収納の実績から実際の分度を割り出し、そこで出た余剰分を農民に還元する仕組みを取るやり 方である。これによって、領主の思い違いを抑え、農民には余剰米は還元されるという農事に対する動機付けが生まれるのである。世の中はすべて「分度」が正 しく守られないからこそ、乱れているのである。これは金次郎の中心思想ということができる。

ここからさらに、自然に「推譲」(すいじょう)という思考が生まれた。推譲は、余剰が生まれたものを、他人に譲ることである。ひと言で言えば余剰生産物の 適正な分配ということになる。つまり農民が、分度をしっかりと守り、余剰が生まれた時、納税(年貢)を受けた領主が、これを農民に還元することで、社会的 原資としての推譲が生まれ、これが資金となって、農民を潤し、村が豊かになり、強いては藩政(社会全体)が豊かになると金次郎は考えたのである。

推譲は、マルクス経済学の「剰余価値」に似た概念である。マルクスによれば、これが労働者に分配されず、利潤や利子の源泉となって、資本が蓄積されてい く。その結果、剰余価値は、資本家側に偏在して社会の矛盾は社会主義によって止揚されると説く。これが金次郎の推譲にあっては、余剰(剰余価値)をはじめ から、生産者である農民に分配することで、分配の適正化が担保されているとみることができる。

ここに私は二宮金次郎の日本的思想の特質をみるのである。彼の思想というものは、はじめから領主と農民の利害対立を「分度」と「推譲」の思考によって、和 らげる方法のように思える。まず金次郎は、「分度」によって分配の仕方を予め決め、余剰な生産物を生産者に還元するのである。

以上、金次郎のやり方は実にシンプルだ。そこで一番大事なのは「分度」を見極めるための「仕法」と呼ばれる徹底した「現地調査報告書」だった。

この方法を駆使し、次に二宮金次郎は、小田原藩の藩主の血流に通じる宇津家の財政再建を徹底した農地の実地調査を行い、分度を設定し、そこから緻密な計画 を立案した。用水路、堤防、橋梁、農道などを計画に沿って整備し、荒れ果てていた農地を復興し、この困難な任務を成功させた。金次郎のやり方は、近隣の村 でも、次々と実施され、小田原藩では好循環が生まれた。

同時に、金次郎の名声は、全国的なものとなり、天保の改革の推進者であった幕府の老中水野忠邦(1794−1851)にも知れ渡ることとなり、利根川分水 路の調査の目論見書を作成させることになった。

この時、金次郎は、忠邦の意に反し、まず周辺の農村の復興から図るべきだとの提言を付したのであった。忠邦は、この提言に感服し、利根川分水路計画に金次 郎を参加させるのではなく、この周辺の農村復興の任務を与えたのであった。余談になるが、この時、厳しい封建制の時代にあって、金次郎は農民の身分から武 士の身分に取りあげられたのであった。時に金次郎は56歳になっていた。 つづく

二宮金次郎伝を読む 下

2007.09.17 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ