日本農業再生の道を探る思索の旅(9)


農の哲人二宮金次郎伝を読む 下

− 自然を師とした独創の人−


1 日光復興の大事業に挑戦

 金次郎の名声は、幕府にも登用され次々と与えられた難問を解決していく中で、ますます高まっていった。金次郎の元へは、諸藩の財政担当者が度々訪れるよ うになった。彼らは自らの藩の財政を再建するため、金次郎に農政改革のアドバイスを請うのだった。多忙の中で、金次郎は出来うる限りこの求めに応じた。自 分ができない場合は、彼の下で金次郎の仕法を学んだ者がその任に当たった。

 そんな折、58歳になる金次郎に幕府より最大の難題が持ち込まれた。下野国(現在の栃木県)日光である。日光は、時の将軍家を起こした徳川家康を祀る日 光東照宮のある2万石の神領である。しかしながら、この地は高地であり、起伏に富み、田畑にするようなところは少なかった。神領のため租税は軽いが、水田 も少なく、領民は雑穀を日常に食し、必要量の10分の1にも満たないレベルだった。このために、天明の飢饉(1781−1787)以降、餓死者を多数出 し、またこの地を離散する領民も多く、ますます人口が減少して耕地も荒れ果てていた。幕府はこの地を復興させることによって、天下に徳川将軍家の威光を示 したかったのかもしれない。

 二宮金次郎は、ここでも新しい特別なやり方をした訳ではない。彼はただこれまでのように自分のスタイル(仕法)を徹底的に貫いただけだった。金次郎は、 それから3年の歳月を掛けて日光の89ヶ村と新田2ヶ村を隈無く回って調査をした。この調査には、これまで金次郎が鍛え上げた「二宮組」とも言うべき最高 のスタッフが投入された。

 金次郎は高齢と過労によってやや体調を崩していたが、杖をもって日光の神領を自ら廻り歩いた。

 こうして、日光という場所をあらゆる角度から分析した「日光仕法雛形」(合計84冊)が完成したのである。二宮金次郎は、これをさらに精選して64冊と し、幕府に提出したのである。先に述べたように、数十年にわたる各地域の農作物の収穫や年貢料を羅列し、土地の潜在的可能性を「分度」として客観性をもっ て纏め上げた調査書であった。

 しかしながら、この日光復興の指示書とも言うべき政策が実際に行われたのは、金次郎が67歳になった寿永6年(1853)の2月からだった。


2 金融的手法「日光山御貸付所」の活用

 この間、金次郎の周辺でも様々なことがあった。まず金次郎の手腕を全面的に支持してきた小田原藩主大久保忠真が亡くなったのである。これによって、小田 原藩で金次郎の政策を快く思わない勢力が力を得た。そのため、金次郎が私費5千両ほどを「報徳金」として投じ、設立していた金融機関「小田原仕法組合」 (後の小田原報徳社)が突然中止の命を受けてしまった(1846)。私費が死に金になることを案じた金次郎は、ただちに幕府勘定奉行に、「報徳金」と「謝 金」(利息・礼金)の返還を願い出るのだった。おそらくこれが原因で金次郎を暗殺する動きもあったようで、心労は堪えなかった。

 しかし、どうにかこの資金が返却されることになり、報徳金と謝金の合計5千5百両を金次郎はそっくりそのまま、日光復興のための「日光山御貸付所」の資 金として投入することにしたのである。これは転んでもタダでは起きないタフな金次郎の本領が見えてくるようなエピソードだ。また、この「日光山御貸付所」 には、金次郎が総力を挙げて藩財政の復興に努力した東北相馬藩(福島)より向こう10年間毎年5百両の資金が注入される申し出がなされた(1852)。ま た、谷田部藩細川家からは100両の寄進があった(1853)。こうして、金次郎の人望による日光復興の流れは、いささか牛歩ではあったが整っていったの であった。


3 日光復活の第一歩は公共事業(大谷川水路化事業)

 寿永5年(1853)2月13日、67歳の金次郎に、いよいよ日光復興の仕法の着手が命令された。しかし誰にも寿命はある。もう金次郎の時間はわずかし かなかった。それでも金次郎は、奉行の「籠で回られては」との進言を断り、病を押して村内を杖をつき自力で歩き、指示を与えた。側には金次郎の長男弥太郎 の姿があった。金次郎は自分の思いのすべてを弥太郎に託す気持だったに違いない。

 まず金次郎が日光復興で行ったことは、大谷川(だいやがわ)から水路を2里ばかり掘って、これを農業用水に利用する公共事業だった。これによって、荒れ 地はたちまち農地となり、領民は自分たちが何をなすべきか、希望の未来が見えるような気がしたのである。たちまち人々は、自分のところに新用水を分けてく れるように申し出てきた。金次郎が思った通りになったのである。

 日光の潜在的能力を知る金次郎にとって大事なことは、領民に自信を持たせ、動機付けをすることだった。そこで努力する者には直ちに5両、10両の褒賞を 与え、どのように励めば豊かになるかを、数字を示しシンプルに語った。

 曰く「今日光には、すべてを入れて千町歩の耕作地がある。たとえ痩せているといっても、1反で4俵のコメを作れば、日光全体で4万石のコメが作れる。開 墾をすればさらに出来高は増える。努力する者には必ず報いる。」

 金次郎は誠意を持って村を歩き、壊れた家屋があればこれを修繕するなどの処置を取る。農具を分け与え、無利息の資金を融通し、堕落した風潮はたちまち消 え失せた。褒賞制度と家屋の修繕などのやり方は、金次郎がこれまでも、他の村で行ってきたことだ。これによって村人に動機付けを行い、幕府が本気でこれか らの改革を取り組んでいく、という姿勢を示すものである。

 日光復興計画に着手した同年の初秋、ついに病が金次郎にドクターストップを掛けた。村を廻る途中で病に倒れたのである。それから2年後、金次郎は彼を心 から敬愛する相馬藩内に家屋を賜り、家族に見守られながら70歳で天に召されたのであった。


4 もしも二宮金次郎が甦れば何を考えるだろう!?

 「まさに二宮金次郎は、日本農業に初めて現れた哲人とも言える人物だった。金次郎のやり方は、まず現場を歩き、丹念に調べ上げるということから始まる。 これによって土地の潜在能力(分度)を量り、政策として練り上げるのである。現在の日本農政にとって一番欠落しているのは、この二宮金次郎が最初に行った 農村の現地調査である。

 さらに二宮は、改革を実践するにあたっては、自らその先頭に立って、現場を指導して回った。これは分業化があらゆる分野で進み過ぎた現代では考えられな いことだ。しかし金次郎は、立てた計画を最初から最後まで責任をもって遂行するというスタイルを通した。その意味で金次郎は、実践の人だった。若い頃、苦 労しながら中国の古典に親しんだが、二宮にとって、師とは本でも人でもなく、荒れ果てた農地や日照りを起こす自然そのものだったといえるだろう。思想史の 中でも、徳川時代に隆盛となった朱子学や国学とは一線を画す独創的なものだ。

 「徳川思想小史」の中で源了圓氏(1920− )は、以下のように、金次郎の思想を位置づけている。

 「農政家としての二宮尊徳の業績には、米作中心主義で他の商品農産物の奨励には及んでいないとか、荒蕪地の開拓に限られて現存の耕作地の生産向上をは かっていないとか、その限界に関していろいろな評価が可能であろうが、農民それ自体の中からその生活経験をもとにして生まれた思想として、彼の思想は注目 に値する。尊徳は(中略)特定の学派に所属せず、自分の経験を基礎とし、天地を師として学ぶという……性格をもっていた。」(「徳川思想小史」中公新書  1973年刊 168頁)

 同じく丸山眞男(1914−1996)は、「日本政治思想史研究」(東京大学出版会 1952年 309頁)の中で、金次郎の思想の「作為」という部分 に着目した。金次郎の思想における「作為」とは、シンプルに言えば、日々怠らず勤労に励むことに他ならない。ここで大事なのは、絶えず自然(天道)をよく 見て、日々に励むことである。これから丸山は、政治思想史には金次郎の思想は入らないけれども、「幕末の荒廃に瀕した農業が尊徳をして人間の主体的作為の 評価に駆り立てた」と評している。

 さて、もしも、この二宮金次郎という人物が現代に生きていたならば、現代の日本農業をどのようにして復興しようと計画するだろうかと思った。おそらく、 現代の国際社会の中で日本農業が陥っている現状を経済学的手法で分析し、米一辺倒の農業からの転換を図ることを模索するのではなかろうか。

 内村鑑三がその著「代表的日本人」で取りあげた二宮金次郎伝の冒頭「農業は国家存立の大本である」と書いたのは、今から99年前のことだった。今や農業 は、財政的に国家存立の大本ではなくなった。国家の大本は電機や自動車などの国際的輸出産業にとって代わられ、農業は封建時代の遺物のごとき存在になって しまったかに見える。

 しかし、私は日本の農業が持つ潜在力は、けっして過去の遺物ではないと考える。それは農業が環境に果たしている役割であるとか、日本の故郷としての文化 的景観を郷愁を持ってみているからではない。日本農業には、二宮金次郎が用いた現場の徹底調査と独創的な発想力、勤勉さなどを用いるならば、必ずや道筋は あると考えるのである。

 最後に、内村鑑三の気に入っている金次郎の言葉を挙げておこう。「一村を救いうる方法は全国を救いうる。その原理は同じである」(「代表的日本人」 109頁)

★主な参考文献

「後世への最大遺物」(内村鑑三著 岩波文庫 1946年刊)
「日本の名著 二宮尊徳」(中央公論社 1970年刊)
「日本思想大系 二宮尊徳 大原幽学」(岩波書店 1973年刊)



2007.09.25 佐藤弘弥

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