〈岩 ヶ 崎 2〉

清水寺の今昔

栗駒町岩ヶ崎字長町の奥まったところに観音寺がある。正しくは真言宗音羽山清水寺(きよみづでら)である。そのまた奥に町の鎮守熊野神社が鎮座まします。

そもそも西国三十三ヶ所、第十六番の札所京都の音羽山清水寺と山号寺名が全く同じであることは、地形が似ていることから、その寺に擬して建立したゆかりがあり、寺名も同じになったと、先住職から聞いた記憶を思い起す。

寺伝によれば開基は遠く、大同二年(八〇七)世は平安の頃、将軍田村麻呂が奥州蝦夷征伐のため、当地に駐屯した際勧請されたとある。その昔岩ヶ崎は石崎山を突端とする一面海のみ崎だったのが、千二百年前のその頃には、もう海でなくなり、見渡す限りの湿地帯と化し、丘の高いところにチラリ、ホラリ人家らしい蝦夷の住家だけがあった平野ではなかったか。

その平野を一望するここが観音寺建立に適当であるとし、蝦夷を平定したお礼に勧請されたのが、現在の清水寺である。この年金成町津久毛大迫の白山社にも、田村麻呂将軍が観音堂を創建している。

それから四一六年経て、親らん、道之、源空らによる鎌倉仏教の最も盛んだった貞応二年(一二二三)三迫の森館城主、弥平兵ェ、平師門夫婦らによって当時寺域二九万八九七三坪を以て、七堂伽藍に水屋、鐘楼、庫裡等十二宇と、築山泉池まで完備した。実に見事な清水寺を建立したが、寛正六年(一四六五)春、惜しくも野火のため建物が殆ど焼失した。

その後またまた山火事に遭い焼失すること二回に及び熊野神社に立退いて篤信者の献納によって再建したとある。現在の本堂は、明治廿年六十才でこの世を去った二十八世を去った二十八世泰教住職が没前三十年前に再建したとのことであるから、今より一一七年前の安政四年(一八五七)建立ということになる。本尊である京都の智積院から拝受した閻浮檀金一寸八分の十一面千寿観世音は、田村麻呂将軍の守本尊であり、三十三年毎のご開帳以外には一般には拝観できない秘仏である。

南無大慈大悲にひかれた庶民の信仰でつくりあげた祭典であろうが、盛夏は清水寺の祭典とともに訪れる。新八月十日のご縁日ともなれば、前夜から近郷近在はいうに及ばず、遠方からまで善男善女が参道に犇めき、子供らにもまた待ちに待った年一回のご縁日となる。昔はなうの夜提灯をぶら下げて物売りが石段附近にまで溢れ、本堂前は参詣人と、ガス燈の俄店でごった返し、裸電灯の下で民謡大会があったものである。

この日に参詣すれば五万六千日参詣したと同じご利益にあやかるという、町を挙げての祭典であったが、いまはご縁日こそあっても名ばかりで参詣人がチラリ、ホラリ大いに栄えたあの日の雑沓はどこへいってしまったのだろうか、辛うじて昔話の片隅に残ろうとしているのである。

今は昔、檀家のない寺の悲劇なのだろうか。居ながらにして星を仰ぎ、全くの廃寺同然となりながらも寺男が一人守っていたのを、明治二十四年真坂から教道師(現住祖父)が入山して艱難辛苦再興して第二十九世となり、現在の寺を築きあげたのである。これだけの由緒ある古刹に何んら文献が遺っていないのは、寛正の火災による焼失と、教道和尚再興以前に惜しくも雨漏り等により、悉く腐蝕滅失してしまったからである。

民俗信仰の名残りとでもいうのだろうか、大正の頃町の飲食店が建立したという、鄙びた祠が境内にある。山神と稲荷さまも合祭してあるが、商売繁昌とはうらはらに、町の水商女の男への呪いらしく、木あり、石あり長さ三〇センチもある巨大な男性器が六基いかめしく奉納されている。また附近には亡くした子供の成仏を祈り、ささやかな母の願いをこめた観音碑も立っている。

熊野神社を囲んで一山とする路傍には、なかば埋もれて立っている石碑もあるが、前人の素朴な信仰のしるしであろう。一ぺん立ったからにはいつの世までも磨滅して、果てるまで立っていればいい。時々訪れその前に立つと、ふと建立した昔の人が現世に浮んで来そうな錯覚におそわれるのである。

この寺くらい土俗の信仰にぶつかる寺はないであろう。庫裡の後にある竹薮は正徳六年(一七一六)袋村の座頭某が、百日祈願の末観音の霊験によって開眼し、不要になった竹杖を地に刺し、それが根ついたのだという。境内に不動滝がある。水さえあれば、すぐにも流れ落ちる五メートルぐらいの人工滝であるが、かつては本堂裏にあった二の滝が昭和のアイオン台風で崩壊したのを、ここに移したのだという。その時の不動尊はいま本堂内に秘蔵してある。

そこを登った小高い丘には、先住職累代の墓碑が数基立っている。幾百星霜風雪に耐えて立ってきたので、苔むして字も判読できない墓碑のなかに「延宝九年正月十九日法印大僧都」とある。この碑からでももう三〇〇年を経た、元禄時代霊元天皇の時であることが分る。

一段と高いところに、昭和七年九月遷座とある。六日町観音講婦人達で奉納した小さな石碑、白山三社がある。現世から後世へ精霊を慰めようと発願したのであろうが、奉納者はみな故人となっている。

境内は広い。春の花見時、見渡す限りの青絨氈の上で五人や十人浮かれたっても目立ちもしない。そばには本山、能化大和尚参禅の砌り、修法によって割れたという法割石がある。松の木が一本法割した中央から大木となって生え繁っている二代石割松がある。それが何であろうともいい、近くに明治初年の頃枯死したという初代石割松跡がある。

「そばの蛇柳樹は今は枯れてないが、一メートルばかりの石地蔵が立っている。かつては庫裡の前庭に立っていて、そばに海棠も咲いて参詣人に親しまれてきた蛇柳の地蔵だが、いつの間にやら今のところに場所が変って立っている。

たたずまいは老松の深い木立に囲まれて、町の最古の寺にふさわしい。春の桜花の頃には一句ひねりたくもなる絶景だが、満山新緑におおわれ閑古鳥の鳴く夏もいい。全山紅葉に彩られる秋はまたいいし冬の雪見の清水寺も捨て難い。

明治の頃、町の歌人がふるさとの自然を愛し、ひたすらに懐郷を歌って献詠した。(栗原郡史にもある)岩ヶ崎八景の板絵が本堂内にある。その頃の岩ヶ崎を識る貴重な唯一の板絵である。

弘法大師作と伝えられる不動明王像は、本堂内に秘蔵されていて住職の許しがないと拝観できない。いろいろの絵馬もいい、生きとし生ける人間の勝手な祈りのしるしである。

山の寺によくある磨崖仏はどこにも見当らない。なだらかな山、静寂な山は仏ばかりがおわします。瞑想の寺である。郷土史家が一度は訪ねてみたい寺である。

星うつり年かわり、焼失前の往時を偲ぶよすがは殆どないが、これだけの絶景を備えている寺はあまりないであろう。町民が唯一の憩の場としている、清水寺の廃れゆくのを惜しんでか、寺の入口には町の商工会で数百株の菖蒲を移植して、毎年菖蒲祭りを行なうし、観光課では頂上までの遊歩道を開発した。昭和四十五年四月七日築館農林事務所でも椿、紅葉を記念植樹したから十年を待たずして山も一段と町の名勝となるであろう。

この寺も父住職亡きあとは、長男竜牙和尚第三十一世だが不在のため、母が得度して住職代理となって寺を維持してきた。この母はこの町で育ち、嫁にきて老いた。町の古い歴史を誰よりも知っている。祖先がのこしてくれた寺だが、このままでは再び無住時代を迎え、荒廃するのではないだろうか。

しかし、栄枯盛衰は世の習い、やがてこの寺にも昔のように栄える時が再び訪れるであろうことを確信したい。その日まで清水寺はこれでいいのかもしれない。

(近江茂一)


逆さ仏の由来

東岩井藤沢の南朝、新田氏から転封して中村姓を名乗り、元禄七年(一六九四)伊達家四代綱村公姫三女(二女は伊達安芸公正妻)を娶って岩ヶ崎城主となった始祖、日向成義の家中に、太宰六郎左ェ門という正義感の強い家来があって、つねに同輩からの妬みは絶えなかった。

山林盗伐という全く寝耳に水の罪で突然入牢されてしまった。もとより同輩のざん訴によるものであり、身の潔白の晴れるのを信じて、毎日の責苦に耐え忍んできたが、一向に晴れそうもないばかりか日増しに募る過酷な仕打ちにもはや是れまでと天を呪い、人を恨み、延び放題の頭髪から、毎日一本づつ抜きとった毛髪で縄をつくり、牢内で縊死したのが宝暦八年(一七五八)十月十八日である。

恨みを後世にまでも遺したその時の遺言に「苦しみごとを祈願する者には、凡ゆる人の味方になるから、巳れの屍を逆さに埋葬せよ」と言い遺して逝ったが、逆さに埋葬することもできず、普通にして霊を弔った。ところが「何故逆さに埋めなかったか」と毎夜家族の枕神に立つので堀り起し、逆さに葬り直したのが、旗本山館山寺にある逆さ仏の由来である。

誰にも気付かれず、真夜中に祈願するものには必ず念願が叶うという。遠方からの祈願者未だ絶えず住所、氏名に生年月日まで書いた祈願の旗が、祈願成就の旗と入り混り薄暗い小堂狭しと掛けられてあるのが、そこはかとなく無気味だ。堂内に「顕真明神」とある三〇センチぐらいの石碑が、太宰六郎左ェ門を逆さに埋葬した墓である。半坪ぐらいの堂内には誰が奉納したのか、亜鉛板でつくったローソク立があり、いま祈願して間もないらしく消されたばかりのローソクが無気味に立っていて、側には火を点けていない真新しい線香まで置かれてあった。遠くで閑古鳥が啼いてもう黄昏も近く、墓地は静まりかえって人の気配すらもない。

かつて町の若者達で試肝会があり、闇夜の晩に逆さ仏の堂から白旗をもってくることになったが、さすが行く若者はなかったとか。山の墓地の奥まった場所にある逆さ仏の墓は、淋しいなどという生やさしい場所ではない。

その後樹木は伐採されて、堂の周囲だけが数本の老杉に取囲まれていたが、いつの頃か火災にあってはいるがローソクや線香の火で焼けたとは考えられない、おそらく落雷があったのであろう。人間一人入れるくらいの焼けただれた洞は、深夜の祈願に暖をとった跡だろうが、枯れずに立っているのが不思議で、傍らの老杉には、呪いの五寸釘も打たれてあったという。

牢死してから二一六年が過ぎた今もなお祈願者があとを絶たないのをみると、祈願の執念から丑満時角ローソクを点けて詣でる物凄い祈願者が未だあるのかもしれない。その影がどこからともなく浮かんできそうな錯覚に襲われる。現在は使用してはいないが、眼下には町の火葬場の煙突も見え、笑いごとでは行けそうな場所ではない。墓地の一段と高い場所に、中村公三〇〇年の昔の跡が見上げるような墓碑の下に永遠の眠りについている。

逆さ仏というと、なんとなく妖気が漂よってくるかんじのこの堂もローソクの火が旗へでも燃え移ったのであったか、一昨年堂が全焼して現在の堂は、その後新らしく建てたのである。今は周囲の老杉も凡て伐採されて、墓地の遠くからでもお堂は確かめられるし、線香炉、ローソク立も堂外に設備される等、堂内もすっかり改装され、昔ほどの無気味さはなくなってしまったものの普通の墓と違って堂内にはゴッソリ毛髪が奉納されてあるのは、如何にも無気味で、近願或は祈願成就の白旗が堂に吊しきれないで、堂外に無雑作に捨てられている。

怨死した者はどこにもあるであろう。然し逆さに葬られた怨霊の墓が現存して、数奇の歴史を語り継がれている寺は、あまり例を見ない。

近年まで施主は、町の西村今朝治さんだったというがもう故人となり、いま町に同姓が十一戸もあるが、太宰六郎左ェ門の系類は絶えてしまって今は無縁仏である。

(近江茂一)


おろちの話

その一 ふな清水の白蛇

岩ヶ崎小学校裏の館山中腹に大きな桜の木が見える。その根本に湧く泉を水源地として、学校に水道をとり入れて飲んだのを記憶している人も多いであろう。この水源地を人呼んでふな清水または桜清水という。その下の方が城内の用水地になっていたようである。二年程前に開田した時、池の中に使用した棒杭が池の形通りになって出てきた。

あまり古くもない昔、ごうらになっている桜の大木があったそうだ。ある年の夏この桜の大木に落雷があった。かねてこのごうらに大蛇が巣をくっていると噂されていたので行って見ると、大きな白蛇のむけ殻が割れたごうら口からぶら下っていた。その皮の大きさは博多の白帯を吊した様だったとのことである。

白い蛇は見たことがないが、蛇は同じ場所に動かないでいるものではないから、丁度落雷のあった時は留守中だったのであろう。落雷で住む場所もなくなった大蛇は、むけがらだけを残して宿がえしたのではなかろうか。


その二 蛇柳地蔵尊

岩ヶ崎桐木沢に熊野神社と清水観音とがある。その境は谷川になっていて、一の滝、二の滝、三の滝がある。その源は平田森である。或は兵多森とも書く。熊野神社と平田森との中間に、昔の清水寺跡がそっくり残っている。そこは松と雑木の混合林になっている。二の滝の頂上は雑木の自然林で谷は尖底谷で熊笹が生い繁り、昼なお暗く薄気味悪い場所であった。

清水寺の住職佐藤亮道さんは八年前に亡くなったが、父の教道師が或る日裏山の一の滝のところで薪集めをして居た。と、谷川に橋になっている枯木が突然動き始めた、大蛇である。とっさに観音経を唱え上げてるうちに、五升樽を引づったような跡を残して、大蛇はいづれかに姿を消した。今境内の石割松の根方に蛇柳地蔵尊が建ててある。作者は町内長町の石工熊谷八重治さんであるが建立の趣旨はこの話と関連があるかはさだかでない。


その三 (うわばみ)の鼻いびき

岩ヶ崎四番丁に及川定治さんという、骨董好きの老人がいた。八年前八十才で亡くなったが、正直で人のよい老人であった。丁度、東京オリンピックのあった年、こんな懐旧談をした。平田森が国有林で大きな松の樹がたくさんあった頃、平田森に茸取りに行った。山頂附近で松の根方に腰を下ろし、まづ一服と腰の胴乱を出したばこに火を点けた。するとやや上の方から大きな鼻いびきが聞こえてくるのであった。今時昼寝をしている奴は誰だろうと近づいて見ると、驚いた、太さ一升瓶位ある蛇がどぐろを巻いて寝ているではないか。大蛇の方も人の気配に目を醒まし、もくもくと鎌首を上げた。これを見た定治さんは、ふごも鎌もあらばこそ、平田森の頂上から我が家まで、ころげるように駈け戻りそのまま口もきけず四日間寝たきりである。家人に起されて漸く事の次第を語った。その時はただ駈け戻ったのではない、飛んで帰ったのだと話した。ふごと鎌はあとで近所の人が届けてくれた。

兎も角、平田森頂上のあるとこには、何者かが出入している穴がある。西北裏側は岩石になっているので誰かが何かを見ることがあったのだろう。私はその穴を知っているが、未だ大蛇には逢っていない。この山で煙草をのむと出ると言い伝えられている。


その四 熊野神社の杉

熊野神社の境内は、樹令二百年以上も経た杉の巨木に囲まれていた。どの木も直径二米以上もあったが、昭和十六年戦時用の献木で伐られてしまった。伐り手は八日町の千葉末吉さんで、技のよい木挽さんであったが、六年前八十三才で亡くなった。家督の幸吉さんは今健在で、当時の想い出をこう語ってくれた。

その日は暑い夏の日の午前十時頃であった。午後から風が出て伐採は危険だからというので、夜の明けるのを待って根廻しをし、十時過ぎ頃までに一の滝の上の太い松を伐倒した。そして兼て急拵えして置いた、水溜場に水呑みに行った。ところが水溜りの中に、どっちが頭か、尾か判らない大蛇の同体が入っている。

ごろ八茶碗より太く、色は見たこともない絣の模様である。蛇ぐらいでは驚かない山仕事の職人ではあるが、二人は尻込みをした。これは熊野様がお観音様のお使蛇だかもしれないと、水も呑まずその場を離れた。午後三時頃行った時は未だいたったが、夕方行った時は姿は消えて居なくなっていた。

それから二日経って熊野神社拝殿から観音様の方に降りる階段の左側の杉を伐り倒した日の午後三時頃である。二の滝の不動尊前に水を呑みに降りふと滝の上の方を見ると、熊笹の中から一米も高く鎌首をもたげて、こちらを見ているではないか。目は爛々ともの凄く六尺検竿を振り上げて見たがとても敵対できそうもないしろものである。

今まで随分蛇を見たが、こんな恐ろしいことに逢ったのは初めてだと幸吉さんは語ってくれた。その後大蛇はどうなったか誰からも話を聞かない。


その五 南方の大蛇

私は昭和十九年八月満州の黒河から、東南アジア方面の飛行場設定隊長としてビルマに転任した。任地は馬来半島の西側で、更に西方海上にはタボイ島が幽かに見えるタモーという部落であった。又少し南に下ると昔、山田長政が姑の命令でシャム、バンコックから遠征中、兵変をきいて急拠帰還したというタボイの街がある。作業小隊の兵舎は周りがジャングルに囲まれ静かなところであった。

或る夜皆昼の疲れで寝静まった頃、可愛がって飼っていた犬が突然兵舎の外で吠え廻った。「すわ敵襲か」「スパイの潜入か」と飛び起き出て見ると、敵ではなくて大きな蛇であった。

蛇も犬にかかるでもなく、犬もまた蛇に食いつくでもなく、遠巻きに吠えながら駈け廻っているのである。皆んなは銃とスコップを持ち出して大騒ぎして、兎も角も獲止めた。肉はスキ焼きにして食った。皮は凱旋のお土産にと剥いで干すことにした。太さは剥いだ皮の巾が四五?六センチの錦蛇であった。部落の住民は鶏やら家鴨やら取られた蛇だったと喜んだ。その後私は転任してしまったから、蛇の皮はどうなったかわからない。

(熊谷芳巳)


岩ヶ崎の用水配置

岩ヶ崎町の計画に於ける特性は用水の完備である。即三迫川を町の上流より分流して三つの堰を造っている。即ち上堰、軽部堰、成田堰である。上堰は山の岸口沿うて居館の前を東流する。これから直角に幾条も分流して諸士屋敷に通じ用水にしてある。

軽部、成田堰は何時頃、開鑿したものかは不明だが、堂々たる土木工事であり、町の外辺に防禦として役立つと同時に町屋敷の用水並びに下流の潅漑に役立っている。

現在もいたる所、清水潺々として流れ、まことに用水完備と云う都市計画の要項を明瞭に示している

屋敷割

諸士屋敷は禄高に応じて整然と計画されている。即ち南北に割った道路が大手前に相当する四軒丁を中心にして東の方へ六軒丁、中小路、東小路を配し、西には二、三、四、五番丁、並町を配置されている。山麓には山根丁、長町が東西に走っている。

此の道路の間を等分して二屋敷にわる。其の大きさは、例へば四番丁と五番丁間では東西約二十三間となっている。南北は屋敷が隣接している屋敷境に上堰から清水を分流していて、用水としている。面白いのは此の諸士屋敷に古家の台所がいづれも此の用水に近く配置され、丁度プランが逆になっている足軽屋敷の方は、坪数が遙かに小さくなっている。

次に町屋敷は道路に沿うて区画されている。町屋敷の間口はまちまちで標準が分明しない。更に調査の要がある。旧道路の項で述べたように、元禄図の町屋敷戸数百四十六戸で町全長五、五〇〇尺を割ると、一屋敷間口は三七七尺となり一間六尺三寸となれば丁度六間となる。ここで稍大胆な推定になるが最初町屋敷を平均六間幅ときめて計画をした事と思われる。実際には分限に応じて伸縮を行ない分割して現在に至ったものとみえる。屋敷奥行は六日町、八日町の中枢部が最も多く、四日町、末町の方は少なくなっている。

ここで寛文五年制定の仙台藩屋敷規定のうち並諸職人の屋敷の大きさは表六間、裏二十五間というものが思い出される。(東藩史稿巻之五)

(葦名悳盛)


梁川頼親

藩士。播磨と称す、栗原郡鶯沢邑主、仙台藩御一家格なり。

戊辰の役、七番大隊長を以て、秋田口に出征を命ぜらる、頼親乃ち後事を母堂に託し、登城参政室に至り請うて曰く『我家貧にして良銃を購ふこと能はず、舶載の良銃一挺を賜へ』と、参政等恐色あり。頼親怒って曰く『既に君国の為に一命を捧ぐ、何ぞ銃を惜むことあらんや』と、座中の最良なるものを把り笑って去らんとす、参政遮って之を咎む、葦名靱負之を壮として問はずして与ふ。

夫より羽州新庄に出征し新庄藩の違盟により前後敵を受く、頼親衆を督して奮戦勇闘刀鋸の如く身数創を被り亦如何ともすべからず。時に軍監五十嵐岱介も亦負傷したるを頼み路傍の渓間に至り五十嵐と交刺して死す。

時に、明治元年七月十一日、行年三十七。

遺物を郷里鶯沢に葬りて碑を立つ。  (仙台藩戊辰殉難小史)

墓碑は、鶯沢町字北郷早坂、金剛寺の梁川家代々の墓地内にあり。

碑の表面に草書体で梁川頼親基とあり、向って左面には法名、誠忠院殿劔山尽心居士、慶応四戊辰年七月十一日行年三十七、とある。碑の右面には草書体の碑文あるも磨滅して全文の判読不能なり。

(菅原常雄)


おとむらいのことども

一口に仏教というが、この仏教は釈尊即ちお釈迦さまが本流である。然し曹洞宗、禅宗、浄土宗、真言真宗、真言宗、日蓮宗を仏教という。之れは教祖から別れたからそういうのである。然して各宗とも本山あり、又総本山もあり各宗によって夫々違う。

各寺にはご本尊様がある。普通は住職と呼んでいるが大本山の住職と呼ばない。貫主と呼ぶ。吾々はこの場合貫主さまと呼ばないで禅師さまと云う。即ち禅師さまになられた場合、天皇から下賜さるるならわしである。

各宗の檀家に不幸があったとき、特に親属の場合の服忌を書いてみよう。

服忌
親族の場合その引籠りは
 父母の場合は  五十日 〜 十三ヶ月
 養父母         三十日 〜 百五十日
 夫           三十日 〜 十ヶ月
 妻           三十日 〜 九十日
 嫡子           二十日 〜 九十日
 祖父母       二十日 〜 九十日
 高祖父母      二十日 〜 三十日
 兄弟姉妹      二十日 〜 九十日
 孫             十日   〜 二十日
 末孫           三日    〜 七日
 曽孫玄孫      三日   〜 七日
 従兄弟姉妹    三日   〜 七日

葬礼の帳簿
帳簿の綴り様は重ねて閉添べからず。紙の振りと真結びのこと。

屏風
死骸の枕頭に屏風を逆さに立てること。
顔は白紙を以って包み、北枕に臥せしむ。
棺の上に一振の刃物を置く魔の来襲に備う、又猫の室内に入るを堅く忌む。

戒名
檀那寺の住職は故人の素性功績等を鑑みて名を択ぶ。但し浄土宗は改名に誉の字を入れ日蓮宗は必ず日の字を入れるならわしの様だ。

忌中札
四十九日間貼るを常とした今は世なみも変り大体初七日で終る。

当り日及び周忌
初七日、二七日、三七日、四七日、三十五日、四十九日、七十五日、百ヶ日忌
一周忌、三年忌、七年忌、十三年忌、十七年忌、二十三年忌、二十七年忌、三十三年忌、三十七年忌、四十三年忌、五十年忌
五十年忌は精進を廃し無縁にしてもよい。

葬儀行列

仮門
先竜
前旗   二旒
先灯提 二ヶ
弔旗
花輪
生花
造花
四華


菓子
団子
盛飯
香炉
前机
写真  二男
位碑  相続人
天台  仏様の身近な親戚
      本家
天蓋  仏様身近かな親類或は友人
六尺  仏様の子、孫、甥に当る者
小俵米 仏さまの飯米

遺族親戚会葬者の順

後旗   二
後灯提 二
先旗には 仏諸行無常
         法是生滅法
後旗に   僧生滅滅巳
         宝寂滅為楽
行列及び法要は主として曹洞宗にならった。

(斎藤実)


戊辰の役

寛文年間勃発した寛文事件いわゆる伊達騒動は仙台藩内部に於ける深刻な抗争からの事件で、仙台藩の命取りともいわれるお家騒動であった。又慶応から明治にかけて仙台藩をして苦況に陥れた戊辰の役は会津をめぐり仙台を中心として展開されたものである。

藩主伊達慶邦初め伊達の諸将領主頭を悩ました大事変であった。将軍徳川慶喜が時世を洞察し朝廷に大政奉還したのが始まりである。即ち佐幕派勤王派と入れ乱れ、議論百出収集に難渋の日々であった。岩ヶ崎領主中村宗三郎に出藩の命が下った。既にこの頃、薩長の兵は福島の二本松に陣を布いていた。即ち倒幕派の軍である。

仙台藩は勤王派であったが、薩長は種々の策を弄し佐幕派ときめつけた。二本松に薩長が兵陣を布いたことを逸速く知ったのが星恂太郎である。星恂太郎は米国人から洋兵学を調練され四ヶ月にしてほぼ成った。星は仙台藩の少壮血気の千名の兵を募り薩長と対戦すべく仙台を立った。しかし、之れが藩主慶邦の知るところとなり漸く槻木駅で引き止めさした。之れを見ても仙台藩は徒らに戦を交えることを嫌い一方勤王派の域にあったことが窺われる。

星恂太郎の率いる隊は額兵隊と称し、新式の調練を得ていたのでダンブクロをはき堂々たる軍兵であったと言う。

戦況は伊達藩に及ばんとしたので?に意を決した藩主慶邦は軍馬を第一戦に配した。その中に最も痛快な隊がある。即ち細谷十太夫の率いる一五〇名で、称して鳥組と言う。全身を黒い布でおおい昼は出撃せず、夜だけの出陣で敵の真直中に突撃することを戦術とした。三十有三回に及んだというが鳥組はいつも勝ち戦であった。鳥組隊は神出鬼没で暫く加美郡王城寺と言う寺に屯した。その屯した證佐として本堂の柱に刀きずがある。同寺の方丈千葉氏の話である。

薩長の鮫島金兵衛が仙台で弾薬を密かに購入し羽州へ運搬することを耳にした吾が領主中村宗三郎宣静は、鮫島一行を斬る様仙台の小人組、高橋大八郎、杉田林蔵、石田文左ェ門、菊地兵三郎、郡山沖太郎の五人に命じた。

七頭の馬に弾薬を積んだことが判り、七北田でこの仙台藩の五人組が逢うた。直ぐ様カゴを止め、乗っていた鮫島に斬りつけた。鮫島以下三人も斬殺されたのである。この首級は中村宗三郎の実検に入れその他は七北田の刑場に捨てられた。

明治二年二月二十一日の事である。
◎ 薩長 大山世良の権勢
賊名を帯びて退陣した仙台藩には苦脳の毎日がつづいた。
 大山参謀(格之助) 薩摩藩士
 世良参謀(修 蔵) 長州藩士

薩長の参謀以下兵士は、当時仙台藩学校養賢堂に屯した。総督の実権は全く大山と世良の両人にあってその権勢当るべからざるものがあった。又その部下の兵士は市中を闊歩して「竹に雀を袋に入れて後においらのものにする」と放歌して憚らなかった。仙台藩士中でも勤王論を唱え陰に総督府を畏教していた人も彼等の挙動にあきれ且つ憤慨の余り遂には反感を抱き、特に血気にはやる青年武士は養賢堂本陣を襲撃して彼らを膺懲するといきまく者もあった。

閏四月十九日、福島の旅館(青楼)において世良を捕縛し翌二十日未明これを阿武隈の河原で斬首した。享年三十四才。その首級は直ちに白石の本陣に送った。世良修蔵の墓は福島市の公園にある。

仙台藩は秋田とも一戦を交えることとなり、本藩の命を享けて領主中村宗三郎宣静は、二百五十四名の士卒を率え四月出陣した。順路は文字、湯浜を経て小安に至った。間もなく休戦士卒は帰ったが相当以上の苦戦だったらしい。

◎ 戦後の勢力と佐幕派の処罰
戊辰戦争に活躍した佐幕派の仙台藩士はすべてこの時に処分された。
斬罪に服したのは次の八名である。

切腹家跡没収  奉行  和田織部
同             同    遠藤主税
同             大番組養賢堂指南統取軍務統取兼近習  玉虫左太夫
同             郡奉行 若生文十郎
同             二番御召出近習目付  安田竹之助
切腹家跡没収  二番御召出近習目付  栗村五郎七郎
同             同  監察  斎藤安右ェ門
逼塞               若老  武田杢助

第二回の処分行なわれたその主なるもの左の様である。

家跡没収入獄 若   老      葦名靱負
家跡没収禁錮 同           富田小五郎
同   同       学問所学頭  新井儀右ェ門
同   入獄     修次父隠居  大槻平次(盤渓)
同   永預     列方方役人  塚元 磨
同   同       若   老      塩森左馬介
同 家財欠所                杉本要人
同   同       出 入 司     松倉 亘
同   同       元留守居大童信太夫改名 黒川 剛
同   同       衝撃隊長     細谷十太夫

仙台藩における戊辰の役の大筋はおよそ以上の様である。

要するに藩内には遠藤文七郎、桜田良助の如き非戦論者もいたことだが、大勢は薩長奸賊論、会津擁護論の線に傾き遂に朝敵の汚名を着せられたことは遺憾なことである。

(斎藤実)


政岡と成義

真坂の白河家は結城氏の子孫で伊達家に滅ぼされた後、伊達家に迎えられて三代目義実が十八代葦名重信の女を迎えた。(これが政岡)

                新田義影──┐
                           ├─成義
三代白河義実 ──┐┌──長女──┘
                   ├┼──長男 松千代
       室重信女 ──┘└──次男(後鈴木甚十郎)副  
     (政岡)       

義実と重信女との間の長女が新田義影に嫁した。義影と義実女との間に成義が生れた。成義は政岡の外孫に当るわけである。成義は藤沢から岩ヶ崎へ迎えられ、伊達家ゆかりの中村の姓をうけ、伊達綱宗の二女、お三姫を迎えた。伊達綱宗公からの手紙が公民館に展示されている。

(葦名悳盛)


力くらべ

弘化年間から明治の中期にかけて岩ヶ崎八日町に、屋号、熊善こと熊谷善兵衛と言う人がいた。先々代から造り酒屋を営み繁盛した。

善兵衛は先代嘉作正中の甥で茂庭町鈴木松吉の次男として生れ、少年の頃から叔父嘉作の家で酒屋の家業を手伝っていたが、先代嘉作の長女は西隣屋敷に分家となり醤油の醸造販売業を営み長男彦作は大志を抱き北海道に渡り数年音信がなかったので、末娘のはま女とめあわせられ本家として叔父嘉作の婿養子となった。

善兵衛は体躯、力量共に希なる壮者であった。その甥に大正の頃茂庭町に鈴木芳吉、六日町に沼倉茂吉弟滝吉と言う大男がいたが、それより一まわり大きかったと母から聞かされていた。

隣分家の醤油屋の倉男に善治と言う若者がいて俗に善おぢと呼んでいた。齢は善兵衛より十二少なかったがこの人も大男であった。昔の三尺手拭で鉢巻きが出来なかったと言うから想像が出来る。力も亦町内の評判者であった。大東亜戦たけなわな頃の岩ヶ崎町長千葉貞助氏はその次男である。

或る時、蔵出しした五斗入の米俵を草履にはいて酒蔵を一廻りする力くらべをすることになった。勿論善おぢが勝ったらその米二俵やることになった。本家別家の働き手や近所隣の人達は若旦那どのが勝つか善おぢが米二俵貰うかと声援の中に競技が行なわれた。

勝負は、善兵衛さん五斗俵二俵を足につっかけゆうゆう蔵を一周、善おぢ辛うじて一周善おぢの判定負けとなった。

後に善兵衛の一人娘たま女が真坂の殿様の御館に奉仕することになった。善兵衛も娘を連れて時の殿様白河家十一代邦親公に初のお目通りをした。殿様は堂々たる体躯で力衆に勝れ文筆をたしなみ名君の誉高かった。

扨てお目通りの当日のことである。色々と御下問ののちに「善兵衛そちは予と同年生れだな、そして岩ヶ崎の力持ちと聞き及んでいるが先づ一献」と準備されたのは碁盤と大盃である。

始めは碁のご相手が終ってからお盃でもでるのかと思ったが、何んと碁盤の上の大盃に酒を波々とついで「片手で苦しうないぞ」と殿様自ら片手で持って差出された。
善兵衛も驚いた。自分も碁を打つが碁盤に盃を載せて呑んだことはない。殿様も聞きしに優る力持ちだな、これは力くらべのおつもりと判断したものの渡す方よりそれを受取る方がより以上の力量がないと受取れない。盃を取らすと申されるのにいただかないわけにはいかない、さりとて酒屋が酒を頂けないと申上げるわけにもいかない。腹に力を入れて殿様のおおせの通り片手で受取り、ぎぅと呑み干した。殿様も大いにご満悦で褒美にと頂いたのが今熊谷の家に遺る「たんけい」の大硯石である。祖父善兵衛は亡くなるまでこれを愛用していたというし、今でも使用して居る。私は子供の頃殿様から頂いた硯石であることや、たま祖母がご殿にお仕いしたことは聞かされていたが、大硯の委しいいわれは知らなかった。

去年実家の兄が亡くなったとき通夜の席上、兄と同級生の八日町阿部徳一郎氏に善兵衛の昔物語りをきいた。自分の先祖の逸話を書くことは聊か遠慮気味であったが、ご近所の方々が今以って話題にされていることでもあり敢て書いて見たくなったものだから、九月一日夜親戚三浦哲郎君の紹介で家督正義を連れ拝領の大硯石を持参、一迫町真坂の白河家を訪ねた。

白河家十三代雄三郎氏、縫子夫人、十四代当家現主人信二氏従弟千葉邦祐氏、郷土史研究家遠藤主税先生が私たちを待っていて、色々の資料を拝見したり、当時のことを話し合ったりしたが最後は史談ならで酒談となり深夜に及んだ。この間にこの話が信頼出きるものであることを知ったのである。

因に善兵衛は造り酒屋の傍ら明治五年頃町内玉屋高橋家より細倉鉱山の企業を継承し、関西の人清水和兵衛氏と共同し鉱山企業を営んだ。数年にして中風の病魔に罹され暫くは駕籠で細倉まで通ったが、企業の直接監督も思うに委せずに経営費は自宅から毎日駄馬で数頭に及んだという。

当時細倉鉱山の生産物は銀少々鉛が主な産物で亜鉛精錬技術は未開発であった。自己資本を全力投入したため先代からの酒造業も不能となり、加うるに後継者は幼少の娘たま女一人、遂に病床に金五拾円也の見舞金を以って細倉鉱山の鉱山経営を放棄するの止むなきに至り、玉屋高橋家に続いて熊谷家も倒産した。

細倉四ッ石附近に熊谷善兵衛を證するものがあったそうだが、今はどこの土中に埋れたか見当らない

熊谷善兵衛は旺盛なる企業欲を持ち乍ら運命の如何ともなし難きを感じつつ明治三十三年三月六十八才で世を去った。思い出となるものは只当時使用した鉛の弾を鋳た鍋と、白河家より拝領の大硯石、そして天保時代の豪壮な家屋のみである。

昭和四十年頃細倉鉱山史が発行されたとのことであるが、どんな記録が何んと書かれてあるか私は読んで居ない。

この物語りに登場する主な人物
真坂城主十一世白河邦親公 墓 竜雲寺
法名 弘教院殿前上州西山真証大居士
   明治三十五年十月二十九日 七十才没
岩ヶ崎字八日町熊谷善兵衛 墓 洞松院
法名 意徳院善翁良性清居士
   明治三十三年旧三月二日 六十八才没
善兵衛娘たま       墓 洞松院
法名 寛信院貞顔捗操清大姉
   明治四十二年旧十月五日 五十六才没
岩ヶ崎字八日町千葉善治  墓 洞松院
法名 法徳院善光翁清居士
   明治三十九年旧十月 六十二才没

(熊谷芳己)


軽部六右ヱ門と土井晩翠

荒城の月で全国的に著明な土井晩翠は、仙台に生れ長じて仙台第二高等校の教授であった。晩翠は岩ヶ崎に縁故が深い。岩ヶ崎小学校の校歌は晩翠の作詞で、現栗駒町議会議長佐々木義雄氏の提供である。

昭和二十三年来町し三泊された。茂庭町沼倉旅館がその宿である。窓越しに眺めた軽部川の清流を見て

流れゆき田に注ぎ入る軽辺川
 穿ちし君のわざの尊き

軽辺川は軽辺六右ェ門の堀鑿によるもので当時として確かに難事業であったろう。この句は沼倉医院々長沼倉実氏宅の床の間に先生の坐右の銘としてかかげられている。誠に清々しい感じがそくそくと湧いてくる。

昭和四十五年八月三日栗駒町一円の先哲者の大遠忌を岩ヶ崎、旗本山館山寺で執行した。軽部六右ェ門第十五代目の軽部敏雄氏外八名、関係者五〇〇名一堂に会し盛儀であった。軽部六右ェ門は志田郡鹿島台慈明寺に葬られている。ご住職の浅野謙光上人もこの先哲者大法要にご随伴された。

筆者に十五代の軽部氏より依頼があり碑文を駄筆した。栗駒町仏教会員、史談会会員も慈明寺の六ェ門の墓を詣でた。四、五年前のことである。

土井晩翠
 昭和二十七年十月十七日に没した
  法号 詩宝院殿希翁晩翠清居士
       行年 八十一歳
 妻 女 八重
 昭和二十三年五月十日 没した
  法号 積徳院殿恵光明照清大姉
       行年 六十九歳
 墓地は
  仙台市新寺小路 曹洞宗 大林寺

(斎藤実)
 
 


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 2002.7.25
 2002.8.5   Hsato