〈岩 ヶ 崎 3〉

 


県名の移り変り

明治政府法令第一号市中法について
明治二年三月二十八日布告し「現在の栗原郡」を栗原県と称した。僅か四ヶ月にて栗原県を涌谷県と称した。

明治四年十二月一日涌谷県を登米県と改め其の後登米県を一関県いくばくもなく水沢県とした。この時の県庁所在地は金成に置いたという。

明治八年十一月水沢県を磐井県とし明治九年四月現在の市町村を宮城県としその管轄となる。この県名の移り変りの文書は一迫町長崎現宮城県議会議員門伝勝太郎氏所蔵。

一迫町元岩ヶ崎中学校遠藤主税先生より拝借した資料である。

(斎藤実)


初代町長中村宗三郎の珍談

明治二十二年町村制が布かれ、初代岩ヶ崎町長が中村宗三郎である。ある日、町村長会に出席の為ワラジ履きで出た。郡役所は築館町にあった。

三迫川橋の上で背中に一ぱい背負うて来た野菜屋の女に会うた。珍しく思うたのか、町長は「コレ待て、その荷は何んだ」と聞いた。野菜屋の女は籠をゆすりゆすり「こいつすか、こいつは野菜でがす」町長は「大した野菜だナア、何処へ持って行くのだ」と聞いた。野菜屋は「マッチャ売りに行く処でガス」そうかとうなずき折角聞いたり見たりしたから買わねば悪いと思い「その籠の野菜全部買う、いくらだ」ときいた。女は一つ一つ数いて「みんなで一円シャア」と話した。「この財布から銭をとれ」と紐付の財布を出した。女は驚いた。事もあろうに財布から銭をとれなんて変な人もあるものだと思いながらお銭は戴いた。だがどこの人でどこへ持って行くかも判らないので、「この野菜何処へ持っていけばイイのッシャ」と尋ねた。町長は「お館へ持って行け」サアそのお館が判らないで茂庭町で聞いた処お館と言えば、中村の殿様のお屋敷ダヨと教えて呉れた。驚いた今の人は殿様であったのかと、籠の野菜はお館に届けた。

こちらはこちらで奥様は、小人数なのにこんなに沢山の野菜、時間を置くと腐れてしまうと言うので近くの家中に頌ち与えたという。野菜屋は中野の人であろう。生前よくこの話をしたそうだ。

中村町長はお昼弁当は奥さんが手造りのもの、容器はセトモノ。何時もの様に弁当を下げて御出勤中、ナンのはずみか手から辷り落した。セトモノはメチャクチャ飯は飛び散り、おかずは土だらけ。町長振り向きもせず風呂敷丈ブラ下げて役場に来た。町長は小使を呼び今太宰の前で弁当が散ったから取りに行けと。早速現場に駈けつけて見ると、惨たんたる光景でその旨言上に及ぶと、町長は一言も言わず只笑っていたという。

昔の殿様は皆こうした仕草が多かった様だ。矢張り生れながらの性格と育ちがそうしたのであろう。兎に角落した物を捨いもせず、風呂敷を手にして役場へ出勤する等如何にも殿様らしい泰平楽な趣がある。

(斎藤実)


岩ヶ崎の殿様欧米行き

明治十九年領主中村宗三郎の二男小次郎氏が欧米に行くことになった。その模様は当時の奥羽新聞に掲載されていた。

壮行式発企人は 岡本台助
        西村今朝治
        大槻晋五郎
        太宰金太郎
の四氏而も会費十二銭
勿論この頃白米一升六銭だと記してある。又奥羽新聞によれば仙台東一番丁辺りの土地一坪十五銭とは驚く外はない。当地方は田一反歩 五円五十銭
奥羽新聞は文字柿木菅原初郎氏所蔵のものを見たので思い出したまま誌す。

(斎藤実)


友愛会創立者鈴木文治

鈴木文治は本郡金成町生れ、小学校(高等科一年)は岩ヶ崎で修めた。彼は秀才で築館中学校を出て早稲田大学文学部に入学大会社に入社したが、偶々足尾銅山に労使の争が起きた。文治は足尾に行き調停の役を取る為友愛会を組織した。之が我が国の労働組合の初めである。古川の吉野作造氏の指導と、知遇を受けた。岩ヶ崎小学校時代は岩ヶ崎中小路、故千葉観之助先生(現岩中の教諭千葉孝氏の祖父)に下宿したと言う。

同級生に故増森義十郎、高橋松三郎、坂田喜代治氏等があり又親戚に高清商店がある。運太郎さんの母しづのさんは血縁者である。

文治は生れ故郷を地盤に衆議院の候補者になったがその頃、大人物の鈴木文治も知名度が低い為栄冠を得るに至らなかったが、その後大阪から立候補して見事当選した。

文治の長男鈴木健治氏は現在NHKに勤務。堂々たる貫禄を示している。


往年の文化経済の交流

平泉の藤原氏の文化が岩手県西磐井郡より栗駒村(栗駒町)に至ったのである。その当時平泉と交通した幹線と思われるものの一は、沼倉の北都田という処から立石達古袋を経て萩荘村(一関市)に出て平泉に通ずるもの。一は、岩ヶ崎西北部より萩荘村に出て平泉に通ずるもので今尚所々に旧街道の古蹟がうかがわれる。俗に御法塔道路と言う。

(斎藤実)


岩ヶ崎青年会健啖家の集り

明治十八年頃の話である。

岩ヶ崎八日町(及川金物店の処)に大万亭と言う一杯屋があった。酒ばかりでない。名物としてそばも売った。店を出してはみたが客が殆んどない。店主一策を案じ、先ず、酒呑み次第、そばも食い次第とアンドンに書いた。之を見た青年会長の佐藤左吉先生、早速会員を募り健啖家十何名かを引き連れて大万亭に行った。当時としては高い会費であったろう。一人二十銭である。大万亭では福の神到来と勿論大歓迎時ならぬザワメキである。幹部級は座敷に、会員は台所に陣を取った。早速酒と言う、そばと呼ぶ声入り乱れ、亭主は汗だくとなって酒、そばを運んだ。然し台所に屯した連中は片ぱしからこれを平げたので座敷の幹部もたまりかね台所の会員へ、こちらにもよこせ、敷居を越せと催促したが、台所で殆と飲み食いしたので勿ち底をつき一つもなくなった。サア幹部連も呆れてそのまま解散。困ったのは大万亭、之で明日の仕込も出来ない程痛手を受け、早速会長の佐藤左吉先生に三拝九拝その賃金造りに、頼母子講を始めて貰うた。勿論青年会のメンバーも否や応なしに入れられたそうである。大万亭は之で商売が出来たと言う。佐藤左吉先生は町役場の筆生、後に学校先生となり栗原小学校長を最後に、当時の町会議員山本勘兵衛氏の勧めで町助役に就任した。時の町長は西村久五郎氏である。

(斎藤実)


細谷十兵衛

細谷十兵衛は戊辰の役で西軍が肝を冷した鳥組隊長、細谷十太夫の孫に当る。明治四十年春、十兵衛は岩ヶ崎の親戚熊田運治(現在の昭和堂)魚屋を探ねて来た。十兵衛は東京相撲の力士だと言うので子供の頃ついて歩いた記憶がある。身長一米七〇位、体重七十五、六キロと小兵なので出世が出来ず、相撲を廃業し、床山(お相撲さんの髪結)に転じた。

戊辰の役の一部を書き、特に鳥組細谷十太夫をペンにしたが昔を思い出して孫十兵衛の一端を書いた。寛政の三奇人の一人仙台藩の学者、林子平は海国兵談を書いて開国論を呼び遂に捕えられた。細谷十太夫も家跡没収家財欠所に処せられた。共に仙台藩の志士である。

林子平、細谷十太夫は東北の名刹仙台子平町竜雲院に葬られている。奇しき因縁とも言うべきか。

(斎藤実)


栗原地方の神楽

一、 名称 神楽

二、 所在 栗原郡一円

三、 沿革大要

起源は不明であるが、西京関東の武士が奥羽地方に来た頃舞ったものとも言う。又平泉藤原時代全盛の頃から東北の武士の間に出現したものとも称せらる。即ち南部神楽である。其後栗原地方に移り特に栗駒に根を下したとも伝えられている。そして栗原郡の郷土芸能として本神楽が成立するに至った様である。
而して栗原神楽にも二、三の流派あり従って歌詞にも多少の相違がある。栗駒町でこの芸能を残し更にのばそうとして毎年旧八朔の一日に大会を催し、集る組十組以上で実に盛会を極める。郷土芸能としてこれ程盛んなものはない。

四、 演出方法歌詞

1. 人員 八人〜十二人
2. 道具 太鼓、摺鐘、面(各種)、弊束、ザイ、鳥帽子、刀、弓、扇鉾、袴、陣羽織
3. 面の種類 翁面、荒形面、若人面、女形面、蛇面、蛇頭、狐面、道化面等
4. 演舞方法 太鼓、摺鐘に神楽歌を和して舞台にて奏しおるところに幕内より舞子現われ、演舞種目によって異るが独自のせりふである歌をうたい、太鼓の調子に合せて身ぶり手ぶり面白く舞う。
5. 演舞種目 天の岩戸開き、式舞(三番叟、山神舞、鳥舞)、天叢雲宝剣由来記、羽衣、信田森(葛の葉子別れ)、田村三代記、曽我兄弟、竹生島弁天の由来、源平物語(一の谷、屋島の合戦等)道化等
6. 囃子  センヤーハー打てば鳴る、打たねば鳴らぬやこの太鼓、打つより早く神が集る神が集るヤーハー
         センヤーハー此処は何処、此処は高天原なれば、集り給え四方の神々四方の神々ヤーハー
          センヤーハー此の家は、如何なる大工が建てしやら、柱は黄金黄金花咲く黄金花咲くヤーハー
      其の外演舞によりて数多い
      歌詞は演舞中歌う

(斎藤実)


三迫百姓一揆

討幕の密勅、大政奉還、王政復古の大号令の最中、慶応三年の出来事、この頃も金成耕土、栗駒地方も凶作のため年貢どころの騒ぎでなかった。百姓の苦しみは大変なものだった。然し藩も財政に苦しむ有様だったので、年貢は容赦なく取り立て様とした。

金成村大肝入り今野助三郎、岩ヶ崎の肝入り、高橋蔵六、肝入りと言えば今の町村長と同格而も年僅かに三十一歳である。金成の大肝入り今野助三郎と手を組み、十三ヶ条の訴訟文を作成藩士伊達公に直訴する為沿線の百姓数千名を引具し莚旗を立てて堂々の進撃、情勢を知った高清水の石母田の殿さんが、築館町照越に鉄砲組二十人、槍組二十人を揃い待ち構えた。そこに一揆がなだれ込んだ。サア鉄砲組は銃口を一揆の先頭高橋蔵六に槍組は馬上から睨みつけた。遂に全員降参し、首謀者の、今野助三郎と、高橋蔵六は取り押さえられ、共に入獄の憂目に逢った。年号も明治と改まり今野助三郎は恩赦に浴し出獄、蔵六は明治二年五月八日牢屋で没した。時に三十二歳であった。

これを苦悩した蔵六の妻、園は仙台に移住した。蔵六の家は玉屋高橋家の分家に当る。長男正平氏は海軍の下士官として艦で暮らした。蔵六の妻女は百四歳まで長寿を保ち仙台で亡くなった。百歳の時仙台の名歌さんさ時雨を放送し郷里に向け大声で唄った。その声たるや音吐朗々正に百歳の人でなかったと言う。

蔵六の墓は 円鏡寺にある。
   法号 広誉徳宝清信士  三十二歳

全国を風靡した千葉県の佐倉宗五郎に匹敵する行動、法号は聊かさびしいが当時の事として当然かも知れない。今日であれば院殿大居士であろうか。

妻 園女
   昭和十年十二月二十三日
 仙台市に於て死去  年 百四歳
夫蔵六の側に碑が並立してある
   法号 宝寿院徳誉如園清大姉

蔵六、園女長男正平既に死亡しその子は正巳氏現在北海道北見市に住し税理士として活躍中と聞く。今野助三郎の孫、正男氏は栗駒町岩ヶ崎八日町に居住している。

(斎藤実)


三階萬霊塔

岩ヶ崎茂庭町に月峰山洞松院という曹洞宗の寺がある。

天保八年、九年、二年続きの大凶作で食うに米なく餓死する者随所に出た。岩ヶ崎の大檀頭千葉彦五郎之を救うため大いに働いたが然し二年間で数千の餓死者が出たという。

洞松院十六世宗潤和尚と相謀り死者の霊を弔うため三界萬霊塔を建立した。塔の下に相当数の霊がある。山門のすぐ右側にあるのが供養塔である。この供養塔を発見してその史実を世に紹介したのは三原良吉先生である。

子孫の千葉栄治氏は現在尾松稲屋敷に住んでいる。

(斎藤実)


里宮神祇閣

神祇閣は栗駒町岩ヶ崎四日町に熊野神社の里宮として昭和二十八年三月三十日新築落慶を見た近代的里宮で此処では熊野神社(里谷)八幡神社(深谷)新山神社(鳥沢)熊野神社(岩ヶ崎)五社の祭事が行われている。建坪七五坪、二八〇万の工費であるが材料は殆ど新山神社の立木による。現名誉宮司岩本守穂師の企画によるもので堂々とした里宮としての風格がある。

神前結婚式及び披露宴会場に利用され地のりを得ているので利用するに価値の高いものが認められる。

(斎藤実)


流鏑馬(やぶさめ)の行事

このへんで流鏑馬(やぶさめ)祭といえば、すぐ津久毛のお迫祭のことを思い出す。

遠く源平最後の戦、屋島の合戦に平家方がご座船の舳(へさき)に扇を的にしてこれ打ち給えと呼んだ時、源氏に弓を取ってその人ありといわれた奈須野与一宗高は心得たりと扇のかなめに矢を的中させ扇をバラバラにした。源平の武士共は舟べりをたたきヤンヤの拍手を送った。これが源氏の勝利に重大な連りがあったとしている。その後、平泉を攻略する為源氏軍二十八万騎が奥州へおしよせた。そして津久毛、白山神社を中心に旅の疲をいやす為滞在したという。戦勝祈願をこの白山神社で行い屋嶋の勝利を再現した。即ち奈須野与一は騎馬で扇の的をハッシと打ち抜いたのである。以後毎年陰歴三月三日に行う。これがお迫祭りの起源である。

神社の格式も高いと見て藩主から代参を命じられた岩ヶ崎館主中村公は毎年お迫まで馬を飛ばした。お迫の神社には幕舎を張り礼を尽して領主を遇した。代参中村領主が杉橋まで行くと津久毛からお迎えが来ここで一団となって白山神社に赴くのを常としたという。

(斎藤実)


梁川播磨の僕

義僕。栗原郡鶯沢邑主梁川頼親の僕。其の姓名を逸す。明治元年戊辰の役播磨大隊長として羽州に出征し、七月十一日新庄に戦死す。是より前数日播磨の老母其子の安否を案じ、家僕某を戦地に遺はして動静を伺はしむ。某の戦地に着したるに播磨の戦死したる日にて附近一帯乱軍浪籍を極め、仙台兵営の所在を知ること能はず。翌十二日米沢の負傷兵に尋ねたるに梁川隊長は昨日既に戦死せられたりと。某依て長州軍の兵営に至りて隊長に面会せんことを請ふ。

隊長桂太郎(後の公爵内閣総理大臣)某に脱刀を命じて面接す。某曰く拙者は仙台播隊長梁川播磨の臣なり。主人戦死せりとの説あり。果して真か。桂曰く、真なり。某懇に請うて播磨の首級を拝し、落涙粉々号泣すること多時、佩刀を得て自刃せんとす。許さず。某曰く許されずんば請ふ速かに某の首を斬られよ。拙者は主人の母の命に依りて此所に使するもの、主人に冥途に謁して母公の命を伝へんと。固く請うて巳まず。桂其忠誠に感動し、縛を解きて営中に置き、兵士をして斬ることなからしむ。

番兵等桂の意に背きて遂に斬に処す。

惜むらくは此の義僕の名を逸す。        (仙台戊辰史)

(菅原常雄)


中村日向義景

(河北新報昔の光を探ねて46回 三原良吉)

昔、伊達家に相伴祭といって功労抜群の家臣五名を選んで、仙台城二ノ丸の持仏堂因縁殿(扁額は新寺小路東秀院本堂玄関に現存)に念西公朝宗以下斉邦公まで廿九世の歴代君公と共にまつり、五月廿四日貞山公、六月二十日肯山公、四月廿四日紹山公の各正忌に相伴して藩主自ら焼香する例があった。これは養賢堂学頭大槻習斎の建言によったもので安政六年一月の制定である。その五人は政宗公の功臣伊達安房成実と片倉小十郎景綱、綱村公の功臣伊達安芸宗重と柴田外記朝意、周宗公の功臣中村日向義景であった。

この中の中村日向は十八歳で参政、二十八歳で六十二万石の家老となった傑物で度胸と頭のよさで仙台始って以来の名家老であった。中村氏は新田義貞の第四子義宗六世の孫景綱を祖という格式で栗原郡岩ヶ崎四千五百石を領した。義景はその九代で十一の時父を失い母の手一つで育てられ十八歳の時六代宗村公女認(トメ)姫と言う盲目のお姫さんをもらったが、この夫人がまた賢夫人であった。

当時の仙台藩は幕命による関東河川修理、十年間続いた冷旱害水害による米の減収、三回にわたる仙台城下の大火災等で負債六十万八千六百両と借米二万四千石に上り藩財政が破たんにひんした時で、その危機打開に彼が抜てきされたわけで、就任翌年の天明三年には収穫皆無に加えて餓死者二十万人に及ぶ大凶年が襲い冷害水害か連年半作、江戸藩邸再度の焼失、仙台二ノ丸の全焼、蝦夷地派兵と果てなく続いて仙台空前の危機に陥ったが彼の政治的手腕は裁断流るる如く切抜けて行った。

二ノ丸火災は文化元年六月廿四日、城下二十三ヶ所に落ちた雷火によるもので彼は分不相応に雷嫌いだったが雷鳴中馬で蹴け着け指揮と処置に敏速果敢な処を見せたと言う。文化六年一月には九代周宗が十四歳で病死する重大事態が発生した。大名は十七歳未満で死ねば跡目相続を許さず、たとえ十七でも将軍の目見得がすまなければ跡目は許さない法規だったから仙台藩は当然没収か半知と言う羽目となったが日向は周宗の死を秘して三年後に発表し事なきを得た。

その間栗原地方の産馬の基礎を築き、大槻平泉を支持して養賢堂を画期的に拡張している。余技は馬術をよくし芝愛宕山の正面石段を馬でかけ登り江戸中を驚かし騎射は百発百中の腕前、槍を取っては本心鏡智派の名手であった。天保四年正月二日年七十九歳で控木の別邸に卒した。仙台家老中村日向の名は老中は元より将軍にも知られ、楽翁松平越中守定信も仙台で彼と会いたいといったが会わなかった。墓は岩ヶ崎町新地ヶ沢館山寺廟所にある。
(付記)天明三年の飢饉 館山寺過去帳による
家中百二十四戸(平年の死亡率六、七名から最高十名)

   天明二年 九名
▽ 天明三年 十八名
   六月 六名。七月 二名。八月 三名。九月 一名。十月 二名。十一月 零。十二月 四名。
▽ 天明四年 百二十名
   一月 九名。二月 五名。三月 十名。四月 十三名。五月 二十一名。六月 二十三名。七月 二十一名。八月 八名。九月 四名。十月 零。十一月 二名。十     二月 四名。
▽天明五年 十一名  天明六年 五名
▽ 天明四年の死亡減少は八月になると麦その他出まわるからと郷土史研究者語る。
    この年飢饉にそなえるため備倉の建設計画されたとの事。他地方五年、六年多数死亡者ありと日向は種々この地に善政をしいた。
▽ 天保七年飢饉には 四十八名

(葦名悳盛)


岩ヶ崎の暴れ者富沢直景

岩ヶ崎に初めて城を築き鶴丸城と名づけたのは、富沢日向守と言うが、余り知る人がないので、これを簡単に説明して見よう。富沢日向とは、足利氏より豊臣氏の時代、石巻の日和山城に居をかまえ、四百年間も続いたと言われる豪族葛西家の重臣のことである。

富沢氏の祖は、葛西家の出で蓮性の十子で右馬助と言い、のちには日向守道祐となり、岩ヶ崎に城を築き城主となる。以後五代日向守直景まで在城し、直景の時最も勢力が強かった。この直景と言う城主が、岩ヶ崎の暴れ者として、本家の葛西氏は勿論、隣国からも恐れられていた。

富沢氏は栗原郡三の迫の豪族であり、葛西支族とは言いながら古川地方の豪族大崎氏との境界線上に居た為大崎氏と接触することが多く、大崎氏の影響を受けることも屡々であった。そこで葛西氏と大崎氏の二大勢力の間に挟まれ、広大な土地を有する富沢氏は、独立国の王者気取りで居たらしい。

時々主家である葛西氏に対し、露骨な叛意を見せ、近隣を従えて、葛西領を侵していた。葛西方でも手をやき、時には大軍を擁して岩ヶ崎城下迄攻めよせ降参させたこともあるが、暫くして又暴れ出すと言う始末。結局これは大崎氏や、大崎氏の親戚で山形の豪族最上氏の後押しがあったらしい。

天正の末期には葛西領に於て、度々内乱が発生じていたようだが、人を食った横着で、傲岸不軌と言われた岩ヶ崎の暴れ者直景程、葛西氏十七代晴信を悩ませた者はないだろうと言われている。

葛西大崎の両家は、豊臣秀吉の日本統一のあおりを受け、のち伊達政宗に亡ばされているが、富沢氏の領地も没収され、岩ヶ崎の富沢氏は遂に亡びた。時に天正十八年と言う。

その後直景は入道となり、富沢幽斉と号した。しばらくして、岩手の南部家に随臣し三百二十石を受領していたが、慶長年間の和賀兵乱には、南部方の武将として風雲を巻き起している。ともあれ数奇の運命を一人で背負った武将の原型とは、彼、日向守直景のような人を指すのであろうと思われる。

又岩ヶ崎の田中館(田中森)は、富沢氏の出城で、家臣の田中但馬が館主であった。稲屋敷要害内館は富沢氏の分家で富沢五郎と称し、文字洞泉院に葬られている。遊佐道海は、もと二本松城主畠山氏の家老の家に生れたが故あって、畠山家を出奔、流浪して後、岩ヶ崎富沢氏の客将となり、日向守直景の軍師として功をたて、富沢氏の勢力を大いに振わせたのも有名である。道海は鶯沢の計須見城の城主でもあった。

(蜂谷正一)


秋田口の戦況

秋田藩渝盟の兆あるを以て七番大隊長梁川播磨庄内米沢二藩と合して新庄藩を先鋒と及位に進み中山金山に陣す時に秋田の使者来りて渝盟の虚伝なるを弁解す藩磨之を信じて進軍を止む七月四日秋田藩我使節志茂又左衛門内崎順治山内富治一行七人の旅寓を襲ひ之を斬殺して 首す是れ秋田藩論の決せざるが為め副総督沢為量下参謀大山格之助等或一党に策を授けて使節を斬り以て決意を促さんとしたるに出つ嗚呼不義不徳都て斯の如くなるを以て遂に奥羽同盟の止むなきに至れる亦宜なり七月十一日払暁敵兵雄勝峠より及位を進撃して火を民家に放つ新庄藩又反盟して我を撃つ中山金山の兵苦戦奮闘せしも前後挟撃遂に防戦する能はず大隊長梁川藩磨以下三十余名の戦死者を出したり、七月十二日庄内兵新庄を陥れ城主戸沢中務秋田に走る仙台藩は佐沼涌谷船岡及瀬上主膳の一隊を合して秋田口に向はしめ岩出山兵亦た加はり男女川を渡り敵を襲撃す此日一の関藩三神左次馬磐井大助来り加はる八月八日大挙して戦闘を開始す敵又能く防く我兵勇戦遂に敵を走らし斬首及旗二旒大砲三門を得たり八月九日進て馬鞍村の敵を掃蕩し十一日横手城を攻む三方攻撃猛進して城に迫る敵横手川の橋を切断して進む能はず我砲弾城楼に命中して火を発し強風の為め焔炎天に漲る我兵木材を橋下に架して川を渡り城門に迫る敵抜刀防戦頗る努めたるも遂に間道より遁去らんとするや我兵秘かに竜昌院に火を放ち煙の中より之を撃つ敵狼狽して渓谷に転落し死傷算なし城遂に陥る仙台は搦手より庄内は大手より進入して諸兵を点検す斬首十一級兵器弾薬数百点を獲たり盛岡一の関庄内諸藩の兵と合して大曲に向ひ大平山神宮寺角館の三所より進撃す参政中村日向手兵を率いて来り加る八月八日角舘を攻む岩出山佐沼涌谷の兵左右より迫り角舘川を隔てて遠巻とし先づ大平山の敵を襲撃す庄内藩は小杉山神宮寺を攻む一の関藩之に応援して刈和野を夜撃す抜刀接戦隊長以下死傷を出したり敵兵敗れて火を角舘に放ち久保田に退く我軍相議して愈々秋田城を屠るの総攻撃を議する場合藩使大町勘解由来りて休戦の主命を転ふ

大隊長梁川播磨略伝
諱は頼親仙台藩御一家格栗原郡鶯沢の邑主?慨気節あり其先左衛門宗清伊達郡梁川に居る依て氏とす其子宗直其三男宗元貞山公の時一千石を賜ふ其子勘兵衛頼時の嗣尚幼なり又故ありて其禄を収め祀を絶つに至る後 三百石を以て家格を回復せらる播磨の出征を命ぜらるるや素より生還を期せず後事を母堂に託し登城参政室に至り請ふて曰く我家貧にして良銃を購ふ能はず舶載の良銃一挺を賜へと参政答へず播磨坐中の最良なるものを把り笑って去らんとす参政等之を咎む彼曰く君国の為め一命を捧く何ぞ銃を惜むことのあらんやと芦名靱負之を壮とし問はずして与ふ夫より羽州新庄に出征し新庄藩の違盟に逢ひ前後挟撃を被むり奮戦勇闘佩刀鋸の如く身体疲労身数創を受け軍監五十嵐岱介も亦負傷したるを顧み路傍の渓谷間に至り五十嵐と交刺して死す行年三十七謚号誠忠院殿釼山尽心居士と言う郷里鶯沢に遺物を葬りて招魂の碑を立つ播磨風藻あり其一首を載す

 慕ふそよ過しむかしの数数を数ならぬ身を是にくらへて

明治元年七月十一日羽州新庄金山戦争に於て仙台藩戦没者左の如し

七番大隊長  梁川播磨
監察         五十嵐岱介
法号円接自明居士
           倉兼小兵衛
           宮沢章治
           今泉啓之進
           熊谷市兵衛
           井上要三郎
           金成大之助
遺髪を郷里の墓地に葬る戒名誠学院義心居士
           作間啓治
           鎌田惣左衛門
           鹿又貫之進
           猪股三左衛門
           田辺末蔵
           佐藤勝之助
           川村武三郎
           斎藤文之進
附属卒矢ノ目足軽
           兵吉
           嘉門
梁川播磨家来 氏家新太夫
使番       早坂弥七郎
銃士       安田儀四郎
           長沼丹宮
甲田多門僕  三浦助之進
石森浩之助僕 
                    相沢亀五郎
           石田広治
羽州天童にて戦死仙台長徳寺に葬る法号忠石義広居士
           小山六之丞
敵状貞察の為め天童方面に潜行捕斬せらる年二十六土樋松源寺に墓あり清涼院秋巌禅力居士
伊達弾正家来 
                    桜井小右衛門
           曽根忠右衛門
           吉岡金之助
           駒場七三郎
           佐々木仁兵衛
           佐藤甚兵衛
           佐藤弥右衛門
           佐々木新三郎
梁川播磨義僕 丹野幾之助

七番大隊長梁川播磨の家来なり播磨の母の命を斎らし七月十一日夜金山なる主人の陣所に到れば今や非常の劇戦にて其所在を知る能はず狼狽四方に奔走する中金山は西軍の陥る所となる幾之助即ち長州隊の陣所に至り隊長に面会せんことを乞ふ隊長桂太郎出て隊士安村桜太郎をして脱刀すべきを命ず幾之助即ち刀を脱して進み隊長に謂て曰く不肖は仙台大隊長梁川播磨の臣なり主人死せりと言ふは真か太郎曰く然り幾之助曰く首級あらば示されよと依て播磨の首級を示す幾之助膝行して進み熟視幾や久ふして落涙雨の如し嗚呼是れなり是れなり萬事休す桂曰く汝何の為に来るかと幾之助涙を払って曰く拙者主人の母の命により所用ありて急行して今日到着せり図らざりき戦没首級に見えんとは今使命を致すべき所なし天なり命なり希くは主に殉して瞑府に其使命を伝へん請ふ拙者の首を刎ねられよと決心面に現れしも太郎甚だ其志を憐み慰諭すれども動かず太郎則ち兵士に命じて新庄に檻送せよ決して殺す勿れと命す幾之助切りに請ふて巳まず部卒隊長の命を俟たすして之を斬る嗚呼陪卒にして猶斯の如し以て当時の美談となし主家其忠節を賞し遺物を以て厚く鶯沢の墓地に葬り主人と同く菩提を弔ひ居ると云ふ

仝八日十一日横手戦争に於て仙台藩の戦死者
亘理大吉家来 佐藤忠治
瀬上主膳手  農兵 三名
仝年八月二十三日横沢国見原戦争にて仙台藩戦死者左の如し
亘理大吉手人数
隊長     氏家末之進
       伊藤忠治
仝年八月二十九日鶴田川原に於ける仙台藩戦没者左の如し
亘理大吉卒  岩崎十助
六郷に於て戦死
伊達安芸家来 米谷周蔵
       大平興平
       栗山辰三郎
       岡崎善之丞
       引地幸治
卒      野田清三郎
       門間菊三郎
       安部栄三郎
伊達弾正家来 司令使
       横田郷太夫
       氏家広人
       小原木政治
雑兵     大山申蔵
       有路甚吉
       佐藤円太夫
       菅野千代治
       熊谷権右衛門
       高橋謙治
       佐々木文左衛門
       阿部勝之助
       三浦善作
仝年八月十三日角間川戦争に於ける仙台藩の戦死者
上遠野伊豆家来
       桑折市郎兵衛
柴田中務家来 阿部銀太夫
       及川広治
卒      善吉

和久清之丞家来 卒
       千葉鷲之助
仝年九月十八日湯沢に於て殺害せらる
周旋方    平田武五郎
仝年八月二十三日合田渡(松倉渡)に於て戦死
       安田鉄之助
       農兵 一名
一ノ関藩殉難者
明治元年秋田口に於ける一ノ関藩の戦死者は左の如し

輜重長    熊谷軍記
通称軍記諱礼美又は智周と称す田村藩士熊谷礼俊の長男母は佐瀬氏淑徳あり氏年十六歳同藩士堀越友右ェ門に就て真陰流を学び遂に極伝を受く亦た和歌に堪能なり戊辰の変起るや藩命により輜重長となり佐竹藩の奥羽同盟に背きたるが為め羽州に進軍し常に幕中にありて能く籌謀画策を運らし弾薬糧食為めに欠乏を見ず衆其周到なるに服す時九月十三日夜刈和野に陣し敵の強襲する処となる氏毫も狼狽する所なく事を処理す敵帷を侵して来り戦ふ氏刀を抜き数人を殪す大村藩士某氏の技を見て其名を聞ふて戦を挑む時に背後人あり刀を揮って氏を斬り不意に殪る時に年六十有余

兵器長兼輜重長
       牟岐五郎左衛門
田村藩の番頭役たり同藩士師範役小川瀬兵衛に就て東軍流の剣法を極め戊辰の変藩命により兵器長兼輜重長となり羽州に進軍し転戦数回功を奏す時九月三日夜刈和野に陣し敵の強襲する処となる接戦し流丸に当て殪る時年六十有余

軍監兼参謀  磐井大助
君通称大助父は吉左衛門迂斎と号す母は小泉氏君幼より気概あり長ずるに及んで父より北条流の軍法を授かり世々儒家を以て著る壮に及で藩の碩儒菊地一孚に就て漢学を修む経学文章両ながら通ぜざるなし君性酒を嗜む磊々落々議論を闘はし当る所前なし教成舘の肝入役となる戊辰の役藩命により羽州に進軍し各所に転戦して勝を占む九月十三日刈和野に陣し敵の夜襲に遭ひ衆寡敵せず奮闘敵弾に中りて殪る時に年四十有四

小隊長    藤田右衛平門
初め彦四郎と称す湯山伴六氏の三男なり母は平田氏奥年寄役たり氏堀越友右衛門に就て真陰流剣術を学び其奥義を極む性温直戊辰の役藩命により小隊長として羽州秋田口に進軍し各地に転戦将に保田城に迫らんとす九月十三日進んで刈和野に陣す時に敵の強襲を受け応戦数回衆寡敵し難く隊兵皆散乱したるも氏独り踏止まり刀を揮って闘い遂に斃る行年六十有余

半隊長    武広孫太夫
父は安太夫安永田村藩御取次格たり真陰流の剣法を極む父安永は刀剣鍛工を以て名あり世に一貫子安永の作と称するは是なり君角張権太夫に就て小笠原流の礼法を学ぶ戊辰の役藩命により小隊長となり羽州に進軍各地に転戦奮闘す九月十三日刈和野に陣し大村薩長士五藩聯合の強襲に遭ひ衆寡敵せず応戦遂に敵丸に中りて殪る時年六十有余

嚮導     鈴木計治
父は蔵右衛門母は鈴木氏田村藩御取次格たり真陰流剣法を学ぶ君性温厚学舘にありて教鞭を執るや生徒帰服し尊敬借かず戊辰の役藩命により羽州秋田口に進軍し九月十三日刈和野に於て敵の強襲に遭ひ応戦利あらず流丸に中て殪る時に年三十有一

       千葉濬治
父は潜蔵逸斉と号す田村藩教成舘の学頭として名あり母は大橋氏君容貌魁偉大に武芸を嗜む一刀流を赤川惣太夫に馬術を建部貫太夫に学ぶ戊辰の変藩命により羽州秋田口に進軍し転戦数十回九月十三日刈和野に陣し強敵の夜襲に遭ひ応戦衆寡敵せず遂に流丸に中りて殪る時年三十二

       森鉄之助
父は伊蔵母は建部氏田村藩奥目付たり建部貫太夫に就て八条流の馬術を極戊辰の役藩命により羽州秋田口に進軍し九月十三日刈和野に於て敵の夜襲に遭ひ応戦利あらず遂に流丸に中て斃る時に三十有一

       橋本肇
父は才兵衛母は小岩氏旧藩教成館助教たり藩儒菊地一孚に就て漢学を修め君其高足たり性温厚人と争はず子弟に誨ゆる諄々として捲まず宛も君子の風あり戊辰の役藩命により羽州秋田口に進軍し各地に転戦し将に久保田城に迫らんとす九月十三日夜刈和野に陣し強敵の夜襲に遭ひ応戦するも衆寡敵せず流丸に中て斃る時年四十四

銃士     小原造酒
       麓多宮

       横田喜三郎            須知東作
       長岡小次郎            牟岐連司
       武藤直衛      砲士     志茂山丈七
       千葉敬輔      小監     高橋清吉
       増子平治      輜重方    入間川藤太
       小原与平太     銃士     小嶋兵吉
       及川盛              高橋捨之助
       渋谷遷三郎            金野元吉
       千葉量七             長山定之助
       菊地弁左衛門           阿部貞吉
       大友繁吉             金利平
       宍戸安吉             千葉清之丞
輜重方    遠間弥郎             吉田弥助
銃卒     菅原伊蔵             藤野広吉
       千葉久太夫            小野寺作蔵
       千田留右衛門           菅野辰蔵
       千田長蔵             吉田荘蔵
       千田亀次郎            渡辺荘右衛門
       熊谷養吉             千葉捨吉
       星清助              木村蔵之丞
       芳賀用右衛門           木村彦作
       千葉勘吉             千葉治四郎
       村上与右衛門           伊藤清四郎
       藤野倉蔵             木村七兵衛
       藤野定吉             菅原申松
       加藤巻蔵             館沢喜代治
       宍戸弥平治            小野寺荘兵衛
       小野寺重吉            菅原官平
       三浦長三郎            熊谷徳右衛門
       佐々木竜之助           千田捨蔵
       熊谷春松             佐藤勘左衛門
       岩淵吉右ェ門           阿部升五郎
       佐々木清作            菅原辰五郎
       千葉幸蔵             鈴木己之松
       三浦順太郎            佐藤弥市
       岩淵亀治             千葉喜左衛門
       岩淵嘉吉


越後口の戦況

仝年五月参政葦名靱負監察牧野新兵衛横尾東作斎藤安右衛門星恂太郎等と新潟に赴く蓋し旧幕府の内約に係る新潟開港を同盟列藩にて遂行し軍需品の購入及北陸道の西軍を防かんとするにあり大隊長黒沢壱岐亦た部下を率いて長岡に向ふ西軍栃尾及薬師堂方面より長岡城を攻めんとす長岡藩老河江継之助能く戦ふ七月二十四日我軍応援最も努む猪狩兵左ェ門白幡嘉膳等今藩と合し奮戦与板城を抜く敵将山県狂介身を以て遁る、七月二十九日西軍汽船三艘を率い新潟を攻む此時新発田反盟して西軍を松ヶ崎より上陸せしめ海陸より襲撃す米藩家老色部長門会藩家老長井蠖伸斎之に死す長岡城陥るや牧野備前守は仙台に来り同盟軍は八十里越より会津只見に退きたり此戦争に於て仙台兵の戦死は僅かに三名に過ぎざりき

周旋方 我妻敬三郎

性剛毅年十九にして京都警衛を命せられ尋て御小姓に採用戊辰の役起るや軍務局応接係となる参謀黒沢壱岐に従て軍監となり大に軍略を運らし奮闘遂に斃る

平渡清太夫  生江常治

(仙台藩戊辰殉難小史による)(近江茂一)
 
 


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 2002.7.29
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