〈岩 ヶ 崎 1〉

神社と寺院の存在

昔は官の神社、官の寺というて概ね朝廷か若しくは豪族か領主が建立した。
当時学問に縁の遠い庶民階級は、総て学問に優れていた神社の官主或は寺の僧侶に物事を聴き家計をたてていたのだろう。従って官主、僧侶は政治経済等凡ゆる面に関係を持っていたと推察される。

こうした頃は医師もなかったので何んとしても神を斎し、みほとけに頼るのを唯一の力とした。みほとけに薬師如来がある。そこで庶民は楽師様を拝し祈願するようになった。

東北地方でこの風習最も多く、又信仰的であった。即ち戦をする場合も神、仏に戦勝を祈願し家を建て土地を耕すことも皆官主、僧侶の業であった。

山伏姿の僧侶も衣の下に武具を纏い寺に住し、官主も同様のいでたちで、時に戦場に臨んだものである。

兄頼朝に追われた源九郎義経は山伏姿でなんなく関所を通り平泉藤原秀衡に逃れた。これも僧侶の姿であったからであろう。

何れにしてもこの時代の僧侶の権識を如実に物語るものである。寺の建立は室町時代から徳川の時代にかけて最も多いようだ。

栗駒町にこの時代の建立で尾松の栗原寺(現上品寺)、岩ヶ崎の清水寺があるが、共に古刹としての名がある。神社としては尾松の八幡神社も古い社で、曽って源頼義が戦勝を祈願し巳の鎧を奉納している。鎧は現に同社宝物殿に安置してあり昔を偲ぶに充分である。

神社の斎する処に必ず寺があるのを常としたが、世並が変り神仏混淆まかりならぬとの政府命により、幾多の神社仏閣が廃されたかその数を知らない。

吾々が心のおき処を定着し安心して仕事に励み且つ又健康を保っているのも神仏のおかげであると信じる。代々受け継がれて来たこの尊い神仏に一層日々感謝の気持を持ち続け、吾々の生きていく心の糧としていきたいものと思う。

(斎藤実)


藤原三安

三安は(さんなんと読む)登米郡迫町北方藤原源之亟の長男として嘉永三年二月三日に生れた。妻は岩ヶ崎清水忠兵衛の長女てる嘉永六年七月十二日生る。

岩ヶ崎町字六日町五十八番地に開業、産婦人科を専門とした、妻てる明治二十一年十一月二十八日死亡、その後妻が岩ヶ崎下小路佐々木吉右ェ門の妹でいしと言う。いしは三安と共にお産の手伝い等して産婆試験に合格。以来殆んど二人で往診し、取り上げた児数千に及ぶという。

産気がつけば直ぐ、三安先生と言うのがその当時の地方の常用語であった程である。三安は非常な大食漢で、サァお産の準備となると、その家の勝手も又忙しい。湯を沸すやら、ご飯を炊く、トロロをする三安は酒一滴も呑まないが、トロロご飯は好物中の最たるものなので御苦労さんでしたと先づ好物のトロロを差し上げるのが常であった。普通五、六杯だが三安は七、八杯以上だった。この辺でよかろうと給仕人がお櫃を引込め様とすると必ずおかわりと椀を出す見上げた健啖家であった。

子なく妻いしの姪かつ子を養女とした。

三安 大正六年一月二十四日歿した。
    年 六十八才
  岩ヶ崎摂取山 円鏡寺に葬る
   法号 藤原院議誉三安居士
 


中村宣静(のぶきよ)

宣景長子、弥宗三郎、号蕉堂屋。
 天保五年甲午生。

文久二年正月元日歳首御○○父日向長病ニ付右名代トシテ参賀。

文久三年十月慶邦公御自身練兵御取立之節宗三郎並白石直衛両人御持鎗奉行被仰付。

同四年藩公蒙江戸守衛之命二月九日発仙台廿日出府宗三郎以参政職■従五月廿八日発江戸六月七日帰国。

元治元年慶邦公御参府御下向御用骨折相勤候ニ付賜賞誉。

慶応元年十月為評定奉行。

同三年四月十六日為参政。

慶応四年四月七日藩公為会津追討出陣謀不在中不慮宗三郎邸宅以中之瀬懸上リヲ奥山永之進率配下軽卒之ヲ警衛ス。

四月十一日藩公為会津征討出陣此夜市中形勢最以危険田村家始門族伊達数馬三沢信濃茂庭大隈等手兵養賢堂附近ニ配布シ政宗三郎泉田志摩石母田但馬等終夜警戒ス。

閏四月六日宗三郎葦名靱負ハ仙台城下警衛ヲ命セラレ白石本営ヲ発シテ仙台ニ帰ル。

閏四月廿日宗三郎家中一小隊九条総督宿陣吉内左近介邸宅警衛ヲ命セラル。

五月廿三日秋田藩破盟之説アルヲ以テ参政但木左近同宗三郎ニ羽州国境寒風沢並尿前警衛ヲ命セラル

七月十四日庄内藩ハ新庄ヲ屠り此機ニ乗シ秋田ニ攻入ラントス依テ応援兵ヲ新庄ニ差出スヘキ旨庄内藩ヨリ申込ニ付戦況ノ如何ニ依リ左近ト供ニ出張スヘキ旨命セラル。

八月二日宗三郎ノ率ユル兵ハ鬼首ノ険ヲ越エテ院内に入ル。

八月十三日庄内松平甚三郎酒井吉之亟仙台藩兵秋田ノ横手ヲ占領シ十四日ヲ以テ将ニ六郷村ニ進ミ大曲ニ出ントス宗三郎是日甚三郎ニ謂テ曰ク之ヨリ先仙台藩先鋒トナリテ進マント即チ涌谷勢其他八小隊先 トナリテ正午六郷村ニ入リ更ニ六郷ヲ発シテ大曲ニ向ウ。

八月十六日仙台兵六郷ヲ発シ大曲ニ進ミ十八日ニハ四谷ニ陣を進ム、而シテ中村宗三郎隊ハ同十九日更ニ高梨村ニ進ミ廿一日ニハ角館ナル西軍ニ備フベク四ツ谷ヨリ横沢ニ進ミテ陣セリ。

八月廿三日先是鹿児嶋藩長嶋津登嶋津新八郎等精兵五百ヲ率ヰ秋田ニ上陸以来西軍ノ頻リニ敗ルヲ見テ大ニ怒リ奥羽ノ弱兵何カアラン薩摩隼人ノ戦ノ強サヲ示シ呉ント非常ナル勢ヲ以テ此日新八郎自ラ三小隊ヲ率井島原矢嶋ノ大砲隊ヲ先鋒トシ四ツ谷長静ノ浅瀬ヲ渡リ四ツ谷ノ兵ヲ破リ花館村ニ拠リ大曲ノ列藩本営ニ向テ猛烈ニ射撃ス仙台荘内兵之ニ応シテ大小砲ヲ発シ両軍喚キ叫ヒテ戦フ。

我草刈鎌之亟内海雄一郎千田半兵衛等勇ヲ鼓シテ之ニ当リ瀬上主膳亦衆ヲ励マシ率先シテ戦フ砲弾銃弾霰ノ如シ此時西軍各隊ハ八方一時ニ攻撃開始シタルタメ東ハ仙北角館ヨリ西ハ川辺郡ニ至迄戦線十余里ニ達シテ未曽有ノ対戦ナリ雌雄容易ニ決セス両軍一歩モ退カズ、新八郎切歯シテ曰ク今夜大曲ヲ攻落サズンバ巳マズト厳シク号令シテ打込マシメ夜半ニ至ルモ巳マズ。

両軍間僅カ数町ノ近距離トナリ互ニ殊死奮戦ス、松平甚三郎曰ク出兵以来如斯強敵ニ逢ヒシコトナシ到底尋常手段ヲ以テ防クベカラスト、諸隊長相会シテ軍議ス、決死ノ士ヲ選ヒ暗夜ニ乗シ花館ニ密行セシメ敵ノ中堅ヲ突カシムニ決ス、藤助市郎ノ両隊ヲ選出シテ花館ニ潜行セシム、両隊飛丸ノ間ヲ匍匐シ、稲田ノ中ヲ潜行シ、漸ク花館ニ近ツク邏兵ノ一隊早クモ之ヲ発見シ一斉ニ射撃ス其間僅カ二十余間藤助等十余人疾駆シテ花館ニ入リ大呼シ曰ク庄兵川原ヲ廻リ敵ノ背後ヲ衝ケリ、鎗隊疾ク突キ入レト、依テ劇シク射撃ス鹿児島兵不意ニ驚キ狼狽シテ散乱ス此時新八郎ハ本陣ニアリ大勝利ナリトテ快飲大酔兵ハ皆出テアラス、庄内決死隊刀抜キ連レテ切リ込ミシ為雑兵等武器ヲ棄テ逃惑フ、新八郎大酔ナガラモ 起シテ雑兵ヲ叱咤シ大刀ヲ抜キテ庄兵ト切合ヒシモ酔歩蹣跚稍モスレハ蹉躓ス庄内取巻キテ之ヲ縛リ散々打敗リテ大曲ニ帰リシハ廿四日未明ナリキ。

新八郎縛セラレテ、大曲、本陣ニ至リシガ甚三郎降ヲ勧ム切歯目ヲ嗔ラシテ罵詈巳マス遂ニ之ヲ殺ス。

此日宗三郎ノ隊ハ四ツ谷松倉合田河原ニ屯集セシガ午前四時西軍川ヲ渡リテ進撃シ来リシ為夜ニ入ル迄激戦セシモ地理不案内ノ為メ一先四ツ谷ヲ引揚ヶ六郷ニ至ル。

伊達安芸伊達弾正ノ隊モ同時ニ引揚ケタリ。此日戦死ハ安田鉄之助外農兵一名。

九月十八日仙台軍ハ羽州神宮寺及横沢ニアリシカ大町勘解由公命ヲ奉シ来リテ兵ヲ収ムヘキ旨伝ヘラル於是兵ヲ収メテ仙台ニ帰ル。

  明治三十五年一月廿二日卒。
  年六十九葬岩箇崎館山寺。  

(菅原常雄)


蛇談議

その一 熊谷東樹先生

岩ヶ崎のある家に年頃の娘があった。いつの頃からか石の上に昼寝するようになった。

或時、立派なさむらいが、添寝していたのを見た附近の人々は蛇の化身として、娘に強く注意したしかし、いっこうに聞き入れようとはしなかった。ところが日に日にお腹が大きくなり、産む月 来た

娘の苦しみは普通のお産と違う痛みである。早速産婆を迎えにやったが、産婆は手の施し様もないので岩ヶ崎大手に中村家のお抱漢法医、熊谷東樹先生の往診を乞うた。これを診た東樹先生、家族の人にカエルを集めさせ、タライに水を入れさせた。カエルはギャァギャァの声、娘をタライにまたがせたら何んと蛇が出て来たという話である。娘は間もなく死んだ。この娘何町何某の娘か判らない。

熊谷東樹の墓は、黄金寺にある。その長男は玄亮、娘のりつは、六日町鈴木吉右ェ門の妻となり多くの子を儲けた。四日町沢辺トミエさんもその娘。六日町くりこま駅前の熊谷昭宏氏は正統の系類者である。

戊辰の役には秋田征伐に出陣した。領主中村宗三郎宣静公に従ったのである。

(斎藤実)


その二  くづ蔦がまむしになった話

昔ある所に竹薮をたくさん所有していた人があった。竹の子がでる頃になると竹の子が盗まれてしかたがなかった。その翌朝も盗まれていた、困ったものだ、なにかよい方法はないかと歎息をもらした。

その頃家に出入れしていた老人があった。それを聞きつけた老人は、
「そんなことはなんでもない、蔦の木を一尺八寸に切って藪にちらばせ」
とおしえた。すぐその通りにやってみた。翌朝行ってみると、その蔦がみんな、まむしに変化しておったという。

○ そこでまむしは五四センチより長くならない。いくら太くとも。
○ まむしは全国的に殖えたのもこれから。
○ その老人は弘法大師であったと。

  栗駒町鳥矢崎での伝説

(斎藤実)


円鏡寺の風土記

この稿は浄土宗円鏡寺二十三世良勝上人が慶応四年十月、克明に写し遺した「当山故古又来歴風土記」に依るものであって、円鏡寺の歴史であり、当時を識る貴重な資料である。この風土記は同寺二十六世菅原一成師が、過日偶然寺内にて発見したものである。

戦国の永い戦乱から開放され、卜占や呪ないの民間信仰の迷信が、庶民生活を煽りたてた文禄時代には、南無阿弥陀仏に節づけして唱えながら鐘、太鼓に合わせて踊った念仏踊りが流行し、また徳川家康が慶長小判を鋳造したのも慶長六年(一六〇一)安土桃山末期から、江戸初期にかけてのことである。

その頃岩ヶ崎村茂庭町三迫川のほとりに野地があり、そこに生国が何処ともわからない、良皓上人が開山した大智山円覚寺という小さな寺があった。多分草庵であったのであろう。寺地が悪いため元和二年(一六一六)平坦な境内三一〇二坪を拝領し、七間?六間の本堂と外に庫裏、寮、山門まで建立寄附されたので、山号、寺号を摂取山円鏡寺と改め、上人が入寂したので弟子の良恩上人残世和尚が円鏡寺開山となったのである。正しくは円鏡寺二世である。

領主は伊達中納言政宗公五男、伊達摂津守(注、二代忠宗弟宗綱十六才卒、奥州三迫領主)である。貞山公(政宗)親しくお国中を見回り、岩ヶ崎に滞在した際、摂津守から円鏡寺ご本尊の阿弥陀如来は春日の作であり、参詣のため本堂に行って如来の顔を拝した瞬間、光明かくやくとして思わず目まつした旨申上げたところ、政宗公より、これからは目まつの本尊と申上げるようお言葉を賜り、霊仏としてお供物料七〇〇文を賜った。

円覚寺跡は川のほとりとだけで、地面もわからないし、何時何故円鏡寺と改めたか詳しい伝記はわかっていない。円鏡寺口伝によれば、現在の田町側、大橋川畔を東方へ百メートル程下った川岸に、嘗て野地蔵が建っていて、そこが山門の跡であり、そこから更に東方へ百メートル程下った小高い丘の杉森に円覚寺があったという。

五〇年ほど前まではその状態であったが、其の後周囲には建物が建ち並び、往時を偲ぶよすがさえない。現在円鏡寺山門脇にある小さな地蔵は二、三〇年前、二五世仁広和尚がその地から移転してきたその時の野地であり、碑面には元文六年二月十日とあるから、元和二年円覚寺が円鏡寺と改称してから一二六年後に、円覚寺の目印として建てた地蔵であると口伝している。

知行高について風土記には、茂庭石見守の取持もあって、元和七年三月七日、大町駿河の書付を以て、中野村から七五〇文となり、寛永三年六月廿四日には七七三文、寛永二十一年には九一三文(九石一斗三升)となって、寛永元年十一月十六日七世宝山往持の時から右高通りとなった。

寛永元年(一六二四)十二月廿日の覚え書きに、岩ヶ崎とだけで場所がないが、元和七年建立寄進なった二間?三間の浄法院という円鏡寺末寺があったと記されている。正徳二年(一七一二)老朽大破したので修復を願出たが許可なく、そのまま廃寺となったらしい。

浄法院を立証するものに現在寺内にある、塩釜神社小堂内に安置してあるご神体背部に微かながら、浄法院と彫刻してあるのがみえる。多年風雨に曝された磨滅度からして、文化、文政(一八〇四?一八三〇)の頃のご神体と推定され、神仏分離令が出た、明治元年以前のご神体であることには間違はなく風土記にある幻の浄法院を立証する唯一の手がかりである。

延法四年霜月朔日(一六七六年十一月一日)古内主膳正より寄進の鐘一口は、鋳師早井又兵ェ定次により、一分判九九切を以て鋳造されたもので、差渡しは二尺二寸という。毎年秋の十日十夜には、生きながらにしてこの極楽浄土の鐘を聞いて育まれてきたものだが、二六七年も続いたであろうこの鐘の音も大東亜戦争に供出していまは聞くこともない。

建物には不釣合な巨大な礎石の上に、全く釘を使用していない丸太材を組合せただけの現在の山門はどこからか移転してきたもののように伝えられてきていたが、本堂と同時建立したとあるから、或は元和二年本堂と一緒に建立したのを幾度か修復して、何時の時代にか現在の山門になったのであろう。

貞享五年(一六八八)茂庭町の境は、末代までも此方の成田川の内である、子細は染師吉右ェ門、■四郎久兵ェの三名が見届けてあると、九世貞与上人が書遺している。

世は元禄となり、年貢も岩ヶ崎城主、中村日向より拝領することとなった。元禄八年(一六九五)三月十一日の年貢覚書に、松倉村石母田大膳様ご家中百姓弥平次、作兵ェ連判にて松倉肝入六兵ェより、大肝入菅原助兵ェに云々とあり、元禄十三年三月二日乍恐申上候御事中、岩ヶ崎村肝入新助、彦助、徳三郎罷越したとある。此処からは虫食いにて不分に候とあるが残念である。

もともと由緒ある阿弥陀仏も木像にて処々朽敗しかけてきたので、九世貞与上人が蓄え置いてきた十六両を以て、元禄十年二月十三日観音菩薩、大勢至菩薩の台座を、江戸大仏師に新規注文する旨、中村日向外へ嘆願したとあるから、この時台座(蓮華台)か後光(光背か)を建立したのである。

元禄十三年三月十日知行所へ宛てた年貢嘆願の中に、清水寺(清水寺伝記に貞応二年(一二二三)建立したとある)黄金寺とも同時代に建立下され候とあり、円覚寺についての必要事項は、この時始めて年代順に、当山風土記として写し備え、終りに開山から現在迄の住持名も世代順に書き、七月五日利白と結んでいる。

元禄時代を過ぎると格別書置しておくこともなかったのか、安政四年(一八五七)七月、十六世良過上人までは月番へ伺の件、飛脚賃のこと等ちらりほらり書いてあるだけであり、その上、その後は年号が脱落していて整っていない。

斯して最初から書き継いできた風土記が虫喰が甚だしくなったので、とあるから或は元禄からの風土記は、別に替えたとも考えられるが、そのことは風土記の何処にも書遺していない。元治元年(一八六四)十一月、二三世良勝上人の時、開山から今日までを虫喰いの風土記から取纏め、後住僧侶への心得としたものを冒頭に、慶応四年十月書写したのが此の風土記である。

この中で良勝上人が山、寺号を摂取山円鏡寺と改めたのは元和二年であるといってるし、元禄十三年七月五日十世利白は慶長年間であると書いてある。何れを真実にするにしても、慶長年代は二〇年で元和と改え、兄二代忠宗が生れたのが慶長四年で、同腹の宗綱が(伊達摂津守)生れた年代は詳かでない弱冠十六才で死亡した奥州三迫領主伊達摂津守が恐らく十四、五才の時、父政宗に上申して円鏡寺を建立寄附されたのであろう。とすると円鏡寺となったのを慶長年間とするのは無理である。

風土記から伝説とならない為には、その時代の墓が現在の円鏡寺の何処かになければならず、寛永、承応、明暦、元禄と苔むす墓碑が込み合っている中から根気よく探した結果、本堂後の、ひっきりなしに自動車が往来する裏道の墓地の中央に、高さ五尺、幅一尺五寸の夫婦の碑を発見した。上部に梵字四字を頂き、法号中央には八巻勘助、男元和三年三月十五日卒。女元和三年四月以降は磨滅して認められずこの地方では珍しく年代の古い墓碑であった。

この発見により、元和三年後水尾天皇の三五六年前に、岩ヶ崎茂庭町には既に寺があったことが立証されたのである。苗字帯刀夫婦の墓だったろうか、或は庄屋夫婦の墓であろうか。円鏡寺となった時の歴史はこの墓碑だけが知っているのである。

中村日向の子孫、中村小治郎氏が、当時寺小屋だった円鏡寺に通ってきた時までは伊達家で建てた寺だったが、明治維新の頃火災に遭って焼失、明治十一年四月十六日再び火災に遭って焼失した。三日目の十九日、廿五世仁広和尚が立退先の山門で生声を挙げ、その後十六年間は焼跡に仮小屋を建て、廃寺同様の寂れかただったという。全廿七年六月随喜志墓集帳により、集った金七円五十銭を以て、岩手県一関市山目の農家の建物を譲り受けて建てたのが、現在の本堂、庫裡であると口伝されている。

元禄より八〇年も前の元和の頃、既に岩ヶ崎村に円鏡寺、清水寺、黄金寺が建立されたという風土記を手がかりに探索した今回の墓碑の発見は、今後の郷土を研究する上の素晴らしい資料であり、また解読に苦労したが美濃半紙を半折した大福帳様式三十六枚綴りに克明に毛筆書写したこの円鏡寺風土記も貴重な資料というべきである。

(近江茂一)


桜馬場と岩ヶ崎

岩ヶ崎町で特筆すべきは馬場である。古図によると上馬場(幅十三間)下馬場(幅九間)とに別れている頗る大規模のもので、長さは総長九〇〇米にあたり、約岩ヶ崎町の全長にわたっている。此の馬場は桜馬場と称して、仙台藩唯一の調馬所であった。而して上馬場は御買上馬選定所として、下馬場は下調場及練習所として使用された。

馬場を、諸士屋敷との中間に配置して、此広場を以って其の間の「緩衝地帯」とし、且両屋敷との連絡をとった計画は頗る敬服に値する。岩ヶ崎町の計画の白眉の点である。古図によると町屋敷との間には堀と土手をめぐらしている。近来まで土手には杉並木か茂っていたと云うから町の景観からして又防火上からして杉並木の応用が又興味深い。

尚之迫風土記には、

享保十一年七月廿五日獅山様、明和元年七月廿八日御当代様御馬御覧被遊候馬場に御座候下馬場

右は博労共下乗仕候馬場に御座候

一、 例年七月朔日より八月廿日迄数五十日御馬御日市御制札別而御札場へ被相掛、御馬方御役人様御下来、御分領中上馬調之分於当所ニ御見分御献上馬被召上以後御用馬共被仰付候事。

(小倉博士の研究による)

徳川時代以降の町は、戦乱の時代は最早すぎて封内の繁栄を増すべき都市として発展すべき機運にあった。従って町民繁栄の時代になり、商工業の発達を見るに至った。旧藩時代は馬の集産地として名高く、岩ヶ崎の桜馬場は仙台藩唯一の藩営調馬所として使用され、多数の商人、武士が此町に聚集し繁栄を見た。前記の想定戸数諸士百二十四戸、町民百五十一戸という比例は他の城下町の例に比すれば町民が著しく大きい事が知られる。

註 仙台諸士八〇〇〇戸、町民二一〇〇戸
  (仙台市史)
  盛岡 諸士六〇〇戸 商工合せ五一九戸(盛岡寛永古図)

これを見ても岩ヶ崎町は城下町を一歩進めて、商工経済町に移っていたかがわかる。これが後述する都市計画の基礎に反映している。

此の意味で岩ヶ崎は頗る近代性をもっていると云える。

(葦名悳盛)


ふな清水の由来

築城の場合、最も大切なのは、水源を確保することである。水が無ければ、どんなに堅固な城でも、価値は半減いや無価値にひとしい。しかも理想としては、手近かな、管理しやすい所に湧水があることである。流水では、万一の時、上流から流れを断たれたりされる恐れがあるからである。

富沢日向守道祐が岩ヶ崎城(鶴丸城)を築くに当って、現在の館山を選定した有力な条件の一つに、ふな清水の湧水があげられると思う。勿論、鶴丸城は本丸、西館、東館と連郭式の山城で、かなり大規模のものであるから、水源はふな清水のみではなかったと思われるが、後世まで名前の残ったものとして、しかも明治、大正、昭和の三代に渡り、現在の上水道布設までの約五十年間、岩ヶ崎小学校の飲料水として使用された事など考えるとき、忘れることのできない文化遺産の一つである。

ふな清水は山頂から至近距離約二十メートルの中腹にあり、湧水量も多く、三、四百名の生徒の飲料水を供給していたことを考えても、相当の湧水量だったと思われる。いかなる干天続きでも湧水の切れることなく、城中の飲料水として用いられた由である。富沢氏五代は勿論のこと、伊達藩時代になっても、宗綱、宗信の時代及び石母田家など山城を利用していたと思われる時代は、このふな清水の湧水を直接飲料として使用していたかもしれない。

現在の山麓(岩ヶ崎小学校及び中村家の屋敷のある所?千畳敷と呼ぶ)に平館を築いて移ったのは、いつの頃かはっきりしないが、元禄七年、中村家が岩ヶ崎に来た時には、平館だったという。

平館になってからも、続いてふな清水の湧水を飲料に使っていたかどうかは、疑問である。私の聞いている範囲では、中村家では飲料水を中野、大鳥方面に求め、毎日汲みかえたので、それに要した人力は大変なものであったという。

私の記憶に誤りが無ければ、中村家では戦略上か、ふな清水のある事をかくしていたという。管理しにくくなったこともあって、水源に毒を入れられたり、いろいろ、いたずらをされる事を恐れた為という。屋敷内に一切井戸を掘らなかったことも、同じ理由からだった由である。ただ、現在の中村家の明神下(岩ヶ崎小学校の裏)上堰のむかいの山麓が庭になっており、そこに大きな池があって、それへふな清水の水を流しこんでいたようである。(明治四十年ごろまでは池があったそうである。現在は水田)

明治十八年、岩ヶ崎小学校が新築されるに及び(現在の小学校の前の校舎、現在のグランドの一部にあった)その飲料水として、ふな清水を利用することが考えられ、土管や竹管などで引いていたようである。その時、中村家でも引いたので、ずっと後のことであるが、自分も竹管を流れて来る水に記憶がある。

その後、現在の上水道布設(昭和六年)まで約五十年、岩ヶ崎小学校の生徒や教員は、ふな清水のお世話になったのであるが、上水道完備後はすっかり忘れられて、現在、館山山腹に「槻清水大明神」の小碑石によって、僅かに存在を知られるのみである。

ふな清水の語源なども、まだ判明しない。

(中村貞夫)


狐にだまされた話

岩ヶ崎町茂庭町に勘吉いさばという行商の魚売りがあった。毎日ボデ笊を担いで、中野の赤坂山を越え、清水田、高松方面へ商に行き帰りに又赤坂を通った。ある日道端で、盲達二、三人で拾った金を分けていた。通りかかった勘吉はドレドレ俺が分けてやると言って売り残りの魚をボデ笊においたまま金の分け方をし半分は自分の懐に入れた。

ボデ笊をほっとらかして急いで岩ヶ崎に来て、いきつけのモッキリ屋へ駆け込み「モッキリ一杯けろちゃ」と注文した。この茶屋では勘吉いさばに貸しがあるので、「先分払ったら出すべ」とニベもない返事である。

勘吉氏「馬鹿いうな、今日は先分も全部払うし今日の分も払う」とタンカを切り、懐から木の葉を手に一杯つかんで「この通りの銭だ」と云った。「勘吉氏これは銭でなく木の葉だぞ」と言われた。なるほどよくよく見ると木の葉が一杯。モッキリ屋の主人は「勘吉氏どこから木の葉を持って来た、よく案じて語って見ろ」と言われても仲々口を開かなかったが、再三根っこ掘られたら語り出した。
「実は商の帰り赤坂を通ったら、道端の原この上で盲が銭っこを拾ってそれを分けていたところだというのでオレ分けてくれるというて分けるふりをして半分を懐に入れて来た」と語った。
「そだら其所へ行って見ろ」といわれ、急いで来て見ると笊だけあって魚ぱし等一つもなかった。狐が勘吉いさばの欲のこいことを悟って魚を取るべく騙したらしかった。

それからそこを通る度毎に魚を残して来て、「コリャ貴様達、オレを騙すなよお土産を置くから」と、魚を置いて行った。其所は鳥矢崎中野と尾松清水田の境で、粕喰らいという所らしい。

ところがある時、勘吉氏の処に若い娘っ子が来て、「旦那殿今日午後七時頃ご馳走したいから赤坂山まで来てけさい」と丁寧なお使いがあった。その刻限に行って見たら美しい娘っ子が三人程いて立派なお膳にさしみ、焼魚、酒の肴など揃いて娘っ子達のお酌で充分にご馳走になって帰るときはお土産まで貰った。

この様なお膳何処から持って来たのだろうと思ったら、その晩稲屋敷宝領の大家の御祝儀があって広間の座敷に運ぶ途中、お手伝いの姉さん達に混ってそのお膳一つを盗んだらしい。座敷ではお膳が一人前足りないとさわぐし、料理場では確かに間違いなく揃いたのだというし探しても見当らなかったとさ。

(斎藤実)
 


狐のむかさり(嫁入り)

私が子供の頃この目で狐のむかさりを本当に見た。今時なら人里離れたどんな淋しいところでもきいたことのない話である。

この話を書く前にその頃の周囲の状況と、ところとを前書きして置く。

「明治は遠くなりにけり」だがこれは明治の末期から大正の初めの頃の話であるからそう古い話ではない。

岩ヶ崎八日町通りの私の生家と、妻の生家とは南側の中程で今は四軒の軒並でその頃は五、六軒分の屋敷のうち俗に空屋敷と称して家の建っていないところが二軒分もあり歯っかけ唐きびのようであった。表通りでも屋根の低い茅ぶきの家が多く「屯ヶ丘」八幡様が手にとるように見えるのであった。

今の八日町はその頃二日町と八日町に分れ、それも上八日町と下八日町とあり、今の駅前通りが上下八日町を界し北側裏通りは桜馬場である。中央に鶴城神社跡があり今の町役場は鶴城神社の跡である

現在四日町角の神祇閣に建ててある石燈籠一対は天保年間に上、下八日町の講中で鶴城神社に奉納したものである。
明治の初頃まで時折狐が出入りしていたとのことである。

私ども子供の頃の遊びは町通りで「おにごっこ」や「陣取り競争」である。勿論日中はお館山や大川(迫川)の方で遊んだが夕方になると決って町通りに集るのだった。その頃岩ヶ崎の町には自動車はなかったから、交通事故と言えばたまに通る自転車に挽かれる子供があった位のもので至極のんびりしたものであった。

筒袖に細い兵子帯をしめ、せんべのようにすりへった下駄をはき、「ごはんだよう」と呼ばれてようやく家の中に引込んだ子供の時が想い出される。

ところで私の七十年の生涯の中に今でも不可解なのはその頃の話である。

軽辺川に螢の光も消え中秋から冬に入る季節、毎晩のように螢の光とも違う強い光が点々、九戸から八幡様の埜の形に岩本附近まで(現在の栗中校舎の附近)光り出すのである。時によっては鐙淵あたりから迫川べり、成田附近まで、或いは長く一線に、あるいは数線にぱっと現れ時には何やら自分の足元まで明るくなるような気がした。

こんな状景が半時から一時間もつづき今の「イルミネーション」の広告塔さながらであった。子供達は遊びを止めて「あれ狐のむかさり」だと不思議さと珍しさとで見たものだった。若し狐の仕業だとしたら一匹の狐が数十、時には百余の光を点滅し多数の人間を同時に眩惑させることができるのであろうかとても不思議である。

その頃狐に欺された話はよくきいた。だが、私共は狐に欺されてこの光を見たのだろうか、この狐の嫁入り光景は今考えてみると自分だけの眩惑妄想だったであろうか。いやそうでもなさそうである。子供の頃同じ場所で見たと去年他界した兄も思い出を語ってるし、兎にも角にも不思議なことだと今だに思っている。

ともあれ、私一人の作文でなく近頃は見られない現象があったことを後の人の為に、それも子供の頃狐のむかさりを見た多くの方々が未だいる裡に書き残しておきたいと思ったのである。

(熊谷芳巳)


名宰相 斎藤実と岩ヶ崎

明治以来の内閣総理大臣のうちで、伊藤博文を別格とすれば、筆頭第一の名宰相は斎藤実で、第二は原敬ということになるのではなかろうか。伝記を見ると小事に拘泥せぬ、政治性、融通性があり一面茫洋として掴み処がない性格であったという。

父は耕平、母はキク、水沢藩主留守氏、大名の小輩であった。母キクは岩ヶ崎三番丁、阿部栄吉(故人)の妹、耕平、キクの子が、斎藤実である。留守家に岩ヶ崎の領主、中村宗三郎の姉きよ女がお嫁入りをした。実の母キクもこうした関係から斎藤耕平の妻になったのであろう。

奥州水沢県庁に給仕として勤めた同僚の、後藤新平より一足先に郷里を出た前名冨五郎の実少年は大参事嘉悦氏房一行が東京へ引揚げるのに請うて上京した。

明治五年旧三月というからまだ故郷駒ヶ嶽の頂上近くに雪が見えたが野には若草が萌えていた。
時に実少年十五才である。

大参事嘉悦の厚意で水沢県庁東京出張所、(今の呉服橋)に勤めた。月給三円で等外出仕というから給仕同様の職である。

実少年は之に飽きたらず、官費の学校に入ろうと決心しその年陸軍丘学寮(士官学校)の試験を受けた。二十人採用のところ二十一番だったという。

陸軍が駄目なら次は海軍でと意を決し海軍丘学寮(丘学校)の入学試験を受け三番で入学した。明治十二年優秀な成績で卒業と同時に軍艦金剛に乗った。この艦に同姓同名三等水平斎藤富五郎がいた。大酒呑みで乱暴極りなく時間まで帰艦しないなど、強か者でしばしば問題を起した。早速会報によって斎藤富五郎は有名になりしかもそれが士官の斎藤富五郎と混同されるので、士官の富五郎は、斎藤実と改名したと伝記に書いてある。

夫人は九州出身海軍中将仁礼景範子爵の女、春子十七才、この頃斎藤実は三十才海軍大尉で、媒酌人は、海軍中将山本権兵衛伯爵、明治二十五年二月鴛鴦の契りを結んだ。

この時十二人の来客で、一人前二円二十六銭、敬二十六円四十銭を要したと記してある。

後累進して海軍大佐となり海軍次官に就任した。明治三十七、八年目露の役、少尉でありながら海軍大臣に親任された。先にも後にも少将で大臣になったのが始めであり終りである。中将、大将とトントン拍子に進み、朝鮮総督更に内閣総理大臣に親任した。

内大臣の頃山形から仙台入り、針久別館に宿泊された。新聞で人物往来の記事を見た私は早速別館に伺候し名刺を出した。正面玄関に屯した警察官等は目を名刺と私にキョロつかせながら見ている。拝顔する者も同姓同名であったから……数分後警察官の誘いで奥の室に通された。

初めて踏む赤いジュータン、之には驚いた。室に入ると春子夫人が待っていた。震いて足の運びも本当でない。椅子にかけられていた内府は、中腰に立ってどうぞといわれたので私も椅子に腰をかけた。この日は昭和十年七月十五日で暑さも厳しくうだるような日であった。

この時お願いしたのが内府の揮毫である。十月三十日、鞠町の消印の小包が届いた。

あけて見ると内府の自筆で、

克勤克倹無怠無荒(皋水)内府の号

それから四ヶ月例の二、二六事件で斃れた。
  年七十九才。
墓は水沢市小山崎に在る。

昭和二十三年は、十三回忌に当るので、館山寺方丈 葦名師
母方の阿部松之進氏と筆者と三人でお焼香をしその晩斎藤邸へ泊った。

阿部松之進氏は斎藤総理大臣の母キク刀自の実家に当るのでキク刀自の供養碑を昭和二十一年建立した。碑は館山寺本堂入口左側にある。

法号 昭徳院殿智鑑妙機清大姉
   キク刀自は明治四十五年十一月二十日 東京に於て歿す 年七十三才

除幕式に
   斎藤実夫人  春子刀自
  親戚の大蔵省主計局長(父は阿部松之進の従弟)
           入間野武雄氏
     水沢市長  下飯坂 元氏
参列岩ヶ崎町知名人多数参拝盛会であった。
     岩ヶ崎同名異人誌


白鳥省吾のうた

日本詩人百人中の一人、白鳥省吾は生を築館町に享け、築館中学校に学び、早稲田大学英文科の卒業である。

官庁にも入らず、会社にも入らず吾が道一筋に生きてきた詩人である。

今、築館町薬師山に残る次のうたは余りにも有名である。
  生れ故郷のくりこま山は
    富士の山よりなつかしや
故郷をこよなく愛した先生は本県内小、中学校の校歌を沢山作詞した。本町では岩ヶ崎小、尾松小、旧文字中、鶯沢小学校もそうである。

鶯沢小学校の校歌は、時の校長菅原富士郎先生の時、予てから知遇を得ていた筆者に菅原校長先生から白鳥先生へ仲介の労を依頼された。間もなく白鳥先生が鶯沢に来られた。勿論筆者もご案内役にお伴をした。

学校へ行く二迫川堤防の桜木を、そして遙かなる栗駒山を眺められたがこの実感が鶯沢小学校の校歌になったように記憶している。筆者にも詩を下すった。伜孝男の墓詣りもして戴いた。実感そのものの詩である。

昭和二十三年十月十七日、円鏡寺本堂南面に柿の落葉が通路一杯に敷きつめられた季節であった。
  柿落ち葉踏みて吾知る若人の
    その父と共に墓に詣でぬ
彫刻して墓の左側に建立してある。

この詩は吾が家の宝として何時までも残しておくものである。先生は本当に郷土を愛した。
  生れ故郷の栗駒山は
    ……
之を読むと先生の人柄からくる笑みと温容な俤が、そして如何にも鮮明なお姿が、髣髴としてよみがえり脳裡を去来するのである。

先生は、昭和四十八年八月二十七日 歿しられた。 行年八十三才
法号 詩聖院還元松風居士

(斎藤実)


円鏡寺の筆塚

円鏡寺の前身は円覚寺と称した。
鳥矢崎田町の東方にあったのである。
田町を貫通する小さな川がある。即ち浄土川という。浄土宗円覚寺があった地名で今日でもその附近の田畑の字及び地番は浄土川何番となっている。円覚寺の山門と見るべき田町に筆塚があった。土台もなし塚だけである。

現在の佐竹旅館に横倒しになっていたのを前住職仁広上人代に円鏡寺に運び込んだ。そのまま三十年もの歳月を迎えた。

この筆塚こそ八日町に住し巨万の富を以て細倉鉱山を経営した玉屋高橋甚十郎の子孫、高橋東蔵十六才の筆になるものであり、雄渾なる筆勢、驚くべき大書である。昨年十二月十日岩ヶ崎小学校百年祭に出席された東北放送KK会長、神奈川県観光KK社長、元高知県知事高橋三郎先生は、このままではというので本年四月寺の境内に再建したのである。

元来筆塚は、学徒使用の筆千本を埋めその上に塚を建てるのを常とした。

筆塚を書した東蔵は、雄大な野望を抱き漂々と旅に出、京都の有名な大丸に辿りつき勤めたとのことである。勿論十呂盤を取っても筆をとらしても一般の比ではない。店員としては礼節を重んじ、客に接するに柔和誠実で遂に大丸のお婿さんになったともいう。実に掴み処がない話しだが大丸に居ったのが事実と見るべきである。

玉屋は代々甚十郎を襲名する家柄で、又名字帯刀の家格を有した地方の名門である。

現在 高橋甚十郎氏は 千葉県に
次男 高橋憲太郎氏は 仙台市に
三男 高橋三郎先生は 浦和市に
住んでおられる。

(斎藤実)
 
 


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 2002.7.23
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