〈栗  駒 2〉
(雪中行軍小野寺伍長伝は、姫松地区内に併記)








合同供養

仏さまの年忌当りには、普通どこの家でも御法事をしたものだが、日支事変のあたりからこれがくづれ出し、自宅で法事をするのは、戦死者の葬儀と法事だけで、他はよほど信仰心のある家庭でないと行なわれないようになってきた。年越近くになって月牌(仏供米)を背負い、手製の塔婆を持って回って和尚さまに拝んで貰う、これを俗に入仏(いれぼとけ)と言っています。この入仏も年忌の先祖供養もしないで、旧正を迎える村民も多かったものである。

そこで昭和十七年沼倉円年寺の二十世住職である山上芳宗師は、戦時体制に準じ、自宅で法事をやれない檀徒を一堂に会し、白米一升に、その年に応じ、大人塔婆一本何円、小人何円とし、二・三の随喜僧を招じて、年回合同供養をしたところ、一人残らず参加し、酒や煮〆まで持寄り、時には功徳が廻り過ぎ、うたなども出る始末であった。以後松倉の長照寺でも行うようになった。低料金であり参列した人々がお互にお焼香をしてあげられるので今尚三十数年も続き、各地区でもこれに従うようになってきた。

現在、季節的には稲刈り後の頃、紅葉をみながら行っている。

(山上文明)


判官森と弁慶森

沼倉村安永六年書上風土記に、
一、 古碑一ッ
一、 五輪塔 一基

右は源義経於高館御生害以後当村御館主恵美小次郎高次と申御方遺骸を埋葬の上被相建候由申伝候事
一、 森二ッ

河子田屋敷東に当り上
一、 判官森 高五丈余

右源義経公輪塔有之候に付き名附の由申伝候事判官森の上
一、 弁慶森 高十二丈余石に付き由来相知不申候事

栗駒小学校後山に判官森があり、五間四方位の土塚が築かれ、その上に五輪塔一基石碑一基がある。塔の高さは二尺五寸位、古色蒼然一見壱先年位のものと思われる。石碑の高さは三尺余り苔むして判読に苦しむが次のような文字が刻まれている。

大願成就
上拝源九郎判冠者義経公
  文治五年閏四月二十八日

周囲に老松五株あり、眺望絶佳、弁慶森はその上の方にあって義経公の陣所だったらしい。弁慶以下六勇士の腰掛石という巨石もある。

村内風土記によると、三迫沼倉邑万代館主沼倉小次郎高次なるもの義経古と親交あり、義経自刃後遺骸を此の地に葬り、墓碑並に五輪の塔を建立篤く弔ったという。亦一説には、義経は蝦夷地に遁れ、杉ノ目小太郎行義、義経によく似ているので身替りに自刃しここに葬られたともいう。古歌に、

交りも情も深く亡がらをだききて埋む判官の森

(和久安英)


貴船社

松倉、沼倉両部落の境で、判官森下二〇〇米の県道西側に貴船社がある。昔は大木が茂っていて、「貴船の小豆洗い」とよぶ狐が出るなどといわれ、夜などおは寂しい場所であった。

貴船社は、安永六年(いまより一九七年前)に書上げた松倉村風土記によると、

貴船社
一 小名 貴船
一 勧請 誰勧請と申義並年月相知不申候事
一 社地 南北四間 東西二間
一 社  東向壱尺作
一 鳥居
一 長床
一 額
一 地主 内之目養之助
一 別当 養之助
一 祭日 九月九日、十九日、二十九日

右十ヶ条の内印仕候分無御座候事
となっているので、だれかが京都からでも分祀していつ建てたかは不明であるが、義経公の守護神と伝えられ、明和八年養之助が肝入の頃から既に内之目で祀っていた事になる。

佐竹東吉の代になってから氏神として屋敷内に移して祀ってあったが、貴船社を信仰する人々は人目をしのんで内之目の後の垣根を越えて拝んだという。

たまたま、佐竹家の家族で長い間病床についた者があって、はやり神にお祓いしてもらっったところ、貴船社のおとがめだから元へ戻さなければならないといわれ、すぐ貴船にもどして手厚く祭ったのであった。

毎年九月の御縁日には小さい藁苞に赤飯をはさんで社前に供えて拝み、時には神楽を奉納したこともあった。

昭和十二年に栗駒信用組合が隣接して建ち其の後更に、県道改修工事のため美しい桜の木は切られ、境内は著しくせばめられた。社屋も朽ちて石の祠だけとなったが、筆塚も近い場所にあるので白幡社もここに移し、これらを保存しようとする人達の努力によって、貴船社の敷地として県が地主から買収し、これを町に移管して祀るようになった。

(佐竹隆)


松倉館

根際館とも呼ばれ松倉の東側にある。小高い森の頂上までいくつもの平地が段々をなしており、下の方には濠らしい窪地も残っていて、一見館跡を思わせる古跡である。

天喜年中の昔、源頼義父子が前九年の役に陣所とされた地で、文治五年小野寺清国が奥州藤原泰衡征伐の源頼朝に従い、敵の首級三つも打取った軍功により葛西壱岐守の家臣として召抱えられ、松倉の里近郷千五百貫の地を拝領し、この陣所の地に引続き居を構えた。

ところが、二十一代の末裔道戒入道義安が、天正十三年に大藩伊達政宗と戦ったのは、まさに螳螂の斧をもって竜車に向うの喩のようなものであった。

館の山一帯には今でもよい水源地がなくて非常に水利の便が悪いがおそらくその昔も飲み水は近くの里の井戸から汲み上げたと思われる

小野寺方は籠城しているうちに貯えておいた水は日一日と少くなってくる。それを見抜いた伊達勢では断水の策戦でじわじわ攻めたてた城方はいよいよ困り果た挙句、大事な兵粮の米を惜しげもなくザザーと濠に落下させた。これは水不足のくやしさから、まだまだこんなに水があるぞ、といわんばかりに、滝の水のように見せかけて虚勢を張ったのである。

しかしいくら苦しまぎれとはいえ、米を水に見せるのは無茶な兵法で、その米を落したあたりには雀や鳥が群れ集ったのですぐ敵方に分られてしまったというのも皮肉。

結局水の欠乏によって戦に敗れ、同年十二月二十九日遂に落城した。この時の兵火で城下の大町その他も焼けてしまった。

葛西方が敗北するや、道戒入道は妻子を根際の小野寺六右衛門方に入家させて仙北(現在の秋田県)に退去したが、是が羽州仙北小野寺の先祖であると系図書に記されてある。

現在の根岸の小野寺家では、祖先の落成を偲び毎年の年越しの晩の行事として、一枚の蓙を手に持って「どごで年とべや、どごで年とべや」と唱えながら厠のあたりまで歩き廻るという珍しくも哀なしきたりをつづけてきたが、昭和の時代になってからそれもと絶えた。根岸の本家を中心に、松倉の里には小野寺の姓を名乗る農家が多い。

(小野寺敬一)


白幡社

白幡社(白旗社)は判官森を距る約六〇〇米南の県道の近くに所在し白旗大明神を祀り源義経公の守護神と伝えられた。

役馬に乗って通行する農夫でも、白旗様の前では馬から下りて頬かぶりを取って会釈するほど、一般の信仰があつかった。

境内は田圃に囲まれた平地で広くはなかったが、枝ぶりのよい数本の老松が茂って古い歴史を物語るような、村の名所の一つであった。

ところが、昭和二十二年、二十三年 続いた台風の大洪水のため松も枯れて荒れ果、更に県道改修によって境内は削られ、そして最近の基盤整備事業に、苔むした石の祠は貴船社近くに移転され、完全に昔の名残りは消滅して時代の移り変りを感じさせるのみである。

(小野寺敬一)


田打唄

栗駒町に古くからお正月のしきたりとして「田打」の行事があった。旧正十四日の晩におもいおもいの防寒着の数名の男たちが一組となって、一人は唄あげ、他は囃方で、掛声をしながら手に手に持った簓で雨打石などを調子よく叩いて伴奏をし、そのうちの一人は叺か袋を背負い、米や餅などあげ物のもらい役というふうな構成で、毎戸を回って祝ってあげるいわば門付けのようなものであった。貰った米は隣組や友達の厄年の人の家に持っていって、みんなで厄祓いのお祝いなどをしたものである。

十四日の晩だから「田打ちが来るぞ」と半待ちながら眠ったころ、隣り家あたりに回ってきた田打ち唄に目がさめる。声がよくて上手な唄あげを寝てて聞くのはいいもので、正月気分の味わいがあった。隣家からささらを引ずってくる音がする、わが家に来たなぁと思っていると、門口あたりでまず口上がのべられる。

トウトウトウあけの方からめでたいたんぶちが近う仕り候、こちらの田地と申するは、前に千刈り後に千刈りわきに千刈り合せてササラ三千刈りもあるそうだ、サァサ引連れましたる若い衆どもふくべん酒の一杯も飲んで鍬先揃えて打ってすけなさろ。

と述べ終ると、囃方が「オヤコラサーノサ」の合唱と共に、ささらを唄に合せてザックザックと打ち鳴らす。その「オヤコラサーノサ」につづいて唄あげがうたい出す。

 アー祝いましょ祝いましょ、どこから祝ましょ、お門に立てたる、三階小松の、その枝へだててこちらの枝には、小鳥が巣を食い、あちらの枝には、夜だかが巣を食い、ながめのよいとこ、ヤレヤレおめでたい?

と結ぶと囃方はすかさず「ホーホー」と掛声して一つの唄のうたい納めとなる。唄の一節の終りには必ず「オヤコラサーノサ」がつく。

唄は単調な節の繰り返しだが、上手な人は一節づつを、低、中、高音の三段階に変化をつけて唄うからなかなか面白いものである。

続いて、戸ノ口に近いあたりで二つ目の唄がうたわれる。

 アーそれにまたつづいてナ、おうちのおやから、つくづく見申せば、土台は黒金、柱は黄金で、桁梁金銀、屋根には白がね、ヤレヤレみなこがね?  ホーホー

と家の建物を祝うころになると、主婦か嫁かだれかが起きて田打ちの貰い役に会い、用意の米を一升桝かなにかに盛って差出し「ご苦労さまでした」とお礼を云うのである

 アーそれにまた続いてナ、おうちのお庭を、つくづく見申せば、鶴と亀おりてナ、鶴は千年亀は万年、身しょうあがれと、ヤレヤレ舞いあそぶ?  ホーホー

この三つ目の唄をうたうのはよほどもらい物の多いときのおまけの分で、たいていの場合は一つ乃至二つの唄で隣家に移っていく。祝っていただく側にしても一晩に三組か四組など来られては閉口する。寒い晩に起床が大変。そこでこんな話もある、さんざん唄をうたわせてなかなか起きないでいたところ

 アーこちらのだんな様、死んだか生だか、起きないでいるなら、凍餅はどすぞ。

と憎まれ口の文句で唄ったので、「なんだどう」と主人様が怒って起き出し、田打連中ほうほうの体で逃げたとか。

さて、このめでたく祝ってくれる田打ちの門付も、新暦の正月になってからはとだえてしまった。人情風俗のこまやかな昔に較べて今はなんとなくうら寂しい気がする。

そこで往事を偲ぶよすがにと、昭和四十七年一月二十日栗駒町からの「ふるさとの歌まつり」のテレビ放送で、小野寺敬一が唄あげ小野寺福寿、菅原実治、菅原亀祐、小野寺博らの囃方で「田打」を実演し全国に披露した。

なおこれまでの唄の文句は一般的に唄われたものであるが、くわしくて長い文句もあるので参考のため記して置く。

口上
とうとうとう明の方から目出度い田打ちが近う仕り候、さてこちらの御旦那様の御田地と申するは、前に千刈後に千刈脇に千刈合せてささら三千刈もあるそうだ、さて当年引つれましたる若い衆供は、生畦渡りの倉之助、伊之助、賀之助、鹿之助、なべのふた取手之助、丑の弥太郎、のどの藤三、奥の藤十、いづれも強力無双の若い衆どもなれば、鍬先を持って一水口にはかおりし、鍬先揃えて一度にどっとひとなめしに打って助けたがよかろう。

祝い唄
祝いましょ祝いましょ、どこから祝いましょ、お門から祝いましょ、お門にお門松、良い松迎えた、どこから迎えた、たづねて聞けばよ、奥のみ山の、千本小松の、数あるその中、押し分けかき分け、三階よかろか、五階がよかろか、三階よかろと、定めしお門松、三階小松の、一番良いのを、お門松に迎えた、立てて見もせば、まことに目出度い、元は白金、中程黄金で、おうらはざんざと、一又枝には、御金がざんざと、二の又枝にはお米がざんざと、三の又枝には、七五三のおしめ縄、さらりとはえたな、上から下まで、さらりさらりと、かかる白雪、あヤレヤレみな黄金ナ?

またもつづきます、こちらのお屋敷、つくづく見申せば、目出度い御屋しき、桝形おやしき、南下りで、北また上りで、そりゃまためでたい、東を見申せば、東のすみから、黄金が湧くように、西を見申せば、西のすみから、白金湧くように、御裏を見もせば、御裏のすみから、泉が湧くように、四方の隅から、朝日さすたび、あヤレヤレ黄金わく−

またもつづきます、こちらのお庭を、つくづく見申せば、まことに目出度い、お庭の真中に、松竹かざりて、亀どの拍手で、鶴どのおりたな、鶴どの拍手で、亀どの舞うぞや、なんと舞うぞや、尋ねて聞けばよ、身上あがれと、あヤレヤレ舞い遊ぶ−

またもつづきます、こちらの御やから、つくづく見申せば、まことに目出度い、土台は切石、柱は黄金で、桁梁見もせば、白金黒金、お屋根をみもせば、大判小判で、ふいたるおやから、たづねてきけばよ、芦名の道満、地祭りなされて、安部の清明が、お製図なされてたくみが棟梁で、建てたるおやから、お彫ものにとりては、そりゃまためでたい、如何なる大工が、彫りたる彫り物、たづねてきけばよ、左甚五郎、ほりたる彫りもの、東の彫り物、つくづくみもせば、春の景色で、梅に鶯、南の彫り物、つくづく見申せば、夏の景色で、牡丹に唐獅子、西の彫り物、つくづく見申せば、秋の景色でぶどうに木ねずみ、北の彫り物、つくづく見申せば、冬の景色で、誠に芽出たい、あヤレヤレ松に竹−

(小野寺敬一・後の唄 蜂谷正一)


ふるさとの唄

昔からうたいつがれてきた栗駒の民謡といえば、祝い唄の「さんさしぐれ」、「松坂」をはじめ「おいとこ」、「長持唄」、「馬方節」など、婚礼の披露宴や各宴会ですぐうたわれるが、労作唄の「田植唄」、「田の草取唄」は、いまでは全然きくことの出来なくなったのがまことに淋しい限りである。

現代の農作業は殆ど機械化されて、うるさく聞こえるのは殺風景なエンジンの響だけ、田掻きの代りに除草剤の撒布などで覆面したりして唄どころではない。

そこで、むかし恋しい田植唄、田の草取唄の当時の状況を後世に残して置くために復現してみることにする。

代掻馬の「馬鍬」でよく掻きならされた代田に、苗束がまばらに投げ込まれる。(そのころはまだ苗を腰籠に入れることははやらなかった)郭公の鳴声が透ってくる五月晴になど、モンペ姿に襷がけ、新しい手拭をかぶった植え手の女たちが、左の植えはかにならって次々と後退りの形で植えてゆく。

女たちの中には男もまじっていて、冗談や猥談で笑わせるが、やがて「話より唄コがいい、さあうたべっちゃ」とだれかがいうと、のど自慢の女が泥田にもったいないほどのよい声で田植唄を張りあげる。

 小手に細かに桝田に植えて、秋はかべを刈るように

一つうたい終ればみんなで「ソリャーソリャト」とはやす。それにつづいて、

 ソリャソリャソーリャとはやされながら、おうたいなされやそのつぎに
 植えればこそゃ田にもなるが、植えねばただの掻き代

と唄うと、田植えの手が揃って一層早くなってくる。

すると、近くの別な田植えの組でもそちらに負けずと唄いつぐ。

 かべを刈るべし桝目もとれて、あとは長者となるように

というふうに掛唄になると、それが大変に面白いので両方の組で「ソリャーソリャト」と囃したてる。午前と午後、二回のこびるでお酒を出されて勢がつくと、ますます調子がよくなってくるのであった。

植えた苗が根付いてくると一番除草が始まる。除草機が普及しない時代であったから素手でまんべんなく掻いた。稲株の根元は殊更よくかいた、掻いた後には小草が気持よく水に浮かぶ。一斉に横に並んで、這いながら唄うのは少し苦しいが、田の草取唄をうたうとみんなによろこばれて仕事がはかどる。

 お田の神様はかござれ、晩のあがりは早いように
 ござれ来なされ廿日ころ、二十日宵闇暗くとも
 この家檀那さん朝起早い、門を開いて福を呼ぶ
 この家かみさん牡丹の蕾、御座るお客に酒酒と

一つ一つの唄のあとには別な人が「ヨーイサッサト」と力強い掛声をかける、ゴチャゴチャゴチャと植田を掻き回す手に自と力がはいる、その音が唄の伴奏よろしくきこえるのであった。

労働作業歌の代表ともいうべきこれらの田植唄、田の草取唄は、泥田の中から自然に生れたようなものであり、まさに農民の生活の汗の結晶として遠い祖先の血が流れている感じがする。歌詞はいたって素朴、しかしなんともいわれない土臭い味のある田植唄、単純ながら美しい曲調の田の草取唄が情緒豊に、田園を流れた昔の農繁期の風物詩は忘れられない。いまはただなつかしい思い出である。

各地の早苗振大会や県ののど自慢大会などでうたわれた田植唄が、舞台の上でも大変うけてしばしば優勝したが、近ごろではさっぱり唄う人がなくなったのは残念である。

(小野寺敬一)


若木大権現

この碑は文化の頃の建立で、前熊野神社宮司岩本守穂氏の曽祖父に当る妙法院泰観の雄渾な筆捌きは目をみはるものがある。

いつの頃か年代不明であるが、松倉藤柄巻下三十軒通称前田囲といって、後田、豆田、余田、松田、野田、小深田、山田等、田の地名がついている所がある。

之等の地に鎮座の神をお薬師さまという。三十軒持ち寄りでお祭事を行なった。祭主は岩ヶ崎の宮司岩本氏であって妙法泰観の前からの行事である。岩本氏の祖父、泰俊まで続き明治の中期に関り合がなくなったという。

ちなみに前熊野神社宮司、岩本守穂氏は永年宮司の職にあって十五年間の勤めである。この永年勤続とその人となりが神社庁の認めることとなり、昨昭和四十八年名与宮司の称号を授けられた。しかも宮城県で只一人の名誉宮司になられた。本年八十八才の高齢であるが、健脚でどこへ行くにも下駄履で徒歩が多い。

名誉宮司になられたことは、ご本人は素より本町としても又悦びに堪えない。

現宮司は岩本勝美氏

(斎藤実)


天保の大飢饉

今から百三十七年前、天保八年は大飢饉であった。この年、松倉村九十戸ばかりの内飯米をいくらか残し、米を売った家がたった二軒、そのうちの一軒では貧乏というものはよいものだなァ、銭さえ持って来れば鍋さ入れる米が買える、おらように売る身になってみろ、暑いとき汗水流して摺臼をひきそして搗いて売らなければならない、そう言って桝目を誤魔化して売ったという。人手で搗くので今の白米と倒底比べものにならず、半搗米よりも黒かったそうだ。この家は跡型もなくなったという。

又他の一軒では餓死の年はお粥一杯でもえんだからと大鍋でお粥を炊き大腕で一杯づつご馳走し、その上一粒の米でも欲しいもんだからといって桝目をよくしてやった。この家には水車もあって搗くので今の八分搗き位はあったようだ。お粥をご馳走し、桝目をおくしてやった家は子孫繁栄し幸福に暮しているという。

この飢饉の年、真以五郎(宅地の囲名で若木の西の方で今は田になっている)は食べるものがないので寝てて「腹へった腹へった誰か助けてけろ」と叫んでいるので、初めのうちは隣近所で持って行って食べさせたそうだが、だんだん持って行って呉れる人もなくなったので遂に餓死したという。

寝ていて叫んだ声が後田の東あたりまで聞え、後々まで哀しい声が耳に残って、薄気味悪かったと古老から聞かされている。飢饉ばなしを書くにつけても今と昔は比較にならない、地獄と極楽の差がある。

元禄年間から今日まで二百八十年、この間凶作五回、飢饉五回、兵乱五回、戦争六回があった。昔は之等に備えて常に備蓄に心掛け、その布令もあった。所謂、備荒倉制度である。

(菅原清兵衛)


流し木山で米貸した話

明治中期から大正の中頃まで、嶽山の国有林を薪用に払下げて川流しをして来るため、ここを流し木山と称した。松倉部落では、十五人から二十五人位、共同して洞万橋から川上の方で毎年払い下げを受けた。秋の穫り入れの終らないうちから、男達は木伐りに登り、年内中に伐採して雪路をつけ、橇で川上まで運び出し、春まで乾燥しておき、翌年四月下旬苗代に種蒔き後、山に登って流した。其の後玉山発電所に水を引くため、窓滝の水を堰止めたので、川流しが全く出来なくなり逆に木流作業は止めた。

ある時三丁西の小野寺万太郎さんが急ぎ足で行くのに隣の小野寺清吉さんが中野の籠田、愛宕様の下で会った。「万太いど、今から何処さ行くのや」と聞いたら、「高松まで行くのや」というから、「何してまたこの夕方何か急用でも出来たか」と聞いたら「高松の人にな、流木山で米六杯貸したのに、オレいねェどこさ米一升五合置いて行ったから暇どころでねいから急いで取りに行くところだ」と語った。清吉さんは「何んだって万太いどよく考いて見ろ一杯何んぼうだ、二合五勺だべ、二合五勺二つで五合、五合二つで何んぼだ一升さ一升何杯だ、四杯さ、五合たしたら何んぼだ一升五合、そだべ、一升五合と六杯も同じだべ」「そうだ、ほにオレ又六杯貸したのにさ、一升五合置いて行ったというから足りなくもらったと思いもらいに行くところだった」といって、其所から万太さんと清吉さんは肩を寄せ合い笑いながら帰った。

尾松、高松と中野の人達も国有林の払下げを受け山近くに小屋を作って作業したその頃の笑いばなしである。

(菅原清兵衛)


小話聞いたまま

昔、小深田に鉄砲ぶちがいた。
中野の地蔵堂の古川の尻に雉子が時々下りるのを見て、鳥屋がけをした。鳥屋はようやく身をかくす位の小さな小屋で、その近くに稲穂をおいて、稲穂を喰いに来たのを小屋の中から狙い撃ちする仕掛になっている。

毎朝夜明け方に雉子が出て来るので暗いうちに鳥屋の中で待っていた。雉子からは絶対に見つけられないよう喰付の方に銃口を向けすぐ引金を引くばかりに狙いを定めている。鉄砲は種が島の火縄銃なので一つ弾で一発勝負である。だから慎重にかからねばならない。

ある朝いつものように鳥屋に隠れて喰付の方を覗いていったら、喰付けの所に奇麗な若い女がノッキリと立っているではないか、今時こんな所に女が来るわけがないが人間の姿をしているので撃つわけにいかずそのうち夜が明けると姿が消えてしまった。女のために雉子も現われずあきれ果てて家へ帰った。その翌日もいつもの様に鳥屋へ行ったら前の日と同じように女が立っている。

これは人間でない、撃った雉子を喰いに来たのだと思い一発ズドンとやるべとしたが、若しかすると人間がなとも思いその朝も家へ帰った。次の日も又女が現れた。これは困ったと思案のあげく声をかけたら、返事がない。これはまえんのものと思い、先づまえんのものは足を狙えと聞いているので、足をめがけて引金を引いた。狙いはたがわず一発で仕止めた。近づいて見たら何んと人間である。夜が明け太陽が上るとこのまえんのものは狸であった。

鉄砲撃ちも胸をなで下ろしたと言う。この小話は祖父から聞いたのである。

(菅原清兵衛)
 
 


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 2002.7.22
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