〈栗  駒 1〉
(雪中行軍小野寺伍長伝は、姫松地区内に併記)



鋳銭場

栗駒ダム上流、日影森の近くに「鋳銭場跡」の標識が建っていて、栗駒登山者の誰の眼にもつく。場所はそれより少し奥の沢あいになっている、地元では此処を昔から鋳銭と呼んでいた。

仙台藩では、寛永年間幕府の許可を得て、寛永通宝を鋳造したが、その場所は「栗原郡三迫上流」とだけで明確な所在が示されていなかった。間もなく享宝年間には、石巻に鋳銭場を移して幕末まで続き、場所は町名にまでものこって遺品などもあるが依然長い間の謎の場所とされてきた。

たまたま沼倉の小田末五郎氏が、開田作業をこの通称「鋳銭」で行なった際、深さ一メートル程の土中から、青銅の塊や鋳造滓に混って木炭などまで出て、特に湯口ではないかと思われる青銅の塊は、青銅を溶解したものとみて間違はないと思う。こうして鋳銭という地元民の多年の幻の跡が、三迫川の上流で遂に確かめられたのである。

この場所は、旧栗駒村の奥の方で、当時の仙台藩内随一の鉱山、細倉からは文字の角ヶ崎を経由すると、割合に近い奥まった山の中にある。貨幣の鋳造という秘密作業をするには、適当な場所であったのである。勿論後世の石巻鋳銭所のような、広大な規模ではない。 (栗駒町文化財による)

(和久安英)


くらかけ沼の主

栗駒の玉山のずっといりっこの方に、くらかけ沼という処があるんだと、その沼に昔から主がいるって語られていた。その主は金のくらだとも語るし、大きなうわばみだとか、また五尺以上もある鯉のような化物だと語る人もいる。ほだきっとも、誰もよく見た人はいないんだとさ。そこはろくに人も行がねどこで、大きな木がどっさりあって、昼間でもうすぐらくて、とてもおっかね、うすきびのわり処だったとさ。

今から五十年ばかり前に、或るどこに藤兵衛さんという三度の飯より、つりっこの方が好きだという父っつぁんがいた。藤兵衛さんは釣った魚こが小ちゃいと、もっと大きくなってろと、また川へ放してやるという人。藤兵衛さんは里の方で鮒こや、ぎん魚こを取って、づっと奥のくらかけ沼さ持って行って放してみたんだと。そして何年か経ってから沼さ行って釣って見たれば、やんばい大きくなって、ずいぶんふえていだと。めで面白いくらい釣れたんだと。それを聞いた他の人達が、おらも行って釣って見べいやと、そっつこっつから釣りっこが行って釣ったもんだと。

ある夏の日に藤兵衛さんが、今日は天気も良さそうだし沼さ行って釣ってこべいと、大きなやきめしを持って、朝こっ早く出かけて行ったんだと。なにっしょ、その頃は歩いて行くので沼まで三時間以上もかかった。沼さ行って見ると、一足先に行った三人のつりっこがいて、一生懸命釣り上げていた。かげの方で見ていた藤兵衛さん、ようし一つたまげかしてやれと、雨除けに持って行った羽げら(わらで作ったみの)を着て笠をかぶり、沼の方さなびいた木に登った。三人はそれには、ちっとも気付かねで釣りに夢中になっていた。藤兵衛さん時を見て、沼の中さどぼんと飛び込んだ。静かだった沼に大きな音がしたので三人は、何だといってその方を見ると、波立つ水面に、何やらぽっかり、浮び上ったものがあるんだと。三人の内、誰語ることもなく良く見かどめもつけねいで、あっ沼の主だといったので、釣り道具は勿論、いっぱい釣った魚もあらばこそ、何も持たねいで、吾れ先にと、後も見ねで逃げ帰ったんだと。丘さ上った藤兵衛さん、少しおどかしがきき過ぎたかなというかっこうで、ぬれた着物を脱いで、その辺に広げて乾していた。沼は何事もなかったように、もとの静けさにもどっていたんだと、とんでもない沼の主だったとさ。

(蜂谷正一)


楠ヶ沢遺跡

宮城バス栗駒線桑畑停留所から北方約五百メートルの地点で、清水に恵れた俗称楠ヶ沢と言われる日当りの良い沢がある。昭和四十七年二月頃、桑畑千葉一枝氏方にて、田の整理をしていたところ、多量の縄痕紋の見られる土器が出土した。そこに働いていた人々によってかなりの出土品は持ち去られたが土地所有者千葉一枝氏方では、残りの出土品を収集保管している、築館女子高の金野正先生によれば、土器は縄文文化中期後半のものではなかろうか、とのことである。

又、隣地の山林からは、多量の石器が出土して、佐藤晃弥氏方にて保管している。

(千葉光男)


電気ばあさん

旧栗駒村の「電気ばあさん」といえば、大正末期から昭和の初期に宮城県下で鳴らした、政治好きの女傑であった。栗駒村沼倉の生れで、同じ部落の素封家蘇武家に嫁して蘇武はつが本名である。

二人の子を儲けてから、男なら青雲の志を抱いてというふうに家を出、当時在仙の大物政治家である藤沢幾之輔氏邸に女中奉公にはいった。藤沢氏は幼少の頃、栗駒村沼倉滝の原で育った縁故からでもあったろうか。女中とはいっても普通の女中と違い、根が才たけた女であり、永年の住込みのうちに政治的感化をうけたらしい。

年とってからは女中のつとめを若い者にゆずり、ご主人の選挙運動にお供して歩きまわった。更に政友会のお歴々の政談演説会にもよく姿を見せて、前座に花を添えたものであった。初めのうちは一般から政治狂と軽蔑されたが、本人は少しも意に介さなかった。当時としてはむしろ珍しい存在で、異色の人気を博すようになった。

電気ばあさんの姿と見るならば、顔中の皺をお白粉でかくし、髪ははやりのハイカラ巻にし、長い袂の紋服の小柄なからだに、胸高に紫の袴をはいた正装で、時々手を振って赤い気焔をあげると、もちろん一寸したご挨拶ていどの話ながらなかなかうまかったので、各演説会の聴衆はヤンヤの拍手、「いいぞ電気ばあさん」と、声援のヤジがさかんにとんだそうである。

電気ばあさんの名は仙台でも有名になり、新聞の材料にもしばしば取りあげられた。郷土の多門師団が満州から凱旋してきたときのことである。県民挙げて仙台駅頭に並んで歓迎した。最初は「さんさしぐれ」の大合唱でお迎えし、次に人垣の中から出ていって乗馬の多門師団長の側に近寄り、歓迎の言葉を述べた袴姿の女性こそだれあろう、それがわが電気ばあさんであった。師団長もいささか驚いたらしいが、挙手の礼でりっぱに受けられたのを、ニュース映画でみんなで見て半ばあっけにとられ、半ば感嘆したのが思い出される。流石に男勝りの度胸のよい、電気ばあさんの面目躍如たるものがあった。

晩年は郷里の沼倉に帰ってきて静かに余生を送り、小さな店などを開いていたが、藤沢商工大臣から記念にいただいたという、茶の湯用の水色の袱紗を大事に持っていて、時々親しい人などに見せた。電気ばあさんの「電気」とはなにを意味するのか?人を引きつける才気があるためか、だれが名をつけたのかはっきりしないが、威勢がなくなってからはなんとなくやさしいおばあちゃんであった。

電気ばあさんは、昭和十五年四月三日八十二才の高齢で没した。

(小野寺敬一)


沼倉村木鉢番所

宮城バス御駒橋停留所で下車し、お駒橋を渡り、西にのぼると徒歩十五分位して木鉢沢の部落に至るこの部落の木鉢屋敷千葉信次郎氏が木鉢御番所の番士の孫である。

木鉢屋敷の門口の草むらのあたり、今はさだかでないが、昔は(三十年位前までは)道路ふちに、高さ一米位、巾二米位の土塚があって朝草刈に出掛け、荷鞍馬に乗るときの踏台の役目をしていた。かたわらに一本の杉の木があったが、昭和四十五年頃に孫別家にあたる喜三郎氏方の馬屋改築の際に伐り役立てた。

そこの土塚のあたりが御番所門の跡であり、そこを、沢を渡り御番所があった。
その頃の井戸もあり、フルヤジト(古屋敷跡)と呼ばれている。

ここの道路は、往古は仙北海道(街道)といわれ、秋田県雄勝郡小安に通じていた。またの名を、羽後岐街道ともいわれ領内の重要道路で、御番所は、御番所門を二ヶ所に持って番士外六名の足軽を配したようであった。

(門は木鉢、赤坂、の二ヶ所)

番士孫左ェ門の書類には「出羽秋田領奥州仙台領栗原郡田代長根御境目守御留物番士被仰付」、とあり以後代々相勤め、明治二年廃令により御番所建物及び御番所門を解体されたようである。

御番所は街道に平行して建てられ、間口十七間、奥行七間の切妻平屋建で、一見して御番所たることを知ることが出来る。

通行人を監視のために、吹雪の日でも大戸を開けていたと言われている。

御番所の番士の役目は、
一、 出入荷物の検査
一、 通行人の検査
が主であり、宿泊の設備をもっていた。これを荷宿(ニヤド)といった。又田代長根には荷替小屋、綿小屋、等があり、数人の背負子と駄馬を有した。

この御番所の特異なことは、日本海側と、太平洋側の産物の交易にあったことである。即ち気仙沼の商人が、一関を通り魚類、乾物を秋田領に運搬、又三迫川下流の商人が、どじょう、うなぎ等の鮮魚と金成耕土の主食類を運搬する。又秋田側から(それは大阪、京都よりの)木綿、綿、紅花の搬入のための主要な街道であったことであろう。御番所は、これら荷物の検査料として商人より、荷物の十分の一を徴収した。これを御役御取立と言った。

外に給料の足しに、山林五十町を所有していたらしい。「御合力被下置地(付)の木鉢山と申所長五百間横三百間程之所所持仕候」とある。

参考のために次のことを供することにする。

  覚
一、領内より他領へ相出の荷物見届留帳(トメチョウ)に記置(スルスオキ)番代之節三問屋留帳に引合申可事。
一、他領の商人荷物馳入(アキントニモツツケイリ)は御役人書付羽書(ハガキ)により色品慥(タシカニ)聞届け駄数個数相改め留帳に記入。
一、脱藩馳落者婦人通行者厳重吟味申可事。
一、夜間通行禁止之事。
何分方(イジレカタ)御境目なりとも一ヶ月切に御用便に又は歩扶(ブフ)御伝馬戻馬に成共相付急度御首尾之有可候。

尚九代孫左ェ門が報告した報告書の控を掲げることにする。
 安政五年七月五日書上仕候控
栗原郡三迫沼倉村ヨリ秋田領へノ海道筋田代境迄道法里数ヲ始メ先年御境目守被仰付候、代号代数並御道具御預リ品外ニ秋田領米相場共ニ取調左ニ申上候。
一、沼倉村ト松倉村之境ヨリ平六坂迄 三十丁二十九間
一、平六坂(今ノ大峰前)ヨリ国見下迄 壱里
一、国見下ヨリ(今ノ日影)今坊平迄 壱里
但シ此間ニ木立ト申所有之同所ニテ文字村ヨリ海道出合候
一、今坊平ヨリ並坂(今ノ前坂継子坂)迄 壱里
此間ニ鳥居嶽有之前ニ馬草森ト申両山有之申候、右鳥居嶽ノ下ニ駒形根神社ノ鳥居有之申候(今ノ大路)
一、並坂ヨリ二階倉迄 壱里
此間ニ大路沢ト申大沢有之候
一、二階倉ヨリ田代御境迄
此間ニ九万沢ト申ス大沢有之候
合里数五里三十丁二十九間
一、御境塚ハ正保二年御築立罷成申候
但シ御境塚築立之節川嶋豊前様、遠藤次郎様、姉歯惣九郎様、秋田ヨリハ根元正右ェ門様、瀬和孫衛様、外ニ花山村文字村沼倉村右三村ヨリ御境目守並ニ古人御山守立会申候其後享保十四年四月御築立罷成申候
一、寛永年中御境目守被仰付候ト計聞伝居何年ニ被仰付候哉留控無御座候
一、御境目守代数ノ儀ハ拙者迄ニ拾代勤仕罷成申候
一、預り品御道具
一、小がらみ 壱本
但シ何年ノ頃ニ相渡サレ候哉留控無御座候、年号可申上様無御座時ニ兵具方御設ノ様御改罷成申候
一、米三千俵
但シ秋田領米相場壱俵ニ付此代八百文
右之通被仰渡趣承知仕一書ヲ以テ如斯ニ申上候  以上
  三迫沼倉村木鉢
  御境目守 孫左ェ門
 安政五年七月
 野村伊七郎様

(筆者注 亭保二年八月鉄砲二丁請求の事実はあるが、この預り品道具には記載がないから交附のことは不明である)
(筆者注 四反坂、田代長根御境正保弐年子之八月二十二日双方より御□□様御立会之上仙北より古人七人、花山村より古人四人、沼倉村より弥六先祖孫左ェ門、平左ェ門先祖清左ェ門、弥一郎先祖越中、右三人立会御境江塚相立相成候との文書あり)

(千葉光男)


御駒様御神輿

お駒さまは、駒形根神社と称号し、駒形根大明神をまつる。

栗駒山(標高一六二八メートル)の山頂に奥宮があり、沼倉字一ノ宮に里宮をまつる。

祭神は大日霊尊(オオヒルメノミコト)、天常立尊(アマトコダツノミコト)、国常立尊(クニトコダツノミコト)、吾勝々速日尊(アカツカツハヤヒノミコト)、天津彦穂邇尊(アマツヒコホニノミコト)、日本磐余彦火出見尊(ヤマトイワレヒコヒデミノミコト)、の六柱である。延喜式神名帳に記載され奥羽一百座、栗原郡七座の一であり景行天皇の皇子日本武尊の御観請と伝えられている。

栗駒山のお室の(奥宮のことをお室という)雪が解けて流れる迫川は栗原、登米の両郡の野をうるおして、北上川に注ぐ、この川に沿って先祖達はくらして来た。

栗駒山の残雪が種蒔坊主となって現れる頃となれば苗代に種蒔し、八十八夜の頃白馬となって姿を現わせば耕して、人々はこの山を中心に農作業を進め精進する。

収穫の秋ともなれば、五穀を捧げ感謝の祭を行なう。祭日の前夜沐浴してらい拝する御駒精進の講が各地に行なわれるが、遠くの人達は講中の代参を派遣する。

駒形根神社は、嘉祥三年慈覚大師が下向して駒形山大尽寺と称し大日如来を祀ってから神仏混淆となり祭式は仏式となっていた。元文四年二月の頃、栗原郡一迫、二迫、三迫の流域と岩手県西磐井郡の氏子達が神式でお祭りをしたいと藩に出願していたが、元文四年三月十一日草刈正左ェ門と言う人が京都役人になって上洛する事になった。この機会に、仙台藩社寺奉行遠蒔権四郎、神社の氏子総代千葉孫左ェ門、別当観常院宿林が同道して上洛し、鈴鹿豊前を通じ神道管領吉田三位兼雄卿に願出で許可された。

寛保三年六月一日人皇百五十代桜町天皇より、日宮の神号を賜わり天皇の御宣命をも賜わって以後神式によって祭祀された。御神輿は明和五年に肝入芳賀理七郎の代に式定され、昭和四十六年十月二十九日施行されたのは第二十一回目である

氏子の供奉役割は、総代会にて村老の意見を徴して協議を重ね、村の古人にて之を決定する、となっている。村内の家柄を重じ御宣命持御輿を中心とする大行列が村内を廻る。

第一 御掃除方
   御先払
   御先乗
   赤御幟
   麻上下古人
   御先躯
   法螺
  
第二 騎馬
   御弓

第三 御鉾
   乙女
   大鼓打
   笛吹
   獅子

第四 御塩振
   御榊
   御宣命

第五 御神体幣
   麻上下古人
   御花米箱
   神職
   御神
   御日笠
   麻上下古人
   御神体幣
   御日笠御記録
   祭主
   大笠
   狭箱
   長刀
   御榊

第六 御塩振
   大鼓
   笛
   獅子
   乙女
   御鉾

第七 御弓
   騎馬

第八 御殿押
   白御幟
   後乗者
   供奉総締役

となっているがこれに参加する人員は毎回五〇〇名位、内少年、少女約二〇〇名位である。

午前八時頃里宮を出御、各部落にて御小休昼食して午后三時頃三迫川の清流にて御浜入りの行事の上宮殿に入御に及び神楽を奉納して御直会とする。
(千葉光男)


菜板和尚と山上家

円年寺は昔、岩ヶ崎黄金時の八世、二三和尚が勧請して、天文八年(一五三九)寺坂に建立したが山火事で焼失し、その後寛永十年(一六三三)現在の法華堂囲に移築、その後天災に遇い二回焼失した現在の住持まで凡そ二十一代の法灯を継承してきたが、山上家は十八世の山上道音から始まり、現住で四代続いている。

菜板和尚とは、初代道音のことであり、僧歴は古く、天保二年(一八三一)十二月二十日新潟県刈羽郡長嶋村、山上利八の長男として生れた。山上家は代々肝入りの家であり、勝海舟とも血縁あると聞く。嘉永六年(一八四八)福島の常隆寺、住職諦観に就いて得度を受け修業中、住職と合わなかった暴漢が、寺に出刃包丁を持って殴り込んだために、住職を縁の下に隠して住職代りになり、暴漢と渡り合ったが、若年のためか聞き入れられず、裸にされ滅多打に切りつけられ、その傷あとは見られたものではなかったという。それが恰も菜板の切りあとのようなので、菜板和尚といわれるようになった。

文久二年(一八六二)花泉の宝泉寺村上国竜老師の室に入り嗣法(三二才)文久三年瀬峰の観昌寺また花泉の養寿寺と転々し、後、師寮寺の宝泉寺二十七世として約五年住職、明治十三年三月に沼倉円年寺住職となる。時に五十才、明治四十二年九月二十日世寿七十九才を以て遷化した。

小柄で色白な新潟人で、自分の正義を他に譲らず、老年に入って白毛の顎鬚は一尺三寸あったとか。その髭で晩年法具の一つ、払子(ほっす)を作ったのが残っていたが、雷災の時焼失していまはない。

(山上文明)


沼倉飛騨守について

安永六年書上げの沼倉村風土記に、
 一、岩目館  高さ三十丈  南北四十二間
               東西三十間
 一、白岩館  高さ二十五丈 南北三十間
               東西三十間

「右御館主沼倉飛騨守と申御方の由申伝候処年月相知不申候」とある、沼倉氏は沼倉村の神主であったとつたえられる。

系譜によれば、沼倉氏の姓は藤原、大織冠鎌足公より四世の左大臣魚名公よりいで、第十九代藤原家隆公を始祖とするとある。

建長五年後深草天皇時代、奥州に採地三千町を賜って下向、同所同国三迫沼倉邑に移居するに及んでから、始めて沼倉氏を名乗ったという。

家隆公は朝庭より従二位下を賜わって居り北家に属す(藤原氏は四家あり、南家、北家、式家、京家を藤原四家といった)、ときに勢力争いに破れ、僅かに三千町歩の採地を以て奥州に左遷されたものと思われる。

家隆公が奥州に下向のとき、白河の関で手植えされたといわれる大杉がある、筆者が昭和四十四年の秋、白河関跡を訪れたときに、二位の杉と書かれた立札があって「この杉は、藤原家隆手植せるもの約八百年を経る」とあった。又家隆公下向の折りに詠まれたと思われるものには、
 見渡せば 霞のうちも霞けり 煙たなびく塩釜の浦

始めて沼倉に着かれて岩目館に入られて
 滝の音 松の嵐も馴れぬれば うち寝るほどの夢は見せけり
 いつかわれ 苔のたもとに露置きて 知らぬ山路の月を見るべき

ひそかに再起の志を抱き
 君が代に 阿ぶくま川の埋木も 氷の下に春を待つけり
 谷川の うち出る波も声立てつ 鶯誘ひ春の山風
 花をのみ 待つらむ人に山里の 雪間の草の春を見せばや

又、あるときは同じ藤原氏でありながら勢力のない身となって、私は老い朽ちてしまった。今更、再起心も反逆心も何もないと、
 春日山 谷の埋木朽ちぬとも 君に告げこせ 峰の松風

春日山は藤原氏の氏神である。

家隆公は沼倉には永く住わずに京に帰り、みぶの片田舎に住まわれたので、世にみぶの二位と称されたともいわれている。

沼倉には三代以後又は五代以後になってから住んだように思われ、その間は代官を置いたようである。代々ともに熱心に領内の開発に努め、文明年中には栗原郡内に約一〇〇町歩の開田をしたともいわれ、滝野堰(今の上田堰)も沼倉氏によって開さくされている。沼倉の城主として十三代の間栄えたのであったが、天正年中に伊達政宗により没落した。その後、子孫が各地に落行したが、岩手県、宮城県、秋田県といづれも栗駒山を中心として残っている。今、沼倉氏の子孫と称する人々を尋ねると郡内には岩ヶ崎、若柳、高清水が主であり、登米郡米川、中田町黒沼、岩手県一関市老流及び花泉町、秋田県湯沢市及び雄勝町川井稲庭町等である。

(千葉光男)


岩ノ目名水

元栗駒村役場より北東一キロ余りの雑木山の中に、熊笹におおわれ苔むした堅岩の割目から真清水が僅かばかり、摺鉢形の岩に湧きでている。昔は摺鉢が四十八もあったといわれているが、今も七つか八つぐらいは見える。

この水を岩ノ目館主の御膳水に用いたという。後、沼倉領主伊達家祐筆和久半左ェ門尉が揮毫の際は、必ずこの名水を用いるのを例とした。さらに天下の名筆近衛三貌院や宮廷にもしばしば硯水に献上したとも伝えられる。

またこの辺の里人の中で、往生際のときには「岩の目の水を飲んで死にたい」と所望されたということも聞いている。

(和久安英)


敗戦後の栗駒町の産馬

敗戦による「マッカァサー」の指令で、宮城県産馬組合は解散となり、後には、栗原郡を一円とする組合を組織し、玉沢村出身、白鳥真策氏が組合長に選任した。旧栗駒村よりは、理事に菅原甚一氏、監事に斎藤忠五郎氏が就任したが、取締り二十七年の経歴がある遠藤良作氏は、青年層よりの反対にあって、理事の選任からもれたので、新たに、岩ヶ崎地区畜産組合を組織して自ら組合長となり、知事の認可を得た。斯くして村は二派に分れ、紛争した。郡畜にあっては、当事者の総意と、村当局の意向等もあって、取締に和久安英を起用し、ほかに世話係に菅原忠雄、濁沼初三郎、芳賀敏、千葉良三郎、菅原徳一、鈴木雄三の諸氏を選任し、二十三年四月十三・四日の二日間を期して市場を開始することにした。

紛争中の両組合に対して県の方で同日に市場開始の許可をしたことは甚だ以て当を得ないことなので、極力遠藤派と交渉したが、先に郡畜にて市場を開いてきた遠藤派が引続いて行なうことに相談成立したため、当業者は途方にくれる者が多くその上当日は生憎稀に見る豪両に見舞われた。永い伝統をもってきた市場が、こんな荒れた日に行なわれたことはなかったと古老も言っていた。その後取締は、当業者宅を毎戸にわたり訪問して、その不利を説明し、次年度からは、漸く一体化されたが、その苦労は到底筆舌には尽し難いものがあった。

しかし郡畜の運営は、牛馬の値下りしたことによって、事業はいうに及ばず、職員の給料、諸納金の支払にも事欠くようになってきた。横橋技師などは、八ヶ月にも亘る給料の不払いにもかかわらず、一日も欠勤することなく精励していただいたことと、漸次牛馬の価格も騰貴したることによって、組合事業にも一縷の曙光が見え始めてきた。これは偏に横橋技師の努力によるもので、心から敬意と感謝を表しあげる次第である。

三十年市場法の改革により、施設充実せざる市場は許可しない旨、県より通達がでた。岩ヶ崎市場は馬検場があるのみで、掛馬屋は市場開設毎に仮小屋を掛けて実施していたが、この状態では許可しない旨申渡された。当時町は合併して未だ日が浅く、赤字財政に四苦八苦の時なので、如何とも成し難い状況下にあったが、取締であり、また議員でもあった私は「当市場は古来よりの名馬の産地として由緒ある市場であり、今後畜産なくしては、町発表はない」と進言し、三百万円の支出を議会に懇請し、漸く二百五十万円の支出を得、残の五十万円は、岩ヶ崎地元が負担することとし、新設決定議会は、直ちに家畜市場設置対策委員会を組織、菅原一三氏を委員長に選任した。私も委員の一人となり当局、委員長共に敷地買収に奔走した甲斐あって、漸く適地を獲得した。直ちに委員会は先進地の岩手県北上市場を見学して、愈々建設に着工、漸く市場開設に間に合わせたのである。

しかし、世の進運に伴い、農機具の発達は日に日に進み、農耕に牛馬を使用する農家が激減して馬産は衰退の一途を辿った為に、県畜産課では鋭意改善に意を注ぎ、農耕と食肉兼用のブルトン種に着目、中間種主産地として栗原、加美の両郡を指定して、救済の道を開拓した。県の指導に基く、近代化資金の借入には県や町の補助に依ることとし、農協の援助も得て県技師菅原惣吉氏、郡畜産技師横橋仲之助氏、農協組合長鈴木清氏、書記織江貞雄氏をブルトン主産地、北海道清水、土幌の両市場に派遣し、二十三頭の種牡馬を購入し購入したのが昭和三十六年七月であった。更に三十八年には前回同様、県郡技師を派遣して十一頭、四十一年には九頭購入して生産に努めた

県に於ては畜殖奨励のため、購入馬より生産した優良牝馬買上者には、種馬の貸付を実施し、その時貸付を受けたるものに和久安英、菅原誠、斎藤忠五郎、加瀬谷俊徳、菅原義雄、佐々木隆栄の諸氏がある。文字地区に於ては、県畜産連合会長大石代議士の援助により、牝馬を北海道日高牧場等より貸下げを受け、菅原徳一、鈴木雄三の両氏に管理種付を実施させ、漸く軌道に乗出した。

しかし、馬肉は依然として下落を続け、馬の価格は前年度より尚二万円の暴落を見たため、急激に牛に切換える者が続出した。かって世に名声を轟かした桜馬場の馬市も時代の変遷には勝てず、遂に昭和四十三年を以て終局を告げることになったことは、甚だ遺憾である。

(和久安英)
 
 

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