柳の御所のしだれ桜枯死の意味を問う




しだれ桜と平泉バイパス
(08年9月29日 佐藤弘 弥撮影)



しだれ桜は環境悪化によって枯死した?!
(08年9月29日 佐藤弘 弥撮影)



高館から平泉バイパスを見る
(08年9月29日 佐藤弘 弥撮影)

景観に配慮したはずの平泉バイパスだが、やはり世界遺産登録のネックになってしまった!!

イコモスの勧告怒るその前に為すべきこと のあらんとぞ思ふ ひろや

枯死したしだれ桜のスライドショー


はじめに

今年のユネスコ世界遺産大会で、登録延期が決まった平泉で、9つのコア・ゾーンのひとつである柳の御所跡にあるしだれ桜が、「9月29日午後、県教育委員会によって伐採されることになった」という情報が入った。

04年8月以降、枯死寸前となっていたこの桜の甦生ボランティア活動を行ってから、早4年が経過していることになる。私は複雑な思いを抱いて、平泉に向かった。

私は東京からの新幹線の中で、次のようなことを考えた。

「しだれ桜が、死んでしまった・・・。この樹木が枯死して伐採されるという現実は、ひとつのメタファー(隠喩)のようなものかもしれない。この枯死という悲劇は、今年、当然のようにユネスコ世界遺産に登録されると思われてきた平泉の世界遺産入りが「登録延期」という結果になったことと無関係ではない。しだれ桜は、自分の命を通して、私たちに何かを伝えようとしているのではないだろうか」と。


1 現地で岩手県教育委員会の説明を聞く

午後1時半頃、柳の御所の現地に到着すると、県の関係者と地元の人々が、集まっていた。聞くところによれば、今日は伐採するのではなく、地元で甦生活動を続けてきた人々に、説明をするのだということだった。

話し合いの結果、10月4日(土)午前10時から伐採をすることになった。伐採後は、この樹木の有効利用を、県のHP上で募集中とのことだった。

私たちは、この樹木の状況を見た上で、木像を彫り、小さな社を建てて、そこに奉納したいと県教育委員会に伝えた。目下、この柳の御所跡は、ユネスコ世産遺産の暫定リスト入りしている平泉の9つあるコアゾーンに位置しており、簡単ではない。ただこの樹木の甦生に心血を注いできたことの努力を後世の人々に伝えていくためにも、形のあるものとして、残すことには意味があると思うのである。

私には、

2 柳の御所とはどんなところ

柳の御所跡は、奥州平泉の政庁「平泉館」と比定されるようになった。

考えてみれば、このように言われるようになったきっかけは、皮肉にも、1988年4月、平泉バイパス建設事業に伴い柳之御所遺跡発掘調査が開始されてから、土器などの遺物が出土した時からである。

また柳の御所は、松尾芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」と詠った名所でもある。今から319年前のことだった。

さらにその500年前の8月には、鎌倉から義経亡き後、源頼朝が全国から28万人と言われる武者をかき集めて、奥州平泉にやってきた。その時の柳の御所の焼け落ちた模様は、鎌倉時代の正史「吾妻鏡」にも明確に記されている。

「(文治5年8月)22日 雨が甚だしい。午後四時頃、(頼朝公は)泰衡の平泉館に到着した。館の主は、すでに逐電し、家屋は灰燼となって焼失した。館の周辺の数町には、寂しさがただよっていて、人っこ一人居ない。軒を連ねていたはずの城郭は皆消え失せ、ただ焼土だけが拡がっている。ただ秋風だけが、幕を叩きながら、飄々と吹いている。」(現代語訳筆者)

3 しだれ桜の枯死の原因?!

その後、京都に次ぐ人口10万を越える奥州の大都は、中尊寺、毛越寺を別にして、急速に変化した。泰衡が自らで火を放った柳の御所周辺は、農地化し、つい最近まで、イグネと呼ばれる屋敷林が点在する緑豊かな田園地帯だった。そしてこのしだれ桜も、北上川端にある旧家の庭を彩る花木だった。平泉バイパス計画によって、持ち主は引っ越し、工事が本格的に始まった04年8月頃、急速に樹勢が衰えて、枯死寸前となったものだ。

樹勢が衰えた原因は、桜を調査した複数の専門家や樹木医の意見から、桜の数十メートル東側で平泉バイパス工事始まり、急速に桜の根元付近の地下水脈が激変したことによるものではないか、ということになっている。この仮設は概ね正しいのではないかと思う。

何しろこの年の6月頃から、平泉バイパスの道路計画変更となり、まず北上川の流路が100mほど、東に移動した。そしてしだれ桜の東側付近には、バイパスのための盛土が敷かれたのである。樹木の周囲の環境は、劇的に変わってしまった。特に樹木の南側には、水溜まりが出来てしまった。結局、同年の4月が、この桜が最後に花を結んだ年となってしまった。夏には、葉がすべて抜け落ちて、瀕死の状況になっているところを発見された。私たち有志は、当時の増田寛也岩手県知事に、保護の陳情書を送付することになり、県側もポンプで溜まった水抜きを行うなどをした。

マスコミも大きく取り上げた。地元の人々を中心に、このしだれ桜を守ろうという機運が急速に高まった。それから、熱心な甦生活動が展開された。同年9月19日には、同地に祭壇を設け、宮司をお呼びして祈願祭を行った。以後4年間、地元平泉の人々や盛岡の有志など、多くの人が甦生のボランティア活動を行ってきた。

その甲斐あって、2年後の06年春には、新芽が出て、本格的な樹勢の回復が期待された。だが、その後、新芽は、いつしか枯れ、昨年度からは、水分を吸い上げている感じも見られない瀕死の状態となっていたものだ。

4 しだれ桜を守る精神が平泉を世界遺産に導く

今、平泉は、当然登録されるものと思っていた世界遺産登録が延期と決まり、ショック状態にある。当初から、私たちは、平泉の世界遺産のコア・ゾーンにある桜が、枯死するような状況であれば、平泉そのものが、ユネスコ世界遺産に登録される資格はない、との立場で、この桜の甦生ボランティアを行ってきた。

このしだれ桜の命を守ろうと思う意識こそ、ユネスコ世界遺産の精神ではないか、との思いで私たちは、この4年間甦生のボランティア活動を行ってきた。しかしその甲斐なく、今回伐採となった。おそらく、このしだれ桜に魂というものがあれば、柳の御所を含む平泉の地をどのようなコンセプトで未来に伝えていくべきか、ということを問いかけているのではないかと思う。平泉は、初代藤原清衡が、中尊寺落慶供養願文に明確に記しているように、未来永劫、戦なき世を実現しようと祈念して、造営した新都だった。このことは、平泉の世界遺産運動に携わる関係者にも問われていることではないかと思う。

平泉の地は単なる観光地ではない。もちろんユネスコ世界遺産の精神もまた、登録することによって、観光資源としてのお墨付きを与える権威ではない。それは人類普遍の価値を持つ遺跡群を、持続可能なものとして、地元の人々が、包括的に守り抜くという覚悟が見えた時に、ごく自然な形で登録されるものではないだろうか。したがって、今年の「登録延期」を肯定的に考え直して見れば、私たちは、3年間のモラトリアム期間を、ユネスコ世界遺産委員会からいただいたようなものである。

◇ ◇ ◇

10月4日(土)午前10時、柳の御所跡の伐採式が行われる。私たちは、このしだれ桜の前に立って、この桜の無念の思いを共有しながら、登録延期となった平泉が世界遺産として、3年後に登録されることを祈念しようと思う。

(佐藤弘弥08年9月30日 記)
2008.09.30 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ