岩手・宮城内陸地震から二ヶ月
栗駒山被災地探訪記

 



 1 仮設道路を通り崩落現場へ

08年8月16日。私は「岩手・宮城内陸地震」(08年6月14日午前8時40分頃発生)で、もっとも被害の 大きかった栗駒山の南東に位置する栗原市栗駒沼倉耕英地区に向かった。8月3日、耕英地区への仮設道路が完成した。それにより、週二回、決められた時間、 被災地住民に 限り、通行が許されるようになった。そこで耕英地区の知り合いの計らいにより、耕英地区の災害現場に向うことになったものだ。地震から二ヶ月を経た現地の 状況は、いったいどうなっているのだろう。行く前から、私の中で期待と不安が交錯し始めていた。


栗駒山の崩落現場に出来た仮説道路
(08年8月16日佐藤弘弥撮影)

朝8時、私たちは、岩ヶ崎にある栗駒総合支所の前で通行許可証を受け取り、厳密な人数チェックを受けて、災害現場に向かった。長い車の列が続いた。駒ノ湯温泉のある耕英地区へ向かう主要道路は県道42号線の「築館栗駒公園線」だが、2ヶ月経った今でも開通の目途が立っていない。そこで比較的仮設道路が造りやすいと判断された西方のルートである「「市道馬場駒の湯線」に仮設道路が造られ、この度開通の運びとなったものだ。私たちは栗駒小学校前を通り、御駒橋を渡って、駒形根神社の脇を木鉢番所跡前を抜け、「馬場駒の湯線」の細い一本道を走った。この道は、かつて秋田に抜ける古道だった。夏草の生い茂る中を 走っていると、道路の至るところにひび割れや路肩が崩れているのが目に入った。

やがて文字三山が左に見える見晴らしの良い地帯を通過したが、少しばかりガスが掛かっていて、荒砥沢ダムの崩落現場は、後回しにし、先を急いだ。通行許可 証を見せ、仮設道路に差し掛かると、まさに耕英地区の崩落現場を突き抜けるようにして仮設道路が切られていることに、まず驚いた。崩落した土砂や木々を縫 うように、道路は切られている。そして道路の両側には、黒い砂袋のようなものが二段重ねで置かれていた。山は鋭利なナイフで切り取られたように崩落し、少 し赤味がかった土が露出しているのが見えた。私は思わず「まるでカステラの断面ですね」と叫んだ。

仮設道路を抜けると、再び旧道になる。道路そのものが歪んでいるように感じた。またガードレールも地震の震動によって、よじれてしまっている箇所が随所に あった。そして道路の端には、悪路の注意を示す赤い三角すいの道路標識が並んでいた。



仮説道路で崩落現場を通り過ぎる

再び仮設道路に差し掛かる。一般進入禁止の標識が置かれている。青いショベルが停車していた。赤土の道を縫って、さらに奥に進む。道路のそこかしこに、 ショベルカーが、黄色い車体を休めていた。赤土を切り開いて、真新しアスファルトが敷かれた仮設道路を進む。やがて私たちの乗った車は、「世界谷地まで 2.7K左」の標識のある「木立陣立跡」に差し掛かった。時計を見ると、8時52分を指していた。ここまで来るのに、50分ほど掛かっている計算になる。



崩落現場で孤立する家屋

この近くに、日本画家の能島和明さんのアトリエがあるというので、お邪魔することにした。お留守だった。能島さんは、1996年から、二人のお嬢さんの 「この地に住んで みたい」ということから、一家で、この地に引っ越し、お嬢さんを栗駒小学校耕英分校に通わせて、丸6年間を過ごされた。現在では、横浜にある自宅とアトリ エの二重生活をされている。地震のあった14日は、月二回のゴミ出しの日で、帰宅予定だったが、奥さまから、ゴミは少ないから、後にしたら、という一言 で、災害を偶然免れたとのことだ。自作の30点の絵も無事だった。この話は、河北新報の6月29日号に載っていた。



崩落した断面はまるでナイフで切り取られたようだ

自宅の裏手を20mばかり進むと、驚くような光景が待ち構えていた。そこは崩落現場そのものだった。もしも、もう少し揺れが激しかったら、このアトリエ も、土砂の中に埋まってしまったかもしれない。崖となった地点から、下を覗くと崩落現場には、火山灰質の白茶けた岩とも土とも言えるような土塊が転がって いた。

崩落せずに残った原生林の中に、ポツンと赤と青の人家の屋根が見えた。聞くところによると、この家族も無事だったようだ。九死に一生を得るというのは、こ のことだ。能島さんといい、この家族といい、不幸中の幸いだ。

帰り際、足下を見ると、白い茸が生えていた。名前は聞いたが、すぐに忘れてしまった。またもう赤トンボが、木にすがっていて、栗駒山には、秋の近づいていることを感じた。


 2 駒ノ湯の災害現場で合掌

再び車に乗り、イワナの養魚場やイチゴ農園、耕英共葬墓地、くりこま高原自然学校の前を抜けて、通常の自動車ルートである県道42号線の駒ノ湯十字路に出た。ここから栗駒山登山の入口になるいわかがみ平までは、およそ3.5キロほどの距離になる。その方向を見ると、道路の先に、壁のように新湯沢の崩落現場が見えた。栗駒山全体が崩落を起こしているようで、怖くなった。でもこの崩落は、駒ノ湯を呑み込んだ大土石流とは直接関係はなさそうだ。

国土地理院の航空写真を分析によれば(※注1)、
『駒の湯温泉に被害を与える原因となった土砂崩落は、駒の湯温泉の前を流れる「裏沢」の上流約4.8km地点の、東栗駒山の標高およそ1360mの斜面で発生したものである』とのことだ。これによると土石流は、標高差約800mをドゾウ沢に沿って一気に流れ下り、駒ノ湯温泉を呑み込んだものと推定されている。大崩落から駒ノ湯に土石流が着くまで、8、9分の時間だったようだ。

<※注1>
◎航空写真による推定土石流の発生メカニズム(国土地理院)
http://www.gsi.go.jp/BOUSAI/h20-iwatemiyagi/index_komanoyu.html

◎土砂災害状況写真図
http://www.gsi.go.jp/BOUSAI/h20-iwatemiyagi/figure2.jpg


早速、駒ノ湯温泉の被災地現場に向かう。気持ちが重い。まだ救出されていない人もいる。駒ノ湯キャンプ場に車を止めると、そこからゆっくりと歩を進めた。野に咲く花を摘み、犠牲者の御霊に捧げることにした。曲がりくねった坂を下って行くと、かすかに駒ノ湯温泉の玄関の右にあった二本の庭木が枯れかけていた。



駒ノ湯十字路から新湯沢の崩落現場を見る

さらに坂を下り、舗装路の端まで行くと、右手の小高い場所に石作りの線香立てがあり、花とお茶が手向けられていた。私たちもこの地で災害の犠牲となった方々の御霊に花を添え、合掌をした。さまざまな思いが浮かんできた。

駒ノ湯温泉の歴史について、調べたことがある。大正7年(1918)に書かれた地誌(栗原郡誌)によれば、駒ノ湯は元和三年(1615)八月、鶯沢村(現在の栗原市鶯沢)の川倉に住む小野寺輿左衛門(おのでらよざえもん)という人物が見つけ、翌年温泉を開いて以来のものだそうだ。これを信じると、江戸初期以来、四百年の歴史を持つ温泉ということになる。その後、文化五年(1808)、火災に遭って全焼した。今回未曾有の土石流に襲われ倒壊した建物が、どのように出来上がったものかは分からない。私は中学生の頃、この温泉に一泊して、沢伝いに栗駒山に登頂したことがある。良く暖まる白濁した硫黄泉だ。その後も、この地に来て、幾度も駒ノ湯に浸かった。湯上がり後、ほのかに香る硫黄の香りが、懐かしく思い出された。

駒ノ湯温泉のある耕英地区は、戦後、満州から引き上げてきた人々が、栗駒山直下の原生林に分け入って、開墾をして集落となった土地だ。海抜600mほどの位置にあり、稲作はもちろん不可能。耕英に入植した人々は血の滲むような思いで、この地で生きてきた。その結果、「高原大根」や「イワナの養殖」、「イチゴ栽培」に活路を見出し、日々の糧を得てきたのである。

イワナの養殖を成功した故数又一夫翁(1925ー2000)は、日本で初めて岩魚養殖に成功した文字通りの開拓者だ。氏は1950年、耕英地区に開拓民として入植。その後、阿仁マタギ上杉幸治翁(1904ー1998)の野生魚イワナの習性についてのアドバイスにヒントを得て、1969年ついに岩魚養殖に成功した。その後も、成長の早いニジマス養殖などを続けながら、イワナ専門が軌道に乗り始めたのは、それから10年以上経てからだった。

耕英地区は、イワナ養殖の数又翁に代表されるように、栗駒山の南域に出来た新しい山間地だが、不思議に開拓者精神にあふれた人が集まってくるところだ。それぞれが、そんな耕英の人々にとって、駒ノ湯温泉は、日々の汗を流し、労苦を癒してくれる唯一無二の憩いの湯だった。誰もが、まずこの温泉に入り、明日への希望を繋いできたのである。

その駒ノ湯温泉が土石流に呑まれ消えてしまったことは、耕英地区の人にとって、故郷の実家を失ったに等しい気持ちだろう。私も、

 
湯もみして入る駒ノ湯の白さかな

という句を詠んだこともある。

しかし今、目の前にあるのは、泥によって押し流された空虚な大空間だ。言ってみれば、この新しい地形は、自然が作りだした新しい空間造形である。この時、同行した平野氏が、「この地形は、上高地でよく見かける風景だ」と言った。なるほどと思った。そこで、私の中にひとつの確信めいた思いが浮かんだ。それは、目の前の泥にまみれた駒ノ湯温泉が、二十年か三十年ほど経って、草木が生え、渓流には天然のイワナが戻り、ドゾウ沢に小さな木の橋が架かり、再び緑豊かな景勝地になっているという想念だった。




その時、子供の声がした。見れば、4、5歳の男の子が、父と思われる男性の後をついて、駒ノ湯温泉が流されて行った辺りに歩いて行く。父の肩には、スコップが、もう一方の手にはツルハシのようなものが握られていた。行方不明の方が、まだ2名いる。もしかすると、その人の親族だろうか。二人に続くように、5、6人の男女が、現場に終結している。ちょっとすると、また別の家族が、線香を焚き、冥福を祈っている姿が見えた。被災からたった二ヶ月経ったばかりの8月16日、親族にとっては、まだまだ災害は終わっていない。そんなことを強く感じた光景だった。

駒ノ湯温泉を土石流が襲った災害現場跡



駒ノ湯温泉の悲劇は続いている・それでも駒ノ湯は必ず復活するだろう


 3 地震当日の凄まじい人間ドラマ

昼、駒ノ湯温泉から200m程離れた高台にあるくりこま荘でカレーライスをご馳走になった。その時、駒ノ湯温泉のご主人菅原孝さん(86)を救助したという渡辺仁さん親子とお会いした。初対面だった。日産のエンジン開発の技術畑をスピンアウトし、耕英で活動されている耕英の新しいお顔である。

渡辺さん親子は、地震当日NHKの報道ヘリコプターが、駒ノ湯上空を旋回した時(午後2時20分頃)映っていた。既にこの時、駒ノ湯温泉のご主人菅原孝さん(86)を発見し救助した後だったと思われる。聞くところによれば、この親子は、地震直後、別宅にいた孝さんが、駒ノ湯に車で駆け付けた直後、土石流に襲われ、押し寄せる泥の海を泳ぐようにして、道路まで辿り着いて倒れていたところを発見し、ハイルザーム栗駒(耕英地区にある第三セクターによる宿泊施設)まで運び出したのだと言う。ハイルザームは、自衛隊の救助ヘリの発着場になったところだ。



新湯沢の上部の崩落痕に白いベールのような雲が降りてきて傷痕を抱くように覆って行った

さまざまなドラマが、この耕英地区ではあったのだ。くりこま荘のご主人の菅原次男さん家族の話にも驚いた。地震のあった14日に、たまたま用事があって、家族3人で山を下っていた。地震後、震源に近い耕英地区が大変なことになっていることを知り、急いで車で登って行く。すると、耕英に向かう県道42号線が、栗駒ダム上流の赤玉山が山崩れを起こし、道路を塞ぎ通行止めだった。耕英地区の知人やくりこま荘の状況が心配となった菅原さんは、思案の挙げ句、土石の山を越えて、家族三人でくりこま荘に戻ることを決心する。決死の覚悟だった。この時、時刻は午後4時過ぎ。

当然、救助隊の関係者は、止めに掛かる。しかしカミナリのような不気味な山鳴りと余震が続く中、「自分たちの責任で行きますから」と名前を書き、家族3人は、釣り人が土石流によって行方不明になっている行者滝を横目に見ながら、山に分け入った。救助隊も根負けをしたのだろう。

いつも穏やかな菅原さんの奥さまは、「少しあたりも暗くなりかけていて、地鳴りも怖くて、生きた心地がしなかった。」と、マユをしかめて語ってくれた。くりこま荘に辿り着いたのは、辺りが薄暗くなる7時半頃。見れば、家屋は、無事だった。でも中に入れば、モノが散乱して、足の踏み場もない荒れよう。そしてすべてのライフラインは停止の状況だった。

地震で、無事だったくりこま荘を、菅原次男さんは、救助隊の休憩所として提供した。

僅かな立地の違いが、生死を分けたのである。くりこま荘の菅原次男氏は、自分たちが無事で、駒ノ湯温泉の人々が遭難されたことに心を痛め、声を絞り出すように、次のように語った。

「自分たちが生きていて申し訳ないような気持ちでいっぱい。創業時から駒ノ湯温泉の菅原孝さんから本当にお世話になった。これから駒ノ湯温泉の復興は、耕英地区の復興と考えて、ご恩に報いたい。」



登山口いわかがみ平への道が復旧する日はいつか?!

私たちは、昼食後、県道42号線を、登山口いわかがみ平の方に向かって進んだ。もちろん道路は歪み、至るところで陥没を起こしている。行けるところまで、進み栗駒山の山容がどのようになっているか、確かめたかった。自衛隊のヘリの発着場となったハイルザーム栗駒を過ぎ、さらに登って行くと、ガスが濃くなって、遠くに見えていた新湯沢付近の崩落現場を隠した。私は栗駒山が、これ以上、傷ついた姿を写してくれるな、と言っているように感じた。

「いこいの村栗駒」の駐車場に車を止めると、数台の車が駐車していた。いこいの村の従業員だろうか、若い男性が土を一輪車で運んでいる姿が見えた。「こんにちわ」と言うと、向こうから、「ご苦労様です」という声が聞こえた。「いこいの村栗駒」は、「ハイルザーム栗駒」、「温湯山荘(花山地区)」、「金成温泉延年閣」の4つをまとめて、第三セクターで運営されている温泉施設だ。ここで働く従業員は「ゆめぐり」という会社に所属している。しかし今回の地震以降、営業困難となり、結局7月15日、4施設の従業員135人のうち、3分の2が一時解雇される状況に追い込まれている。資金難から、彼らには、今だ退職金も支払われていない。但し「施設が再び営業された際に優先的に再雇用する考え」(河北新報7月15日の報道による)だという。

いこいの村の南西向きの斜面に行くと、いたるところが地割れをしていた。もう少し揺れが厳しかったら、このいこいの村全体が崩落に巻き込まれる可能性もあったと、ぞっとした。下界を除くと、午前中逆側にあった能島画伯の崩落現場が逆側に口を開けて、こちらを覗いているように見えた。また白いベールのようなガスが満ちて来て、キズ付いた山肌をゆっくり覆ってしまった。



駒ノ湯温泉の池で飼われていた白鳥とガチョウ二羽がハイルザーム栗駒で元気に生きていた!!


私たちは、山を下りることにした。ひとつ、渡辺さんに聞いた話を思い出し、ハイルザーム栗駒に向かった。それは駒ノ湯温泉の池にいた白鳥やガチョウが、救助隊によって救われ、ハイルザーム栗駒にいる、ということを聞いたからだ。地震当日、上空からの映像で、白鳥が泥まみれになって、瓦礫の中で蠢いている姿を見て、ずっと気になっていた。渡辺さんの話では、「そういえば最近見ていない」という話を聞き、「狸や狐にでも襲われてしまったのか」と不安になった。

ハイルザーム栗駒の駐車場に行くと、白鳥とガチョウ二羽が、元気で、こちらに向かってヨチヨチ歩いてきた。人になれているのだろう。特にガチョウは、二羽で首を長く伸ばして、「ガーガー」と声を合わせて鳴き、精一杯愛嬌を振りまいている。白鳥もすこぶる元気そうだ。私は「良かった。良く生きていたな。又来るよ」と声を掛けた。この鳥たちを見た時は、自衛隊や救助隊の人々の配慮に心から感謝をした。この時、私は光明を見る思いがした。そして、たとえどんなに長い道程でも、耕英は必ず復興できると、確信を持つに至った。

もちろん、2ヶ月経って、耕英地区の生活の目途がたった訳ではない。いまだ電気や電話さえ開通していないのだ。そして行方不明者も発見されていない状況にある。今回やっと希望の光として、仮設道路が開通したばかりである。

しかし耕英地区の人々の「山へ戻りたい」という意欲は本物だ。7月18日夜には、全41所帯(約100名)が参加して「くりこま耕英震災復興の会」(会長大場浩徳氏)が設立された。この会のスローガンは、文字通り「山に戻ろう」だ。これまでも、さまざまな苦難を文字通りの創意工夫と努力で乗り越えてきた耕英地区の人々である。きっと夢は叶うはずだ。

どうか、全国の皆さまも、耕英地区の人々の復興への努力を温かく見守っていただきたい。了

岩手・宮城内陸地震関係資料
★栗駒山の被災地写真集(筆者撮影)
★荒砥沢ダム崩落現場写真集 (筆者撮影)
★首相官邸岩手宮城内陸地震情報
★河北新報「岩手・宮城内陸地震」特集
★駒ノ湯温泉救助関連情報

★YOUTUBE による地震関係動画情報

★毎日JP・ 地震写真情報
★共同・地震関係ニュース
★栗原市HP


2008.8.19-21 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ